はい、しげのですが?

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2020年の人権週間、今年も「おおた区報」特集を見て考える-ちくま新書11月の新刊「レイシズムとは何か」梁英聖より-

2020年11月25日 09時55分30秒 | Weblog

今年も人権週間がやってきて、大田区の区報11月25日号が特集号を発行した。(配布はされているが、現在WEB版はまだ最新版が公開されていない。数日中に公開されるだろう)しかし、ここ例年指摘しているような問題について改善はまったく見えない。これは大田区の人権行政の構造的な問題であり、早急な改善が求められる。しげのの従来の主張に加えて、今月出たばかりの、参考となる引用を加えたい。
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大坂なおみや旭天鵬が「日本人(国民)内部のマイノリティではなく、直接に「外国人」とされてしまうのは、「日本人=日系日本人」という国民=人種の強固な癒着があるからだ。その原因はどこにあるのか?
 ここでもし「日本人がレイシスト(人種差別主義者)だからだ」と言うひとがいるなら、 私はそれに断固反対する-このような決めつけはそれこそレイシズムであろう。
問題は差別より反差別にある。日本には差別と闘う社会規範がないのだ。それは「反差別」や「差別に反対する」という言葉の意味にも表われる。次の二つの説明のうち、どちらに賛同できるだろうか。

①反差別とは被害者の権利を守ることだ。当事者に寄り添うのが反差別だ。
②反差別とは加害者の差別を止めることだ。差別行為を禁止するのが反差別だ。

 多くの人は①に賛成できても、②に賛成するのにはためらいがあるのではないか。
欧米では①と②は反差別の両輪だ。特に②の差別行為の禁止は①の被害者の権利回復の必要条件となるから当然だ(たとえばセクハラが起きた職場を考えてみてほしい)。反レイシズムが社会正義として加害者の差別する自由を否定するからこそ、社会防衛を掲げるレイシズムの正義にはじめて対抗しうる。

 だが日本にはそのような反レイシズム規範がない。日本の反差別は②の差別行為の禁止がないまま①被害者に寄り添おうとする。加害者の差別する自由を守る限りでしか、差別される被害者の人権を守ろうとしない日本の反差別こそ、日本で反レイシズム規範形成を妨げ、日本人=日系日本人という国民=人種の癒着を切り離せない元凶である。これを日本型反差別と呼んでおこう。

(ちくま新書「レイシズムとは何か」梁英聖 P12~P13より)

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大田区報の人権週間特集の基調となる部分に関与している、大田区の人権・男女平等推進課は、主にDV被害者の相談窓口などを業務としているようで、被害者への配慮を中心に考えているようである。
しげの自身も本業は障害当事者の権利擁護であり、当事者に寄り添うことは必須の前提である。

しかし、だからこそ、一方で、

加害者の差別行為の具体的な禁止がない大田区の現状は、結局は「思いやり」主義となり、

「加害者の差別する自由を守る限りでしか、差別される被害者の人権を守ろうとしない」ものになり、

差別的構造関係はむしろ強化されるし、差別者側の偏見は強化される一方なのだと、つくづく考えている。

 

以前から述べてきたように、人権擁護のための研修=再教育で最優先されるべきは責務者である。

具体的には、まず指導力を発揮する行政幹部職、首長であり、次に強制力を行使できる警察である。

また強制力のある条例等を整備していくために、法制担当と議会の研修も重要である。


これらの責務者を再教育し、差別を許さない倫理を確立共有していくことが、自治体での人権確立のための重要な過程と言える。

 

しかしそのような過程で、現在の人権担当が指導性を発揮できるとは考えにくい。

そもそも人権担当自体が、行政の中で最も力の弱い部署ではないかとも感じている。

 

差別行為を禁止する政策へむけて歩き出さなければならない。
具体的には、ヘイトスピーチと対決できる行政組織と、その指導性の核となる条例の整備である。

それを実現するためにはまず、
市民の側に「差別行為を禁止する反差別」の確立、という意識と動きを作り出す必要が不可欠だろう。

具体的にヘイトと対決する行動と連携しつつ、それは実現しうる、と考えている。


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