蝶楽天な人を思う

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ちょうたろうの軌跡を追う[10]

2022-05-28 16:37:14 | 随想

昆虫採集家・標本商などの一面についてはネットの記録や書籍雑誌記事などから分かることが多い。兄は人たらしの側面があり、自分の気に入った美味しいものなどがマイブームとなると、それを食べさせたりお土産に持たせたりするのもとても愉しみにしていた。そうした兄の癖は、話題としての虫仲間の人達との語らいにも大きく影響して増強していたのではないかと周りの方が投稿するSNSでの写真などからも推察される。

兄からの呼び出しは、彼が頼みたいミッションやら美味しい物が手に入ったので渡したいなどの合わせ技で構成されていた。虫仲間の人達にTSUISOも自炊してiPadに入れた状態で流通するということをしていたことがあったらしい。本と違って写真をピンチ(ズーム)したりして、シニアの人たちにも有用だという。本と違い劣化するのが早いのは欠点で電池が充電できないとか、予備の機材がもう無いとか色々だ。なかでも電源ケーブルが傷んだりするのでこのスペアを手配したいとかいうこともあった。

唐突な兄の電話は、そうした話から切り出されるのだ。背景を理解しないままで短兵急に行動しても不味いので、欲しい物を調べた上で連絡や背景を伺いに事務所詣でをする。兄は人に来てもらうのが、とても嬉しいのでいつも色々な美味しいものを御馳走になる。あるトースターに嵌ったときには、そのバルミューダへの熱弁を振るい。仕上げとして、美味しいトーストにして波状攻撃だ。無論トーストに塗られるのは、美味しそうなジャムだ。ジャムこばやしと書かれた瓶の中は、煌めく艷やかな果実である。会話をしているとさらに客人が来て、そのジャムを作られている小林さんだった。虫仲間であり、木ノ実を取り扱ったりする過程で兄の仲間に加わったのだろう。ご実家のジャム作りと趣味の木ノ実扱いとを軽井沢のお店と通販で営まれているそうだ。

付き合う人を選ばず、いろいろな人の懐に飛び込んだりしていったのはネット上の記録や、訪ねてこられる方々の話を聞いていてもうかがい知れる。兄のアクションは早くて、新しいツールに飛びつき、新しい変化の波にも飛び乗っていく。マイブームを引きおこすと回りの方々に宗教の様に布教したりふるまっていくのだ。美味しい物をふるまってくれるのはありがたいのだが、道具が持ち出す世界と今までのルールが整合しない状態も起きてしまうので良く考える必要も生じる。世界中の採り子たちを擁して採集された昆虫たちを標本として集めていく中には、世界の人たちからみた希少生物としてのワシントン条約付属書に記載されたルソン島特産のルソンカラスアゲハが展示会で販売されたりして物議を醸したこともある。

誰がどのような基準で、その蝶をワシントン条約付属書に列挙記載したのかは、わからない。しかしながら兄は各地を採集しまわった身として特定固有種という認識はなく各地の採集記録からもそうした認識がないままに条約指定の動きが現実と乖離していると認識していたようだった。しかし先端をみているものとして後から国同士のルールを決める仕組みとの温度差・時間差についてはもっと気を配るべきだったのだろう。価値観の違う人たちが決める国際的なルールにとっては学術的な研究に基づいて決められるにしても自身がもっと発信していればよかったのかもしれない。しかしながら、兄が研究者として認める先生は少なく自分自身も大学での昆虫の研究の進め方・考え方で相いれず昆虫浪人を選択したという。彼が出した結論は、採集家・標本商を続けながら数多来る標本とその情報から研究を続けていくことだった。新種の蝶が見つかった場合にも、雌雄を揃える支援をして信奉する先生の名前に連座する形で命名されたこともある。

標本商という仕事をしつつ集まってきた標本を分類研究していくというサイクルが確立していきウィークリーバタフライと称したミニコミ誌を通じてニュースソースとして読者からの情報も吸い上げていくという流れを続けてきた。自然というオープンソースの中で採集発見という情報に基づいて個体の紋様などから分布を明らかにしていくという作業を兄たちの虫屋という団塊世代な広げて彼らの興味をまとめて海外への採集ツアーなども催行して次世代の仲間を増やしていく。昆虫採集が破壊だという人もいるし、昆虫を孵化育成して放蝶して昔のように増やそうという人こそが自然破壊だという人もいる。兄が大量に蝶を採集したからとマスコミの格好の的にしたりもしていた。

こうした兄の活動は、逆に兄が遺した雑誌TSU-I-SOを読み解くと47年間の記録として当時の歴史事件も含めて振り返ることが出来る。この虫界の週刊誌は通算で1689号となり最後に兄から最終稿となったもののコピーをもらったのは3月のことだった。国立国会図書館に納本をしてきたが昨年末で止まっていたらしい。兄が逝去して、虫の知らせを聞きつけた人たちが、ひきを切らず事務所に弔問に来るようになり国内各地からいらしていた。対応をされてきたパートナーだった方が兄の書き遺したメモをまとめて書き綴りたかったこと最後の状況を記して廃刊案内として作成配布してくれた。こうした案内で最後を知った方もいらして電話やメールを送られた方もいた。

兄は本当に手書きでのやり取り、電話でのやりとり、直接お会いしてのやり取りがベースだったので使っていたメールについては殆んど日常的にも使われてはいなかった。最後の案内で電話をいただいたかたにメールに写真などを送ったので見ていただければという話があり、残されたパソコンのメールの開け方を調べるとノートパソコンの下に開き方が記されていた。どこかのネットサービスにドメインを移管して小規模な形で支払った期間だけ続けるように終活もしていたようだった。契約関係を調べていた中では見つからなかったので助かった。メールを開くと電話をいただいた方からの返信と添付写真があり印刷出力したや兄が倒れた以降の時系列で返信記録がない方に経緯とアカウント削除する旨を伝えていった。

私からの返信に対しての返信も翌日以降には届いた。国立国会図書館での納本対応をしていただいた方だった。昨年末までの1683号までが納本されていたことと廃刊に伴い、雑誌の記録として最後の号までを納本していただき記録として完成させたいという話になりました。まだ今日時点では原稿も印刷したものも残っている可能性があり明日の最後の片付けで残っていればそれを送付あるいは、スキャンした原稿から印刷して再構築した体裁にして送付完了することで記録として国会図書館に行けば兄の記録に後の方々が触れられればと思います。いままでの号についてスキャンされPDF化されていたものを委託していた方から引き継ぎ、しばらくは親族のみで参照します。いろいろな事件に遭遇してきたことの記録も残されていてミャンマーで投獄された事件も回顧録として読み直すことができました。

回顧録は311の時に書かれていた号で当時の兄の思いにも共感して、読み進めた。かつて兄がビルマで投獄された1985年暮れのことが記されていた。ビルマで市中で宝石を買ってしまったのだった。当時、政府直営の貴金属店でのみしか外国人は購入することが出来ない、貧しい国でお金がブラックマーケットに回ることが危険だということで厳しく監視していたのだろう。2度目のビルマへの採集旅行の中では当然持ち込み外貨について前後での差異についても厳しく取り締まられる。お金をお酒やたばこなどに変えて持ち込み、現地のマーケットで交換して現地での活動費を得るのが普通のことだったらしい。現地のガイドを通じて昆虫採集の手続きなどをする中で、宝石売買を持ち掛けてきたらしい。ホテルの部屋にはガイドが入れないから、ガイドの息子が運転する車の中で助手席に座ったガイドから宝石を見せて交渉ということになり走りながら見せてもらっていたらしい。しばらく走り車を止めたときに警察のイキのかかった人たちに捕まったという顛末だったらしい。反政府組織にお金が回るようなことが当時は厳しく取り締まっていたということだろう。

現地人は、外国人に売却していたら10年の刑務所生活となりガイドだった50歳の主が留置されれば家族の家計がとまってしまうのは明白。外国人は国外追放となる。言葉が通じるガイドから宝石を売ろうとした事実はなく友人から買ったものを見せていただけだという話に合わせてくれという相談があった。留置場で言葉が通じるのはガイドだけだったのでその話に乗り日本大使館の顧問弁護士に頼んで裁判長にお話しを通して国外退去の話に乗ったと思っていたようだ。しかしながら、裁判長よりも警察署長のほうが偉いらしく、兄が堂々と胸を張って説明している内容が気にくわなかったらしく「あいつは真実を話していない」ということで兄が国外追放を言い渡されるはずの法廷の開催が遅れて、判決文がその間に書き換えられて兄は6か月の刑務所実刑となった。それでも「僕が悪者になれば6カ月の刑、相手が悪者になれば十年の刑、家族の稼ぎ手が牢屋に入るより僕が入ったほうが良い」という兄の正義は、玉川学園での教え「人生の最も辛い人の嫌がることを率先してしなさい!」にも根差しているようだ。ここまでに既に4か月が経過していて兄は10か月もビルマのインセン監獄に収監されていた。

世界各国を回り、色々な人と仲間になり仕事をしてきた兄は決して自分の為にという道は選ばなかった。自分が倒れ店じまいをする中でも売掛を追求することではなく請求しない道を選択していた。そんな兄を思いながら彼の記録を残すことで、蝶楽天を名乗り今 まさにそうした冥界で活動していることを思いここで最後にしようと思う。ご興味のある方は、国立国会図書館を訪れて頂ければ兄の思いに触れることが出来ます。


ちょうたろうの軌跡を追う[1]

2022-05-18 17:14:45 | 随想

4/7早朝 療養中の長兄が亡くなった。兄は昆虫採集家であり、「むしやまちょうたろう」昆虫標本商ともいわれて世界各地に採り子を擁して活動もしていました。

昆虫界では、唯一となる月3回発行の週刊誌TSU-I-SOUを長年にわたり主筆として発行してきました。
普通の物差しでは測れない、暮らしをのびのびとされてきた自由人でもありました。
 
我が家の流浪の生活の中で、兄が住んでいた広島縣の田舎では昆虫採集が唯一の仲間だったようです。
小学校の学齢に達する頃に広島縣で行われた小原國芳先生の全人教育の講演会に父親が参加して感銘を受けたのがきっかけ、次兄が早世したり、姉が生まれる頃に母方の親族が原宿で始めた玩具屋の事業に参加する形で家族に流れていた不幸を切り離そうと新天地を目指して上京しました。兄は、労作や農業なども含めたシュタイナー教育的なスタイルで始まった夢の学校である玉川学園に通い両親の期待はとても高かったのだと思います。
 
東京の家では、私と更に二人の妹が生まれ五人兄妹となり両親は親族経営の会社で書店勤務の母、玩具店を任された父が働き子供たちはそんな書店の二階と祖母の住んでいる家とを毎夕行き来して暮らしてきました。東京五輪が開催されて住んでいる原宿の町は町名改正やどぶ川の暗渠化、瀟洒なマンションが立ち並び大きく様変わりしました。米軍の高官対象のキャンプであるワシントンハイツが返還されて競技場となり米軍相手の玩具販売も五輪で訪日する海外の方を対象に都内のさまざまなホテルの土産コーナーとして出店攻勢をかけたり表参道の玩具本店も新たに高層で立て直して旗艦店として米国風の玩具に触ることが出来る子供にとっては夢のようなお店となりました。
 
とはいえまだまだ都内とはいえ、普通の玩具店では買いたいものはどの店でもカウンターの奥にあって棚から出してもらうのが普通であり近くに住んでいるからといって中々買うことも出来ない子供たちにとっては触れるとはいっても買えない客としては追い立てられるので店の名前をもじってケチィランドなどと揶揄していました。五輪景気が過ぎ去ると出店攻勢で展開した多くのお店も足かせとなり、全国展開を始めて関西の旗艦店となる梅田店の出店などの動きについて、まだ商慣習も整わない国内の玩具卸などとの争いとなり拡張志向の社長と周囲環境などの間に挟まり父は退社することになります。社宅として住まっていた本屋の二階も玩具倉庫として使っていた祖母が住んでいた家も離れて、新たに父が世話になる靴問屋の社宅となる一軒家が宮廷ホーム近くにあったのでそこに引っ越しました。
 
この家には一年と少ししか住みませんでしたが兄は、その家の部屋を一つ研究室として使い専用の冷蔵庫を置いて蝶の卵を冬眠させたり季節をずらして家の中を幼虫がはい回ったりという生活でした。この時兄は、玉川大学で学びつつ蝶の研究に没頭している時代でした。母方の親族経営でやっていた会社にお世話になってきた家族ではありましたが、会社が倒産することに至る過程で懐柔された側になった父により母と親族の間はとてもぎくしゃくしていました。結局会社は倒産して社長である伯父は更迭されて会社更生法で再建することになり管財人の方が来ることになりました。母の働きかけで父は復職することになり、また我が家は社宅を失い、新たな社宅を求めて東京から千葉市にあった団地に設けられていた書店が住居部分含めて使える事になり母が書店を任され、父も玩具部門の仕事にもどることになりました。
 
折角の研究スペースを得た兄でしたが、宮廷ホームの家からは竹下通の下宿先に移り、更には独立した場所で自由な仕事をしていくという流れになり、この辺りは兄妹よりも虫屋さんたちしか実体をよくわからない状況になっていきました。こうした状況が1968年でした。TSUISOが木曜サロンでの配布から雑誌として復刊されたのは1975年なので7年くらいの経緯があります。
 
兄が雑誌を発行してから1年後に、姉と私も社会に出るようになりどれだけの人たちに届いているのかを知ることも少なかったです。時折、兄の要請でかぶとむしのドリンク製作を手伝わされて怪しい調合のドリンクを作って瓶詰したり、白木屋の屋上のカブトムシ販売イベントの売り子にされたりということが私と兄の学生時代の接点でした。
 
逝去に際して、過去のタイムマシンを読み解くようにTSUISOの紳士録をオークションで見つけて読んだりしてどんな方に届けていたのだろうかということを再確認していたりします。兄の手書き文字で書かれてきた雑誌が45年あまり続いてきたことを、今ネットの記録越しで回想しています。
 
最後の号ではロシアウクライナでの採集家の方との触れ合いにも書かれていて平和の中での暮らしを体現されてきた人でした。今は、自由な身となって世界各地の仲間の元を訪ねて挨拶しまわっていることと思います。
兄の思いは最後の原稿TSUISOU1689号に残されているようです。