蝶楽天な人を思う

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ちょうたろうの軌跡を追う[13]

2023-05-29 10:32:07 | 随想

兄のシンパである方たちの手によってスタートした「蝶楽天」の追悼集プロジェクトには、家族として協力を求められてきた。私達に課せられた、兄の誕生からの年譜を支える写真や説明の文章については以前の打ち合わせで説明したり、その後のメールのやり取りで更新を加えていた。写真の選択をされたものに説明を加えたものを交換して校正の中に入っていたのだ。追悼集は皆さんが思うことのページと兄の年賦とで構成されるので兄の人生の大半については年譜でとらえつつ、皆さんが持っている接点での兄の人生の詳細なコマが更に明らかになるというものだ。

追悼集を纏めて頂いてきた、Sさんは某放送局の記者の方でもあり昆虫少年から蝶採集に目覚めていきそのまま深い沼に嵌っていき多くの方々との交流も厭わず人生を楽しんできた兄の生涯についてまとめることには使命感を持っておられるようだ。家族である私たちにとっては、兄の逝去に伴い互いの記憶を撚り合わせてファミリーヒストリーとして整理するというプロジェクトの完成に近づくということでもあり協力を惜しむことはなかった。

兄が遺してきたTSUISOには、ファミリーヒストリーに相当するパートの振り返りの投稿もあったことが、Sさんが年譜に取り込んできた記事から判明もした。もう父母の世代の多くは鬼籍に入られている状況で、我が家での長男である兄や親族との話を姉妹で一番記憶している末の妹が、原稿を支えている。姉妹や私が触れ合ってきた兄との話題も、写真などを通じて思い出すことも含めてこの追悼集が出来たときには残された親族の重鎮の方々にはお見せしてさらなる深いお話を聞き出す題材にしたいと考えている。

父と母のそれぞれの人生も不思議な縁で結ばれていて、それに連なる私たちや従兄弟や従姉妹たちの人生の切っ掛けも最初に踏み出した祖母の歴史に基づくものであることを再認識もした。兄の記事から、祖母には弟しかいないと思っていたのが実は姉がいたという事実が分かったりもして驚いた。

最終稿が仕上り、いよいよプロジェクトに出資して投稿された方や、支援として出資した方達に装幀された書籍として届けられることになる。私の知らない兄の人生を共にしてきた方達のお話が聴けたり写真なども見ることが出来るのを楽しみにしている。家族や親族にとっても我が家のセンターだった「虫のお兄さん」と位置づけられて、駆け抜けてきた兄の記録を手に取る機会は懐かしかったり見知らぬ兄をタイムマシンで見るような事にもなりそうだ。昨年のインセクトフェアで紹介され参加者を募り想定外の投稿申し込みなどでご苦労されてきたSさんだが、国営放送局に置かれても蝶にちなむさまざまな海外ロケなどもされてきている。兄のタスキを受け取ってくれて伝えるべき人たちの記録を残したいというのは記者魂ということでもあるかもしれない。そんなSさんの学校時代の生物部の後輩には、かれにあこがれていた民間放送局で浅利の研究でも有名なMアナウンサーがいる。そんな人の思いの連鎖も今時のツイートなどから見えてきたりもするのは面白い。
Sさんの編集の苦労をねぎらいパートナーの方や家族とで宴を囲みながら拝聴させていただくのが楽しみだ。


ちょうたろうの軌跡を追う[12]

2022-09-17 15:38:27 | 随想

日本一の卒業アルバム "玉川っ子"

むしやまちょうたろうの軌跡を追ってきたが、彼の代名詞ともいうべき昆虫界の週刊誌Weekly Butterflyとも呼ばれる雑誌TSU・I・SOの源流ともいえる諸作が、高校生の時に兄が編集作成した玉川学園高等部の卒業アルバムだ。時代は1966年3月の発行だ。写真は、その中の兄のクラス「天城組」だ。兄も写っていて、この写真は青い山脈でもはじまりそうな雰囲気の時代でもある。同期の別クラスには著名な女優さんもいらしたようだ。
コロタイプで両面印刷形式で作成されたのには、苦労もあったようだ。印刷というよりは写真として文字も撮られているような形らしく古いアルバムの文字からは、彼がのびのびと活動してきた玉川学園での時間を文字から垣間見させてくれるようだ。我が家では、この卒業アルバムを"玉川っ子"と呼んでいる、創立者の小原國芳さんの文字が最初に書かれていたからだった。ちなみにアルバム装丁表紙には夢の文字がある。生徒から青年に変る時期である高校生活をアルバムで切り取るという役を任されたのには、彼が当時同好会誌などを発行したりする活動が目に留まっていたからということのようだ。このアルバムは当時としては確かに画期的なものだったのかもしれなくて兄や両親が語っていた卒業アルバム日本一を取ったという話もそういう時代だったのかもしれないと思わせる。私が小学校を卒業したのが1968年だったが数の出ない卒業アルバムというものの作成は写真館が行うものであり、大判の写真として各ページがコロタイプとして作成されていた。間には印刷された紙が合わせて編集されるそんな構成だったと思う。編集の苦労なども書かれていた。

ここに4か所の兄が投稿したページがあり3つは今でいう所の穴埋め投稿やおどしぶみに繋がる編集後記である。中々記事や写真が集まらない中で、書き加えられたのかあるいは神が降りてきて書いてしまったのかもしれない。兄の記事がお好きだった方には、文章として当時の高校生だった兄が書いたものであるが、その後に繋がるものを感じられるのではないだろうか。アルバムの文字を拾ってみた。クラスとしては9つあり、兄のクラスは「天城組」だったそうだ。以下に兄の書いた個所を抜き出したので、TSUISOを追想していくことにしたい。

しかし、この抜き出しの過程で私は本当の「玉川っ子」なる著作が存在することを知ることになった。アルバムに玉川っ子と小原國芳さんが書かれた意図は果たしてなんだったのだろうか。

天城組

、TSUISOを追想していくことにしたい。

 〇月×日(月曜日)今朝は朝から冷えて、小雨がぱらついている天気だ。1~2時間目は礼拝のうらの時間でなにもない。ストーブをかこんだ20人程度のクラスの男女がワイワイしている。あるものは映画雑誌を読み、あるものは毒にしかならぬ週刊誌を読み、そして又あるものは静かに小説を読む。国語の教室だから、文芸春秋を始めとする雑誌書籍も多い。碁ならべやトランプをやるやつもいる。スト一ブのまわりは消火器の薬剤で白くなっていて、一見だらしなくはあるが、なかなか和やかで談笑はたえない。やがて傘もささずにクラス委員がやってくる。皆んな「またか……」という顔で迎えるが別にクラスの雰囲気はかわらない。そして皆んなに共通することは、誰れも教科書をださず、ー人ー人勝手なことをしているのだ、やがて3時限目の授業が始まりちらばっていった。サボルやつもいる様だが、結局皆んな卒業できたし、ひどく能力の低いやつもいなかった。昼休みの時間もなかなか楽しい。さわぐ奴も多いからこのミゼットハウスと称するほったて小屋が、こわれそうで心配である。お昼の放送は我クラスは無い。スピーカーがこわれているからだ。だれも直そうとしないし、放送が聞けなくて大きな失敗もしなかった。時々A君がワイ雑な言葉を叫ぷのて皆んなでおさえる。女の子は聞こえないふりをしている。天城の女の子もたいして美人はいないが、気やすいところだけは取柄だ。やがて午後になり終会がある。B君が気のない夕クトをして解散、担任の矢竹先生のお話はない。しかし一人一人は面談でいろいろ雑談をしてくれる。大学の先生のようで高校教師にもったいない。矢竹ぺースについていけない事もあったが、それ程迷惑をかけずにすんだことは喜ばしいことである。天城の解散は早いので早い電車で帰ることが出来る。掃除当番はきまってはいるが逃亡者が多い。しかし誰かが必ずやっていたので週番から、ほめられこそしなかったがおこられもしなかった。やがてミゼットハウスの中央に位置した203番教室も灯が消えた。こうかくと高等部一の不良クラスのようであるが、そうは思いたくない。もう高3である。将来のことを考えて一人一人責任ある行動を、自分の個性を失わずして活動してきたのだろう。

楽我記考

高等部時代思いつくままに
 原稿ページの埋め草の文章を書くことになった、さらっと読み流しそしてこの文章のことを忘れてくれ。
 この自然に恵まれた環境の中でノンビリと育った我々の中で、一種のキチガイと呼べるやつらを、我々はもっと誇っていいと思う。そのキチガイたちの良し悪しは玉川の目であり、それらのもつ情熱と個性は何らかの形をもって大きく成長するだろうからだ。〇〇キチガイ、その〇〇は何んでも良いのだそれらのキチガイの成長の為に自由研究とか労作とかいうものが玉川にある。そのキチガイにならないやつがいても良い、金だけおさめてノホホン
と生活するやつがいてもよい、なんとなく学校に来て、なんとなく学校を去った、そんなやつがいても結構だ、人は私を蝶キチガイといい、あるものはチョウチョゴロシとののしった、私は幸せである。なぜ幸せなのかとあなたは深く考えることはない。当人がそう思っているのだからそれで良いのだ。
 玉川には小使さんがいない、そしてクラス委員という美名にかくれた小使いがいる。しかしクラス委員とは、品行方正、成績優秀なるものがつとめるような他校とは違うようである。小学校より、毎年つとめている西山某なる男のことを想像すれば明快である。あの男が出席簿をもっていたのだから、ユカイ、ユカイ、しかし玉川のモットーにもあるだろう。「人生の最も……」は、クラス委員という小使いをとおして本人にはずいぶん良い影響をあたえるものであった。
 玉川学園髙等部には卒業論文というものがある。高校生に論文が書けるわけがない、それを皆んな書くのだから不思議である、私も書いた。本人は大学教授に見せても文句をいわれず、学会にそのまま発表も出来るものをショッてかかったからこれまた、ユカイ、ユカイ、もっともそのように書いたら、結論のはっきり作れない、中聞発表程度しかならなかった、一応論文のカッコはしているものの、私の今の力では同好会誌程度の自信しかない。しかし
論文というものにとり組むのは、決して無駄ではない、自分の資料のすくなさ、研究のすくなさ、あいまいさ、経験不足、文才のなさのいくらかでも知ることが出来たら、高等部の卒論の意義は充分である、もっとも、それをも解らぬ人問も多いのは残念だが、全員となるとカッコだけであまり強く問題にふれないのがいても仕方がない。
 玉川に私は 12 年通ったわけだが、良き先生方の多いのには感心する、冗譲、お世辞ではなく、これは玉川のもっとも大きな財産だと思う。しつこいようだがこれはゴマスリではない。
 玉川学園高等部生徒会というものがあったしかしそれは全く得体のしれないもので、生徒会費を取り上げられただけの人々も多かったことだろう。生徒会執行部は奉仕部のかたまりのようなものだ。中央委員会は活動せず、予算委員会の時だけ人数も執行部がそろえるのである。しかたないがクラプ活動は貧弱である。そして生徒会会員であったのを、生徒が知らなかったのではないかと思いたくもなる。生徒会執行部に関係した人は本人の為になったろう。しかしその他の人間は、生徒会費をドブにすてたようなもので、なんともあわれである。しかしこのような生徒会、執行部や中央委買会のなんとも得体の知れないものに接して、なかなかユカイであった。そこには純な気持の生徒が集まっていたが、生徒会活動にはなっていなかった、大きなことをいう私も、”たまがわっこ” なる怪文書を作って、生徒会費を多額に使った第一責任者である。
 玉川での行事の数々は、私がいうまでもなく、良いものである。これらの思い出は何より自分の為になるだろぅ。髙校時代というのは私達のー生の中でも大切な期間だ、わずか 3 年であるが、この 3 年をすぎると、タバコも酒ものんでも文句をいわれなくなる。しかしそこには自分に責任もたなくてはいけない時代がくるのだ、そのめまぐるしい生活の中に自分を成長させていくには、髙校生活は良い基盤になると思う。毎日毎日の日記は、労作であるが、年に一度位いは、その時はその時なりの、思想、想い出をすなおな文章にまとめ、自分の考え方の進歩の一助としていくことは、今後始まる私達の人生に何か役に立つのではないだろぅか。高校時代を反省し、想い出して見なさい、いろいろなことが………。
 私は、中学の頃から、元旦の拝賀式に出ているが、その日は一日すがすがしい気分になる。そして拝賀式の後、聖山で寝ころぶことにしている、何か自分のことについて考えたかもしれない。青空の美しさに見とれて、芝の上で日なたボッコをしているだけかもしれない。しかし、それは私にとって楽しい、そして大切な時聞である。
 自由研究展が 1966 年 3 月 13~14 日に開かれたのを知らない生徒が多いと思ぅが、1~2年の参観者をもって開かれた、これに関して全く生徒会が活動しなかった、この展覧会を知らず出席出来なかったのば 3 年生諸君のせいではないから心配しなくてよい。この自由
研究展における生物部は、そのデモンストレーションの良さ、うまさは、玉川学園始まっていらいと私は自信がある。参観した⽗兄や生徒先生は全くすくなかった。残念ながら玉川のおやじ(小原国芳先生)も見えなかった。忙しかったのだろう、しかし満足であった、私達は賞をもらうためにやったのでもなく、人からほめられたかったからでもない。その発表は自画自賛で誠に口はばったいのであるが、スマートであり、自分自身満足出きた、満足の意味は高校生としてあれが私達の限界であり、そして力を出せるだけ出したことにある。
 ともかく高校時代は終った、私達の人生はこれから広く広く発展していく、私達の仲間が、同期の桜が、10 年後、20 年後、何になって、何をして活躍しているか、想像するだけでも楽しい、たまには玉川の丘を思いつつ、ある人は野の百合のように咲けばよい。又はもっと美しいかぐわしい花に成長するのも、大きな木になるのもけっこうだろう。自分自身の道をしっかりと歩きたいものだ。そして私は雑草のように生きたいと思っている。出来たら一輪の小さな花も咲かしたい。たとえすぐ人にふまれても良い、それは、私の作った花だから、きれいだと思う。ふまれて枯れても、翌年はきっと二輪の花にふえるだろう、そうありたいものだ。

アルバムについての屁理屈

 なんだかんだと、あわただしく過てしまつた3学年3学期のことを思い出してもらおう。あのドサクサにまぎれて金3000円也のアルバム代とやらをとられた事を覚えておられるだろうか、そんな事は忘れていて結構だが、その3000円也がこのなんとも面白くないアルバムになったのを、この文を読むまでに至らずして充分お解りいただけたと思う、そこでこのアルバム制作の苦難の過程についての理由をなんとかつけて、当事者の心を慰さめてみたいと思う。人は屁理屈というかもしれない。…だが…
 そもそも私はアルバム委員ではなかつた。夏休みも近ずいた或る日、私は担任の教師に呼ばれた、そして私はアルバム委員の仲間入りをさせられた。その主な原因は、生徒会活動で“たまがわっこ"なる怪文書を創刊してみたり、蝶の仲間の同好会を作って、“むさしの”なる会誌を編集したりしていたことが、どうした曲解の末か、私が名文を書き、名編集者でぁるやに思われたらしい、そして「おまえがアルバムを編集をしろ」とこう来たもんだから、かくいう自他共に認める迷編集者は、喜々として構想を練り始めたのである。
そしてまたここに迷文を重ねることになった。しかし残念な事に、時は夏の太陽が高かりし頃だから、迷編集者なる蝶キチガイは、山野に大きなネットを振り廻し始め、頭中にアルバムのアの字も消え去った。
 やがて忙しい夏休みも終り、秋風をフト感じる頃、アルバム委員である事を思い出した。そしてアルバム委員顧問という渡会某なる女教師の居ることを知つた。さて私は、高等部でー番悪党の多い、騒がしいクラスと評判の高かった天城組の一員であったので、もしかすると「アルバム委員は〇〇〇番教室にお集まり下さい」という放送を聞きのがしていたかと思い、その事を尋ねてみると、いまだにそういう集会はなく、構想も出来ていないという返事だ、「そういうことではウンヌン」と一席始めた事が、私がアルバム制作なる、泥沼の世界に足をひきずられる第一歩となつたのでぁる。さて、やがて「アルバム委員会を開きます」という放送が時々ぁり、4~5人集まった仲聞が、少しづつ集まった他校のアルバムを、悪舌の数々で酷評し、さもアルバムを作つては日本一という気分でいた。さてともかくも当時アルバム委員と名がついていたのが、各クラス1~2名いたようだったが、最後にアルバム委員と始めから名の付いていたのは数人しかいず、その他ワイヮイしていたのは、あわれなるまきぞえをくったお人好しの仲間である、しかしその当時は、まだ講談社に執筆依頼されたごとくに、夢の上でワイワイしているようなもので、その頃の計画者では、年末と3学期に二度にわたるアルバム委員慰あんパーティを開き、卒業式当日には作りえた立派なアルバムに対する、絶賛の言葉に酔いながら、我々の労作の結果をお見せする予定であったのだが、だが、だがである。人生なかなかなせばならず、思うとおりにならなかったのである。それを詳しく書きつらねてはなんだから、少し書きつづって奥深いように思わせることにする。
 まずアルバムを作るのには写真がなくては出来ない。このアルバム委員なるものが、3年前に組織されて生活の記録や写真を残しておれば、いとも簡単にアルバムが出来るのだが、3年の秋にやっと活動が姶まったのだ。写真がない、生徒にも頼んだが、いったい誰が協力してくれたのだろうか、顔写真も集めてみた、しかしそれは生徒達が、いかに写真というものの知識が低いかということを知っただけだった。あのピンボケ、テブレの数々の作品を前にしては創作意欲を失うと共に、ピン卜があっていては嫁入り、就職、進学に困るお顔もいるのではないかと推測したくもなる。そんなことで、まずアルバムに使う写真がなかった。
 そして次にはアルバムは、どんな印刷、製本で作るのかをアルバム委員のだれも知らず、もちろん、ガリ版やタイプ印刷の編集のまねごとをしただけの私が知るはずもない、その方法を印刷所でー見してきたのは1966年の年も明けた頃だった。おそらくこの駄文を読むあなたも印刷方法を知らないだろう。教えてあげよう、写真の印刷にはグラビア、オフセット、コロ夕イプ等という種類があり、グラビア、オフセット等という印刷は、書籍や週刊誌などで知っているだろう。このアルバムはコロ夕イプという印刷なのだ、グラビア、オフセットだと印刷部数の少ない場合は単価が高くつくので、学校の卒業アルバムの様に200~5、600程度の部数ではこのコロタイプという印刷で作るのだ、グラビアで作ると諸君は6000円也のお金を出すことになった。このコロ夕イプは、写真のネガを、割付の大きさに引き伸して、一頁ごとにガラス板上でネガを並べて原板を作る。この原板を、薄い感光剤をぬった厚いガラス板に露光して、乾板のようなものを作る。これにインクをつけてアート紙に印刷し定着させるのだが、なかなか手間がかかる。この印刷法と割付の悪さから、コロ夕イプという印刷は一昔も二昔も前から一つも進歩していないのだ。しかし私達のこころみた、両面印刷は日本で始めてのことであり、玉川学園高等部のアルバムはアルバム界の先端を走るものである。そして洋とじも始めてのことであるし、ビニールカバーをつけた表紙なんかにくいねぇ、すくない写真をカバーするために、読みながら想い出のページをめくるという。豊富な文章は、この下手な文章は、後日きっと良き想い出になるだろう。そしてセンスのある割付、内容の出来ばえ、この画期的な………。もうこのへんで宣伝はやめよう。これ以上つづけるとまるでこれらが、うそ、いつわり、でたらめのごとく読みとる人がいるとこまるからだ。
 写真のなかったこと、アルバムの作り方を知らなかった事、その上にアルバム委員の活動が悪かった事も理由の一つにあげておこう。こんな中で、高等部で始めての我々の卒業記念アルバムが出来た。来年は、アルバム委員に選ばれた精鋭たちが、新学期より活動を始め、我々の作ったアルバムの欠点を毒づきながら、我々の想像も出来なかつたもの〕を作り上げていくだろう。
 さていろいろ悪条件をならべてみたが、こんな状態でなぜ出来たのだろうか、上原さんを始めとする写真部の方の大きな協力もあった。孤軍奮闘したメンバー、じつにいろいろなことがあったが、それをほこらしげに語るのはよそう。奥ゆかしげに思わして文章を終ろう。大学の入学式の前の事である、ある先生曰。「おまえは学校が休みになってからの方が、よく学校にくるじゃないか」

アルバムはこうして出来たのだ

編集後記

 暗く、うっそうと繁った深い林の中に、ジクザグにかなりの勾配をもった道がつづいている。夜が白み始めて足もとが見え始めた。もう懐中電燈も必要なくなり、もうすぐ陽が差してくるのではないだろうか。私は昨日下の河原で道連れになった、若い2人の女性と共にこの勾配のある山道を登っているのだ。2人の女性の一人はやややせていて、眼がねをかけているが、良く似合う、山の帽子が快活な感を受ける。もう一人はやや太っていて、髪を長くカールさせ大きなムギワラ帽子をかぶっている。やや大きめの瞳から柔和な光をはなち、私の好きなタイプである。ともに自然が好きなのか、2人共南アルプスの山中を歩きつつ、楽しそうである。人間的にもしっかりしているようだ。私はといえば、荷物の半分以上を、この2人の麗人に持ってもらい、ナップザックだけで身も心も軽く登っているのだ。そうだ、赤河原の山小屋でもそうだった。山娘でこんなにも美しい人が居るのか!と思われるような山小屋のお嬢さんに連れられて、河原の下の本宅で御馳走をずうずうしくいただいたのである。そこにいた弟さんなのだろうか、白痴の子の食事をするあわれな様を見て、「ああいやだな」とか「どうして生きてなくてはいけないのか?」………とフト感じるような愚人といおうか、何といおうか、出来そこないのようなものである。
 足は快調に動く、暗くて周囲が見えない為もあろう、朝早くて気温の涼しい為もあろう。荷物も少くないせいもあるだろう。グングン高度を増していく、疲れも覚えない。南アルプスの山々はまだ北アルプスのように道も開けてなく、ハイカーや登山者も少くない。山小屋も水も不便な所に、そして山小屋は自炊ばかりなのに、そんな所になにもわからない中学2年生が、ひょっこりと現われたのである。食糧は少々のキュウリ、ウリ、ネギ、それにアンズと幾切れかの固いパンだけである。食器や飯盒は3人分持っている。彼はここで友人と会う予定だったのだ。「キュウヨウノ夕メイケナイ」というような意の電文を受けとった。彼は米もなく、副食も無い。そして山小屋では食事を作ってくれない。その彼が私である。しかし頭の回転の悪い私は別に藍きもしなかった。無知の為なのか………。大きな台風がその頃やって来て、アルプスにぶつかって低気圧となり雨がシトシトと降っていた。幸い南アを歩く山男は親切だった。そして、特に山小屋の美しいお嬢さんは私に親切だった。とってもきれいだった。そして当時独身だった。今回一緒に歩く予定の生物の教師のお嫁さんになったら、いいなあ…と思ったものだが、しかしもう彼女の名前は忘れてしまった。彼女はいったいどうしているだろうか、やっぱり、まだあの美しい顔をほてらせて、汗をかきながら、大の山男が持つような荷物をしょっているのか。
 やがて明るくなり始め、暗い梢の間からは幾筋もの光がもれ、背後には展望が時々出来るようになる。朝早いので人影は全くない、時々、高い稍にいるのだろうか、朝のせわしい小鳥の声が聞えてくる。何んという鳥だろうか。私が知ってるはずがない。私はただただ尾根に出ることを考えている。梢の間には尾棍がすぐそこのように見える。しかしいくら登っても着かないのだ。人生は山登りにたとえても良いように思う。特に現在の自分達の時代は、多くの人に囲まれ、両親に手をとられて歩いているようなものかもしれない。丁度いま、山を登りつつある私のように。両親に手をひかれて歩いているが、いったい何んという山を登っているのか知らないし自分の登るべき山も知らない、欲の深いさまよえる仔羊である。決して完全な人間でなくとも良いが、私は私なりに、人間らしく、自分なりに、日本人として、人間として、自分が…………………。良く考えてみようと思う。自分の切り開く人生はこれからでも遅くないはずだ。
 たどりついた尾根道は、時にはガレ場や岩場の脇を通る、ダケカンバの自然林が、風雪を耐えしのいだ美しい姿を現わした。下草の緑の上に、やや小さなダケカンバの肌の白が映えている。台風一過の後はこの上もなく青い空だ。遠くに槍ヶ岳のピ一クが見える。ところどころにはお花畑がある。2人の連れの麗人に、待っていてもらって私は蝶を追っかけた、さまざまの髙山植物の上に、クモマべニヒカゲという美しい高山蝶が飛んでいる。この蝶も親になるまで2年間かかるのだ。クジャクチョウも飛んでいる。シシウドの花上にはハナカミキリの仲間がー杯である。道にもどると2人の連れは食事を始めていた。私もそれをもらうことになる。ダケカンバの林の中をくぐるようにして進むと、前途が急に広がり、広いカール状になりお花畑やハイ松の上に仙丈岳の勇姿が現われる。左には甲斐駒岳、右には伊那谷が、仙丈岳の頂上はもう一時間もかからずに行けるだろう。そして広いお花畑には、いままで見られたクモマべニヒカゲがあっちにもこっちにも、そして私は………。(やすすけ)


ちょうたろうの軌跡を追う[11]

2022-09-04 22:49:34 | 随想
ちょうたろうの軌跡を追う[11]
見出し画像

兄を支えられてきたパートナーの方は二人目の見送りとなりつらいものだったのかもしれません。最後の願いの散骨に弟妹ではなくパートナーに付き添われたのは幸せだったことでしょう。

さて、そんな兄は若い頃にお世話になった方々に冥界からの挨拶回りで忙しいのかもしれません。そうしたお世話のバトンが今は兄を慕う人達の中で何か書き残したいという話で盛り上がり、中心となっている方から、家族への要望が寄せられていました。この方は某放送局にお勤めの記者の方ですが、兄が小学校の頃からマニアックに綴っていた採集記録には当時の電車の時刻表からのスケジュールも細かく記載されてツーイーソーにも繋がる手書きの地図が描かれていたのは知っていました。こうした記録や写真などが貴重なものらしいのです。
兄の手元にあった図鑑一式を委託した北海道の古書店さんからの問い合わせでその中の図鑑にあった写真が兄ではないだろうかという問い合わせがあり家族である私たちへの確認がありました。それは玉川学園が出版していた玉川こども百科のこんちゅうの本でした。

画像
玉川こども百科87 こんちゅう より

小学生の兄が、仲間と標本づくりをしている写真でした。奥の方から手前の友達の展翅具合を見ているという構図でした。家族では、この図鑑が出たときによく話題になったものでした。
採集記録や写真など家族としては惜しみなく協力をしますとお伝えしています。ファミリーヒストリーとしてテレビ放送になることは有りませんが、冊子として編纂されるのは夢では無さそうです。この冊子は、追悼される方々からの投稿記事と完成した図書をご購入いただくという仕組みで進められているそうです。兄が45年ほど続けてきた雑誌TSUISOへの大いなる返歌のようなものになりそうです。この編纂の中心となっているSさんは、9年ほど前に西永福から西国分寺に事務所移転するにあたり兄にインタビューをされていて、その時の内容はまだ記事にはなっていなかったそうです。そうしたものも含めて、また家族だけが知っている兄が育ち昆虫標本商となっていった歴史背景を家族から聞き取って書いていきたいということでした。
兄が好きだったファミリーヒストリーに因んで家族の歴史についても調べて残していました。弟妹の記録も含めて集約していこうとしています。伯母や親類の話を良く聞いて記憶しているのは末の妹ですが、みな還暦を迎える時代となり記録するのは急を要しそうです。
兄の逝去で、墓じまいやら色々と整理をしつつ次代につなぐことが今の私達の願いです。実家の相続処理などがようやく一段落して、処分をしつつまた兄の夢見た労作の一つである世界のクワガタギネスという図鑑も夏休みに各地で開かれた昆虫のイベントで配布されたりして子供たちの手に届いているようです。残った本は引き続き来年も配布されていくでしょう。大半のものが委託されましたが、更に残った図鑑については、私が運営している地域の電子工作教室に来られた方に差し上げたり、イベントで配布したり、メルカリで安く配送する仕組みに配りこれも片付いていきそうです。
20年ほどの期間が経ちましたが、昆虫少年を触発する図鑑としてバトンリレーのお手伝いが出来ているかと思います。

画像
MFT 2022会場にて知人に委託しました

そうです、ここMFT会場は、兄の散骨を行った東京湾を望む東京ビッグサイトなのです。子供たちが、両親に連れだって来ている会場で見つかった図鑑はキット夏の思い出にもなったことでしょう。


ちょうたろうの軌跡を追う[10]

2022-05-28 16:37:14 | 随想

昆虫採集家・標本商などの一面についてはネットの記録や書籍雑誌記事などから分かることが多い。兄は人たらしの側面があり、自分の気に入った美味しいものなどがマイブームとなると、それを食べさせたりお土産に持たせたりするのもとても愉しみにしていた。そうした兄の癖は、話題としての虫仲間の人達との語らいにも大きく影響して増強していたのではないかと周りの方が投稿するSNSでの写真などからも推察される。

兄からの呼び出しは、彼が頼みたいミッションやら美味しい物が手に入ったので渡したいなどの合わせ技で構成されていた。虫仲間の人達にTSUISOも自炊してiPadに入れた状態で流通するということをしていたことがあったらしい。本と違って写真をピンチ(ズーム)したりして、シニアの人たちにも有用だという。本と違い劣化するのが早いのは欠点で電池が充電できないとか、予備の機材がもう無いとか色々だ。なかでも電源ケーブルが傷んだりするのでこのスペアを手配したいとかいうこともあった。

唐突な兄の電話は、そうした話から切り出されるのだ。背景を理解しないままで短兵急に行動しても不味いので、欲しい物を調べた上で連絡や背景を伺いに事務所詣でをする。兄は人に来てもらうのが、とても嬉しいのでいつも色々な美味しいものを御馳走になる。あるトースターに嵌ったときには、そのバルミューダへの熱弁を振るい。仕上げとして、美味しいトーストにして波状攻撃だ。無論トーストに塗られるのは、美味しそうなジャムだ。ジャムこばやしと書かれた瓶の中は、煌めく艷やかな果実である。会話をしているとさらに客人が来て、そのジャムを作られている小林さんだった。虫仲間であり、木ノ実を取り扱ったりする過程で兄の仲間に加わったのだろう。ご実家のジャム作りと趣味の木ノ実扱いとを軽井沢のお店と通販で営まれているそうだ。

付き合う人を選ばず、いろいろな人の懐に飛び込んだりしていったのはネット上の記録や、訪ねてこられる方々の話を聞いていてもうかがい知れる。兄のアクションは早くて、新しいツールに飛びつき、新しい変化の波にも飛び乗っていく。マイブームを引きおこすと回りの方々に宗教の様に布教したりふるまっていくのだ。美味しい物をふるまってくれるのはありがたいのだが、道具が持ち出す世界と今までのルールが整合しない状態も起きてしまうので良く考える必要も生じる。世界中の採り子たちを擁して採集された昆虫たちを標本として集めていく中には、世界の人たちからみた希少生物としてのワシントン条約付属書に記載されたルソン島特産のルソンカラスアゲハが展示会で販売されたりして物議を醸したこともある。

誰がどのような基準で、その蝶をワシントン条約付属書に列挙記載したのかは、わからない。しかしながら兄は各地を採集しまわった身として特定固有種という認識はなく各地の採集記録からもそうした認識がないままに条約指定の動きが現実と乖離していると認識していたようだった。しかし先端をみているものとして後から国同士のルールを決める仕組みとの温度差・時間差についてはもっと気を配るべきだったのだろう。価値観の違う人たちが決める国際的なルールにとっては学術的な研究に基づいて決められるにしても自身がもっと発信していればよかったのかもしれない。しかしながら、兄が研究者として認める先生は少なく自分自身も大学での昆虫の研究の進め方・考え方で相いれず昆虫浪人を選択したという。彼が出した結論は、採集家・標本商を続けながら数多来る標本とその情報から研究を続けていくことだった。新種の蝶が見つかった場合にも、雌雄を揃える支援をして信奉する先生の名前に連座する形で命名されたこともある。

標本商という仕事をしつつ集まってきた標本を分類研究していくというサイクルが確立していきウィークリーバタフライと称したミニコミ誌を通じてニュースソースとして読者からの情報も吸い上げていくという流れを続けてきた。自然というオープンソースの中で採集発見という情報に基づいて個体の紋様などから分布を明らかにしていくという作業を兄たちの虫屋という団塊世代な広げて彼らの興味をまとめて海外への採集ツアーなども催行して次世代の仲間を増やしていく。昆虫採集が破壊だという人もいるし、昆虫を孵化育成して放蝶して昔のように増やそうという人こそが自然破壊だという人もいる。兄が大量に蝶を採集したからとマスコミの格好の的にしたりもしていた。

こうした兄の活動は、逆に兄が遺した雑誌TSU-I-SOを読み解くと47年間の記録として当時の歴史事件も含めて振り返ることが出来る。この虫界の週刊誌は通算で1689号となり最後に兄から最終稿となったもののコピーをもらったのは3月のことだった。国立国会図書館に納本をしてきたが昨年末で止まっていたらしい。兄が逝去して、虫の知らせを聞きつけた人たちが、ひきを切らず事務所に弔問に来るようになり国内各地からいらしていた。対応をされてきたパートナーだった方が兄の書き遺したメモをまとめて書き綴りたかったこと最後の状況を記して廃刊案内として作成配布してくれた。こうした案内で最後を知った方もいらして電話やメールを送られた方もいた。

兄は本当に手書きでのやり取り、電話でのやりとり、直接お会いしてのやり取りがベースだったので使っていたメールについては殆んど日常的にも使われてはいなかった。最後の案内で電話をいただいたかたにメールに写真などを送ったので見ていただければという話があり、残されたパソコンのメールの開け方を調べるとノートパソコンの下に開き方が記されていた。どこかのネットサービスにドメインを移管して小規模な形で支払った期間だけ続けるように終活もしていたようだった。契約関係を調べていた中では見つからなかったので助かった。メールを開くと電話をいただいた方からの返信と添付写真があり印刷出力したや兄が倒れた以降の時系列で返信記録がない方に経緯とアカウント削除する旨を伝えていった。

私からの返信に対しての返信も翌日以降には届いた。国立国会図書館での納本対応をしていただいた方だった。昨年末までの1683号までが納本されていたことと廃刊に伴い、雑誌の記録として最後の号までを納本していただき記録として完成させたいという話になりました。まだ今日時点では原稿も印刷したものも残っている可能性があり明日の最後の片付けで残っていればそれを送付あるいは、スキャンした原稿から印刷して再構築した体裁にして送付完了することで記録として国会図書館に行けば兄の記録に後の方々が触れられればと思います。いままでの号についてスキャンされPDF化されていたものを委託していた方から引き継ぎ、しばらくは親族のみで参照します。いろいろな事件に遭遇してきたことの記録も残されていてミャンマーで投獄された事件も回顧録として読み直すことができました。

回顧録は311の時に書かれていた号で当時の兄の思いにも共感して、読み進めた。かつて兄がビルマで投獄された1985年暮れのことが記されていた。ビルマで市中で宝石を買ってしまったのだった。当時、政府直営の貴金属店でのみしか外国人は購入することが出来ない、貧しい国でお金がブラックマーケットに回ることが危険だということで厳しく監視していたのだろう。2度目のビルマへの採集旅行の中では当然持ち込み外貨について前後での差異についても厳しく取り締まられる。お金をお酒やたばこなどに変えて持ち込み、現地のマーケットで交換して現地での活動費を得るのが普通のことだったらしい。現地のガイドを通じて昆虫採集の手続きなどをする中で、宝石売買を持ち掛けてきたらしい。ホテルの部屋にはガイドが入れないから、ガイドの息子が運転する車の中で助手席に座ったガイドから宝石を見せて交渉ということになり走りながら見せてもらっていたらしい。しばらく走り車を止めたときに警察のイキのかかった人たちに捕まったという顛末だったらしい。反政府組織にお金が回るようなことが当時は厳しく取り締まっていたということだろう。

現地人は、外国人に売却していたら10年の刑務所生活となりガイドだった50歳の主が留置されれば家族の家計がとまってしまうのは明白。外国人は国外追放となる。言葉が通じるガイドから宝石を売ろうとした事実はなく友人から買ったものを見せていただけだという話に合わせてくれという相談があった。留置場で言葉が通じるのはガイドだけだったのでその話に乗り日本大使館の顧問弁護士に頼んで裁判長にお話しを通して国外退去の話に乗ったと思っていたようだ。しかしながら、裁判長よりも警察署長のほうが偉いらしく、兄が堂々と胸を張って説明している内容が気にくわなかったらしく「あいつは真実を話していない」ということで兄が国外追放を言い渡されるはずの法廷の開催が遅れて、判決文がその間に書き換えられて兄は6か月の刑務所実刑となった。それでも「僕が悪者になれば6カ月の刑、相手が悪者になれば十年の刑、家族の稼ぎ手が牢屋に入るより僕が入ったほうが良い」という兄の正義は、玉川学園での教え「人生の最も辛い人の嫌がることを率先してしなさい!」にも根差しているようだ。ここまでに既に4か月が経過していて兄は10か月もビルマのインセン監獄に収監されていた。

世界各国を回り、色々な人と仲間になり仕事をしてきた兄は決して自分の為にという道は選ばなかった。自分が倒れ店じまいをする中でも売掛を追求することではなく請求しない道を選択していた。そんな兄を思いながら彼の記録を残すことで、蝶楽天を名乗り今 まさにそうした冥界で活動していることを思いここで最後にしようと思う。ご興味のある方は、国立国会図書館を訪れて頂ければ兄の思いに触れることが出来ます。


ちょうたろうの軌跡を追う[1]

2022-05-18 17:14:45 | 随想

4/7早朝 療養中の長兄が亡くなった。兄は昆虫採集家であり、「むしやまちょうたろう」昆虫標本商ともいわれて世界各地に採り子を擁して活動もしていました。

昆虫界では、唯一となる月3回発行の週刊誌TSU-I-SOUを長年にわたり主筆として発行してきました。
普通の物差しでは測れない、暮らしをのびのびとされてきた自由人でもありました。
 
我が家の流浪の生活の中で、兄が住んでいた広島縣の田舎では昆虫採集が唯一の仲間だったようです。
小学校の学齢に達する頃に広島縣で行われた小原國芳先生の全人教育の講演会に父親が参加して感銘を受けたのがきっかけ、次兄が早世したり、姉が生まれる頃に母方の親族が原宿で始めた玩具屋の事業に参加する形で家族に流れていた不幸を切り離そうと新天地を目指して上京しました。兄は、労作や農業なども含めたシュタイナー教育的なスタイルで始まった夢の学校である玉川学園に通い両親の期待はとても高かったのだと思います。
 
東京の家では、私と更に二人の妹が生まれ五人兄妹となり両親は親族経営の会社で書店勤務の母、玩具店を任された父が働き子供たちはそんな書店の二階と祖母の住んでいる家とを毎夕行き来して暮らしてきました。東京五輪が開催されて住んでいる原宿の町は町名改正やどぶ川の暗渠化、瀟洒なマンションが立ち並び大きく様変わりしました。米軍の高官対象のキャンプであるワシントンハイツが返還されて競技場となり米軍相手の玩具販売も五輪で訪日する海外の方を対象に都内のさまざまなホテルの土産コーナーとして出店攻勢をかけたり表参道の玩具本店も新たに高層で立て直して旗艦店として米国風の玩具に触ることが出来る子供にとっては夢のようなお店となりました。
 
とはいえまだまだ都内とはいえ、普通の玩具店では買いたいものはどの店でもカウンターの奥にあって棚から出してもらうのが普通であり近くに住んでいるからといって中々買うことも出来ない子供たちにとっては触れるとはいっても買えない客としては追い立てられるので店の名前をもじってケチィランドなどと揶揄していました。五輪景気が過ぎ去ると出店攻勢で展開した多くのお店も足かせとなり、全国展開を始めて関西の旗艦店となる梅田店の出店などの動きについて、まだ商慣習も整わない国内の玩具卸などとの争いとなり拡張志向の社長と周囲環境などの間に挟まり父は退社することになります。社宅として住まっていた本屋の二階も玩具倉庫として使っていた祖母が住んでいた家も離れて、新たに父が世話になる靴問屋の社宅となる一軒家が宮廷ホーム近くにあったのでそこに引っ越しました。
 
この家には一年と少ししか住みませんでしたが兄は、その家の部屋を一つ研究室として使い専用の冷蔵庫を置いて蝶の卵を冬眠させたり季節をずらして家の中を幼虫がはい回ったりという生活でした。この時兄は、玉川大学で学びつつ蝶の研究に没頭している時代でした。母方の親族経営でやっていた会社にお世話になってきた家族ではありましたが、会社が倒産することに至る過程で懐柔された側になった父により母と親族の間はとてもぎくしゃくしていました。結局会社は倒産して社長である伯父は更迭されて会社更生法で再建することになり管財人の方が来ることになりました。母の働きかけで父は復職することになり、また我が家は社宅を失い、新たな社宅を求めて東京から千葉市にあった団地に設けられていた書店が住居部分含めて使える事になり母が書店を任され、父も玩具部門の仕事にもどることになりました。
 
折角の研究スペースを得た兄でしたが、宮廷ホームの家からは竹下通の下宿先に移り、更には独立した場所で自由な仕事をしていくという流れになり、この辺りは兄妹よりも虫屋さんたちしか実体をよくわからない状況になっていきました。こうした状況が1968年でした。TSUISOが木曜サロンでの配布から雑誌として復刊されたのは1975年なので7年くらいの経緯があります。
 
兄が雑誌を発行してから1年後に、姉と私も社会に出るようになりどれだけの人たちに届いているのかを知ることも少なかったです。時折、兄の要請でかぶとむしのドリンク製作を手伝わされて怪しい調合のドリンクを作って瓶詰したり、白木屋の屋上のカブトムシ販売イベントの売り子にされたりということが私と兄の学生時代の接点でした。
 
逝去に際して、過去のタイムマシンを読み解くようにTSUISOの紳士録をオークションで見つけて読んだりしてどんな方に届けていたのだろうかということを再確認していたりします。兄の手書き文字で書かれてきた雑誌が45年あまり続いてきたことを、今ネットの記録越しで回想しています。
 
最後の号ではロシアウクライナでの採集家の方との触れ合いにも書かれていて平和の中での暮らしを体現されてきた人でした。今は、自由な身となって世界各地の仲間の元を訪ねて挨拶しまわっていることと思います。
兄の思いは最後の原稿TSUISOU1689号に残されているようです。