1995年1月17日朝、テレビから信じられない映像が流れてきた。
阪神淡路大震災。
あの年は、「痛み」とか「無力感」とか、普段あまり感じられない感覚に襲われた年だった。
3月には、地下鉄サリン事件があったし、7月には、父が亡くなった。
「何かしなければいけない、変わらなければいけない」
そんな想いに駆られ、まだ具体的プランがないまま、秋にはクエスト総合研究所を設立していた。
被災者ではなかったけれども、思うように運ばない自分の人生は、結構大変だった。
踏み出すのは不安がいっぱいだったけれども、あの一歩は、あのころには想像もつかないような今の自分や、多くの出会いを創り出してくれた。
しかし、人間は何か大きな試練を味わわなければ、前に進めないのだろうか。
諸行無常であることは、頭では理解できても、日常は変わらずに安定した日々を求めてしまう。
小さな一歩を踏み出して、未来を創り出すことができるのに。
そして、昨年の3月11日。
あの日は、大阪に向かう新幹線の中だった。
19000人余りの犠牲者を生んだ、東日本大震災。
ボク自身、直接の被害を受けなかった分、また「無力感」と「変わらなければならない」、そんな思いに駆られた一年だった。
誰にとってもつらい出来事ではあったけれども、被災者の皆さんや子供たちとの出会いや、アートサポートの仲間たちとのボランティアを通してのきずなもできた。
確かに、物事には、陰陽二つの側面があるとはいうものの、まだそのバランスは、陰の側面に傾いたまま。
ご縁ができた、福島県広野町は、4月から町の機能が戻るらしい。
5000人ほどの住民のうちまだ250名ほどしか戻っていないようだし、子供たちを戻していいのかどうか悩んでいる被災者の方もいる。
復興の文字が、まだその実態と歯車が十分にかみ合っていないようだけれども、それでも、一歩ずつ前に進まなければならないし。
今、ボクたちにできることは、今日も小さな一歩を踏み出すこと。
ほんの一ミリの違いを、今日創り出すこと。
黙とうとともに、今日の大阪ファイナルを迎えます。
阪神淡路大震災。
あの年は、「痛み」とか「無力感」とか、普段あまり感じられない感覚に襲われた年だった。
3月には、地下鉄サリン事件があったし、7月には、父が亡くなった。
「何かしなければいけない、変わらなければいけない」
そんな想いに駆られ、まだ具体的プランがないまま、秋にはクエスト総合研究所を設立していた。
被災者ではなかったけれども、思うように運ばない自分の人生は、結構大変だった。
踏み出すのは不安がいっぱいだったけれども、あの一歩は、あのころには想像もつかないような今の自分や、多くの出会いを創り出してくれた。
しかし、人間は何か大きな試練を味わわなければ、前に進めないのだろうか。
諸行無常であることは、頭では理解できても、日常は変わらずに安定した日々を求めてしまう。
小さな一歩を踏み出して、未来を創り出すことができるのに。
そして、昨年の3月11日。
あの日は、大阪に向かう新幹線の中だった。
19000人余りの犠牲者を生んだ、東日本大震災。
ボク自身、直接の被害を受けなかった分、また「無力感」と「変わらなければならない」、そんな思いに駆られた一年だった。
誰にとってもつらい出来事ではあったけれども、被災者の皆さんや子供たちとの出会いや、アートサポートの仲間たちとのボランティアを通してのきずなもできた。
確かに、物事には、陰陽二つの側面があるとはいうものの、まだそのバランスは、陰の側面に傾いたまま。
ご縁ができた、福島県広野町は、4月から町の機能が戻るらしい。
5000人ほどの住民のうちまだ250名ほどしか戻っていないようだし、子供たちを戻していいのかどうか悩んでいる被災者の方もいる。
復興の文字が、まだその実態と歯車が十分にかみ合っていないようだけれども、それでも、一歩ずつ前に進まなければならないし。
今、ボクたちにできることは、今日も小さな一歩を踏み出すこと。
ほんの一ミリの違いを、今日創り出すこと。
黙とうとともに、今日の大阪ファイナルを迎えます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます