表玄関の手前に、歴史の重みを感じさせる碑が建っている。
散歩の際に写真を撮ったので、碑文を紹介しようと思います。
住んでいる町のちょっとした歴史を再発見です。
※原文は本字で書かれてており、漢文調の言い回しがしてあって、慣れてない人にはわかりづらいので、読みやすい字やひらがなになおし、言い回しを現代文に意訳しています。
(原文は漢字とカタカナで、句読点はない)
嬉野海軍病院設立記念碑文
天の恵みに報い、地の利を活かし、時の求めに応じ、人の和に結びて嬉野町の発展に一時期を画したるもの実に我が海軍病院の誘致なりというべし。昭和五年七月嬉野商工会の決議により翌年三月海軍療養所を設立せられんことを当局各要路に陳情す。
たまたま、代議士佐保畢雄君期せずして当町と意見を同じくし、昭和七年五月臨時帝国議会に建議案を提出して通過を見たるを知り、提携協力してこれが実現に邁進す。
佐賀県会もまた県民の輿望として援助するところあり。それより当町は昭和十年に至るまで案を具し情をつくして政府当路にムカウべしことその幾回なるかを知らず。ついに昭和十一年五月臨時議会の協賛を経(て)同年
九月十二日起工し、翌年四月五日竣工開庁式を挙行せられ輪(一字私が解読できません)の偉容を仰ぐに至れり。星霜を(一字私が解読できません)すること前後八年一町の肝脳を挙げ総意をつくし、聊か聖代の徳澤に応え、報国の微衷を致すことを得たり。町民の慶福何物か之にしかん。ここに町会の議を経て、碑を建てこれを記念す(と、ここにいう)。
昭和十三年九月
師範学校長従五位勲五等白井敏輔撰並書
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地域の発展のために、商工会が発議したとのことだが、実に先見性があり、実効性の高い誘致であったことは、今日の医療センターの規模や、そこで働くさまざまな職種の人々、そして、この地で病気や怪我を癒すひとの多さに顕著である。
また、医師をはじめ医療関係者は転勤をされる職種であるので、この地のことを各地で語るという宣伝効果も兼ね備えている。
さすがは経済人たちの発案だと思う。
二十年以上前に、この病院に勤務されていた方から話を聞くことがあったが、その頃には、什器備品に海軍の錨マークがついたものが残っていたという。
また、別の方の話では、佐世保から波佐見を通って嬉野に入る長崎県の県道一号線は、佐世保の海軍基地から傷病兵を海軍病院へ運ぶのに便宜を図って整備されたとも聞いた。
海軍病院の名残は、敷地の境界を示す標識に今でも残っている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/72/27/d5d3b4b5c0da67da371f03ce8e5290f8.jpg)
余談だが、昨年の11月のホットホットライブ嬉野で、板橋文夫さんと共演していただいたバイオリンの太田惠資さんの母上と父上は、お互いにこの土地の方ではないのだが、この病院で医療関係者と患者として出会ったという。
この病院誘致がもたらしたものは、地域への経済効果ばかりではなく、数々のロマンも生み出しているようだ。