実家を整理したときに、明治十八年生まれで日清・日露の戦争に陸軍の薬剤官として海を渡った祖父の銃後を守った祖母が仏壇の引き出しに保管していた写真を持ち帰った。この写真は、戦後に軍の関係者に記念として配られたものであろうと想像する。
幕末維新期から明治の歴史を大人になって学びを深めたあとにこの写真を見て、鳥肌が立つほどの興奮をおぼえた。
写真に焼き付けられている、撮影の日と思われる日付は明治37年2月9日。
日露戦争の開戦の翌日だ。
想像するにこの写真は、地元で待機していた兵が招集されて配属部隊に駆け付けるところであろう。
おそらく、開戦時に士官であった祖父ら職業軍人らは部隊にいたであろうから、この写真の船には乗っていなかったであろう。
興味深いのは、当時と変わらない「常夜灯」に対し、現在の大波止付近はまだ埋め立ても建設もされておらず、石をくみ上げた小さな埠頭があるだけだ。
また、浮桟橋の設備もなく、浚渫もされていなかったのであろう、沖合の汽船に向けてハシケで移動している。
もっとも心を打ったのは、背を見せて写っている二人の男の「見えない手」の様子だ。
ひじの張り方から見て、合掌しているようにしか見えない。
この後の日本海海戦の時に、旗艦三笠に掲揚されたZ旗に込められた指令メッセージの「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」 の一文からもわかるように、この戦に敗れれば国も国民も外国の支配を受けることになるという緊迫した空気と、国を守るために戦地に向かう兵たちに向かって祈らずにはいられない切実な自然の情が伝わって来る。
このころ、福江にも、その空に「坂の上の雲」を見ていた人たちがいたのだと
、司馬遼太郎の小説世界とこの写真が心の中で重なる。
《常夜灯》
この港のそばに今でもの残る石田城(福江城)を建設する際に、当時、浜であった現在の城地の工事を容易にするために築かれた消波堤だという。