姉に借りて、よしもとばななの「アルゼンチンババア」を読みました。
母を、そして妻を亡くした家族が、人生の、というよりは生命の意味を見つめなおし、再生していく姿が描かれた話です。
電車の中で読み始めてしまったのですが、人目もはばからずボロボロ泣いてしまいました。
ストーリで泣かされたわけではありません。個人的な理由でした。主人公が、母の死んだ瞬間に立ち会ったことで、「大きな贈り物をもらった」という描写で、母の最期をあまりにも鮮明に思い出してしまったのです。
母の最期に立ち会ったのは、私一人でした。今まで、その時間について誰かに詳しく話したかどうか、覚えていません。母の死の直後、私は語ったのでしょうか。記憶がないのです。その時は、「母を亡くした」というそのこと自体の混乱も大きかったのでしょう。
「母を亡くしたこと」は、今現在にもつながる事象です。でも、「母を亡くした時間」は、あのときだけのものなのです。
あえて思い出さないように慎重に気をつかってきたそのことを思い出し、息ができないほどの胸の痛みと、溢れてくる涙によって、あの時間がどれほど強いトラウマになっているかを思い知らされました。
それは私にとって、とても「大きな贈り物をもらった」といえるものではなく、ただただ自分の無力と、深い悔恨を心に刻み付ける時間だったのです。
母が私を恨んでいないこと、私がたとえどう行動したとしても大きな形勢の違いはなかったであろうこと、私が自分を責めることが間違っているであろうこと、そういうことはわかっています。でも、後悔せずにはいられないのです。
その時間について、私は本当に鮮明に覚えています。でも今は、決して語ることができません。それでも、すでに私は笑ったり、楽しいと感じる時間をもつことができています。私に強い心を与えてくれた、母を含めた家族と、近しい人々に、感謝しています。
母を、そして妻を亡くした家族が、人生の、というよりは生命の意味を見つめなおし、再生していく姿が描かれた話です。
電車の中で読み始めてしまったのですが、人目もはばからずボロボロ泣いてしまいました。
ストーリで泣かされたわけではありません。個人的な理由でした。主人公が、母の死んだ瞬間に立ち会ったことで、「大きな贈り物をもらった」という描写で、母の最期をあまりにも鮮明に思い出してしまったのです。
母の最期に立ち会ったのは、私一人でした。今まで、その時間について誰かに詳しく話したかどうか、覚えていません。母の死の直後、私は語ったのでしょうか。記憶がないのです。その時は、「母を亡くした」というそのこと自体の混乱も大きかったのでしょう。
「母を亡くしたこと」は、今現在にもつながる事象です。でも、「母を亡くした時間」は、あのときだけのものなのです。
あえて思い出さないように慎重に気をつかってきたそのことを思い出し、息ができないほどの胸の痛みと、溢れてくる涙によって、あの時間がどれほど強いトラウマになっているかを思い知らされました。
それは私にとって、とても「大きな贈り物をもらった」といえるものではなく、ただただ自分の無力と、深い悔恨を心に刻み付ける時間だったのです。
母が私を恨んでいないこと、私がたとえどう行動したとしても大きな形勢の違いはなかったであろうこと、私が自分を責めることが間違っているであろうこと、そういうことはわかっています。でも、後悔せずにはいられないのです。
その時間について、私は本当に鮮明に覚えています。でも今は、決して語ることができません。それでも、すでに私は笑ったり、楽しいと感じる時間をもつことができています。私に強い心を与えてくれた、母を含めた家族と、近しい人々に、感謝しています。