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圧倒的な情報と軍事力を持つ陸軍が中国に勝利できなかった理由:日本陸軍と中国

2016-01-16 23:22:26 | 日記

日本陸軍と中国(戸部良一、1999年)

戦前の日本で中国に関する情報を最も広くかつ組織的に収集し、その情報の質と量の面で圧倒的優位を誇っていたのは陸軍だった。中国情報については外務省を圧倒しているという自信が陸軍を二重外交、外交介入に走らせた。

陸軍は中国情報を収集・分析する「支那通」軍人を養成した。だが、組織の中で「支那通」の地位は相対的にみて高くはなかった。軍人の本来的な職務は部隊の指揮・運用にあり、作戦畑が主流であるのに対して情報畑は傍流に過ぎなかった。中国の軍事能力に学ぶところはなく、陸大の成績優秀者は卒業すると独仏露などのヨーロッパ諸国に派遣された。情報収集の対象国としても、中国のプライオリティは低かった。陸軍の仮想敵国は一貫してロシア・ソ連であり、ソ連情報のほうが中国情報よりも重視された。このような状況の下、「支那通」となる道を選んだ軍人には中国の改革に対する思い入れの強い者が多かった。そして、中国の厳しい現実の中で改革が挫折すると、多くの者が思い入れの反作用として対中強硬政策に加担することになっていった。

陸軍軍人は中国の有力者や各地の軍閥に軍事顧問として迎えられていた。このため、日本陸軍は中国の政治・軍事情勢に強い影響力を持つこととなった。

日清戦争に敗れた後、清国政府はようやく近代化の必要に目覚め、日本をモデルとした改革を推進しようとした。清国の教育界全般にわたって日本から教官が招聘された。軍事教育の分野においても清国各地の軍学校にて多くの陸軍軍人が教官となった。有力政治家の軍事顧問となる軍人も現れた。李鴻章の死後に直隷総督兼北洋大臣となった袁世凱も日本陸軍の軍事顧問を招聘した。彼らは北洋陸軍の教育訓練にあたり、袁世凱の幕僚たちと親密な関係を持つこととなった。1911年に辛亥革命が起き、清朝が滅亡した後、中国国内は分裂し、各地に軍閥が割拠する状況となった。中国の政治は袁世凱を中心として動いたが、袁は日本陸軍からの軍事顧問であった坂西利八郎を信頼し重用した。坂西の住居は坂西公館と呼ばれ、公使館付武官室とは別の情報収集と政策運営のための陸軍の拠点となった。袁の死後も彼の幕僚だった者が北洋軍閥の実権を握ったことから、袁の下で軍事顧問を務めた軍人の影響力が衰えることはなかった。

日本は奉天省の実力者であった張作霖と関係を強化することによって満蒙の権益を維持拡大しようとしていたが、日本陸軍から派遣された軍事顧問もその中で大きな役割を果たした。

また、中国には日本陸軍の部隊が駐留し、有事に直接の実力行使が可能となっていた。軍事力を行使しない場合であっても現地に実力部隊を置いていること自体が日本陸軍に強い政治力を与えていた。

支那駐屯軍は、清国政府が北清事変最終議定書で日本を含む11カ国に対して北京の公使館区域および北京と海浜間の鉄道を保護するために12カ所に駐兵権を認めたことを根拠として、天津に軍司令部を置いていた。また、日露戦争によってロシアから譲渡された関東州租借地と南満州鉄道を守ることを目的として、関東軍が駐留していた。漢口、青島にも陸軍部隊を置いていた。

さらに、陸軍は合法・非合法の情報収集と謀略活動に従事する特務機関を中国に置いた。

陸軍にとって中国は多くのポストと権益に直結する地域となっていた。そこに国民革命軍の北伐が始まった。

孫文が1925年に死去した後、蒋介石は北方軍閥を打倒して中国全土を統一するために1926年7月に広東を出発した。国民党の国民革命軍は、9月に漢口を占領、1927年3月には南京・上海を占領したが、4月に党内の共産党員を粛清する上海クーデターが起きたため、北上はいったん停滞した。3月に南京で北伐軍による日本居留民暴行事件が発生したこともあって日本国内では中国に対する強硬論が強まり、4月に成立した田中義一内閣は居留民保護を名目として5月に青島に出兵を決定、6月に東方会議を開いて満州における権益維持を決定した。翌1928年に再開された北伐に対しては済南で日本陸軍と国民革命軍との衝突が起きたが、北伐軍は日本との本格的な軍事対決を避けつつ北上して6月には北京に入城した。

陸軍は国民党とその国民革命軍を蒋介石一派による権力私有の組織であり、軍閥の一種とみなしていた。中国人には近代国家建設の能力が欠けているという認識の下、中国民衆のために無能な軍閥を打倒するとともに、排日運動を抑えて日本の権益を維持するためには日本軍の積極的な介入が必要との考え方が支持された。そして、排日運動を抑えて日本の権益を守るために張作霖を排除すべきとの主張が強まった。1928年6月4日、関東軍参謀の河本大作は奉天近郊の南満州鉄道で張作霖を爆殺した。この事件は1931年9月の満州事変につながっていく。陸軍は満州国の成立後も、支那駐屯軍が梅津・何應欽協定で中央軍を河北省から撤退させ、関東軍も土肥原・秦徳純協定で国民党二十九軍を撤退に追い込んだ。

日本陸軍は過去の分断された中国と醜悪な軍閥抗争を知り過ぎていたが故に、中国政府の正統性を軽視し、中国軍の抗戦意志を軽侮する姿勢を取り取り続けた。1937年7月7日、盧溝橋で支那駐屯軍と紛争となり、日中全面戦争の契機となったのは、国民党二十九軍だった。陸軍は「対支一撃論」の下、北支、そして中支に戦線を拡大し、1938年には第一次近衛内閣が「爾後国民政府を対手とせず」との声明を発表したが、中国での戦争を解決することはできなかった。蒋介石はもともと日本軍との戦闘よりも共産軍の壊滅を優先しようとしていた。冷静な利益衡量、合理性の観点から言えば、国民政府は徹底抗戦するメリットはなかったのだ。だが、日本陸軍から極端な軽侮と強要を受け続け、蒋介石は中国民衆の支持を取り付ける観点からも戦争を続けざるを得なかった。中国に対する感情的な軽侮は相手政府と民衆の反発を招き、日本陸軍は交渉を行うことができなくなり、国民政府は首都を重慶に移転して抗戦を続けることとなった。

利益衡量と打算によって命を懸けることはできない。
軽侮に対する強い反発が中国政府と中国軍の強い抗戦意志となり、日本に跳ね返ってきたのだ。

モンゴルの期待と日本の背信:日本陸軍とモンゴル

2016-01-10 23:52:42 | 日記

日本陸軍とモンゴル(楊海英、2015年)

モンゴルは13世紀に世界帝国を築いたが、17世紀半ばからは満州人の清朝に帰順した。清朝は自らに服従した時期によって、ゴビ砂漠以南のモンゴルを内藩、以北のモンゴルを外藩と呼んだ。この「内藩モンゴル」と「外藩モンゴル」の呼び分けが現在の内モンゴル(南モンゴル)、外モンゴル(北モンゴル)につながっている。

清の統治下、モンゴル草原に入植してきた中国人は農耕を強引に推し進めた。しかし年間降雨量が200ミリにも満たないモンゴル高原は開墾には向かなかった。中国人の入植した土地は砂漠化し、草原は破壊され、牧畜ができなくなってしまった。モンゴル人と中国人の対立は遊牧民族と農耕民族の生活基盤を巡る争いだった。

日露戦争後、1907年に日本とロシアは第一次協商を結び、北京の経度を境界線として、境界線より東は日本の勢力範囲、西はロシアの勢力範囲とした。外モンゴルでは辛亥革命が発生した1911年にボグド・ハーンの政権が成立した。ボグド・ハーンは民族統一を実現すべく内モンゴルに進軍したが、モンゴルの自治は外モンゴルに限定し、内モンゴルについては中国の宗主権を認めるとの中国とロシアの密約によって撤退を余儀なくされた。大国間の調整により、外モンゴルはロシアの勢力範囲の中で独立国となり、内モンゴル西部は中国の宗主権が認められ、内モンゴル東部は実質的に日本の勢力範囲と区分けされた。1924年、外モンゴルはソ連型社会主義のモンゴル人民共和国となった。

内モンゴルでは中国からの独立運動が続いた。1925年には内モンゴル人民革命党が組織され、民族の独立と統一を目標とした。20世紀前半、アジア各地では西欧列強の植民地支配に対して民族自決を求める運動が巻き起こったが、モンゴルでは敵は中国だった。モンゴル人の中には民族独立の夢を実現するため、日本の陸軍士官学校に留学する者もいた。陸軍は士官学校でモンゴルからの留学生を中国人と同視して「中華隊」に編入した。モンゴル人の敵が中国人であり、その敵を倒すために日本と結ぼうとしていることを理解しようとしなかったのだ。

当初、日本陸軍はモンゴルの民族主義者を支援する動きをみせていた。だが、民族の独立を求めるモンゴル人と日本の支配地域を拡大しようとする日本陸軍では根本的にその目標が全く異なっていた。満州国で興安北省の省長に任命された凌陞は中国からの独立を目標として日本に期待をかけていた。だが、満州国の政策はモンゴル人の期待に反するものだった。日本は「無人の黒土」に開拓民を送り込んだが、この発想は遊牧民の存在を無視する中国人の動きと全く同じだった。凌陞は日本の開拓団の入植に抵抗して関東軍の反感を買った。1936年3月の興安四省の省長会議では日本側の政策を激しく批判し、日本語を満州国の国語にする政策や開拓団の草原への入植に反対した。「満州国のモンゴル人には実権が与えられていない。すべての権力は日本人に握られている。日系の役人はモンゴル語もわからないし、モンゴル社会の実情にも暗いので自治なんかできていない。日本語の公文書はモンゴル人にはわからない。」凌陞は会議後に逮捕され処刑された。凌陞処刑後、満州国軍高級参謀の花谷正少将は宣言した。「これからモンゴル独立云々と主張する者は、誰だろうと、反満抗日の罪で対処する。」

日本人とモンゴル人の差別待遇も不和の原因となった。モンゴル人の軍人を養成するために設立された興安軍官学校の生徒がノモンハンに出征した。「日系軍官はいつも飲んで食ってばかりだった。恩賜もモンゴル人兵士にはまったく配られないし、モンゴル人将校も日本人の半分だった、艱難困苦と生死を共にしているという気持ちは瞬時になくなった。モンゴル人兵士たちはそこから日系軍官を恨むようになった。これがノモンハンでの敗戦の最大の原因である。」

満州国軍の中で日本人は他民族を蔑視し、一方的な服従を強いた。日本に期待し、優秀な軍人となった者ほどその不条理に激怒していた。日本に6年間生活し、陸軍士官学校を卒業し、エリートコースを歩んでいたジョンジョールジャブは軍管区の実力者として対ソ最前線に立っていたが、日本人は口先では五族協和を唱えながらも、権力の中枢にモンゴル人が近づくことを許さなかった。

1945年8月、ソ連軍が満州に侵攻すると、8月11日にモンゴル軍のジョンジョールジャブ参謀長はモンゴル軍を指揮して部隊内の日系将校38名を処刑した。

日本は民族独立を熱望するモンゴル人の期待に背き、その力を取り込むことができなかった。
日本人の仲間内で権力を維持したいという考え方を捨てない限り、日本は世界を動かすことができないだろう。

現代的なショッピングモールを徘徊する宗教警察:サウジアラビア

2016-01-09 15:38:21 | 日記

サウジアラビア(保坂修司、2005年)

日本は原油を中東から80%強、ロシアから10%弱、インドネシア・ベトナムなどから10%を輸入している。国別でみるとサウジアラビアからの輸入が全体の約30%を占めており、日本の最大の原油輸入先となっている。アメリカや欧州にとっても中東そしてサウジアラビアからの原油輸入は重要であるが、アメリカは原油自給率が高く、欧州はロシアを含む旧ソ連諸国とノルウェーからの原油輸入比率が高い。これに対し日本は原油調達先の多様化が進んでおらず、原油自給率もほとんどゼロであって、中東とりわけサウジアラビアへの依存度は高い。

日本にとって極めて重要なサウジアラビアという国の内情はあまり知られていない。サウジアラビアに観光目的で入国することは不可能だ。ビジネス目的でビザを取って入国するか、イスラム教徒として聖地メッカを巡礼のために訪問するしかないが、日系企業でサウジアラビアに進出しているのは石油関連企業程度で、訪れる機会もほとんどない。

サウジアラビアはその国名の通りサウード家が統治する国家で、内務、外務、国防といった重要ポストはほぼ例外なく王族が独占している。石油以外に主たる産業をもたない典型的な石油依存型経済であり、石油によって財政収入の大半を賄い、個人所得税は存在しない。サウジアラビアの行政機関は基本的に石油収入を分配するだけのためにつくられており、国民は税金を支払わなくても福祉、教育などで潤沢な恩恵を受けることができる。行政サービスはサウード家から国民に対する「下賜」ともとらえられている。

ワッハーブ派イスラム教に基づく厳格な統制も続いている。

サウジアラビアには勧善懲悪委員会、いわゆる宗教警察が政府機関として存在し、多くのサウジアラビア国民から恐れられているとともに嫌悪されている。数千人の職員とボランティアがムスリムにイスラムの戒律を遵守させるため市街を巡回し、ショッピングモールで服装規定に違反して髪の毛を露わにした女性がいれば公衆の面前で鞭で打ちつけることもある。ワッハーブ派として「もし不正を見つけたならみずからの手で正さなければならない」という預言者言行録(ハディーズ)に従って行動しているのだ。2002年のメッカ女子高校火災事件では、火災現場で宗教警察がアバー(黒い外套)を着用していない女子高生を見つけるとアバーを燃え盛る校舎まで取りに行かせるとともに、消防や救急が女子高生と接触しないように校舎への立ち入りを妨害したため、多くの死傷者を生むこととなった。

サウジアラビアでは教育は「ムスリムの信仰と矛盾するあらゆる制度・原理を廃することによってイスラムの信仰に忠実な精神を養い」「コーランとハディースを学び暗記することにより、それらを護持する」ことが目的とみなされている。「科学的な思考法を養う」目的は「大宇宙におけるアッラーの奇跡を知覚する」ためである。数学や科学、さらには社会科学系の教科もすべてイスラムに従属している。イスラムに関する教科が他の教科以上に重視され、教員も宗教教育を受けた者が重用される。小学校の全授業時間の約3分の1、中学でも週34時間中8時間が宗教教育の時間によって占められている。

サウジアラビアの宗教教育は「自分たちだけが真のムスリムである」という独善的な色彩が強い。シーア派やスーフィー(イスラーム神秘主義者)だけでなく、サウジ人と同じスンニ派のムスリムであってもサウジ人と同じ行動を取らない者も、真のムスリムとはみなされない。また、異教徒に対する敵意・嫌悪が強い。一般的なイスラームの教義ではユダヤ教徒・キリスト教徒は「啓典の民」と呼ばれ、仏教のような多神教と異なり、イスラーム社会の中で特別の地位を与えられる。しかし、サウジの教科書ではユダヤ教徒とキリスト教徒は多神教徒と同列に扱われ、挨拶することも友人になることも許されず、ジハードの対象になってしまう。

サウジ人が中学3年生で倣う「岩と木」の物語では、預言者ムハンマドの以下の言行が取り上げられている。「最後の審判の日はムスリムがユダヤ教徒と戦い、彼らを殺すまではやってこない。そのときユダヤ教徒が岩や木の背後に隠れると、岩や木はムスリムたちに呼びかける。『ムスリムよ、アッラーの僕よ。我が背後にユダヤ教徒が隠れておるぞ。早く来て殺すがいい』。」
高校1年生の教科書にはフランス革命も共産主義もユダヤ人の陰謀だといった説が紹介されている。

預言者ムハンマドの死とともに、預言者や預言者と親しく行動を共にした者の正しい行動や言葉が忘れられ、コーランやハディースに根拠を持たない新たな習慣によって社会が穢されているとの考え方が繰り返され、現実の世界が穢されているのは、ユダヤ人やキリスト教徒、さらにはムスリムの中の裏切者のせいであるという被害者的歴史観から、欧米、西洋を拒絶しようとする。「国民」や「民族」といった欧米起源の概念も神の法からの逸脱とされる。共産主義や世俗主義、資本主義は無神論として扱われ、アラブ民族主義でさえ「ジャーヒリーヤ(イスラーム以外の無明時代)への復帰」であり、排除しなければならないと教えられるのだ。

1990年の第一次湾岸戦争に伴いアメリカ軍がサウジの国土に駐留するようになると、一部のイスラム教指導者から「イラクがクウェートを占領したというのならアメリカはサウジを占領している。真の敵はイラクではなく西側である。」との意見が表明された。最高ウラマー会議も「現状の必要性によって命じられたもので苦しい現実によって不可避のものである」との弁解気味の声明しか出せなかった。

イスラム教原理主義的な教育がジハーディストを生んだ。イスラム過激派はイラクがクウェートから撤退した後も続くアメリカ軍のサウジ駐留を「十字軍による聖地占領」と非難した。預言者ムハンマドの「アッラーが望み給い、もう少し長生きできるなら、私はアラビア半島からユダヤ人とキリスト教徒を駆逐するだろう」との遺言が引用された。2001年9月11日のテロでは、19人のハイジャック犯のうち実に15人がサウジアラビア人だった。サウジアラビアはイスラム原理主義、オサマビンラディン、アルカイダの祖国となった。

9・11後には政治体制の改革や教育カリキュラムの修正も行われ「普通の国」との格差は多少は縮小してきているものの、強い宗教戒律の下でサウード家が支配する絶対王制国家であるサウジアラビアの異質性は本質のところでは何も変わっていない。

サウード家は権力を独占し、石油収入を分配し「下賜」することによって国民を慰撫してきた。宗教界がサウード家が支配する国家体制に正統性を与え、国民は石油収入の分配を受けることによって現体制を支持してきた。
現在、原油価格の下落がサウジアラビア経済を直撃している。本来であれば国民に負担の増加を求めるべきではあるが、サウジアラビアの権力構造の下ではその実施は容易ではない。いったん「下賜」体制が崩れれば、イスラム教原理主義的な勢力が急激に力を付け、最悪の場合にはサウジアラビアを支配することさえ考えられないことではない。

日本が最大の原油輸入先として依存しているサウジアラビアは極めて脆い基盤の上に成り立っている絶対王制国家である。

幻想の日米同盟に期待し過ぎると尖閣紛争で実際に起きる事態に過度に失望しかねない

2016-01-02 23:16:54 | 日記

仮面の日米同盟(春名幹男、2015年)

領土紛争は当事国間の過去の歴史と国民感情から発生する。過去の歴史的事実にしても複数の解釈が存在し、どちらがの国の主張が正しいと言い切れないことも多い。第三国が当事国一方の主張に巻き込まれてしまうと、もう一方の当事国との外交関係と友好関係に致命的な打撃を与えかねない。このため、明らかに一方の主張が非常識なケースを除き、どの国も他国の領土紛争からはできるだけ距離を置こうとする。自国にとって領土紛争の結末に大きな利害関係がなく、一方で戦争にヒートアップするリスクが大きいようなケースであれば、特にその紛争に巻き込まれないように慎重に行動しようとするだろう。

アメリカにとって中国とは緊密な関係を保たなければならず、また、日本は日米安保条約による同盟国となっている。アメリカが日中間の領土紛争に巻き込まれたくないと考えるのも当然といえよう。

アメリカは沖縄返還の際に尖閣諸島の主権(領有権)に深入りすることを注意深く避けた。1951年のサンフランシスコ平和条約第3条でアメリカは尖閣諸島を含む琉球諸島の「唯一の施政権者」となったが、沖縄返還協定ではサンフランシスコ条約で得た「施政権」をそのままアメリカから日本に移転することだけを規定した。日本政府は、アメリカ統治期間中も日本が潜在的主権を維持していたため、施政権がアメリカから日本に返還されることによって完全な主権が回復されたと解釈した。だが、沖縄返還協定には「主権」や「潜在的主権」に関する規定はない。尖閣諸島については、地図上の地域によって日本がアメリカから「施政権」の移転を受けたことは明確であったが、中国・台湾が尖閣諸島の「領有権」を主張する余地は残された。

尖閣諸島への日米安保条約適用については、2004年のブッシュ政権時代に、尖閣諸島は1972年の沖縄の施政権返還により日本の施政下にあり、日米安保条約第5条は日本の施政下にある地域に適用されるため、安保条約は尖閣諸島に適用される、とのアメリカ政府のスタンスが表明されていた。だが、オバマ政権は結論部分である「安保条約は尖閣諸島に適用される」の部分について「安保条約は尖閣諸島に適用されるのですかとの質問を受けた場合にはイエスと答える」と微妙にその立場を弱めた。2010年8月にこの僅かな政策変更が報道された後、翌月の9月には尖閣諸島沖で中国漁船が海上保安庁の巡視船に体当たりする事件が起きた。この事件を受けて同年10月にアメリカは変更前の「安保条約は尖閣諸島に適用される」とのスタンスに政策を戻している。

それでは尖閣諸島で実際に紛争が起きた場合にアメリカ軍はどのように行動するのか。

日米安全保障条約第5条は「各締結国は日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従って共通の危険に対処するように行動することを宣言」している。ただ、中国が尖閣諸島の領有をはかる場合、上陸するのは中国の正規軍ではなく「武装(偽装)漁民」であろう。一般論として安保条約第5条が尖閣諸島に適用されるとしても、グレーゾーンである「漁民」の尖閣諸島への上陸は日本に対する組織的な「武力攻撃」とはみなされず、安保条約の発動には至らないだろう。また、新ガイドラインにおいても、自衛隊及び米軍は「それぞれの作戦(bilateral operation)」を実施し、自衛隊は日本を防衛するための「第一次的な責任を負い(have primary responsibility)」、米軍は自衛隊の作戦を「支援し追加するための(to support and supplement)」作戦を実施することになっているに過ぎない。

領土紛争は当事国が対応するしかない。

幻想の日米同盟に期待し過ぎると実際に起きる事実に過度に失望しかねない。

屈辱の歴史に向き合うために朝鮮民族が必要とする「強制性」の神話:帝国の慰安婦

2016-01-01 23:27:40 | 日記

帝国の慰安婦(朴裕河、2014年)
2015年11月、ソウル東部検察庁は本書の内容が元慰安婦の名誉を棄損したとして著者を在宅起訴している。

朝鮮人は日本人から激しい差別を受けていた。その一方で、軍の占領地で朝鮮人は「日本人」として現地人を差別する立場にあった。

朝鮮人慰安婦は「日本人」社会の最下層にあった。「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮人女性がよくやるポーズである。占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性。」
差別を受けながらも、彼女らはあくまでも「準日本人」としての「大日本帝国」の一員であった。
日本人の慰安婦が将校、御用商人、国策会社の幹部を「絹布団で相手している」とき、朝鮮人慰安婦は「前線の土と泥で出来た住民の家の火の気もないアンぺラ床」や「もっと前線の陣地の銃眼のあるトーチカのなか」で「南京虫に攻められ、ときに敵襲に脅かされながら、下級の兵士たちの底知れぬ旺盛な欲望にこたえて」いた。「彼女らが部隊を追い行動するときは洋装が普通だった。もっとも洋装と言っても木綿のワンピースかスーツだったという。これに晴れ着や身の回りの品を詰めたトランクを持ち兵隊と一緒に歩いていた。湿地帯を歩くとき、または渡河のさいは褌ひとつになる兵隊の横で裾を腰までからげていたという。兵隊と条件はまったく同一である。」「朝鮮人慰安婦と日本人兵士は、双方とも、戦争のための国民動員という国家システムの中で動かされた将棋の駒だった。」

日本統治下に生きた韓国人の世代は自分たちが差別される一方で差別していた現実を理解していた。だが、先進国となった現代の韓国国民は、自分たちの先祖が大日本帝国に自発的に協力していた屈辱の歴史を認めたくない。強制連行の「事実」は韓国でどうしても必要とされ、守らなければならない神話となった。ソウルの日本大使館前に作られた少女像は純真な朝鮮民族が日本軍国主義の一方的な暴力の餌食となったことを象徴している。

もちろん、朝鮮人慰安婦について「軍人による強制連行」がなかったことは事実である。事実は事実として認識合わせを行い、世界に対して正しい事実を主張しなければならない。
だが、正しい事実を叫んでいるだけでは十分ではない。われわれは、差別を受けつつも「日本人」として差別を行っていた過去の朝鮮民族の悲しい現実、そしてその屈辱の歴史に向き合うために作り出された「強制性」の神話を理解することも必要だ。

世界が自分の思い通りに動くことはない。各個人と同じように、各国もそれぞれ屈辱の歴史をもっている。韓国だけでなく、日本も、そしてどの国も過去の恥ずかしい事実を解釈するための「神話」を守ろうとする。

上から目線の議論は生産的ではない。相手の苦悩を理解し、その内在的論理を踏まえて議論を進める。
日本が安定した国際環境を自ら作り出すためには、このような努力が必要だろう。