アメリカ外交50年(ジョージ・ケナン、1951年)
イギリスは伝統的に欧州大陸の勢力均衡政策を取ってきた。地政学的にいえば、欧州大陸がただ一つの陸軍強国によって支配され、欧州大陸の覇権国が海洋勢力の力の及ばない大陸内部の巨大な資源を活用し、陸軍強国だけでなく海軍強国にもなって、海洋勢力イギリスに敵対するような事態を防止しようとしたのだ。イギリスの世界覇権は全世界の要地に散在する植民地に支えられていたが、植民地支配を成り立たせるためには海洋支配力を維持することがどうしても必要だった。
19世紀から20世紀にかけてのアメリカにとっても、西欧列強のうちのいずれかの国が圧倒的な覇権を握って西半球に干渉してくる事態は避けなければならなかった。安全保障上の観点からも通商上の観点からも、欧州大陸での勢力均衡というアメリカとイギリスの利害は一致していた。イギリスにとっても、カナダという「人質」の存在もあり、アメリカとの友好関係維持は必須の命題だった。
アメリカはイギリスの海軍力と欧州大陸における勢力均衡政策によって守られていた。
だが、アメリカ人はその安全な地位にあまりにも慣れ過ぎ、自らの安全が欧州の勢力均衡に依存していることを意識しなくなっていった。そして、アメリカの地位を旧世界の浅ましい争いに関与しないというアメリカの優れた知性と徳性の結果であると誤認するようになった。アメリカ外交の法律家的・道徳家的アプローチは、地理的に欧州列強と大西洋によって隔絶された位置にあり、イギリスの海洋覇権に守られ、利害関係と厳しい現実を考慮する必要のない環境の下で、理想主義的に唱えられたものだった。
1898年の米西戦争の結果として獲得したフィリピンやプエルトリコは、将来的に州への昇格が全く考えられず、むしろ無期限に植民地としての従属的な地位が続くと想定された初めての領土だった。膨張主義者は新領土の獲得は「明白な運命」であり、われわれは文明国およびキリスト教国として、無知にして迷える住民を更生させる義務があると唱えた。
日清戦争後、列強は中国分割を進めていた。ロシアは旅順の海軍基地と大連の商港、ドイツは膠州湾と山東半島を勢力範囲とし、フランスはその勢力範囲を仏領インドシナから北上させつつあった。これに対し、国務長官のジョン・ヘイが通商上の機会均等と中国の領土と行政の保全を求めて宣言した門戸開放政策は、アメリカ国内で道徳的な外交の勝利ととらえられた。「中国における門戸開放政策はアメリカ的思考に基づくものであり、他の諸国が実行していた勢力範囲に対抗して立案されたものである。門戸開放はアメリカの外交上最も賞揚されるべきエピソードの一つであり、博愛的衝動が外交折衝上の行動力と抜け目ない手腕を伴った実例である。」
イギリスは歴史的に中国貿易で他国を圧倒してきた。一時は全貿易に占めるイギリスのシェアが80%に達するほど、競争上有利な地位にあった。このため、イギリス商人は常に中国における門戸開放、すなわち、関税上の取り扱い、港湾税その他、消費物輸入などにおける機会均等を擁護してきた。商業貿易が中国との関係で中心となっていた時代、主な障害となったのは中国奥地の地方官憲との関係だった。イギリス商人は長い間自国の政府に対して、外交的慣例と北京の中央政府を無視して中国奥地に入り込み、砲艦で河川を遡って、中国の役人に商品の移動を阻む障害や課税などを取り払わせるように要求してきた。
だが、中国における列強の関心事項が商業貿易から鉄道建設や鉱山開発などの産業利権になってくると、門戸開放原則はその重要性を弱めていった。各列強は自国の利権を集中し、かつ他国の利権を排除できる地域を勢力圏として作り上げようとした。イギリスも中国貿易の中心地である揚子江流域を自身の勢力範囲とするとともに、渤海湾に海軍基地を持ったロシアがイギリスの海上支配に対抗することを恐れて日本も含め各国と協力して自国の中国利権を守ろうとした。
商業貿易時代の門戸開放政策は産業利権と勢力範囲画定の時代にはそぐわなくなっていた。イギリスが門戸開放主義を唱え続けていたのは、商業貿易が依然として産業利権とならぶイギリスの重要な中国利権であったこと、そして通商上の門戸開放原則が一般的に遵守されれば各列強の勢力範囲における他国排斥的な動きにある程度の歯止めがかけられるのではないかと期待していたからだった。
門戸開放宣言はアメリカ国内で「中国で不当なふるまいに出ようとしていた欧州列強がアメリカの時宜を得た干渉によって阻止され挫折させられた輝かしい外交的勝利」として歓迎され、ヘイは偉大な政治家として名声を高め、政府の外交政策に対する世論の支持は著しく高まった。ヘイの政策が何ら具体的な成果をもたらさなかったこと、この政策に対してヘイおよびその他の関係者が幻滅感を持ったこと、また後になってアメリカ自身がこの政策から逸脱することになったことなどの事実は無視され、門戸開放主義は一つの神話としてアメリカの外交原則となっていった。
門戸開放と中国の領土的行政的保全は、1941年の日米交渉そしてハルノートに至るまで、一貫したアメリカ政府の主張となった。アメリカは列強に対してこれらの原則の遵守を繰り返し要求した。だが、門戸開放だけでなく、中国の領土的行政的保全も現実の中国に具体的に向き合った者からみると実現性に乏しいといわざるをえなかった。中国の領土的行政的保全という主張は中国が十分な国家体制を整えていることを前提とするものだったが、現実の中国には十分な行政機能が存在しなかったからである。当時の中国政府の持っていた行政能力と技術では鉄道や鉱山に対して適当な行政的保護を行うことができず、産業利権を持つ者が自ら利権を保全せざるをえなかった。中国の司法制度も外国人の目から見ると信頼できる存在とはなっていなかった。
政治的原則としての門戸開放、領土保全主義は、共に外交政策の基礎として役立ちうるには明確な意義を欠いていた。アメリカ政府から要請を受け意見を求められた外国政府は「ええ、貴方がそういわれるなら、われわれとしてももちろん賛成しますよ」と答える以外何もできなかった。アメリカ側は、日本の膨張する人口と国内の経済状況、脆弱な中国政府と反日運動などの問題には向き合おうとしなかった。
現実のアメリカ外交はこの法律家的・道徳家的アプローチ、信条外交によって進められた。アメリカは東アジアを法律的そして道徳的に是正しようとする努力は行ったが、安定と平和を実現しようとする観点にあまりにも欠けていた。そして、日本側では、アメリカの信条外交への思想戦と世論戦への努力があまりにも欠けていた。