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門戸開放と領土保全というアメリカ信条外交の歴史:アメリカ外交50年

2016-02-14 13:18:06 | 日記

アメリカ外交50年(ジョージ・ケナン、1951年)

イギリスは伝統的に欧州大陸の勢力均衡政策を取ってきた。地政学的にいえば、欧州大陸がただ一つの陸軍強国によって支配され、欧州大陸の覇権国が海洋勢力の力の及ばない大陸内部の巨大な資源を活用し、陸軍強国だけでなく海軍強国にもなって、海洋勢力イギリスに敵対するような事態を防止しようとしたのだ。イギリスの世界覇権は全世界の要地に散在する植民地に支えられていたが、植民地支配を成り立たせるためには海洋支配力を維持することがどうしても必要だった。

19世紀から20世紀にかけてのアメリカにとっても、西欧列強のうちのいずれかの国が圧倒的な覇権を握って西半球に干渉してくる事態は避けなければならなかった。安全保障上の観点からも通商上の観点からも、欧州大陸での勢力均衡というアメリカとイギリスの利害は一致していた。イギリスにとっても、カナダという「人質」の存在もあり、アメリカとの友好関係維持は必須の命題だった。

アメリカはイギリスの海軍力と欧州大陸における勢力均衡政策によって守られていた。

だが、アメリカ人はその安全な地位にあまりにも慣れ過ぎ、自らの安全が欧州の勢力均衡に依存していることを意識しなくなっていった。そして、アメリカの地位を旧世界の浅ましい争いに関与しないというアメリカの優れた知性と徳性の結果であると誤認するようになった。アメリカ外交の法律家的・道徳家的アプローチは、地理的に欧州列強と大西洋によって隔絶された位置にあり、イギリスの海洋覇権に守られ、利害関係と厳しい現実を考慮する必要のない環境の下で、理想主義的に唱えられたものだった。

1898年の米西戦争の結果として獲得したフィリピンやプエルトリコは、将来的に州への昇格が全く考えられず、むしろ無期限に植民地としての従属的な地位が続くと想定された初めての領土だった。膨張主義者は新領土の獲得は「明白な運命」であり、われわれは文明国およびキリスト教国として、無知にして迷える住民を更生させる義務があると唱えた。

日清戦争後、列強は中国分割を進めていた。ロシアは旅順の海軍基地と大連の商港、ドイツは膠州湾と山東半島を勢力範囲とし、フランスはその勢力範囲を仏領インドシナから北上させつつあった。これに対し、国務長官のジョン・ヘイが通商上の機会均等と中国の領土と行政の保全を求めて宣言した門戸開放政策は、アメリカ国内で道徳的な外交の勝利ととらえられた。「中国における門戸開放政策はアメリカ的思考に基づくものであり、他の諸国が実行していた勢力範囲に対抗して立案されたものである。門戸開放はアメリカの外交上最も賞揚されるべきエピソードの一つであり、博愛的衝動が外交折衝上の行動力と抜け目ない手腕を伴った実例である。」

イギリスは歴史的に中国貿易で他国を圧倒してきた。一時は全貿易に占めるイギリスのシェアが80%に達するほど、競争上有利な地位にあった。このため、イギリス商人は常に中国における門戸開放、すなわち、関税上の取り扱い、港湾税その他、消費物輸入などにおける機会均等を擁護してきた。商業貿易が中国との関係で中心となっていた時代、主な障害となったのは中国奥地の地方官憲との関係だった。イギリス商人は長い間自国の政府に対して、外交的慣例と北京の中央政府を無視して中国奥地に入り込み、砲艦で河川を遡って、中国の役人に商品の移動を阻む障害や課税などを取り払わせるように要求してきた。

だが、中国における列強の関心事項が商業貿易から鉄道建設や鉱山開発などの産業利権になってくると、門戸開放原則はその重要性を弱めていった。各列強は自国の利権を集中し、かつ他国の利権を排除できる地域を勢力圏として作り上げようとした。イギリスも中国貿易の中心地である揚子江流域を自身の勢力範囲とするとともに、渤海湾に海軍基地を持ったロシアがイギリスの海上支配に対抗することを恐れて日本も含め各国と協力して自国の中国利権を守ろうとした。

商業貿易時代の門戸開放政策は産業利権と勢力範囲画定の時代にはそぐわなくなっていた。イギリスが門戸開放主義を唱え続けていたのは、商業貿易が依然として産業利権とならぶイギリスの重要な中国利権であったこと、そして通商上の門戸開放原則が一般的に遵守されれば各列強の勢力範囲における他国排斥的な動きにある程度の歯止めがかけられるのではないかと期待していたからだった。

門戸開放宣言はアメリカ国内で「中国で不当なふるまいに出ようとしていた欧州列強がアメリカの時宜を得た干渉によって阻止され挫折させられた輝かしい外交的勝利」として歓迎され、ヘイは偉大な政治家として名声を高め、政府の外交政策に対する世論の支持は著しく高まった。ヘイの政策が何ら具体的な成果をもたらさなかったこと、この政策に対してヘイおよびその他の関係者が幻滅感を持ったこと、また後になってアメリカ自身がこの政策から逸脱することになったことなどの事実は無視され、門戸開放主義は一つの神話としてアメリカの外交原則となっていった。

門戸開放と中国の領土的行政的保全は、1941年の日米交渉そしてハルノートに至るまで、一貫したアメリカ政府の主張となった。アメリカは列強に対してこれらの原則の遵守を繰り返し要求した。だが、門戸開放だけでなく、中国の領土的行政的保全も現実の中国に具体的に向き合った者からみると実現性に乏しいといわざるをえなかった。中国の領土的行政的保全という主張は中国が十分な国家体制を整えていることを前提とするものだったが、現実の中国には十分な行政機能が存在しなかったからである。当時の中国政府の持っていた行政能力と技術では鉄道や鉱山に対して適当な行政的保護を行うことができず、産業利権を持つ者が自ら利権を保全せざるをえなかった。中国の司法制度も外国人の目から見ると信頼できる存在とはなっていなかった。

政治的原則としての門戸開放、領土保全主義は、共に外交政策の基礎として役立ちうるには明確な意義を欠いていた。アメリカ政府から要請を受け意見を求められた外国政府は「ええ、貴方がそういわれるなら、われわれとしてももちろん賛成しますよ」と答える以外何もできなかった。アメリカ側は、日本の膨張する人口と国内の経済状況、脆弱な中国政府と反日運動などの問題には向き合おうとしなかった。

現実のアメリカ外交はこの法律家的・道徳家的アプローチ、信条外交によって進められた。アメリカは東アジアを法律的そして道徳的に是正しようとする努力は行ったが、安定と平和を実現しようとする観点にあまりにも欠けていた。そして、日本側では、アメリカの信条外交への思想戦と世論戦への努力があまりにも欠けていた。

専守防衛・同盟依存・国内政争:フランス第三共和制の興亡

2016-02-13 13:50:26 | 日記

フランス第三共和制の興亡1(W・シャイラー、1969年)

フランスは第一次大戦にかろうじて勝利したものの、国内は戦場となり膨大な戦死者を出して国力は大きく疲弊した。フランス国内では資本家と労働者、右翼と左翼が対立し、政局は不安定な状況が続いた。第一次大戦から第二次大戦までの戦間期、フランス第三共和制の内閣は約六ヶ月ごとという極めて短いサイクルで入れ替わった。

フランス軍将校も一般市民も、文明的で平和的なフランスが他国を攻撃する考えなど持たないことを誇りにしていた。フランスは攻撃兵器を必要とせず、防衛だけが関心事であり、マジノ要塞を構築することによって安全になったと一人合点していた。次の戦争ではマジノ線によって防衛側に大きな人命の損失なくドイツ軍を阻止できるとの想定は、第一次大戦で疲れ果てたフランス国民に心地良く受け入れられた。フランス軍は戦車や飛行機の発達によって生じた戦争形態の革命的な変貌に目を閉じ、マジノ線の背後で防衛に徹するという戦略を墨守した。老齢の将軍がフランス軍の指導層を占め続けた。

フランスの外交政策はドイツの復讐に対する恐怖で支配されていた。1933年1月にナチスドイツが政権を握り、1935年3月にベルサイユ条約軍備制限条項を廃棄して徴兵制による再軍備を始めると、ドイツの脅威は切迫したものと感じらるようになった。フランスは人口でドイツに圧倒されており、独力でドイツに対抗することは難しかった。1939年に欧州で再び戦争が始まったとき、ドイツの20歳から34歳までの男性人口が九百万人であったのに対してフランスは四百万人に過ぎなかった。

ドイツと対抗するためには、東方でドイツを抑制しうる軍事力と経済力を備えた唯一の国であるソ連と同盟関係を結ぶことが最も重要だった。また、ドイツにラインラントの非軍事化を遵守させ、ドイツの奇襲を防止するとともに、フランスと同盟を結んだポーランド、チェコスロバキアがドイツの侵略を受けた際にフランス軍が迅速にルール工業地帯を占領可能として、軍事力を背景としたフランスの同盟戦略に実効力を持たせなければならなかった。このほか、イタリアを反ドイツ陣営に引き込むか少なくとも中立化すること、マジノ線による防御戦略を捨ててドイツ軍がいかなる方向から攻撃を仕掛けてきても対抗できる陸軍力を整備することも必要と思われた。
だが、フランス政界の有力者はイデオロギー的な信条からソ連との同盟という考え方に冷淡だった。ヒトラーが東方への膨張を志向する限り、ナチスドイツとの宥和をはかることを選んだのである。これはフランスだけでなく、イギリスの保守層にも一般的な思考法だった。フランスはイギリスとの共同によってドイツと対抗しようとしたが、イギリスはたびたび宥和政策を成功させるためにフランスにも同様の宥和政策を取らせようとした。

振り返って考えると、ヒトラーのラインラント進駐はドイツの侵略を止めうる重大なポイントだった。だが、フランスもイギリスも武力で対抗する意志をもっていなかった。
ドイツはベルサイユ条約によってライン川両岸地帯に軍隊または要塞を置くことを禁止されていたが、1936年3月7日、ヒトラーはこの合意を無視してラインラントにドイツ軍を進めた。「我々はヨーロッパにおいてなんらの領土的要求も持っていない。ドイツは決して平和を破らないであろう。」
フランス政府は1年以上前からドイツ軍のラインラント進攻準備情報を持っていたが、実効ある対応は行わなかった。3月7日当日夕刻、政府・軍首脳の懇談によって決められたことは国際連盟への提訴だけだった。
何事も激しい政争の対象とする新聞各紙も戦争の恐れのあることは一切しないとの主張では一致していた。極右紙は「われわれはソビエトとともにヒトラーに向かって進撃する必要はない」と書き、数日にわたって我々は戦争を欲しないと繰り返した。右翼紙はヒトラーのラインラント進駐に抵抗するのはロシアのボルシェビキの利益に奉仕するだけだと書き立てた。左翼紙もドイツの行為にある程度の理解を示すことが必要だと説諭した。「六千万以上の人口を擁する大国が戦後十七年もその領土の一部を非武装化したままでおくと考えるのはばからしいことである。ヒトラーは条約を引き裂き、すべての約束を破ったが、同時に平和とジュネーブについて語っている。我々は彼をその言葉通りに受け取らねばならない。」
3月8日、政府は「われわれはストラスブールをドイツの砲火にさらすだけの準備ができていない」と述べ、結果としてドイツの行為を黙認した。

フランスでは当時、人民戦線派が選挙に勝利し、工場占拠ストが起き、同年6月には社会党のブルムが共産党の閣外協力を得て人民戦線内閣を成立させるなど、国内における左右両極の抗争が激化していた。社会主義の脅威も現実のものとして感じられていた。国内での政争が武力で迫るドイツに対抗しなければならないという危機感よりも優先された。

続いて起きたのはドイツによるオーストリア併合だった。1938年に入りヒトラーはオーストリアのシュシュニク首相を恐喝してオーストリアをドイツの支配下に置く具体的な工作を進めていた。フランスはヒトラー・シュシュニク会談とドイツの計画について十分な情報を得ていた。ドイツがオーストリアを併合した場合、チェコスロバキアは三方からドイツに包囲されることになってこれまで構築してきた要塞線が役立たなくなり、チェコスロバキアの防衛が極めて困難になることは明白だった。だが、3月11日から12日にかけてドイツ軍はオーストリアに侵攻した時、フランスでは政府が存在しない状態になっていた。その前日の3月10日にショータン急進党内閣が総辞職していたのだ。ドイツ軍のオーストリア侵攻はフランスの新内閣組閣よりも速いスピードで進んだ。社会党のブルムは挙国一致内閣を目指したが右翼政党の反対により成功せず、13日に第二次人民戦線政府を組閣した。イギリスのチェンバレン内閣もドイツのオーストリア併合に対して書面での抗議しか行わなかった。

ブルムの第二次人民戦線内閣は1ヶ月しか持たなかった。次のダラディエ内閣で外相に就任したのはジョルジュ・ボネだった。彼は熱烈に平和を欲し、いかなる犠牲を払ってでもフランスが戦争に巻き込まれることを回避しようとした。ヒトラーの野心の行く手に横たわる国の犠牲によってでも自国の平和を保とうとしたのだ。ズデーデンドイツ人の自治権を獲得するためには「いかなる戦争も、世界戦争も辞さない」と語るヒトラーに対し、ドイツとの戦争の恐怖で思考停止に陥ったフランスとイギリスは1938年9月にナチスドイツとミュンヘン協定を結んでチェコスロバキアを見捨て、さらに退却した。

1939年9月、ナチスドイツのポーランド侵攻後、フランスはポーランドの同盟国としてドイツに最後通牒を手渡し、戦争状態に入った。フランス国内では何の喚声も起きなかった。中央党の領袖フランダンは、ドイツの行為が侵略であるか否かはまず国際連盟が決定すべきであり、ポーランドとの盟約により自動的に参戦義務が発生することはなく、議会の明示的な同意なく宣戦を布告したことは憲法違反であると主張した。右翼はヒトラーの独裁制に共感し民主主義を軽蔑していた。ペタン元帥や元首相のラバルはナチスドイツとの戦争に反対していた。一方、数においてはるかに多い左翼はナチスの全体主義には反対していたが、ドイツあるいは他のいかなる国との戦いも欲していなかった。

1940年5月10日、ドイツは西部戦線で電撃戦を開始し、フランス軍は完全な軍事的敗北を喫した。フランスは6月22日にパリ郊外のコンピエーヌの森で休戦協定に署名した。

第一次大戦後のフランス社会には、すべての戦争は悪であり、人間とその財産、道徳心の無意味な破壊であって、あらゆる代価を払っても避けるべきであるとの思想が浸透していた。だが、既存の国際秩序を破壊して新しい国際秩序を作り上げようとするドイツが軍事的に侵略してきたとき、平和主義は全く無力だった。

ニューディールという社会実験:ローズヴェルトの時代

2016-02-06 16:02:18 | 日記

ローズヴェルトの時代2、3(アーサー・シュレジンガー、1957年)

ローズヴェルトが大統領に就任した時、アメリカ社会は大恐慌の混乱から立ち直ることができず、経済は破綻寸前に陥っていた。1933年3月4日、国民所得は四年前の半分以下に減少し、労働人口のおよそ四分の一にあたる千三百万人が失業者となって職を求めていた。さらに、この日の朝にはアメリカ全土の銀行が休業を決定していた。恐慌に対応するためには、資本主義と民主主義を放棄して全体主義的な体制を構築することが必要であるようにもみえた。約三十日前の1月30日にはドイツでヒトラーが首相に就任していた。ローズヴェルトが就任演説で「われわれは行動を起こさなければならない。しかもいますぐ行動しなければならない」と語ったのは、このような状況の中だった。

ローズヴェルト政権は成立直後からアメリカ社会の改革を進めた。ニューディールの百日間には、緊急銀行救済法、金本位制度の放棄、生産調整によって農産品の価格調整をはかる農業調整法、テネシー渓谷開発公社(TVA)法、証券発行企業の財務諸表公開を求める有価証券法、産業の自治的統制を実施する全国産業復興法(NIRA)、商業銀行と投資銀行を分離し銀行預金を保証するグラス・スティーガル銀行法などが次々と成立した。ニューディール法案は、保守派議員が「われわれは今やモスクワへの道を歩んでいる」と批判したように、アメリカの市場主義経済に計画主義的な修正を加えようとするものだった。

ニューディーラーはさまざまな社会問題を知識と論理によって解決しようとした。現代産業社会では価格、賃金、利潤や資源配分を自由放任することはできず、政府、実業、労働、農業による共同計画が必要と考えていたのだ。しかし、彼らは資本主義と社会主義の二者択一的な観念論を否定し、資本主義体制は個人の自由と経済の成長の双方を最も良く達成できると考えていた。

ローズヴェルト政権は試行錯誤をしながら市場経済と民主主義を再生させるという社会実験に取り組んだ。ニューディールは看板を絶えず変え、特段核心となる理論が無く、その時々の環境によって針路を定めていく即席的で機会主義的な政策の集合体だった。だが、ニューディールの強みは特定の理論によらないプラグマティックな政策運営にあった。一貫性の無さは危機的な現実の中でむしろ有効な方法だった。ローズヴェルトは現実と遊離した抽象論を嫌い、演繹的な思想による政策運営を拒否した。「どうして我が国の経済政策を単一の体系に閉じ込めなければならないということがあるだろうか。」経済学者に対しても辛辣な評価を行っている。「第一に経済学者のどの二人をとっても意見が一致しない、第二に彼らの言うことは余りに漠然としているため、その意図するところを理解するのがほとんど不可能に近い、ということであります。それはたわごとであります。正真正銘のたわごとであります。」

ローズヴェルトは自己の政治哲学を「社会的関心を持つこと」と呼んだ。新聞記者から政治的な目標を聞かれたとき、彼は次のように答えている。「一国の誠意ある政府ならばどれもが行うに違いないことを実行すること。あらゆる職業に従事し、国中あらゆる地域に住む最大多数の人々の安全と幸福を増進するように努めること。人々に生活の幸せをもっと与えること。人々に狭義の富だけではなく、広義の富をより大きく分配し、与えること。人々に夏季に行く場所、つまりリクレーションの場を与えること。老年になっても飢えることはないのだという確信を人々に植え付けること。正直なビジネスを進め、適切な利益を挙げる機会を与えること。そして、すべての人々に生計費を得る機会を与えること。」

ニューディールはすべてに成功したわけでない。ニューディール諸政策は恐慌のさらなる悪化と社会の混乱を食い止めたが、失業者数はなかなか減らなかった。最高裁は全国産業復興法などのニューディール関連法に対して違憲判決を下し、ローズヴェルト政権は対応を迫られることになった。だが、危機の中で市場経済と民主主義を改革する社会実験に成功したことは事実といえよう。

1930年代にはアメリカ自身も自由主義と民主主義について自信喪失状態にあった。
「現在における自由主義の道徳的、知的破産は論証を必要としない。それは降雨の如く明白且つ自明の理として受け取られている。」「政治的民主主義は死に瀕している。」
また、トロツキーがアメリカ人の取材を受けて語った言葉が残っている。「諸君の大統領は体制と一般法則を嫌悪する。諸君の科学的方法は諸君の経済体制より更に古めかしい。」
評論家の将来見通しやトロツキーの軽蔑にもかかわらず、その後の歴史では一般法則を嫌悪したアメリカが政治、経済、科学のすべての面で勝利を収めた。

何が正しいのかが既にわかっている状況の下では試行錯誤よりも計画のほうが圧倒的に効率的だ。だが、周囲の環境は変化していく。計画的な手法を採るのであれば、本来、環境が変わるたびに計画を立て直すことが必要となるが、計画により権力を握った人々が自己否定と弁証法的な改革を続けていくことはないだろう。

ニューディールは試行錯誤とプラグマティズムの勝利でもあった。

思想戦による中国共産党の勝利:蒋介石秘録

2016-01-31 16:42:32 | 日記

蒋介石秘録9(満州事変)、10(毛沢東の敗走)、11(真相・西安事件)、12(日中全面戦争)、13(大東亜戦争)(サンケイ新聞社、1976年)

蒋介石は満洲事変の後も安内攘外、すなわち日本軍という外敵に挙国一致で対抗するためには、なによりも共産軍を討伐し国内を安定させなければならないと考えていた。「現在、わが国には、まさに内憂と外患が差し迫っている。国内には凶暴な土匪があって殺人と放火に狂奔し、国外には日本帝国主義があってわれわれを猛然と侵略している。」「安内をあとにし攘外だけを要求していたのでは、ただ敗れるだけなのである。日本人の侵略は外来のものであり皮膚を次第におかし、ただれさせていく病毒のようなものだ。しかし土匪の騒乱は内発的なもので、内臓に病気があるのと同じことである。まさに心腹にある大患なのだ。この内部の病を取り除かないかぎり、外来の病を治すことはできない。かりに治ったとしても根治はしない。最後には、その病人は心腹のうちの病によって生命を落とすだろう。」

蒋介石の目からみると、内敵・共産軍の反乱と、外敵・日本軍の侵略とは、まるで示し合わせたかのように発生した。共産党の討伐に政府軍が出動すると、その手薄に乗じて日本軍が動き出した。日本軍対策に忙殺されているすきに、共産党が再びその勢力を復活して共産軍が跋扈した。
1931年の第三次掃共戦は、共産軍を今一歩という段階にまで追い詰めながら、9月18日に日本軍が起こした満州事変で中断を余儀なくされた。
1932年1月に発生した第一次上海事変が一段落した後、6月に蒋介石は第四次掃共戦を開始、華中の河南、湖北、安徽3省の共産軍討伐戦を行った。同年12月には共産党の本拠地である江西地域の包囲を完成し、翌1933年1月からは中央ソビエトに陣取る共産軍との戦闘を開始した。だが、華北では日本軍の侵略が激化していた。1933年1月3日、日本軍は山海関を占領、蒋介石は掃共戦の督戦のために滞在していた杭州から南京に戻った。2月21日に関東軍は熱河侵攻を開始、3月4日には熱河の省都である承徳が日本軍に占領され、7日には北平(北京)の防衛線である万里の長城にて日本軍との戦闘が発生した。共産軍を包囲していた政府軍も華北に移動せざるを得なくなり、それに伴って第四次掃共戦も中断となった。
1933年5月に日本との塘沽停戦協定が締結された後、蒋介石は安内攘外を達成するために10月から第五回掃共戦を開始した。政府軍に敗れた共産軍は翌1934年10月に中央ソビエトの江西省瑞金を捨て逃走した。政府軍は山間部を逃走する共産軍を追討し陝西省にまで追い詰めた。

窮地に陥った共産党が逃走の中で掲げた戦術、政治的謀略が抗日救国、統一戦線の呼びかけだった。1935年7月から8月にかけてモスクワで開催されたコミンテルン第7回大会では統一戦線方針が決議された。中国共産党は「抗日救国のために全同胞に告げる書」を発表し、国民政府の安内攘外政策を批判し、掃共戦の中止と抗日のための統一的国防政府、抗日連軍の結成を提案した。共産党は故郷を日本軍に占拠され抗日意識の強い東北軍に「内戦停止・共同抗日」方針の浸透をはかり、張学良は共産党との直接接触を求めて周恩来と延安で秘密会談を行うまでになった。

蒋介石が西安を訪問したのは、共産党の思想戦によって東北軍の中に掃共戦に対する厭戦気分「抗日、不掃共」がいきわたった1936年12月だった。蒋介石が西安の飛行場に降りると数百名の将校が「掃共戦について意見がある」と待ち受けていた。蒋介石は高級幹部を集め、掃共戦は既にあと五分間で成功という最後の段階にまで達しており、抗日作戦は時期尚早と説得したが、東北軍は反乱を起こし蒋介石を監禁した。中国共産党では毛沢東が「殺蒋抗日」を主張したが、最終的にモスクワに指示を仰ぐこととなった。スターリンは中国共産党に対して「連蒋抗日政策をとり十日以内に蒋介石を釈放せよ」と指示した。蒋介石の死後、親日家の汪兆銘が政権を取ると日独と結んでソ連に対抗する可能性があると考えたともいわれている。12月26日に蒋介石は南京に戻り、翌1937年1月、政府軍は掃共戦を中止した。共産軍は政府軍に編入された。

日中外交関係は満洲問題を一時棚上げすることにより改善がはかられつつあった。だが、現地日本軍は外交交渉とは無関係に勢力範囲の拡大を続けていた。関東軍は秦徳純・土肥原協定を締結してチャハルでの勢力を拡大した。支那駐屯軍(天津軍)は梅津・何応欽協定により河北省での権勢を強めた。1937年6月25日からは支那駐屯軍が盧溝橋周辺で長期演習を始め、日本側の挑発行為が繰り返され、中国側の第二十九軍と緊張が高まっていた。そして、7月7日の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争が起きることとなった。日本軍は北平、天津、上海、南京を占領したが、蒋介石は南京から重慶に遷都し抗戦を続けた。日本軍は1938年にさらに武漢、杭州を占領し、1940年6月には宜昌にまでその勢力を拡大したが、険しい山岳地帯の先にある重慶を占領することはできなかった。

日中全面戦争は1937年から1945年までの8年間続いた。共産軍は抗日優先を唱えることによって政府軍の掃共戦を中止させ、日本軍に政府軍を弱体化させた。そして、日本降伏後の内戦に勝ち抜いて中国大陸の支配に成功した。
国民政府、共産党、日本軍の三つ巴の闘争の結果、最後に生き残ったのは思想戦に勝利した共産党だった。

キメラ・満洲国の肖像

2016-01-24 21:05:37 | 日記

キメラ・満洲国の肖像(山室信一、1993年)

満洲国建国直後の1932年3月12日、日本政府は「満蒙問題処理方針要綱」を閣議決定し、満洲国経営を実施していくにあたっては「九ヵ国条約などの関係上できうる限り新国家側の自主的発意に基くが如き形式に依る」こととし、国家としての実質を備えるように「誘導」していくために日本人を「指導的根幹たらしむ」こととした。

満洲国では、日満定位、日満比率、総務庁中心主義、内面指導の四つの概念によって、中国人の自主的発意に基いて政治的決定がなされているかのような形式を採りながら、関東軍の統制の下で日本人が実権を掌握していた。

日満定位とは、満洲国の中央、地方の双方について機関官庁の科長以上の各職位に関する日系と満系のポスト配分の規律であり、関東軍の専管決定事項となっていた。満系定位は国務総理大臣、各部総長(大臣)や民政部、軍政部、財政部の次長など、日系定位には総務長官、総務庁次長、満系定位以外の各部次長などと定められていた。日満比率は、日系官吏と満系官吏の定員数の比率であり、これも関東軍の専管決定事項だった。日本語の使用と日本型の行政処理の下では、日系が実権を握り、満系が飾り物になっていくことは避けられなかった。また、満洲国建国後、関東軍も日系比率の上昇を押しとどめることはできなかった。

国務院の総務庁は、官制上からいえば国務総理大臣の下で部内の機密、人事、主計及び需要に関する事項を処理するために設けられた補佐機関に過ぎなかったが、実際には総務長官が国政上の機密や人事、財政を掌握し、総務庁を中心として各処に配置された日系官吏が重要事項を決定し遂行していた。総務庁は日満定位、日満比率という二つの人事規律の例外として扱われていた。総務長官以下、次長、処長、科長などはすべて日系定位で、日満比率も日七対満三が一応の基準とされていたものの、常に日系が八割以上の占有率をもって推移していた。特に主計処、人事処、企画処などの枢要業務においては日系だけで独占するのが常態となっていた。総務長官主宰の下で総務庁次長、日系の各部総務司長ないし次長、処長などが参加して開かれる正式名称のない週次の定例事務連絡会議において国務院会議に上程する議案の審議と決定が行われていた。「この日系官吏で固めた総務庁を活用するならば、関東軍が直接満洲国に干渉し、圧迫することなしにその反日政策ないし行動を防ぐことができる。なぜならば、満洲国の重要政策、法案は総て国務院会議の審議決定により、更に参議府の審議・意見答申を経て、執政の裁可により決定されるのであり、総務庁は国法上、国策決定に何等の権限を持たないが事前チェックできるからである。」

関東軍の内面指導権は本庄関東軍司令官と溥儀による協定を根拠とするもので、関東軍は関東軍司令官の日本人官吏に対する任免権をもって在職時の業務遂行についても指導権が付随すると解釈していた。政治、行政上の重要事項に関しては総務庁が関東軍参謀部第三課(のち第四課)に連絡し、その審査を経て関東軍参謀長名で総務長官あてに「何々の件、承認ありたるに付、命により通知す」という承諾状または内諾を得なければならないこととなっていた。第三課は関東憲兵司令部、軍政部顧問部はじめ在満の日本人軍人の人事権も握り、治安工作や軍事政策に関する指導も行っており、満洲国経営全般の司令塔的存在となっていた。

満州国に対する日本の国策の遂行については「専ら関東軍をしてこれに任せしめ、その実行は新国家が独立国たるの体面保持上努めて満洲国の名を以てし、日系官吏特に総務長官を通じてこれが実現を期す」ことを目指していた。

日本人の思考が変わっていない以上、満洲国の経営と今日の日本企業の海外拠点の運営方針が似通っているのは当然のことかもしれない。

本来、謀略で満洲事変を引き起こした本庄関東軍司令官以下、関東軍参謀たちは陸軍刑法に則り軍法会議にかけられるべであった。だが、本庄は大将に進級しただけでなく男爵を授けられたうえに侍従武官長の重職につき、石原莞爾らの関東軍参謀は進級叙勲の論功行賞に与ることとなった。この結果、規律や命令系統を無視しても結果さえ良ければ恩賞を受けられるという風潮が軍部幕僚の間に蔓延していくこととなった。そして、出先軍人たちの功名心は内蒙工作や華北への政治的・軍事的進出を引き起こし、遂には1937年7月7日に盧溝橋事件を発生させた。石原は不拡大方針を採ったが、武藤章や田中新一らの拡大派を制御することができず、日本は中国との全面戦争にのめりこんでいった。

満洲国は決して日本の傀儡国家ではなく日満関係を西洋の政治学の概念を用いて説明することはできないという考え方は満洲国建国直後から表明されていた。
「元来、日満両国の関係は欧米には類のない関係である。満洲国の王道政治が欧米の政治学で説明できないものである通りに、皇道国と王道国との提携は欧米の国際法で律することもできなければ、その必要もない。我々は欧米の政治学では分らぬ王道政治を行う国を扶助するのである。その関係も王道的であって、必ずしも法律的ではない。欧米の国際法では律しうべき関係ではない。」

確かに、欧米の論理であらゆる社会のあらゆる事象を説明できるわけではないが、満洲国が新たな理念の下に独自の政治体制を生み出したのであれば、その新しい概念を日本人以外の人々にも納得させるためのロジックと説明が必要となる。

満洲国は軍閥と匪賊が跋扈していた土地の治安を安定させ、経済発展を生み出した。
その成果にもかかわらず、残念ながら、日本人にしか理解できない論理で組み立てられた満州国は、その国民から支持を受けることができなかった。
「満洲国の現状は一つとして非ならざるはない。たとえば、本庄将軍当時、中央政府の管理は満洲人六に対し日本人四であった。しかるに現在は日本人九、満洲人一の割合である(注:実際は日本人七割二分、満洲人二割八分)。その満洲人官吏もへつらい者、学力無き者を採用し、これを無能呼ばわりしている。公文書その他役所の仕事は皆日本流である。まるで彼らは満洲国政府を乗っ取る腹でいるとしか考えられない。俸給にしても一般の満洲人官吏は百七十円以上取れず、しかもこれだけ取る者は数える程しかない。日本人はそれに加俸が八割も付く。一体この国の主人が誰なのかわからない。」「国幣統一のみがたった一つ日本の行った改善ともいえようが、その他は何事も張学良時代よりも悪くなった。こんな状態でもし日露戦争でも勃発すれば、全満洲人は日本に反抗して起つであろう。」

日本に必要なのは、戦前も現在も、世界から共感と支持を受けることができる論理構成である。だが、世界に通用するロジックを構築すると日本人の特権的地位は失われてしまう。
日本の組織が日本人の特権的地位の維持を選択する限り、今後とも真の国際化、すなわち自分たちの発展のために世界各国の人々の活力を結集し活用することは難しいだろう。