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竹島は「日本固有の領土」か:竹島

2016-04-03 16:29:21 | 日記

竹島(池内敏、2016年)

外務省が使用する「日本固有の領土」という言葉は、「むかしからずっと日本の領土であったこと」とは定義されていない。
「固有の領土」という用語は、1955年の日ソ国交交渉に際して使われ始めた。外務省パンフレット「われらの北方領土」(1987年版)では、「北方四島は、いまだかつて一度も外国の領土になったことがないという意味で、わが国固有の領土です」と説明されている。北方領土は江戸時代まではアイヌの生活圏であって、江戸幕府の支配下にはなかった。尖閣諸島も琉球王国の支配圏に含まれ、沖縄が日本領に含まれるようになる近代初頭に到るまでは日本の領土とは言い難い。外務省は竹島に関する「日本固有の領土」の意味定義を公式説明していないが、北方領土や尖閣諸島の事例で使われている「日本固有の領土」の用例と照らし合わせると、「いまだかつて一度も外国の領土になったことがないこと」を「日本固有の領土」の要件としているようだ。

それでは、竹島は「いまだかつて一度も外国の領土になったことがない日本固有の領土」といえるだろうか。

日本には竹島を描いた古地図が多数存在するが、地理的な知見それ自体は領有権の証明たりえない。

竹島(往時の松島)の歴史は、鬱陵島(往時の竹島または磯竹島)開発の歴史と不可分の関係にある。史料上も今日の竹島は常に鬱陵島の利用にかかわるかたちで現れる。竹島での漁業は、鬱陵島における漁業と組み合わせない限り事業としては成立しないレベルの小規模なものであった。鬱陵島と竹島は、両島の存在が日本人に知られて以来、常に一括して扱われてきた。

江戸時代初期、幕府は戦争によって断交状態に陥っていた朝鮮との関係修復を進めていた。1617年(元和3年)、幕府は朝鮮通信使に対して鬱陵島が朝鮮領であることを再確認している。幕府は鳥取藩に対して鬱陵島への渡海免許を発給していたが、鬱陵島で朝鮮人漁民とのいさかいが発生したことを受けて、1695年(元禄9年)には鬱陵島への渡海を禁止した。その過程で、鳥取藩は幕府に対して、「竹島は鳥取藩領の島ではない、竹島へ出漁するのは、鬱陵島へ渡航する途中にあるから立ち寄って漁をするのであり、鳥取藩以外の者が竹島に出漁することは聞いたことがない」と回答している。幕府による鬱陵島への渡海禁止令には竹島への渡海禁止は明記されていないが、竹島の利用が鬱陵島での経済活動と切り離して存在しえなかった以上、渡海禁止の文面上に竹島の名前が記載されていなくとも、竹島への渡航禁止が含まれているのは当然のことだった。

江戸幕府が竹島への日本人渡航を禁止したことが直ちに朝鮮による竹島の領有権に結びつくわけではない。とはいえ、江戸時代にはわが国による竹島の領有権が確立していなかったことは明らかといえよう。

明治維新後、日本政府は鬱陵島と竹島の帰属問題を検討し、内務省地理寮が竹島について調査を行った。島根県は「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」との文書を取りまとめている。これを受け、1877年には太政官が「書面、竹島外一島の義、本法関係これ無き義と相心得べきこと」との指示を行った。これらの文書の中で「竹島」は現在の鬱陵島、「外一島」は現在の竹島を指している。鬱陵島と竹島は日本政府の管轄外と明言したのだ。

日本政府は、いったん鬱陵島とともに竹島を日本領土ではないと決定した。

1882年に朝鮮政府が鬱陵島の空島政策を撤回して鬱陵島開拓令を出すと、朝鮮人の鬱陵島定住は進んでいった。1883年、朝鮮政府が鬱陵島への日本人の渡航禁止を求めてきたことを受け、日本政府は鬱陵島が朝鮮領であることを確認し、鬱陵島在留日本人の全員引き揚げを命じた。

その後、1904年に島根県の業者が竹島での漁業権の独占をはかり、日本政府に竹島の貸下げを求めた。この業者は竹島が朝鮮領であるとの認識から当初朝鮮政府に対して貸下げ申請を行おうとしていたが、海軍水路部長の示唆を受けて日本政府に申請先を変えている。日本政府部内では、農商務省、海軍、外務省が内務省の反対を押し切り、竹島を日本領に編入した。

1905年1月、日露戦争の中、日本政府は竹島の「無主地編入」を閣議決定した。同年2月、島根県は竹島が日本領になったことを告示した。

日本の敗戦後、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約では「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記載された。日本が放棄する領土の対象として竹島は明記されなかった。韓国は「独島」を明記するように求めていたがアメリカに受け入れられなかったのだ。

サンフランシスコ条約締結当時のアメリカ政府は竹島を日本の領土と考えていた。「我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。」

サンフランシスコ条約では竹島が自国の領土であるという韓国政府の主張は認められなかった。1952年の講和条約発効直前、李承晩政権は海洋主権宣言を行い竹島をいわゆる李承晩ラインの内側に取り込んだ。日本政府は韓国の一方的な行動に抗議し、現在に至っている。1965年の日韓基本条約締結の際にも、竹島を巡る論争は棚上げされた。

竹島は江戸時代に日本の領有権が確立したことはなく、日本政府もいったんは日本領土ではないと決定している。日本政府は1905年に竹島を自国領土に編入したが、それ以前の過去の歴史において竹島が単独ではなく常に鬱陵島と一括して取り扱われてきたことを念頭に入れて考えると、竹島の領有権が日韓のどちらにあるかは鬱陵島の領有権によって定まるとも言えるだろう。サンフランシスコ条約によって日本が鬱陵島を放棄した以上、竹島も韓国が領有すると考えることも可能ではないか。

少なくとも、竹島は、「いまだかつて一度も外国の領土になったことがないこと」を基準とすれば、「日本固有の領土」ではない。
冷静な歴史的議論により竹島問題は早急に解決すべきだろう。

中国が支配するアジアと「フィンランド化」:南シナ海が中国海になる日

2016-03-26 19:26:03 | 日記

南シナ海が中国海になる日(ロバート・カプラン、原著2014年)

パックス・アメリカーナの中で東南アジア各国は経済成長を実現した。

アメリカがベトナムに大規模派兵を開始した1965年、タイ、マレーシア、フィリピンは国内共産勢力の攻勢に直面していた。インドネシアでは国軍が共産党壊滅に乗り出す混乱期にあった。シンガポールでも共産主義者の地下活動は依然として活発だった。アメリカは共産主義勢力と対決する各国をサポートし、安定した国際環境を提供した。
1972年、ニクソンとキッシンジャーは共産中国を国際社会に迎え入れた。文化大革命で国内が混乱し、北方からのソ連の脅威にさらされていた毛沢東はアメリカとの関係回復を求めた。毛沢東の死後、中国は小平の下で社会主義市場経済政策を採り経済成長を実現しようとした。中国はアメリカの地域覇権を受け入れていた。

近年、圧倒的なアメリカのプレゼンスによって支えられてきたアジアの国際秩序は変化しつつある。

経済成長を達成し大国として復活した中国はアジアに自らにとって居心地のよい世界を作ろうとしている。南シナ海では中国が西沙諸島と南沙諸島の領有権を主張し、周辺各国と軋轢を引き起こしている。中国共産党は国民党政権の主張を引き継ぎ「九段線」に基いて中国本土から南シナ海に大きく張り出した「牛の舌」の地域を固有の領土として強硬に述べ立てているのだ。中国の圧力に直面したベトナム、マレーシア、シンガポール、フィリピンなど南シナ海周辺各国はアメリカとの関係を改善し、引き続きアメリカの軍事的プレゼンスによって守られることを期待し、アメリカの力によって中国を封じ込めようとしている。

中国の攻勢を跳ね返すためにはアメリカの地域へのコミットメントと支援が必要になる。
だが、アメリカの国力は相対的に衰えつつある。相対的な国力の低下に伴って、アジア地域の国際秩序に関与しようとする意志も弱まらざるを得ない。中長期的にみると、中国がアメリカと並んで、そしてアメリカに代わってアジア地域の覇権国となることは不可避だろう。

アジア各国は「フィンランド化」していく。
強力な軍事力を持つソ連の隣国であったフィンランドはソ連の意向を踏まえた政策運営を強いられてきた。戦後日本の自民党政権がアメリカの意向に配慮して国政運営を行ってきたように、中国の周辺諸国は自ら進んで中国の意向を忖度して行動するようになるだろう。アジアに伝統的な冊封体制が復活する。

日本も例外ではない。

東欧・ハートランド・世界島:マッキンダーの地政学

2016-03-21 17:47:33 | 日記

マッキンダーの地政学「デモクラシーの理想と現実」(原著1919年)

ユーラシア大陸を中心に置いて、世界をシーパワー勢力圏とランドパワー勢力圏に分けて考えてみる。
イギリス、カナダ、アメリカ、日本などの海洋勢力国家は、海洋という天然の防壁によって大陸勢力の進攻から守られ、大陸を遠巻きに包囲している。一方、ドイツ、ロシアなどの大陸勢力国家は、海洋勢力の浸透が困難なユーラシア大陸中心部、ハートランドの豊富な資源と人口に支えられ、大陸をその覇権下に置き、海洋勢力を駆逐して世界を支配しようとする。

シーパワーとランドパワーの勝敗は、海洋的であるとともに大陸的でもあるユーラシア大陸の沿海部をどちらが支配するかにかかっている。両者は歴史的にも文明の中心であり、各産業の中心となっている欧州、中東、インド、東南アジア、中国をつなぐ「ユーラシアの半月弧」の支配権を争ってきた。そして、東欧は欧州におけるドイツとロシア、ランドパワー同士の抗争の最前線であるとともに、シーパワーとランドパワーの間の抗争の最前線となってきた。本書に掲げられている「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する」という警句は、ランドパワーであるドイツとロシアの闘争、そしてランドパワーと英米アングロサクソン勢力の間の闘争を表現している。

第二次世界大戦はナチスドイツとソ連の間のハートランド争奪戦でもあり、ドイツとシーパワーとの間の覇権闘争でもあった。ナチスドイツは1939年8月にソ連と独ソ不可侵条約を締結した上で9月にポーランドに侵攻し、英仏と戦争状態に入った。ヒトラーはユーラシアのランドパワーの結束の下でシーパワーと対決することもできたが、1941年6月に独ソ戦を開始し、二面戦争に失敗して滅亡した。ユーラシア大陸のランドパワーとして勝ち残ったソ連はアメリカと覇権を争ったが、東欧を制しきることができず、冷戦に敗れた。

現代においてもドイツとロシアという両大国に挟まれた東欧の地政学的な位置付けと重要性は変わらない。ウクライナ紛争、クリミア半島の帰属問題は欧州政治情勢に大きな影を落としている。だが、ドイツとロシアが軍事衝突するとは考えられない今、「東欧を支配する者がハートランドを制する」ことはない。軍備の機械化が進み、航空機、ミサイル、核兵器が発達してランドパワーの聖域という意味でのハートランドはテクニカルに存在しなくなり、「ハートランドを支配する者は世界島を制する」こともない。シーパワー大国とハートランドに依拠するランドパワー大国との争いというマッキンダー的な思考の枠組みは意味を失った。但し、大国の軍事力と外交戦略をもってしても国際情勢を統制しきれない現在、世界各国がその置かれた環境の下でどのような内在的論理と意思に基づいてどのような政策を進めようとするのかを分析し予測しようとする地政学はいよいよ重要性を増している。

時代は大きく変化したが、マッキンダーのおどろおどろしい警句は人々の記憶に残っている。

帝国主義に徹しきれなかった日本:大英帝国の親日派

2016-03-13 16:52:19 | 日記

大英帝国の親日派(アントニー・ベスト、2015年)

第一次世界大戦で疲弊し、不安定な欧州情勢に忙殺され続けた戦間期のイギリスはアジアの国際情勢を独力で動かしうるほどの覇権を失い、圧倒的な海軍力を背景とした外交交渉力も弱まっていた。イギリスがインド、シンガポール、香港などの植民地と中国における勢力圏を守り抜くためには関係国との共闘が不可避となっていた。

イギリス政府はアメリカとの協調を外交政策の大前提としていた。イギリスはアメリカとの良好な関係を崩さずに日本との関係を改善してアジア地域での威信を守ろうと模索し続けた。だが、日米関係が悪化するにつれてこの二つの路線は両立不可能となり、日本に対する宥和政策は終焉を迎えたのである。

中国についてイギリスが取りえた選択肢は二つあった。「支那に重大利益を有する英国は再び日英同盟時代に於けるが如く日本と提携して支那問題を処理するか、もしくは新政策を樹立して支那国民党の新勢力を守り立て、東亜に於ける英国の馬として日本より支那に乗り替ふるか、これが英国の重大岐路」になっていた。

1920年代後半のイギリスは日本との協力によって中国の情勢を安定させ、自国の利権を維持しようとした。蒋介石による北伐が始まり、上海租界の防衛が喫緊の課題になると、イギリスは共同租界を防衛するための共同行動に参加する意志があるか否か、幣原外相に問い合わせている。1927年3月には北伐軍が南京入城の際に外国領事館と居留民を襲撃する事件も起きた。だが、幣原はイギリス政府の構想に概ね冷淡な態度を取り、オースティン外相は次第に日本との共同行動の可能性に懐疑的になっていった。「日本の対中政策は厳密なまでに自己中心的です。日本が我が国と協力するのは、我が国の利益が彼らの利益に合致するか、我々が我が国の利益を犠牲にする用意がある時だけなのです。しかし、日英双方の利益が常に合致するわけではないし、常に我が国が自己利益を犠牲にすることもできません。我が国の利益に奉仕する最良の方法は、強く安定した統一中国の存在です。しかし、日本は中国が統一されることも強化されることも望んではいないのです。」

1931年9月には満州事変が起きた。マクドナルド挙国一致内閣のサイモン外相は強力な海軍を有する日本に対して国際連盟が効果的な行動を取ることはできないという現実認識から日本との関係悪化を避けようとした。1932年1月にアメリカのスティムソン国務長官が外交による日本への圧力として「不承認主義」声明を出したときもイギリスは何の措置も取らなかった。サイモンは1932年12月にジュネーブの国際連盟で演説したが、その内容は対日批判を行っている国に対してリットン調査団の報告書をよく読むようにと諭し、日本だけでなく中国にも非難されるべき点があるとするものだった。だが、1933年1月に関東軍が熱河作戦を実行し、また日本がリットン報告書のように明らかに公平な見解さえも受け入れようとしないことが明白になると、国際連盟と日本の二者択一を迫られたイギリスは連盟決議に支持を与えざるを得なくなった。

1933年1月にナチスドイツが政権を獲得し欧州情勢が緊張を高めていくと、イギリス外交は欧州問題への対処で手いっぱいとなっていった。1935年12月に外相に就任したイーデンはアジアでの緊張緩和を目指し日本との関係改善を試みた。1937年春のジョージ六世の戴冠式では、列強の中で日本が唯一の君主国であると理由付けして、秩父宮の席次を海外からの賓客の一位とした。ロンドンでの日英協議も始まろうとしていた。だが、1937年7月7日に発生した盧溝橋事件とその後の日中戦争は日英関係に致命的な打撃を与えた。イギリスは日中両軍が同時に撤退する案を提示したが、日本は拒否した。日本による中国沿岸封鎖はイギリスにとって貿易の障害となるものだった。日本の爆撃機の攻撃によって駐華英国大使のヒューゼッケンが重傷を負った。8月から9月にかけて日本軍は上海、南京、広東などの中国主要都市を爆撃し、世界的な非難を受けた。10月5日にはルーズベルト大統領の隔離演説が行われ、イーデンはアメリカとの共同行動を模索した。だが、アメリカはレトリックに終始し、実際の行動に至ることはなかった。

1938年2月にイーデンが外相を辞職し、ハリファックスが後任の外相となった。イギリス外務省は、アメリカの協力の見込みのない現在の情勢の下、ヨーロッパで危機的状況に直面しているイギリスが日本と軋轢を起こすことは適切でないと判断し、中国への援助は日本を刺激しない程度に限定することとしていた。1939年6月に日本軍が天津租界を封鎖した際もイギリスは日本に対し妥協的な姿勢で臨んだ。ドイツとポーランドの間で戦争の危機が高まっている中でイギリスが極東での軍事紛争発生を望まなかったからだ。

1940年5月にドイツの西部戦線電撃戦が始まり、フランスが降伏し、イギリスの敗北も避けられないとみられるようになった。日本は東南アジアをめぐる欧州列強の支配権が揺らぎ始めたと判断し、6月下旬、米内内閣はフランスとイギリスに中国との国境封鎖を要求した。フランスはやむなくこれに応じた。イギリスも、この時に首相になっていたチャーチルが極東ではいかなるリスクも取るべきではないとする参謀本部委員会の意見に従い、ビルマルートの封鎖に同意した。チャーチルにとって、ビルマルートの封鎖はドイツとの戦争で敗北の岐路に立つイギリスが二正面作戦を回避するための時間稼ぎだった。

イギリスはアメリカ外交にいら立っていた。アメリカはビルマルート封鎖について批判を繰り返した。外務政務次官のバトラーはアメリカとの協調を優先する外務省極東部と衝突した。「率直にいいますが、私は何もアメリカを怒鳴りつけたり、アメリカ人に指図したりしたいわけではないのです。ただ、彼らと机上の理論を取り交わすのではなく、もっと密接な現実的協議が必要だと願っているだけなのです。」この年の7月にクレーギー駐日大使もサイモンに対して手紙を送っている。「アメリカ人は、日本に対し厳しい態度を取るべきだと扇動し続けてきました。しかし、危険が避けられないときでも武力を用いることは無理だというのが彼らの言い方なのです。」「極東部は私よりもアメリカ人を信頼し過ぎているし、そうしたアメリカのやり方に慣れていないようです。」

1940年7月に成立した第二次近衛内閣が対英関係で最初に行ったのは、日本と朝鮮半島においてイギリス人20人をスパイ容疑で逮捕することだった。外相となった松岡洋右は9月に日独伊三国同盟を締結した。イギリス外務省はイギリスが日本に対して譲歩を行っても枢軸国に対する戦争準備の障害になるだけで妥協による解決は不可能であるとの情勢判断を行った。クレーギーも10月に外務省に報告している。「日本の親英派は追いやられ、もはや我々はどんな影響力も行使できません。枢軸国がヨーロッパで決定的な退却を強いられるまで、あるいは望まないアメリカとの戦争の時期が迫り、国論が決定的に変わるまで、日本の対外政策は急進派の牛耳るところでしょう。」
ビルマルートの封鎖は10月から中止となった。イギリスはオランダ亡命政府と天然資源の対日貿易制裁を検討し、アメリカとの軍事協議も開始した。但し、チャーチルはアメリカとの戦争の危険がある限り、日本は戦備を近海から遠くに配置する余裕はなく、シンガポール攻撃の可能性は低いと考えていた。1941年4月の内閣安全保障委員会でもマラヤへの軍事強化論をきっぱりと却下している。

1941年11月、アメリカが日本と暫定協定を結ぶかもしれないというニュースはチャーチルを喜ばせた。11月23日、チャーチルはイーデンに向けて語っている。「日米で妥協が成立したら、今から三ヶ月は今よりも悪くならないですむ。何とかやっていけるだろう。どんなにうれしいことか。」
だが、その三日後の11月26日、チャーチルは翻意し、日米暫定協定締結を懸念する書簡をルーズベルトに送っている。イギリス外務省はアメリカの過度の対日譲歩を恐れていた。また、チャーチル自身が日本との妥協によって中国が戦意を喪失して対日戦に甚大な悪影響を与えることを懸念していた。このチャーチルの書簡は戦争回避に努力していたルーズベルト政権の最後の決断に大きな影響を与えた。暫定協定は結ばれず、アメリカ政府から日本政府にハルノートが通知され、日米開戦に至ったのだ。

1941年12月8日、真珠湾攻撃より前に日本軍はマラヤ東岸のコタバルに上陸を開始した。
日本にとっては南方への進攻、東南アジアの支配権と天然資源の確保こそが戦略目的であり、太平洋戦争は戦略目的から見ると日英戦争であった。

チャーチルはクレーギーの最終報告書に対して次のようなコメントを記している。「日本がアメリカを攻撃したことは祝福すべきことであった。それはアメリカの参戦をもたらしたからである。イギリスの友と敵を白日の下に照らし出したこの出来事以上にイギリスにとってよいことはなかった。」

イギリスは中国での利権を守るために日本との共同行動を望んでいた。だが、イギリスの意図を挫いたのは、幣原外相の理想主義的な外交であり、日本陸軍の軍事力による解決志向だった。
日本は帝国主義勢力と結んで自国の帝国主義的な利権を守るという帝国主義に徹することができなかった。

幸せになれるか否かはすべて自己責任である:嫌われる勇気・幸せになる勇気

2016-03-12 23:13:49 | 日記

嫌われる勇気・幸せになる勇気(岸見一郎・古賀史健)

幸せになることは可能なのか。アドラーは、誰もが幸福になれる、と主張する。

人は誰しも自らが意味づけをほどこした主観的な世界に住んでいる。主観的な世界は外部世界の干渉と影響を受けている。自分自身が世界の中心ではないのだから、外部との交渉が思い通りにいかないことも多い。人生の悩みの中心課題である対人関係の悩みを解消することは幸せになるための前提条件といえよう。

対人関係のトラブルは他人の課題に土足で踏み込むことによって引き起こされることが多い。したがって、対人関係のトラブルをできるだけ発生させないためには、その選択によってもたらされる結果を最終的に引き受けるのは誰かという観点から自分の課題と他人の課題を分離し、他人の課題には介入せず、自分の課題には他人から介入させないことが重要である。自分は他人の期待を満たすために生きているのではなく、他人も自分の期待を満たすために生きているのではない。課題を分離するとは、他人の評価を気にかけず、他人から嫌われることも恐れず、個人として自立することである。

幸福は自分が所属する共同体に対する「貢献感」から生まれる。自分が所属する共同体の中での価値を実感することによって自分の能力に自信を持つとともに人々と仲間意識を持つことができれば、外部社会と調和した安定した主観的な世界を築き上げることができるだろう。

アドラーは、過去の原因によって現在の問題が起きているのではなく、現在の目的によって現在の問題が起きていると考える。現在の目的によって問題が起きている以上、我々は過去に何があったかにかかわらず、人生を切り開いていけるし、人生に立ち向かっていくべきだと主張するのだ。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック‐いわゆるトラウマ‐に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。」アドラー心理学では、引きこもりは両親から虐待を受けて育ち愛情を知らないまま大人になり他人との交際が怖くなったために起きているのではなく、外に出て他人と交わるという苦痛を避けつつ周囲の人に大切に扱ってもらいたいという現在の目的を達成するために不安や恐怖をこしらえていると解釈する。

「過去など存在しない」、「人は変われる」ということばは、幸せになれない人々に対する現実逃避の慰めを目的として語られているのではなく、過去のトラウマなど因果関係に逃げ込むことを許さない厳しい思想を表現している。小説家になることを夢見ながら多忙を理由に作品を書き上げようとしない人は、自分の能力を客観的に評価されたり文学賞に応募して落選したりする現実から逃避しようとしているともいえる。変われないでいる原因が自ら変わらないという決心をしているためであり、幸せになる勇気が不足しているためであるとすれば、その結果としての不幸は自己責任として甘受せざるを得ないだろう。「幸せになる勇気」とは「もし何々だったら」という可能性の中に生きることをやめ、現実に挑戦して、仮に失敗すれば前に進むためにライフスタイルを変える強い意志を意味する。

アドラーによれば、幸せになるためには「幸せになる勇気」、すなわち、外部世界の現実を直視し、自らの能力に見切りを付け、現実に挑戦し続ける意志を持たなければならない。そして、世界はどこまでもシンプルである、客観的な世界の現実を直視して自己のライフスタイルを変えよ、と迫る。
アドラーの思想は、弱者としての甘えを許さない、過去に逃げ込むことも許さない、新自由主義的な極めて厳しい考え方である。