竹島(池内敏、2016年)
外務省が使用する「日本固有の領土」という言葉は、「むかしからずっと日本の領土であったこと」とは定義されていない。
「固有の領土」という用語は、1955年の日ソ国交交渉に際して使われ始めた。外務省パンフレット「われらの北方領土」(1987年版)では、「北方四島は、いまだかつて一度も外国の領土になったことがないという意味で、わが国固有の領土です」と説明されている。北方領土は江戸時代まではアイヌの生活圏であって、江戸幕府の支配下にはなかった。尖閣諸島も琉球王国の支配圏に含まれ、沖縄が日本領に含まれるようになる近代初頭に到るまでは日本の領土とは言い難い。外務省は竹島に関する「日本固有の領土」の意味定義を公式説明していないが、北方領土や尖閣諸島の事例で使われている「日本固有の領土」の用例と照らし合わせると、「いまだかつて一度も外国の領土になったことがないこと」を「日本固有の領土」の要件としているようだ。
それでは、竹島は「いまだかつて一度も外国の領土になったことがない日本固有の領土」といえるだろうか。
日本には竹島を描いた古地図が多数存在するが、地理的な知見それ自体は領有権の証明たりえない。
竹島(往時の松島)の歴史は、鬱陵島(往時の竹島または磯竹島)開発の歴史と不可分の関係にある。史料上も今日の竹島は常に鬱陵島の利用にかかわるかたちで現れる。竹島での漁業は、鬱陵島における漁業と組み合わせない限り事業としては成立しないレベルの小規模なものであった。鬱陵島と竹島は、両島の存在が日本人に知られて以来、常に一括して扱われてきた。
江戸時代初期、幕府は戦争によって断交状態に陥っていた朝鮮との関係修復を進めていた。1617年(元和3年)、幕府は朝鮮通信使に対して鬱陵島が朝鮮領であることを再確認している。幕府は鳥取藩に対して鬱陵島への渡海免許を発給していたが、鬱陵島で朝鮮人漁民とのいさかいが発生したことを受けて、1695年(元禄9年)には鬱陵島への渡海を禁止した。その過程で、鳥取藩は幕府に対して、「竹島は鳥取藩領の島ではない、竹島へ出漁するのは、鬱陵島へ渡航する途中にあるから立ち寄って漁をするのであり、鳥取藩以外の者が竹島に出漁することは聞いたことがない」と回答している。幕府による鬱陵島への渡海禁止令には竹島への渡海禁止は明記されていないが、竹島の利用が鬱陵島での経済活動と切り離して存在しえなかった以上、渡海禁止の文面上に竹島の名前が記載されていなくとも、竹島への渡航禁止が含まれているのは当然のことだった。
江戸幕府が竹島への日本人渡航を禁止したことが直ちに朝鮮による竹島の領有権に結びつくわけではない。とはいえ、江戸時代にはわが国による竹島の領有権が確立していなかったことは明らかといえよう。
明治維新後、日本政府は鬱陵島と竹島の帰属問題を検討し、内務省地理寮が竹島について調査を行った。島根県は「日本海内竹島外一島地籍編纂方伺」との文書を取りまとめている。これを受け、1877年には太政官が「書面、竹島外一島の義、本法関係これ無き義と相心得べきこと」との指示を行った。これらの文書の中で「竹島」は現在の鬱陵島、「外一島」は現在の竹島を指している。鬱陵島と竹島は日本政府の管轄外と明言したのだ。
日本政府は、いったん鬱陵島とともに竹島を日本領土ではないと決定した。
1882年に朝鮮政府が鬱陵島の空島政策を撤回して鬱陵島開拓令を出すと、朝鮮人の鬱陵島定住は進んでいった。1883年、朝鮮政府が鬱陵島への日本人の渡航禁止を求めてきたことを受け、日本政府は鬱陵島が朝鮮領であることを確認し、鬱陵島在留日本人の全員引き揚げを命じた。
その後、1904年に島根県の業者が竹島での漁業権の独占をはかり、日本政府に竹島の貸下げを求めた。この業者は竹島が朝鮮領であるとの認識から当初朝鮮政府に対して貸下げ申請を行おうとしていたが、海軍水路部長の示唆を受けて日本政府に申請先を変えている。日本政府部内では、農商務省、海軍、外務省が内務省の反対を押し切り、竹島を日本領に編入した。
1905年1月、日露戦争の中、日本政府は竹島の「無主地編入」を閣議決定した。同年2月、島根県は竹島が日本領になったことを告示した。
日本の敗戦後、1951年に締結されたサンフランシスコ平和条約では「日本国は、朝鮮の独立を承認して、済州島、巨文島および鬱陵島を含む朝鮮に対するすべての権利、権原および請求権を放棄する」と記載された。日本が放棄する領土の対象として竹島は明記されなかった。韓国は「独島」を明記するように求めていたがアメリカに受け入れられなかったのだ。
サンフランシスコ条約締結当時のアメリカ政府は竹島を日本の領土と考えていた。「我々の情報によれば朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐支庁の管轄下にあります。この島は、かつて朝鮮によって領土主張がなされたとは思われません。」
サンフランシスコ条約では竹島が自国の領土であるという韓国政府の主張は認められなかった。1952年の講和条約発効直前、李承晩政権は海洋主権宣言を行い竹島をいわゆる李承晩ラインの内側に取り込んだ。日本政府は韓国の一方的な行動に抗議し、現在に至っている。1965年の日韓基本条約締結の際にも、竹島を巡る論争は棚上げされた。
竹島は江戸時代に日本の領有権が確立したことはなく、日本政府もいったんは日本領土ではないと決定している。日本政府は1905年に竹島を自国領土に編入したが、それ以前の過去の歴史において竹島が単独ではなく常に鬱陵島と一括して取り扱われてきたことを念頭に入れて考えると、竹島の領有権が日韓のどちらにあるかは鬱陵島の領有権によって定まるとも言えるだろう。サンフランシスコ条約によって日本が鬱陵島を放棄した以上、竹島も韓国が領有すると考えることも可能ではないか。
少なくとも、竹島は、「いまだかつて一度も外国の領土になったことがないこと」を基準とすれば、「日本固有の領土」ではない。
冷静な歴史的議論により竹島問題は早急に解決すべきだろう。