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ドイツのアジア覇権を防止するための防衛的南進論:大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯1

2016-06-05 13:36:17 | 日記

大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯1(防衛庁防衛研修所戦史部、1973年)

「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯」全5巻が「欧州戦局の激動」で始まるのは、日本の国家戦略が世界情勢への「対応」であったことを象徴する。「大東亜戦争への道程において、欧州戦局の推移が日本に及ぼした影響を看過するならば、歴史の真相を知り得ないであろう。昭和40(1940)年夏秋のころにおける日本の戦争指導に関しては特に然りであった。」

1937年11月の大本営設置以来、国務と統帥を統合した戦争指導に関しては、主として御前会議を含む大本営政府連絡会議が対応してきた。だが、1938年1月15日の連絡会議において、近衛政権の「国民政府を対手にせず」との声明を巡って政府と陸軍統帥部との間で意見が対立してからは、大本営政府連絡会議は同年11月30日の日支新関係の調整方針を決定した御前会議のほかはほとんど開催されない状態にあった。この間、重要な国策事項は、いわゆる五相会議(首相、外相、陸海軍相および蔵相)、興亜院会議、四相会議(蔵相は必要に応じて追加参加)にて議論された。
近衛文麿は第二次内閣の組閣に先立ち、陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣による最高国防会議の新設を検討していた。だが、軍部特に陸軍にとって、大本営の議に陸海軍相以外の国務大臣を参加させたり、新たに国防会議を設置したりすることは到底受け入れるものではなかった。統帥権独立という明治憲法の解釈に則り、大本営は作戦用兵を管掌する統帥の府であり、あくまで国務大臣は干与すべきでないとの考え方から離れることはなかったのだ。結局のところ、第二次近衛内閣では停止状態にあった大本営政府連絡会議が復活したに過ぎず、国務と統帥が統合されることはなかった。

ドイツは1940年5月に西部戦線にて空軍と機甲部隊による電撃戦を開始した。フランスの政治軍事指導者は第一次世界大戦の戦訓から防衛は攻撃に優ると考えマジノ線で防御を固めていたが、フランス軍はアルデンヌ森林地帯を突破したドイツ軍に翻弄され、開戦直後から壊滅状態となった。グーデリアンによれば「1918年の連合軍の勝利が、主に新しい兵器である戦車に感謝すべきであったが、英仏軍の頭脳を支配していたのは依然たる陣地戦であった。」6月にはフランスが降伏、西ヨーロッパはドイツとその同盟国によって埋め尽くされた。イギリスの敗北も近いと予想された。ダンケルクからの撤退が完了した6月4日、チャーチルは下院で悲壮な演説を行った。「断じて降伏はしない。そして、このことは一瞬といえども信じないのであるが、万が一この島が、あるいはこの島の大部分が征服され、飢餓に苦しもうとも、その時には海外にあるわが帝国はイギリス海軍を武器として、またそれに保護されて、いつかは新世界がその絶大の力をもって旧世界の救援と解放のために起ち上がるその時まで、この闘争を続けるだろう。」

陸軍はドイツ軍の英本土上陸作戦は間もなく行われ、成功するであろう、そしてその結果大英帝国は崩壊のほかはないであろうとの判断に傾いていた。各政党各派も右翼、左翼を問わず、一斉に声明や決議を行い、英米追随外交の清算と南方問題の解決を訴えた。朝日新聞はドイツの欧州大陸制覇と長期不敗の可能性を指摘した。「英米海軍の優勢だけでドイツを打倒し得るに至るものとは今日のところ考えられない。なんとなれば、ドイツはイタリアの参戦を得、フランスの降伏により今やヨーロッパ大陸の制覇を実現するに至り、物資、食糧においてその立場を補強し、かつその精鋭なる陸軍に対し、英米陸軍が善戦し得るとは考えられないからである。」

欧州戦争におけるフランスとオランダの降伏はアジア情勢にも大きな影響を及ぼした。インドシナとインドネシアをそれぞれ植民地とするフランスとオランダの本国政府が崩壊し、イギリスも欧州戦争で苦境に陥っていた。植民地大国の政治軍事力が急激に減衰し、アジアに大きな力の空白が生まれたのだ。一方、この状況を放置しておけば、これまでの欧州列強に代わりドイツがアジアに乗り出してくることも考えられた。日本は特に石油などの資源が豊富な蘭印の帰趨に強い関心と懸念を持っていた。ドイツ側は、オットー大使が「ドイツは蘭印の問題には関心を有しない」との発言を行っていたものの、日本が求めた明確な意志表示を行おうとはしなかった。ドイツは、蘭印および仏印の問題を、日本を枢軸陣営に引き入れるための駆け引きに利用しているんではないかとの観測も生まれていた。

蘭印が資源確保の問題であったのに対し、仏印は援蒋ルート遮断の問題であった。当時、支那事変は3年目を迎え、陸軍は蒋介石夫人宋美齢の実兄「宋子文」を通じた桐工作によって支那事変の早期解決を探っていた。重慶の蒋介石政権は依然として長期抗戦を唱えていた。蒋介石の継戦の背景には英米からの軍需物資支援があり、その大部分は仏印ルートとビルマルートにて送られていた。日本は仏印政府に対して「仏印は日本軍が支那反日政権に対して執る軍事行動に必要なる便宜を供与すべし」と申し入れ、ビルマルートについてもイギリスに3ヶ月間の停止を受諾させた。

重光駐英大使は「勝敗の帰趨なお逆賭し難し」とする一方で、「日本のいわゆるレーベンスラウムたる東亜は、南洋の地域が新に大国の領有に帰するが如きことありては、日本は将来この国とも戦争の危険を包蔵することとなりて東亜の安定に外あり、今日勇気をもって之を防止し置くの要あり」との防衛的南進論を述べていた。陸海軍ではドイツ勢力の蘭印への進出が真剣に憂慮されていた。「ドイツは戦後場合によっては、蘭印、仏印および支那に対して経済的活動を活発に行うこともあるべく、殊に仏国および蘭国を自国の領土とせざるまでも、活動的なるナチ党員を派遣して、之を自己の政治的指導の下に置くべきことも考えられるにつき、日本の対仏印蘭印工作は、之を予防するために急速なるを要する。日本としては仏印、蘭印を欧州より切り離すことに努力するを要する。」

短期的な「情勢の推移に伴う」対応が繰り返された。
ドイツの欧州戦争勝利が前提となり、ドイツのアジア覇権を防止するための防衛的南進論が議論され、日本はドイツとの利害調整を目的とする三国同盟へと進んでいく。

憲法の国家組織規定の欠陥を放置したことが国を滅亡に追い込んだ:大本営機密日誌

2016-06-04 13:06:13 | 日記

大本営機密日誌(種村佐孝、初版1952年)

昭和15年(1940年)3月30日、南京に汪兆銘政権が成立した日、参謀本部と陸軍省は「昭和15年中に支那事変が解決できなかったならば、16年初頭から逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮小する」との処理方針を決定した。事変解決に悩みぬいた参謀本部は密かにこの決意を固めて同年中に政戦略を併せ用いて事変処理に邁進することとなった。この重要決定が行われると、さっそく陸軍省は参謀本部と今後の兵力量の打ち合わせを開始した。「もともとこの撤兵案は陸軍省の発案によるものだ。さきに14年の暮、陸軍省は昭和15年度の陸軍予算を交渉するにあたって大蔵省との間に予算4ヵ年計画を決定した。たしか、支那事変費昭和15年55億円、16年45億円、17年35億円、18年以降25億円という内容のものであった。すなわち、予算面から間接的に参謀本部を抑制しよう、いわば、事変解決に参謀本部も陸軍省も手を焼いているので、予算で統帥をくくりつけ、むりやり支那から撤兵させよう、というのが陸軍省の考えであり、当時参謀本部としても内々黙認した形であった。昭和15年度の臨時軍事費はこんな前提の下に確定されていた。」

だが、同年5月にドイツが西部戦線にて電撃戦を開始すると参謀本部の空気は急変した。「わずか2ヵ月前、さる3月30日には、もっぱら支那事変処理に邁進し、いよいよ昭和16年から逐次撤兵を開始するとまで思いつめた大本営が何時しかこのことを忘れて、当時流行のバスに乗り遅れるという思想に転回して、必然的に南進論が醸成せられるに至ったのである。」6月22日には「いままで支那の兵力を減らすことばかり算盤をはじいて支那逐次撤兵まで決めていた陸軍省軍事課が、すっかり大転回して対南方強硬論をとなえた。これからすぐシンガポール奇襲作戦をやれというのである。」

日本では国家戦略を決定し戦争指導を行う国家最高指導者は存在しなかった。

「天皇は、旧憲法によれば統治、統帥、開戦講和など多くの大権保有者とされていた。だが事実上はその権力を行使しない存在であった。
 そこで太平洋戦争前後を通じての日本の戦争指導は、政治の最高輔弼者たる内閣総理大臣と、統帥の最高輔翼者たる軍令部総長および参謀総長の三者の鼎立において行われたようなものである。
 総理大臣は、内閣においても自己の意思に基いて決定的には統裁できず、一方統帥に対してはほとんど嘴を入れることすらできなかった。総理大臣が主宰する内閣には、実際には、陸海軍の編成大権輔弼責任者として陸海軍大臣があり、外交大権輔弼責任者として外務大臣が存していた。国務大臣たる各省大臣もまた天皇に直属しているのであるから、本人の同意ない限り総理大臣の意志だけでは、その主管事項およびその進退をどうすることもできなかった。閣議は全員一致でなければ成立しないことは内閣官制で決められていた。こう見てくると、日本の旧憲法では、戦争指導上の責任者は究極のところはっきりせず、いわば寄合世帯だったのである。
 最高指導者のなかったことに関連して、統帥権の独立と陸海軍の対立的存在とは、戦争指導を困難にした最大の原因であった。
 支那事変が始まったときだった。時の総理近衛文麿公は、軍がどこまで兵を進め如何なる意図をもつのか、ほとんど統帥については知らなかった。新聞記事で戦況を知るくらいのものであった。陸海軍のやることを、あれよあれよと見送るほかに手はなかったといっていいくらいだった。統帥と政治の協調に任ずるのは陸海軍大臣であったけれども、統帥部の将来の企図に関しては、統帥権の独立という見地から一言も触れられなかったからである。これでは近衛総理がいかに支那事変を極地で解決しようと考えても、どうにも方法がなかったわけだ。そこで昭和12年11月大本営の設置と同時に、大本営政府連絡会議を設け、重要な議題は前もって議決することにしたのである。これは憲法上にない戦時特別の措置であるが、その規定がなかなか難しく、連判しなければ会議を開くことも出来ない有様で、その運営は極めて窮屈なものであった。
 これでは政府と統帥部との緊密な連携は出来ないというので、昭和15年12月からは大本営政府連絡懇談会を毎週定例的に開くこととなり、意志の疎通はできるようになったものの、統帥権の独立という強い盾は厳存していたので、統帥の内容を議論することはほとんどなかった。
 一方陸海軍の軍政、軍令に関しては、相互に協議を要する事項以外は、陸軍限り、海軍限りでやって一切相手に束縛を受けず、極端にいえば秘密にしているから相互に相手の事情がさっぱりわからない。また協議を要する問題になると、これを裁く者がないから、難しくなれば、折半するかどちらか妥協するかしなければ、始末がつかなかったのである。戦時中の船や飛行機や占領地の分けどりが雄弁にこれを証明している。
 これが日本の旧憲法で定められていた国家組織の本質であった。いいかえれば、日本には実際上の最高戦争責任者はなかったのである。これが日本の悲劇を生んだ根本の、そして最大の原因だった。・・・終戦一年前小磯内閣になって最高戦争会議を設けたが、名前を変えただけのものだった。」

「大本営とは、統帥権輔翼の最高機関であったが、近代戦に必要な政戦両略の運用を行う戦争指導機関ではなかった。これは大本営令により明らかである。昭和12年11月大本営が設置され、参謀本部は大本営陸軍部、軍令部には大本営海軍部という大きな看板が、一見さも仰々しく掲げられ終戦まで続いたが、中身はちっとも変っていないから、陸海軍統帥部の協調や国務と統帥との協調には寸分の寄与もしなかった。大本営陸軍部とは参謀本部、大本営海軍部とは軍令部ということと本質的には全く同じであった。」

ロンドン軍縮会議後の統帥権干犯問題で、既に大日本帝国憲法の国家組織規定の問題点と欠陥は明らかになっていた。
大日本帝国憲法ではすべての権力は天皇に一元的に集約されていた。立憲君主制としての憲法運用ができないのであれば、天皇を輔弼、輔翼する強力な統一機関を作り、その機関によって国家意思決定を行わなければならなかった。
 
大日本帝国は最後まで政府と統帥が分立し、また統帥の中でも参謀本部と軍令部が分立し、権力鼎立状態のなかで戦争に突入し、滅亡した。

東亜百年戦争:大東亜戦争肯定論

2016-05-29 14:11:14 | 日記

大東亜戦争肯定論(林房雄、初版上巻1964年、下巻1965年)

幕末明治の開国派もまた攘夷派であった。開国とは攘夷のための実力をたくわえる手段に他ならなかった。攘夷派と開国派の違いは、攘夷をすぐに行うか、あるいは軍事力を充実させてから撃退を実行するかのタイミングの差異に過ぎなかった。したがって、攘夷派の志士が開国派に転向することも難しいことではなかった。彼らは攘夷論を捨てたのではなく、開国論という迂回戦術に発展させたのだ。

欧米への反撃として、明治維新後の日本政府はまず欧米各国との不平等な条約の改正に取り組まなければならなかった。
江戸幕府が1856年に締結した日米修好通商条約によって、開港場に外人居住地(租界)が作られ、アメリカには治外法権が認められた。また、日本は関税自主権を失った。幕府は同様の権利ををオランダ、イギリス、ロシア、フランス、ポルトガル、ドイツ、スエーデン、ベルギー、イタリア、デンマークの各国に対しても与えた。明治政府がこの不平等条約を最終的に撤廃するまでには五十年以上の年月を要した。日本が欧米列強と平等な条約を締結するためには、明治時代のほぼ全期間という長い期間と、日清戦争と日露戦争による膨大な犠牲を必要としたのだ。外国人による永代借地権は太平洋戦争中の1943年まで残っていた。

19世紀後半は西洋列強による世界の植民地化、世界分割の時代だった。列強による中国の実質的な分割、勢力圏の設定は続いていた。日本はこのような帝国主義列強から身を守り、対抗していかなければならなかった。

自由民権運動の民権論は国権論でもあった。自由党の民権論は実は国権論であり、伊藤博文の国権論は必ずしも民権論の全面否定ではなく、民権派の板垣と大隈はしばしば入閣した。中江兆民は国権論者、大アジア主義者として死んだ。自由民権運動は、外に対しては東亜進出の急先鋒となり、内に対してはやがて発生した社会主義運動の正面の敵となっていった。日本右翼の宗社、玄洋社も北九州における自由民権運動の一翼として1881年に創立された。玄洋社はその憲則にて「第一条 皇室を敬戴すべし。第二条 本国を愛重すべし。第三条 人民の権利を固守すべし。」と定めた。玄洋社社史は「民権の伸長を叫ぶと共に、国権の伸長を叫び、民選議院の開設を呼号するとともに国威発揚を呼号し、また外征侵略を高唱せるなりき」と記している。

朝鮮併合は日本の利益のために行われ、朝鮮民族に大きな被害を与えたことは事実である。だが、朝鮮を狙っていたのは日本だけではなかった。清は朝鮮を属領とみなしていたし、ロシアは満洲から朝鮮に向けて南下政策を展開しようとした。日本は日清戦争、日露戦争によってこれらの勢力を撃退し、列強各国に朝鮮を日本の勢力圏として認めさせた。日本は欧米への反撃、東亜百年戦争の過程の中で、朝鮮を併合した。

幣原外交は国際協調と中国に対する徹底的な内政不干渉主義の双方を実現しようとした。しかし、イギリスなどの列強各国は国際協調を唱えつつ、既存の権益確保のためには中国への干渉を辞さなかった。国際協調主義は列強との「国際協調」をもたらさず、中国への内政不干渉主義は日本の権益擁護に役立たなかった。

日露戦争の結果、日本は満州に権益を持った。清朝は漢人の移住を「封禁令」によって制限していたため、明治中期までの満州は満蒙族三百万人と漢民族二百万人の住む土地に過ぎなかった。孫文の革命同志会は当初、倒満興漢を標語に清朝を倒して清国政府をその故郷である満州に追い返すことを主張し、孫文以下の指導者も「中国にとって満州は外国であり、革命成功後の満州問題は日本に一任する」と公言していた。しかし、辛亥革命が起き清朝が滅亡すると、その後の混乱の中で山東省などから二千万または三千万と称せられる大量の移民が流入し、満洲は漢民族の土地に変質してしまった。満洲の中国本土化に伴い、国民党は満州を中国の当然の一部とみなすようになった。日本は漢民族の大量移民による中国本土化という現実に圧倒され、関東軍は日本の権益を擁護するという観点から満州事変を起こし、国民は熱狂的に満洲国の建国を支持するに至った。

中国でナショナリズムは国民運動となり、租界奪回、不平等条約廃棄、外貨排斥、ストライキなど様々な運動が発生した。元来、中国のナショナリズムは列強各国に対抗するものだった。だが、日本は第一次世界大戦中の対支二十一カ条要求に始まり、満州事変、支那事変と中国に対して露骨な帝国主義政策を続けたため、排日運動が著しく激化し、国民党はイギリス、アメリカなどの他の帝国主義列強と結んで日本と抗争することとなった。日本は英米と対立を深め、ナチスドイツと接近して欧州国際政局に巻き込まれ、遂には日米開戦に追い込まれた。

日本人は真珠湾攻撃によって遂に「攘夷」を実現した。その報を受け、高村光太郎は書いた。「頭の中が透きとおるような気がした。世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった。この刻々の時間こそ、後の世から見れば歴史の急曲線を描いている時間だなと思った。」

帝国主義に徹しきれなかった日本:満州事変とは何だったのか

2016-05-28 15:47:53 | 日記

満州事変とは何だったのか(クリストファー・ソーン、1972年)

1921年から22年に開催されたワシントン会議の結果、第一次大戦後の列強間の国際関係の枠組みとなる「ワシントン体制」が生み出された。主力艦の保有比率はアメリカ、イギリス、日本、フランス、イタリアの五カ国の間で5:5:3:1.75:1.75と決定された。日英同盟に代わってアメリカ、イギリス、フランス、日本による四カ国条約が取り決められ、現状の尊重、そして太平洋の各領土の島々が外部からの脅威あるいは署名国間の争いによって危険にさらされた場合には協議を行うことが約束された。中国については、九カ国条約により中国の主権の独立を再確認し、中国の領土と行政の保全を尊重することになっていたが、各国がこの条約によって何らかの具体的な義務を負うことはなく、署名国が必要と認めた場合には「十分かつ率直な意思の疎通」をはかる旨が規定されたに過ぎなかった。

清朝崩壊後の中国は依然として混乱状態にあった。国民党は多くの派閥に分裂し、軍閥は各地に跋扈していた。このような状況の中、中国に利権を持つ列強各国は個別に自国の利益を守ろうとした。
日本は中国に対する外国投資額のうち35.1%を占め、イギリスに次いで第二位の投資国となっていただけでなく、全海外投資額の81.9%を中国に向けていた。日本の中国における投資の三分の二は満洲、特に南満州鉄道による商工業活動に投入されていた。貧しい日本にとって、中国の権益は死守しなければならないものだった。
イギリスは中国に対する最大の投資国であり、その投資額の約六割は上海地区に集中していた。大きな既存権益を持つイギリスは極東における国家の威信を維持し、中国の利権を何とか保全し続けようとした。日本であれ他の国であれ、一国だけが中国を支配下に置くことになれば自国の権益が失われることとなるため、日本が中国を勢力下に置くことには反対し続けたが、自国権益擁護の観点から日本への対応も現実的な政策を取らざるを得なかった。
フランスは既存権益の確保と仏領インドシナの安定のため、極東ではただ現状維持を望むだけだった。欧州各国の中でアジアに大きな権益をもつもう一つの国、オランダも蘭領東インドの防衛の観点から日本に対しては慎重な姿勢を続けざるを得なかった。

列強の利害関係を総合すれば、日本は権益擁護を交渉材料として、そして列強と中国権益を分け合って、各国の支持を得つつ中国への進出を進めるという政策を取ることもできたかもしれない。
だが、この現実的な政策は日本国内で支持を受けることはなかった。欧米協調路線にて外交を運営した幣原外交も、列強の権益擁護のために協調して中国に介入しようという提案は拒否した。

第一次世界大戦後の国際政治には、アメリカと国際連盟を活躍の舞台とする欧州の小国という新しいプレーヤーが登場していた。
アメリカの中国における直接的な利害関係は日本、イギリスと比較すると小さなものだった。他の列強と異なり、中国におけるアメリカの「勢力圏」は存在しなかった。このため、アメリカは現実から離れて理想主義を語ることもできた。
欧州の小国は、国際連盟体制が自国の安全保障に直結していたため、軍事力による国際秩序の現状からの変更については、具体的な利害関係とは関係なく、強く反対した。
とはいえ、日本が中国の権益をどうしても維持したいと考えているイギリスと結託し対抗すれば、国際的な孤立に到ることもなかっただろう。

日本は帝国主義に徹しきることができなかった。

武装攘夷:日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」

2016-05-01 13:31:39 | 日記

日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」(松本健一、1998年)

幕末の開国は日本にとって「一体として外から迫って来た『国際社会』にたいして、否応なく『世界』と『われ』の意識を目覚され、国際的環境との調整の問題に急激に直面した」経験だった。「ヨーロッパで長期的に生長した諸々の文化的諸要素が、キリスト教も『資本』も、養老院も大砲軍艦も、義務教育も『テレグラフ』も、国家主権も選挙制も、一度に重なり合い、『西洋』という巨大な塊となって殺到したわけである。この自己と全く価値体系と伝統を異にする『西洋』にトータルに屈服するか、それともこれをトータルに拒否して、自足的な体系を固守するか。このディレンマが何より『開国』の中核的な課題」であった。(丸山真男「開国」)

幕末の日本には蒸気船も、洋式大砲も、反射炉も、株式会社も、義務教育も、国民議会も、国際法も、何もなかった。この状態で、一切の近代の「文明」をもっている西洋、すなわち帝国主義列強と対抗することは到底不可能だった。そこで、幕末の日本は、幕藩体制と門閥制度の徳川時代を自己否定しつつ、自己と異質な西洋の「文明」を手に入れて、近代国家へと自己変革していくしかなかった。「開国」は是非の議論を超えた余儀なき選択だった。

開国によって日本は「西洋」よりも劣位に位置付けられた。「西洋」をトータルに拒否できない以上、日本を国際社会の中で列強と対等な地位に引き上げ、日本人としての自尊心と誇りを取り戻すためには、「西洋」の科学技術と社会制度を吸収し、自らが列強と同様の実力を持つしかなかった。日本は日清戦争、日露戦争に勝利し、不平等条約の改正にも成功し、アジアにおける列強の一員として認知されることとなった。

日本は列強として帝国主義国家「間」の国際関係に関与する立場となった。だが、日本にとって国際政治抗争の本場である欧州は遠く、またそこに核心的な利害関係も持ち合わせてはいなかった。その結果、日本は帝国主義国家「間」の調整に当事者として入り込むはできず、与えられた国際情勢の中で自国の利害を最大化しようと動くこととなった。日本のアジアにおける自国の利益を極大化しようとして列強と対立し、その結果として全世界的な国際情勢に巻き込まれ、絡めとられていった。

帝国主義列強として生き残るためには、自らの国力を強め、軍事力によって他の列強と対抗し続けるしかない。辛亥革命(1911年)により清朝が崩壊して中国の混乱が続くと、日本は中国における利権を拡大しようとした。日本が中国情勢に関与し始めると、日本と同じく中国で優越的な地位を確保しようとしていた帝国主義列強との利害衝突が起きた。第一次世界大戦中に大隅内閣が行った「対支二十一カ条の要求」(1915年)は中国における排日運動に火を付けただけでなく、中国を巡るアメリカとの対立関係の嚆矢としても重要である。石橋湛山は中国を巡る日米の帝国主義国同士の覇権競争がいずれは「日米衝突」にいたるのではないかと危険性を指摘していた。「両国のこの活動が、支那という一つ舞台に落合って、衝突し、火花を散らしつつある、というのが、支那を取り入れてみるとき、日米両国の現在の関係ではないか。されば一朝誤って日支間に火が付けば、その火は直ちに米国に延焼すべきや、殆んど疑いを容れない。」(東洋経済新報1920年1月24日号)

孫文は宮崎滔天に向けた手紙の中で次のように述べている。「日本が引き続き古き(中国軍閥)を助け新しき(国民党)を抑える手段を取り続けるならば、中国の内乱はいつ果てるとも知れない。(そうであれば)私も、こと志に反して、英米と親しんで日本を排斥せざるを得なくなるが、これはすべて日本の責任である。」
だが、日本では中国との利権交渉が全世界的な帝国主義列強との国際関係調整の一環であるとはとらえられなかった。
1924年に神戸を訪れた孫文は、辛亥革命の支援者であった犬養毅と玄洋社の頭山満に会見を申し入れたが、逓信大臣であった犬養毅は「何しろ今の身では一寸神戸まで行きかねる」といって神戸行きをとりやめ、頭山満は中国が辛亥革命以前に欧米諸国との不平等条約だけでなく「不平等条約」の象徴ともいうべき「対支二十一カ条」撤廃を孫文が求めてくるだろうと予想して、会見の冒頭で孫文に釘をさした。「貴国四億の国民を以てして、外国の軽侮と侵害を甘んじて受くるが如きは、苟も国家を愛する志士豪傑の之を憤るは当然である。嘗て満蒙地方が露国の侵略を受けし時の如き、幸にして我が日本の相当の実力ありたればこそ、多大の犠牲を払って、唇歯輔車関係にある貴国保全のため之を防止するを得たのである。依って同地方における我が特殊権の如きは、将来貴国の国情が大いに改善せられ、何等他国の侵害を受くる懸念のなくなった場合は勿論還付すべきであるが、目下オイソレと還付の要求に応じるが如きは、わが国民の大多数が承知しないであろう。」

1930年のロンドン海軍軍縮条約締結にあたり、政友会の犬養毅と鳩山一郎は政争の具として「統帥権干犯」を持ち出した。「一般の政務之に対する統治の大権については内閣が責任を持ちますけれども、軍の統制に関しての輔弼機関は内閣でではなくして軍令部長又は参謀総長であるということは、今日までは異論がない。」「国防計画を立てるということは、軍令部長又は参謀総長という直接の輔弼機関がここにあるのである。その統帥権の作用について直接の機関がここにあるに拘らず、その意見を蹂躙して輔弼に責任の無い、輔弼の機関でないものが飛び出してきて、これを変更したということは、全く乱暴であるといわなくてはならぬ。」
政党政治は政争によって自滅した。

統帥権は軍部内の統制を弱め、幕僚支配を正当化する役割も果たした。
1931年9月18日、関東軍は満州事変を起こす。陸軍中央部は「関東軍独立」を抑えるために「関東軍が帝国軍より独立して満蒙を支配せんとするが如き新たな企図は、之を差し控うべし」(陸満109号)との電文を各司令部に送信したが、これに対して関東軍参謀部は「陸満109号が(陸軍中央部から関東軍を経ずして直接部下団隊に発せられたのは)、神聖なる統帥権を侵害し、軍の団結を根底より破壊し、かつ志気に影響する重大問題(なり)。早速撤回せられたることを望む。」と反論したのだ。

陸軍・海軍の幕僚は「統帥権」を操って国政を支配し、中国を屈服させ、日本の利権を拡大しようとした。
日本は中国を巡って英米との関係が悪化し、英米勢力への対抗策としてナチスドイツと同盟を結んだが、その結果、英米との関係は修復不可能となった。

この時代の日本には幕末と異なり、軍艦も、空母も、陸軍も、製鉄炉も、存在した。外部からの干渉を排除し、自らにとってここちよい世界を作ろうとする衝動を抑えきることはできなかった。
西田幾多郎は1943年初めに国策研究会で行った講演「世界新秩序の原理」で次のように述べている。「歴史的地盤から構成された特殊的世界が結合して、全世界が一つの世界的世界に構成せられるのである。かかる世界的世界においては、各国家民族が各自の個性的な歴史的生命に生きると共に、それぞれの世界史的使命を以て一つの世界的世界に結合するのである。これは人間の歴史的発展の終局の理念であり、しかもこれが今日の世界大戦によって要求せられる世界新秩序の原理でなければならない。我が国の八紘為宇の理念とは、かくの如きものであろう。」

日本は「西洋」をトータルに屈服させ、その結果として「西洋」をトータルに拒否しようとした。
幕末から70年余にわたって国力を蓄積し続けた日本は遂に「西洋」に対する武装攘夷に踏み切り、そして敗れた。