大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯1(防衛庁防衛研修所戦史部、1973年)
「大本営陸軍部大東亜戦争開戦経緯」全5巻が「欧州戦局の激動」で始まるのは、日本の国家戦略が世界情勢への「対応」であったことを象徴する。「大東亜戦争への道程において、欧州戦局の推移が日本に及ぼした影響を看過するならば、歴史の真相を知り得ないであろう。昭和40(1940)年夏秋のころにおける日本の戦争指導に関しては特に然りであった。」
1937年11月の大本営設置以来、国務と統帥を統合した戦争指導に関しては、主として御前会議を含む大本営政府連絡会議が対応してきた。だが、1938年1月15日の連絡会議において、近衛政権の「国民政府を対手にせず」との声明を巡って政府と陸軍統帥部との間で意見が対立してからは、大本営政府連絡会議は同年11月30日の日支新関係の調整方針を決定した御前会議のほかはほとんど開催されない状態にあった。この間、重要な国策事項は、いわゆる五相会議(首相、外相、陸海軍相および蔵相)、興亜院会議、四相会議(蔵相は必要に応じて追加参加)にて議論された。
近衛文麿は第二次内閣の組閣に先立ち、陸海軍両総長、内閣総理大臣、陸海軍大臣による最高国防会議の新設を検討していた。だが、軍部特に陸軍にとって、大本営の議に陸海軍相以外の国務大臣を参加させたり、新たに国防会議を設置したりすることは到底受け入れるものではなかった。統帥権独立という明治憲法の解釈に則り、大本営は作戦用兵を管掌する統帥の府であり、あくまで国務大臣は干与すべきでないとの考え方から離れることはなかったのだ。結局のところ、第二次近衛内閣では停止状態にあった大本営政府連絡会議が復活したに過ぎず、国務と統帥が統合されることはなかった。
ドイツは1940年5月に西部戦線にて空軍と機甲部隊による電撃戦を開始した。フランスの政治軍事指導者は第一次世界大戦の戦訓から防衛は攻撃に優ると考えマジノ線で防御を固めていたが、フランス軍はアルデンヌ森林地帯を突破したドイツ軍に翻弄され、開戦直後から壊滅状態となった。グーデリアンによれば「1918年の連合軍の勝利が、主に新しい兵器である戦車に感謝すべきであったが、英仏軍の頭脳を支配していたのは依然たる陣地戦であった。」6月にはフランスが降伏、西ヨーロッパはドイツとその同盟国によって埋め尽くされた。イギリスの敗北も近いと予想された。ダンケルクからの撤退が完了した6月4日、チャーチルは下院で悲壮な演説を行った。「断じて降伏はしない。そして、このことは一瞬といえども信じないのであるが、万が一この島が、あるいはこの島の大部分が征服され、飢餓に苦しもうとも、その時には海外にあるわが帝国はイギリス海軍を武器として、またそれに保護されて、いつかは新世界がその絶大の力をもって旧世界の救援と解放のために起ち上がるその時まで、この闘争を続けるだろう。」
陸軍はドイツ軍の英本土上陸作戦は間もなく行われ、成功するであろう、そしてその結果大英帝国は崩壊のほかはないであろうとの判断に傾いていた。各政党各派も右翼、左翼を問わず、一斉に声明や決議を行い、英米追随外交の清算と南方問題の解決を訴えた。朝日新聞はドイツの欧州大陸制覇と長期不敗の可能性を指摘した。「英米海軍の優勢だけでドイツを打倒し得るに至るものとは今日のところ考えられない。なんとなれば、ドイツはイタリアの参戦を得、フランスの降伏により今やヨーロッパ大陸の制覇を実現するに至り、物資、食糧においてその立場を補強し、かつその精鋭なる陸軍に対し、英米陸軍が善戦し得るとは考えられないからである。」
欧州戦争におけるフランスとオランダの降伏はアジア情勢にも大きな影響を及ぼした。インドシナとインドネシアをそれぞれ植民地とするフランスとオランダの本国政府が崩壊し、イギリスも欧州戦争で苦境に陥っていた。植民地大国の政治軍事力が急激に減衰し、アジアに大きな力の空白が生まれたのだ。一方、この状況を放置しておけば、これまでの欧州列強に代わりドイツがアジアに乗り出してくることも考えられた。日本は特に石油などの資源が豊富な蘭印の帰趨に強い関心と懸念を持っていた。ドイツ側は、オットー大使が「ドイツは蘭印の問題には関心を有しない」との発言を行っていたものの、日本が求めた明確な意志表示を行おうとはしなかった。ドイツは、蘭印および仏印の問題を、日本を枢軸陣営に引き入れるための駆け引きに利用しているんではないかとの観測も生まれていた。
蘭印が資源確保の問題であったのに対し、仏印は援蒋ルート遮断の問題であった。当時、支那事変は3年目を迎え、陸軍は蒋介石夫人宋美齢の実兄「宋子文」を通じた桐工作によって支那事変の早期解決を探っていた。重慶の蒋介石政権は依然として長期抗戦を唱えていた。蒋介石の継戦の背景には英米からの軍需物資支援があり、その大部分は仏印ルートとビルマルートにて送られていた。日本は仏印政府に対して「仏印は日本軍が支那反日政権に対して執る軍事行動に必要なる便宜を供与すべし」と申し入れ、ビルマルートについてもイギリスに3ヶ月間の停止を受諾させた。
重光駐英大使は「勝敗の帰趨なお逆賭し難し」とする一方で、「日本のいわゆるレーベンスラウムたる東亜は、南洋の地域が新に大国の領有に帰するが如きことありては、日本は将来この国とも戦争の危険を包蔵することとなりて東亜の安定に外あり、今日勇気をもって之を防止し置くの要あり」との防衛的南進論を述べていた。陸海軍ではドイツ勢力の蘭印への進出が真剣に憂慮されていた。「ドイツは戦後場合によっては、蘭印、仏印および支那に対して経済的活動を活発に行うこともあるべく、殊に仏国および蘭国を自国の領土とせざるまでも、活動的なるナチ党員を派遣して、之を自己の政治的指導の下に置くべきことも考えられるにつき、日本の対仏印蘭印工作は、之を予防するために急速なるを要する。日本としては仏印、蘭印を欧州より切り離すことに努力するを要する。」
短期的な「情勢の推移に伴う」対応が繰り返された。
ドイツの欧州戦争勝利が前提となり、ドイツのアジア覇権を防止するための防衛的南進論が議論され、日本はドイツとの利害調整を目的とする三国同盟へと進んでいく。