ワイマル共和国史(エーリッヒ・アイク)
ワイマール共和国は左右両翼の激しい対立の中で議会制民主主義が機能しなくなっていた。
1930年3月に成立したブリューニング内閣は財政立て直しを進めようとしたが、社会民主党、共産党、ナチスなどの反対により財政赤字補填法案を成立させることはできなかった。1930年7月、彼は憲法第48条に基づく大統領の非常権限によって国会通過に失敗した財政赤字補填法を成立させ、直ちに実施した。社会民主党は「大統領の緊急令が布告される時点で実際に公共の安寧秩序が重大な懸念に脅かされていること」という第48条3項の要件を満たしていないため、緊急令は無効であるとの動議を提出し、国会の表決ではこの動議が僅差で可決された。この表決結果をみたブリューニングは直ちに立ち上がり、大統領の国会解散命令を読み上げた。
9月14日に実施された総選挙では、社会民主党が143名と議員数を減らしたものの引き続き国会第一党の勢力を維持した。ナチスは107名が当選し、選挙前の12名から大きく躍進して第二党となった。共産党も77名を当選させた。世界恐慌の中で、ドイツの経済状況は悪化を続け、1931年1月には求職者総数は490万人に増加した。1931年5月のオーストリア信用銀行危機はドイツに波及し、7月には銀行の取り付け騒ぎが起きた。しかし、ヒンデンブルグ大統領の信任を受けたブリューニングの地位が揺るぐことはなかった。ブリューニングは第一次世界大戦におけるドイツ陸軍総司令官ヒンデンブルグ元帥を尊敬し、その意を忖度して政治を進めた。
ワイマール共和国大統領の任期は7年であり、1925年にに当選したヒンデンブルグの任期は1932年4月に満了することとなっていた。ヒンデンブルグは既に84歳の老齢に達しており、一日の中で十分な行動力と判断力を発揮できる時間は限られていた。だが、大統領の職権はワイマール共和国を維持するために不可欠となっていた。政権を維持していくためには大統領の信任と憲法第48条による緊急令の利用がどうしても必要だった。君主制支持者のヒンデンブルグがワイマール共和国の命運を握るという皮肉な状況になっていたのだ。
ブリューニングは大統領の任期延長を模索した。このためには憲法改正が必要となり、そのためには国会での3分の2の賛成が前提となる。彼は各党と協議したが、交渉は成功しなかった。ヒトラーが大統領選挙に立候補するのは明らかだった。ワイマール憲法では大統領は満35歳以上のドイツ人であることを要件として定めていたため、彼は1932年2月にドイツの公民権を取得した。
ワイマル憲法制定の際に大統領の国民直接公選制を強く主張したのはマックス・ウェーバーだった。彼は、公選制によって、ドイツ国民は常にかなり数多くの「国民大衆に強い影響力を持つ優秀な指導者」の中からドイツ国民が適材を選出できると考えていた。だが、1932年の大統領選挙は、84歳の現職ヒンデンブルグとヒトラーの争いとなってしまった
3月13日の第1回投票、4月10日の第2回投票でヒンデンブルグは大統領に再選された。老衰が進み、ヒンデンブルグはいよいよ側近と古い友人の意見に動かされやすくなっていった。大統領の子であるオスカーや大統領官房長官のオイスナーが大統領の側近として大きな権力を持つこととなった。ヒンデンブルグは大統領再選に貢献したブリューニングにも不信感を強めた。国会の多数派ではなく大統領の信任を受けて成立した大統領内閣は、大統領の信任を失えばすぐに崩壊する。5月30日に第二次ブリューニング内閣は総辞職に至った。
権力を求める策謀家がヒンデンブルグに取り入り、経済危機が続く中でドイツの政治は混迷を続けた。ヒンデンブルグに次期首相パーペンを推薦したのはシュライヒャーだった。シュライヒャーはパーペンを自分の思い通りに動かせる男と考えていた。その如才なさと優れた社交手腕により、パーペンは短い間にヒンデンブルグのお気に入りとなった。パーペンはヒトラーの要求を受けて国会を解散した。7月31日の選挙ではナチスが230名を当選させ、国会第一党にのし上がった。ゲーリングが議長となった国会ではパーペンが大統領の解散命令書を読み上げる前に内閣不信任案が可決された。11月6日の選挙では、ナチスが減少したものの196名と第一党の地位を守った。選挙後、パーペンは各党との協力ができないか交渉したが、その結果として判明したのはパーペンという人物の存在自体が各党との協力の最大の障害となっていることだった。ヒンデンブルグもその寵愛するパーペンを総辞職させるしかなくなった。
パーペン内閣の国防相となっていたシュライヒャーは、ナチスのグレゴール・シュトラッサーを抱き込んで入閣させてナチスを分裂に追い込み、「労働組合枢軸」内閣を作り上げて社会民主党と中央党の好意的な支持を得ようとする構想を提案したが、ヒンデンブルグはこれを拒否した。パーペンは再組閣を熱望していたが、その夢はかなわず、シュライヒャー内閣が1932年12月3日に成立した。翌年1933年1月4日、パーペンはヒトラーとケルンで会談し、シュライヒャー打倒の陰謀に乗り出した。大統領内閣の命運は85歳になったヒンデンブルグ大統領の気持ち一つだった。大統領はパーペンを偏愛していた。シュライヒャー首相はヒンデンブルグ大統領に対してパーペンと面会する際には自分も立ち会わせてほしいと依頼したが、首相の要望はかなえられなかった。1月23日、シュライヒャーは大統領に国会解散命令を要請したが、ヒンデンブルグはこれに支持を与えなかった。1月28日に至りシュライヒャー内閣は総辞職に追い込まれた。
シュライヒャー首相の辞職と同時に、ヒンデンブルグはパーペンに「政局の説明にあたる」特別職を委嘱した。ヒトラーの首相任命に嫌悪感を示すヒンデンブルグに対し、パーペン、オスカー、マイスナーはヒトラーを首相に任命しても心配は全くないと繰り返し説得した。フーゲンベルグが率いるドイツ国家人民党の有力閣僚が首相を取り囲み、ヒトラーの意志は全く通らないので問題はないと説明したのだ。1月29日、ヒンデンブルグは「オーストリア人上等兵」をドイツ首相に任命することを承認した。パーペンは大統領に閣僚予定者名簿を提出した。パーペンは副首相になっていた。ナチスからは、首相にヒトラー、内相にフリック、プロイセン州内相にゲーリングが挙げられていた。
1933年1月30日、ヒンデンブルグはヒトラーを首相に任命した。この日の宵になってヒトラー首相任命のニュースがベルリン全市に伝わると、歓喜に沸き立つヒトラー信奉者の長い行列が、松明を打ち振り、ナチ党の「ホルスト・ウェッセルの歌」を高唱しながら、中央官庁地区ウィリヘルム街を練り歩いた。
深刻な経済危機が続く中、大統領緊急令への慣れと麻痺が独裁への抵抗感を失わせていた。ナチスはこのような状況を利用して独裁政治体制を固めていく。そして、ワイマール共和国は左右の激しい対立の中で死を迎えることとなった。