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後期高齢者が権力を握った結果:ワイマル共和国史

2016-07-09 15:36:14 | 日記

ワイマル共和国史(エーリッヒ・アイク)

ワイマール共和国は左右両翼の激しい対立の中で議会制民主主義が機能しなくなっていた。

1930年3月に成立したブリューニング内閣は財政立て直しを進めようとしたが、社会民主党、共産党、ナチスなどの反対により財政赤字補填法案を成立させることはできなかった。1930年7月、彼は憲法第48条に基づく大統領の非常権限によって国会通過に失敗した財政赤字補填法を成立させ、直ちに実施した。社会民主党は「大統領の緊急令が布告される時点で実際に公共の安寧秩序が重大な懸念に脅かされていること」という第48条3項の要件を満たしていないため、緊急令は無効であるとの動議を提出し、国会の表決ではこの動議が僅差で可決された。この表決結果をみたブリューニングは直ちに立ち上がり、大統領の国会解散命令を読み上げた。

9月14日に実施された総選挙では、社会民主党が143名と議員数を減らしたものの引き続き国会第一党の勢力を維持した。ナチスは107名が当選し、選挙前の12名から大きく躍進して第二党となった。共産党も77名を当選させた。世界恐慌の中で、ドイツの経済状況は悪化を続け、1931年1月には求職者総数は490万人に増加した。1931年5月のオーストリア信用銀行危機はドイツに波及し、7月には銀行の取り付け騒ぎが起きた。しかし、ヒンデンブルグ大統領の信任を受けたブリューニングの地位が揺るぐことはなかった。ブリューニングは第一次世界大戦におけるドイツ陸軍総司令官ヒンデンブルグ元帥を尊敬し、その意を忖度して政治を進めた。

ワイマール共和国大統領の任期は7年であり、1925年にに当選したヒンデンブルグの任期は1932年4月に満了することとなっていた。ヒンデンブルグは既に84歳の老齢に達しており、一日の中で十分な行動力と判断力を発揮できる時間は限られていた。だが、大統領の職権はワイマール共和国を維持するために不可欠となっていた。政権を維持していくためには大統領の信任と憲法第48条による緊急令の利用がどうしても必要だった。君主制支持者のヒンデンブルグがワイマール共和国の命運を握るという皮肉な状況になっていたのだ。

ブリューニングは大統領の任期延長を模索した。このためには憲法改正が必要となり、そのためには国会での3分の2の賛成が前提となる。彼は各党と協議したが、交渉は成功しなかった。ヒトラーが大統領選挙に立候補するのは明らかだった。ワイマール憲法では大統領は満35歳以上のドイツ人であることを要件として定めていたため、彼は1932年2月にドイツの公民権を取得した。
ワイマル憲法制定の際に大統領の国民直接公選制を強く主張したのはマックス・ウェーバーだった。彼は、公選制によって、ドイツ国民は常にかなり数多くの「国民大衆に強い影響力を持つ優秀な指導者」の中からドイツ国民が適材を選出できると考えていた。だが、1932年の大統領選挙は、84歳の現職ヒンデンブルグとヒトラーの争いとなってしまった

3月13日の第1回投票、4月10日の第2回投票でヒンデンブルグは大統領に再選された。老衰が進み、ヒンデンブルグはいよいよ側近と古い友人の意見に動かされやすくなっていった。大統領の子であるオスカーや大統領官房長官のオイスナーが大統領の側近として大きな権力を持つこととなった。ヒンデンブルグは大統領再選に貢献したブリューニングにも不信感を強めた。国会の多数派ではなく大統領の信任を受けて成立した大統領内閣は、大統領の信任を失えばすぐに崩壊する。5月30日に第二次ブリューニング内閣は総辞職に至った。

権力を求める策謀家がヒンデンブルグに取り入り、経済危機が続く中でドイツの政治は混迷を続けた。ヒンデンブルグに次期首相パーペンを推薦したのはシュライヒャーだった。シュライヒャーはパーペンを自分の思い通りに動かせる男と考えていた。その如才なさと優れた社交手腕により、パーペンは短い間にヒンデンブルグのお気に入りとなった。パーペンはヒトラーの要求を受けて国会を解散した。7月31日の選挙ではナチスが230名を当選させ、国会第一党にのし上がった。ゲーリングが議長となった国会ではパーペンが大統領の解散命令書を読み上げる前に内閣不信任案が可決された。11月6日の選挙では、ナチスが減少したものの196名と第一党の地位を守った。選挙後、パーペンは各党との協力ができないか交渉したが、その結果として判明したのはパーペンという人物の存在自体が各党との協力の最大の障害となっていることだった。ヒンデンブルグもその寵愛するパーペンを総辞職させるしかなくなった。

パーペン内閣の国防相となっていたシュライヒャーは、ナチスのグレゴール・シュトラッサーを抱き込んで入閣させてナチスを分裂に追い込み、「労働組合枢軸」内閣を作り上げて社会民主党と中央党の好意的な支持を得ようとする構想を提案したが、ヒンデンブルグはこれを拒否した。パーペンは再組閣を熱望していたが、その夢はかなわず、シュライヒャー内閣が1932年12月3日に成立した。翌年1933年1月4日、パーペンはヒトラーとケルンで会談し、シュライヒャー打倒の陰謀に乗り出した。大統領内閣の命運は85歳になったヒンデンブルグ大統領の気持ち一つだった。大統領はパーペンを偏愛していた。シュライヒャー首相はヒンデンブルグ大統領に対してパーペンと面会する際には自分も立ち会わせてほしいと依頼したが、首相の要望はかなえられなかった。1月23日、シュライヒャーは大統領に国会解散命令を要請したが、ヒンデンブルグはこれに支持を与えなかった。1月28日に至りシュライヒャー内閣は総辞職に追い込まれた。

シュライヒャー首相の辞職と同時に、ヒンデンブルグはパーペンに「政局の説明にあたる」特別職を委嘱した。ヒトラーの首相任命に嫌悪感を示すヒンデンブルグに対し、パーペン、オスカー、マイスナーはヒトラーを首相に任命しても心配は全くないと繰り返し説得した。フーゲンベルグが率いるドイツ国家人民党の有力閣僚が首相を取り囲み、ヒトラーの意志は全く通らないので問題はないと説明したのだ。1月29日、ヒンデンブルグは「オーストリア人上等兵」をドイツ首相に任命することを承認した。パーペンは大統領に閣僚予定者名簿を提出した。パーペンは副首相になっていた。ナチスからは、首相にヒトラー、内相にフリック、プロイセン州内相にゲーリングが挙げられていた。

1933年1月30日、ヒンデンブルグはヒトラーを首相に任命した。この日の宵になってヒトラー首相任命のニュースがベルリン全市に伝わると、歓喜に沸き立つヒトラー信奉者の長い行列が、松明を打ち振り、ナチ党の「ホルスト・ウェッセルの歌」を高唱しながら、中央官庁地区ウィリヘルム街を練り歩いた。

深刻な経済危機が続く中、大統領緊急令への慣れと麻痺が独裁への抵抗感を失わせていた。ナチスはこのような状況を利用して独裁政治体制を固めていく。そして、ワイマール共和国は左右の激しい対立の中で死を迎えることとなった。

機会をとらえる・波に乗る・バスに乗り遅れるな:外務省革新派

2016-06-25 14:52:22 | 日記

外務省革新派(戸部良一、2010年)

1938年7月、「皇道外交」を主張し、ソ連との戦争、中国の蒋介石政権打倒、独伊との防共枢軸強化、中国からのアングロサクソン勢力の排除、外務省の人事刷新を唱えて大磯の宇垣外相に乗り込んだ入省わずか数年の8名の外務官僚、東光武三、三原英次郎、牛場信彦、青木盛夫、中川融、甲斐文比古、高瀬侍郎、高木廣一。本来、彼らは敗戦後に外務省という組織の中で戦前戦中の行動を非難されたり、戦後の日米基軸外交の中で非主流派として扱われても不思議ではなかった。だが、現実は異なった。彼らは、若くして亡くなった二人を除き、全員が大使にまで昇進した。牛場は次官、アメリカ大使を務めた。戦後の外務省で栄達を極めたのだ。

少壮外交官たちが「上総が生める快男児、姓は白鳥、名は敏夫」と歌った白鳥敏夫はその高い英語力で語学力を重視する幣原喜重郎から高い評価を得ており、もともとは「幣原外交の寵児」ともいわれていた。だが、満州事変に際し外務省情報局長として陸軍と多く接触しなければならない立場にいたことが、彼を対米英協調路線を基軸とする幣原外交から大きく引き離すこととなった。「彼の本質は歴史の表面に現れたような『ファシスト』ではなかった。彼の本質は霞ヶ関の伝統に育まれた明治的な自由主義者であったのである。よく宴会などでみられた様な豪快な面は付焼刃で、実に小心な人間であった。軍が独裁化へと歩武したとき、彼はたまたま軍とより多く接触しなければならぬ立場にいたことが、彼の不幸を招いたのである。臆病なる彼は自由主義的な思想を持っていたが故に、そのために殊更に観念的な右翼的な扮装をしなければならなかったのである。しかるにその扮装は彼の立身を約束した。人間的に弱い彼は、そのことに引かれて扮装から次第にそれが彼の本質のような錯覚に陥り、ついに『ファシスト』になってしまったのであった。わたしのこの観察は誤っているであろうか。戦争中神がかり的になっていた観念右翼の連中の敗戦後における末路を凝視するとき、わたしの白鳥に対する観察の正しきことを読者は肯定せざるを得ないと思う。」

満州事変当時、白鳥は「アジアに帰れ」と述べていた。「外務省の白鳥情報部長の外国語は板についたものだが、この頃は横文字の本は見向きもせず、四書五経あるいは法華経など古いものばかりに眼をさらしている、『宗旨替えだね』というと白鳥君『今の日の日本のスローガンは、アジアにかえれ、ということでなければならん、それにはまず東洋の経典を読破して東洋哲学をしっかりと腹にいれて』とお腹をポンポンたたいてみせた。」

白鳥を含む革新派は、日ソ戦が不可避であり、しかも切迫していると考えていた。彼らは、陸軍が対ソ戦を不可避と見ていることを大前提として、それを「翼賛」あるいは善導する外交を進めようとした。陸軍の関心がドイツとの関係強化に移ると、日本とドイツの同盟を強力に主張した。「今日の世界は最早旧来の自由主義や民主主義では間に合わなくなったのである。今や世界は二つに一つを選ばねばならぬ。共産主義かファシズム的全体主義か、あるいは少なくともその何れかとの妥協を必然的に求められている。」1939年の防共協定強化問題の際にイタリア大使として赴任していた白鳥はドイツ大使となっていた大島とともに日本からの訓令を無視し、日本政府の方針から離れて日独伊同盟締結を進展させようとした。

独ソ不可侵条約の締結によりいったん日独伊同盟問題が頓挫すると、白鳥は独ソ提携を承認し、日ソ提携さえ主張するようになった。「現在のソ連はボルシェビキから脱却して独伊に近い政治形態になっているので、独ソ不可侵条約の如きも、ヨーロッパにおいては『ソ連が防共協定に参加した』といわれている位で、日独ソが接近したところで聊かも不思議はないのである。ドイツが防共の道義を無視してソ連と結んだのではなく、ソ連を防共協定に引き入れたのだ。」「我々は思想を駆使すべきであるが思想に駆使されて自縄自縛になってはならない。防共も、そしてまた対ソ不可侵条約も共に具体的国際情勢が命じる『生きた外交』の顕現である。」

欧州戦でフランスがドイツに降伏し、イギリスの運命も風前の灯火となった。ドイツが欧州を席巻すると、白鳥は南進論に転回した。「イタリア大使になる前、白鳥は次のように語ったという。『君、南方なんてペンペン草の大きいのが生えているだけだよ。それより北だ。満州からシベリアにかけては沃野千里だよ。日本が生命力を発散さすのはこの地域だ。』ところが、イタリアから帰って来た後に会ってみると、白鳥は『君、北方なんてツンドラだ。あんなツンドラいくら持っていたって何の役にもたたんよ。それよりも南方だ。海の資源、山の資源、帝国の生命線は南方に置き換えるべきだね』と述べ、あまりの変わり身の早さに、この記者を唖然とさせた。」

「新しき世界を生み出すためには、従来の天賦人権とか、民族自決とか国家主権という観念に相当の修正を加えねばならぬ。従来の世界は六十余の国々に分かれ何れも主権の絶対を主張して、人類社会の向上発展はかえってそのために阻止せられてきた。全体主義諸国のなさむとする所は、大雑把に、この不合理を矯正せんとするところにあるといえる。即ち世界を比較的少数のグループまたはブロックに分かってその圏内におおて各民族は円満なる共同生活を営み各々その所を得るという仕組みである。」「日本当面の問題は、もはや支那から白人の勢力を駆逐するということだけではない。今や更に南方へと進んで、従来白人の領土として壟断され、搾取されていたこの地方から、その不当な勢力を駆逐せねばならぬ。」

白鳥のアジア民族解放論は、日本盟主論とセットになっていた。アジアにおいては「他の民族に比して最も優れたる日本民族がその盟主」でなければならず、しかも「アジアの独立、アジア諸民族の解放という聖業に従事して現に大きな犠牲を払い、絶大な努力をしている」日本民族が「アジア諸民族のうちの最も恵まれたる民族、富裕なる民族となることは極めて至当」であり、「絶大の犠牲に対する当然の報酬である」と主張していたのである。

外務省は、威勢のいい「枢軸派」と長いものには巻かれろ、流れに身をまかせろと動く「灰色組」で要所要所を占められていた。軍部と通じている者も少なくないと考えられていた。省内は疑心暗鬼の状態となり、ごく少数の者による省内の秘密外交が横行した。

外務省革新派は、総力戦、普通選挙、マスコミの発達を背景とする外交大衆化を背景として、外交の理念や哲学を世論に訴えかけた。軍部と協力または結託することもあった。世論が変化し過激化すると、革新派の議論も揺れ動き、過激になっていった。

革新派の政策決定への影響力は限定的であった。彼らがその力によって何らかの具体的な政策を決定した例はほとんどない。革新派の影響力はポジティブな方向には発揮されなかった。むしろ彼らの影響力はネガティブな方向に作用した。防共協定強化問題や戦争回避のための日米交渉時に典型的に示されたように、革新派は外務省内の強力なプレッシャーグループとなり、政府や外務省の決定や行動を妨げた。革新派の圧力や行動により、日本外交が立ち往生したり、外務省首脳部の方針がスムーズに実行されなかったりするケースがしばしばあり、長期的に日本外交の選択の幅を狭めていくこととなった。

ゾルゲはなぜ日本が対ソ開戦に踏み切らないとわかったのか:現代史資料ゾルゲ事件1・2

2016-06-18 15:30:55 | 日記

現代史資料ゾルゲ事件1・2(小尾俊人編、1962年)

ナチスドイツがソ連を奇襲攻撃し、独ソ戦が実際に開始されると、ゾルゲは日本がソ連に対して開戦するか否かを何としても探り出すことに集中した。

1941年6月22日の独ソ開戦直前、第二次近衛内閣には大島駐独大使から独ソ戦必須の情報が伝えられていた。「6月19日日本政府と軍首脳部との会議が、次いで同月23日陸海軍首脳部会議および首相と陸海軍首脳部の会議が開催され、遂に同年7月2日の御前会議が開催されました。」「御前会議前における尾崎の時局観測は、近衛首相とその周囲の軍人以外の閣僚たちはソ連との戦争を欲していない、又海軍部内でもこの戦争を望んでいない。ただ陸軍部内には、この戦争に参加しようとする強い傾向が看取されるが、その大勢は形勢観望に傾いており、文官閣僚中独り松岡外相だけが自ら締結した日ソ中立条約を破棄してもよいと考えている唯一の人物であるとのことでありました。」

7月2日の御前会議は「尾崎の報告によればこの会議の決議事項は三別されており、即ち、第一は、日本は凡ゆる国際間の変化に即応し得る態勢と準備を整えなければならぬということ、第二は、もし国際間における情勢が変化せぬ場合には日本は日ソ中立条約を確守すること、第三は、日本は南方膨張政策をば絶対に遂行すること、而してこれに関する諸般の準備を整えること、でありました。」「この内容を実践的に解釈すると、七月以降に行われた日本の大動員は、北方即ち満州に対する動員と、南方即ち仏印に対する進駐として現れましたが、しかも、ソ連に対しては当面満州に動員を実施して、あらゆる事態に即応し得るように準備するが、それはあくまで準備以上に進まず、直ちに積極的行動には出ないという態度を取るということになる訳でありました。」

「次に私たちの問題になったことは、かくも大規模に動員された兵がはたして何処に派遣されるかということでありました。」
尾崎秀実は7月下旬に三井物産の織田船舶部長と会い「私のところに集まっているニュースでは兵隊は却って南のほうに沢山行っており、北のほうは少ないということですかね」、北に二十五万、南に三十五万、内地に四十万という情報を聞き出した。「この動員兵力の三分の一が、北方即ち満州に派遣されるという観測でありましたが、後には更に減少して、約十五師団三十万の兵が満州に派遣され大部分の兵力は支那大陸と南方即ち仏印方面に派遣されることが判明いたしましたので、私たちはこれでいくらか安堵することができたのであります。」

尾崎は「ドイツ軍の進撃がスモレンスク地区において膠着したこと、対米関係の悪化、殊に南部仏印進駐によって英米両国の日本資産の凍結に次ぐ全面的対日経済封鎖、南方よりする日本包囲の態勢が取られつつあり、この際北方に進攻すれば南北両面よりの包囲攻撃に陥る危険を生じたこと」という一般国際情勢に加え、「関東軍では満鉄従業員を待機させたにかかわらず一向徴用しない状態」から、ソ連攻撃はほぼなかろうと判断するようになった。

「これに加えてその後この動員は8月15日には完了する予定であったにもかかわらず、実際には次第に緩慢になり、8月15日の当日が過ぎてもなお動員が継続されておりましたので、私たちはますます安心するようになったのであります。というのは成程北方における冬季作戦は可能かもしれませんが、それは非常な困難を伴うことであるますから、もし日本軍が年内に真に対ソ攻撃を決行しようとするならば、少なくとも8月15日までには動員を完了していなければならぬからでありました。」

「更に尾崎は私に対して、8月20日から同月23日までの間にわたって行われた、日本軍首脳部と関東軍代表将校との会議では、遂に本年中はソ連に対して戦争をせぬということが決定されたのであります。しかも関東軍の方がソ連と戦うことに反対するという態度を取っていたという貴重な情報をもたらしてくれたのであります。」尾崎は西園寺公一に「関東軍から代表が来て軍首脳部と相談したそうだがやらぬことになったのか」と聞き「先週あたりにやらぬことに決まったよ」との回答を受けていた。「ゾルゲは私よりこの報告を受けた時非常に重荷を降ろしたような喜びの様子をしておりました。」

9月上旬には尾崎が大連の満鉄本社に出張することとなった。「私は尾崎の出発に際し、同人に第一には、満洲における日本軍の軍備はいかなる程度まで進捗しているか、第二には、日本軍のいかなる師団が満州に到着しているか、を諜報するようにという使命を与え、なおその上もし尾崎が満州で対ソ戦勃発の危機は迫っているようであったなら、至急それを宮城(与徳)に電報で知らせ、宮城から私に知らせるような段取りを打ち合わせておいたのであります。」「尾崎は満州から帰還し、すこぶる興味ある報告を持ってきてくれました。」「私がこれらの情報を逐次ラジオによってモスコウ中央部に連絡したことは申すまでもないことであります。」

尾崎は奉天鉄路総局の統計主任から「七月大動員の始まる直前、突然関東軍より満鉄に対し一日十万トン四十日間の軍関係輸送の準備命令があり、満鉄では北支から三千両の車両を動員してこれに備えたがこの輸送は最初はあったが永くは続かず次第に減少した。」「満鉄は関東軍より兵隊を越冬のため、南下の準備として車両の準備を命ぜられている。」との情報を得ている。また、ほかの満鉄関係者からも「七月の動員に際し関東軍から満鉄に対し三千名の従業員を徴用するからその準備をせよとの命令があり、満鉄はそのつもりで準備していたところ、しばらくすると千五百名でよろししいということになり、更にその後になると百五十名に減少され、現実には今日までのところ十数名しか徴用されていない。」「関東軍は前線からの兵隊を南満で越冬させるため、宿舎を準備するよう満鉄に銘じて来ている」と聞き及んだ。尾崎は1941年中の対ソ開戦がないことを確信し、帰京後にゾルゲに報告したのだ。

陸軍がその意図を完全に秘匿していたにもかかわらず、民間企業に鉄道輸送や船舶運航を命令した結果、満鉄や三井物産船舶部などのロジスティクス部門ではその情報から日本軍の真意が読み取れるようになっていた。ゾルゲは、尾崎秀実が朝飯会での知己などを通じて近衛文麿の側近から得た政権上層部レベルの情報だけでなく、その裏付けとなる現場レベルの情報を組み合わせることによって、早い段階で国家機密情報を探り当てる諜報活動に成功した。

相手の論理を理解しようとしないアメリカの信条外交:日米関係史1 開戦に至る十年

2016-06-18 13:09:09 | 日記

日米関係史1 開戦に至る十年(細谷千博・斎藤真・今井清一・蠟山道雄編、1971年)

1898年にハワイを併合し、また同年に米西戦争の結果としてフィリピンとグアムを獲得し、アメリカは好むと好まざるとにかかわらずアジア・太平洋地域の国際関係に巻き込まれていくことになった。アメリカがハワイを併合した結果、ハワイで契約移民として働いていた日系移民がアメリカ本土に数万人単位で移動し、カリフォルニアで日系移民排斥の動きを作り出していく。また、日本近海のフィリピンとグアムにアメリカ領が生まれ、日本の国防戦略にアメリカとの関係が意識されるようになる。米西戦争と戦争の過程におけるハワイの併合は日米関係を遠い国同士の関係から現実の利害関係が衝突する近隣国家の関係へと大きく変化させる契機となった。

だが、アメリカ政府当局者にはアジアにおける現実に向き合わなければならないという意識は薄かった。1933年に就任したローズベルト政権にとって最重要の課題は大恐慌からの国内社会の立て直しであった。国際関係面ではナチスドイツの膨張により緊張を高める欧州情勢への対応が優先課題となっていた。

ハルは国務長官になった時点で外交問題について特別な知識と経験をもっていたわけではなかった。南部民主党員であり、ウィルソン主義者として、彼は個人間でも、国家間でも、高貴な道義的抽象概念に基づいて問題に対処しようとした。ハルはこの原則を固持しただけでなく、公の場でも私的な場でも飽きることなく繰り返し説いた。また、ハルは非干渉主義を信念として持っていた。1937年7月にはブエノスアイレスで表明した「平和の八本の柱」演説に手を入れたものを世界各国に配付し、意見を求めた。60カ国が好意的に同意する中、ポルトガルは「漠然たる方式」の有用性について疑問を呈している。「問題の本質は、ハル国務長官が、国際関係の基本的問題の大部分は、道徳教育によって解決可能だと信じきっていた点にあった。しかもこの信念たるやあまりにも確固として、外界に何が起ろうと微動だにしないといった風であった。」

首脳レベルの実務への関心が弱ければ、政策判断は国務省などの官僚機構が実態的に進めていくことになる。

満州事変が起きた1931年、アメリカ極東政策の実務的中心となる国務省極東部は国務省全体750人のうちの2%、部員総計16名という小さな組織だった。
極東部は部長、2名の部長補佐、5名の担当官、7名の雇員と1名の連絡員という構成で、担当官のうち4名が中国と日本の政治経済情勢を担当し、1名がシャム、太平洋諸島その他の分野を担当した。部長補佐のうちの1名は極東部に割り当てられていた麻薬取締問題を所管していた。満州事変以降のアジアでの諸問題にかかわらず、極東部の要員はそれ以降の5年間、実質的に静止状態にあった。国務省全体も大恐慌の影響を受け1933年には予算が1800万ドルから1350万ドルに削減となり、5割の給与切り下げ、新規任用停止の状態にあった。国務省の予算が1932年から33年の水準を超えたのは1937年になってからだった。極東部の担当官以上の上級職員も8人から1938年には11人、1940年12人、1941年秋には15人と増員されていった。

小さな極東部の中での中心は1928年から1937年まで極東部長の地位にあり、その後も国務長官顧問(極東)としてアメリカの極東政策にも大きな影響を与えたホーンベック(Stanley K. Hornbeck)、そして彼が部長補佐に任用したハミルトン(Maxwell M. Hamilton)、バランタイン(Joseph W. Ballantine)の3人だった。ホーンベックは主著「極東における現代政治」(1916年)年の中で、アメリカ外交政策にとっての極東の重要性、極東の中心的存在としての中国とその無限の将来性、日本帝国主義の脅威、中国に対するアメリカの特別の責任について情熱をこめて論述している。ホーンベックはヘイの門戸開放政策をワシントン会議を通じて国際法として確立したことをアメリカ外交の最も輝かしい成果ととらえていた。そして、日本人をとらえて離さない「青年期帝国主義の心理」を抑止するためには「力の準備」が必要であることを説いた。1940年1月、アメリカはホーンベックの強い主張の下で対日通商条約の廃棄を行った。1941年7月、日本資産の凍結を国務省内で最も強力に推進したのもホーンベックだった。

ハル・野村会談では、ホーンベックはほとんど会談に列席することはなかった。妥協を徹底的に嫌い、一方的に意見を押し付ける傾向のある彼によって、このようなデリケートな、回りくどい仕事は不向きだった。裏面に控える彼が、犀利な分析を日本の曖昧な提案に加えて、無価値のものに帰せしめることもしばしばであった。論争点をうまく回避し、言葉の曖昧さで逃げようとする傾向は、彼によって容赦なく剔出された。一方、ハミルトンは時には会談に出席し、忍耐強く、寛大で、日本提案の中に国交調整の基礎となりうる何かがないかと熱心に探究に努めていた。その内心、日本の苦しい立場に対して、非難というより憂慮と同情の念が強かった。そのため、日本の針路を修正するチャンスがあれば、できるだけそれを与えようとする気持を持っていた。バランタインは語学者であり、勤勉な起草者だった。

アメリカは最後まで日本の国内情勢を理解できず、理解しようともしなかった。また、アジアにおける日本の利害関係は何かということも認識することはできず、認識しようともしなかった。アメリカが強硬策に出れば日本は屈服すると信じ切っていた。

アメリカは相手の論理を理解しようとせず、自らの信条と論理に基いて世界を解釈し続けた。アメリカ外交は相対的視点を持たず、アメリカ的な価値観だけをもとに突き進んだ。

「南進」が具体化したとき:海軍の選択

2016-06-12 12:46:23 | 日記

海軍の選択(相沢淳、2002年)

海軍の主敵は軍事予算を奪い合う陸軍であった。
日露戦争に勝利し、日本近海に強力な敵のいなくなった日本海軍は、組織防衛をはかるためにはアメリカという仮想敵国を掲げる必要があった。そして、日本の発展方向を大陸ではなく海洋方面とくに南方海洋に求めようとする海洋国家論、北守南進を主張した。大陸への進出を進める陸軍を牽制するとともに、海軍予算を極大化して組織を拡大しようとした。南進を進めれば英米との対立が予想される。対米7割の比率を確保し、アメリカとの艦隊決戦に備えなければならないと唱えたのだ。

1937年7月7日に盧溝橋事件が起きた当初、米内光政海軍大臣、山本五十六次官らは紛争の不拡大を強く主張していた。8月9日に上海で日本海軍将兵殺害事件が起きると日中間の緊張は一段と高まり、現地の第三艦隊から増援部隊の派遣要請が繰り返された。海軍は上海への陸軍出兵を要請し、支那事変は日中全面戦争化していった。8月14日に中国空軍機が第三艦隊旗艦「出雲」、陸戦隊本部、総領事館等を空襲すると、同日夜の閣議において米内は不拡大主義の消滅、紛争の全面化を主張し、さらには南京占領にまで言及した。これに対し杉山陸相は南京攻略が困難であることを指摘して不拡大方針の堅持による紛争解決を求め、広田外相、賀屋蔵相も同調したが、最終的には翌8月15日に日本政府はそれまでの不拡大方針を放棄し「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促すため今や断固たる措置を取る」との声明につながっていった。海軍の強硬論は日中全面戦争へのターニングポイントとなったのである。

1938年夏から1939年夏にかけての第一次三国同盟交渉の期間、海軍は1939年2月に海南島の占領作戦を実行している。海南島への進出は英領マレー、仏領インドシナを持つ英仏そしてアメリカに対して日本が「南進」するという具体的な脅威をあたえるものであった。当初、海軍は「南進」のためのイギリス牽制という観点からは三国同盟に関心を持ちつつも、三国同盟が陸軍の「北進」政策の具として利用されることには反対する立場にあった。昭和天皇が1939年春に日英は協調すべきであるという考え方から三国同盟に反対する意思を海軍側に伝えると、海軍の態度も三国同盟締結に全面的に反対するというスタンスを取るようになった。「現在以上に(日独伊三国防共)協定を強化することには不賛成であるけれども、陸軍の播いた種をなんとかして処理しなければならないという経緯があるならば、これまで通り、ソ連を相手にすることにとどめるべきである。もし英国までも相手にする考えであるならば、自分は職を賭してもこれを阻止するであろう。」

このような経緯から見ると、独ソ不可侵条約が締結され、ドイツの西部戦線電撃戦によってフランスが降伏した後、1940年夏の第二次三国同盟交渉にて海軍が一転して反対の姿勢を取らなかった理由も明確になる。ソ連を加えた四国連合化の構想は、まさに海軍の「北守」論、すなわち対ソ提携論の流れを汲むものであった。「北進」論と「南進」論の関係でみると、第一次交渉時の三国同盟が「北進」戦略であったのに対し、第二次交渉時の三国同盟は「南進」戦略に基づくものになっていたのだ。海軍がこの同盟を「北守南進」戦略とみなしていたことは、この同盟によって日ソ関係が改善され、旧独領南洋群島問題も日本側に有利に処理されることを海軍の同意条件としていたことからも明らかである。伏見宮軍令部総長は、三国同盟締結の国家意思を最終的に確定する御前会議(1940年9月18日)の席上において、政府から日ソ国交調整への寄与の確認を取っており、豊田次官はさらに、海軍の強い要望として「ソ連を同盟に入れる」ことまで松岡洋右外相との会見の中で主張していた。また、南洋群島については、その日本領土化をドイツに認めさせるよう、海軍は枢軸提携強化案の審議過程で強く主張していた。結局、この二項目は海軍の要求通り、同盟締結時の日独間の交換公文として取り交わされた。

ただし、第二次交渉は第一次交渉に比べて、三国同盟を締結した際の英米との戦争の危険度ははるかに高いものになっていた。英独はヨーロッパで既に戦端を開き、まさにバトル・オブ・ブリテンで決戦を行っている最中であった。そして、日本の対英米開戦となればその主要な責任は海軍が負わなければならなかった。三国同盟が締結された結果、「南進」論を掲げてきた海軍は、英米との対決に正面から向き合わなければならなくなった。海軍は客観的には勝てる見込みのない英米戦をどのように戦えばいいのか模索することとなった。

軍縮時代の最後の年、1936年末における日米の海軍バランスは日本の対米8割余という比率であった。そして、軍縮離脱後に日本海軍が計画した計画も、1942年に対米8割(79%)を保持し続けることを目標として計画になっていた。これに対しアメリカは、1938年に第二次ヴィンソン法(ヴィンソン2計画)を成立させ、さらに1940年のヴィンソン3計画、両洋艦隊法と次々と進んでいった。これらの計画は一挙に艦隊勢力の7割増強を行うなど、日本海軍が対米7割の要求をしていたことを考えると、日本海軍を1個分を作ってしまおうという、日本にとっては途方もない計画だった。
もちろん日本海軍としても次々に打ち出されるアメリカの建艦計画に対して、4計画(対ヴィンソン2計画)、5計画(対ヴィンソン3計画)、6計画(対両洋艦隊法)にて対抗しようとした。だが、アメリカの膨大な建艦計画に対して対米優位を保ち続けることは不可能であり、両洋艦隊法に対する6計画にいたっては、日本の国力上、実行の目途はほとんどつかなかった。

建艦競争の結果、日本の対米海軍比率は、1941年末で70.6%、1942年65%、1943年50%、1944年には30%と日本側不利になっていくと予想された。海軍はアメリカの国力の強さをまざまざと見せつけられた。そして、対米海軍比率は、戦わなければならないのであれば、いつ開戦すべきか、開戦の時期の決定を左右するほどの重大な要因となっていった。かねてより、日本海軍は国防上の安全圏確保として対米7割の比率を主張していた。そしてその比率は、無条約時代突入後の建艦競争の結果、ほぼ1941年末の段階でタイムリミットを迎えることになってしまった。

日本海軍は、対米戦争の際、双方の主力艦隊による艦隊決戦が勝敗の帰趨を決するものと考えていた。しかし、この決戦時期をアメリカ側が後へずらしていけば、日本側の勝利はなくなってしまう。そのためには早期に決戦を求める必要があった。ただしそれはアメリカ主力艦隊が決戦を求めて出撃して来ればの話であり、アメリカが出撃してくる保証はどこにもなかった。もし相手が出てこないとするならば。こちらから早期に叩きにいくしかなかった。

対米開戦劈頭、1941年12月8日の山本五十六連合艦隊司令長官発案による真珠湾・アメリカ主力艦隊への奇襲攻撃は、そうしたジレンマに対するひとつの回答だった。