真理探求については結局、霊的世界の探求になる。
だからこそ現代科学や現代哲学では真理に辿り着けない。
現代哲学→唯物論
古典哲学→宗教、スピリチュアル
唯物論では物質世界しか見ないので真理には辿り着けない。
で、自分という存在は「意識」であり、最終的には真我という神と同化すると思っている。
肉体が消え、アストラル体(心)が消え、霊体(自我)が消えて本当の自分である「意識」のみになる。
瞑想とかで辿り着く領域。
ワンネスとかノンデュアリティとか。
最終的に消え去るものなら、肉体を軽視して良いのか?心を軽視して良いのか?自我を軽視して良いのか?
それは違うと思う。
肉体、心、自我を「意識」である自分はちゃんと見て感じる必要があると思う。
「自分と向き合う」と言われてもなんか意味がわからない人が多いと思う。
自分は「意識」であるが今は肉体、心、自我も自分。
・肉体に「意識」を向け、不調は無いか、健全か、肉体からのメッセージが聞こえるか?
・心はどうか?心の状態が見えるか?心からのメッセージは聞こえるか?何を欲しがっている?
・自我はどうか?どういう思考をしている?健全な知性を獲得しているか?どういう意志を持っているのか?
ちゃんと自分の肉体、心(感情、感性、欲望)、自我(思考、知性、意志)へ「意識」を向けて観る(診る)・聴く・感じる。
しかし、執着すべきでは無い。
いつかは別れがくる。
ある程度生きたら肉体・アストラル体(心)・霊体(自我)に執着せずに
・肉体→延命治療などせずに死を受け入れる
・心→落ち着かせ冷静になる
・自我→思考を止め「あるがまま」で成り行きにまかせる
という感じになっていくのが良い気がする。
おそらく仏教とかはこういうこと言っているんだと思うが、勉強不足なんでわからない。
しかし古典哲学である宗教からはいろいろ学べると思っている。
※宗教は肯定しているが、宗教団体は否定している立場。
それと自我の考察の続き…
自我(思考、知性)を霊的世界の「物質」のようなものと仮定した場合、
・自我(霊体)=霊的世界の肉体
・心(アストラル体、幽体)=霊的世界の氣、プラーナ
と考えることができるかもしれない。
なので
・肉体 ー 霊体
・氣、プラーナ ー 心
という対応関係があるのかも。
肉体・霊体は形であり物なのだが、生命エネルギーである氣・心が無ければ「無機質な物」となる。
だから霊体はおそらく残酷になると思う。
心を持たず思考するAIのような存在だろう。
自分はおそらく霊体(霊界の住人)のイメージはそんな感じだったのでしっくりくる。
霊体(霊界の住人)は人類に対し残酷とも思える試練を与えるし、簡単には助けない。
しかし、救いの道は用意しておく。
コロナ茶番や戦争茶番やこれからのイベントも霊体が用意した試練だと思っている。
霊体は意味も無くイベントを用意しない。
霊界の住人にそこでどう霊的に成長するか見られている。