2020年1月12日(日) 主日礼拝
聖書:ヨハネによる福音書 4:31〜34(新共同訳)
待降節、降誕節があって、少し間が開きました。
きょうの場面は、イエスの一行がガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄ったところから始まります。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。そこで一人の女性と出会います。福音書はこの女性の名前を記しません。この女性とイエスの対話が始まります。何とも不思議な対話でした。しかしこの対話の中で、イエスはこの女性に自らのことを明らかにします。
彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚きました。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と尋ねる者はいませんでした。」
普通なら関わりを持たないサマリアの女性と話しているのは不思議でした。サマリアは、北イスラエルの首都であったサマリアを中心とする地域です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアの移住政策により民族の混合が進み、ユダヤの人たちからは純粋なイスラエル民族ではなくなったと差別されるようになり、ユダヤとサマリアとは関わりを避けるようになっていました。
弟子たちはあえてサマリア人と関わろうとはせず、何も尋ねませんでした。しかしイエスは違いました。
イエスが特別な人であることは、彼女にもよく分かりました。彼女は、水を汲むために井戸に来たのですが、水がめを置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言って回りました。
弟子たちはと言うと、疲れて動けなくなってしまったイエスのために食べ物を探しに行っていたので、「ラビ、食事をどうぞ」とイエスに食事を勧めます。「ラビ」というのはユダヤ教の教師に呼びかける言葉です。
するとイエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われます。弟子たちはイエスの意図が分からず、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合いました。それを見てイエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。
イエスに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われて、「あぁ、イエス様、あなたをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることが、あなたの食べ物ですものね」とはなりません。もちろんイエスも弟子たちが自分の思いと同じく感じられるとは思っておられないと思います。
ではなぜイエスはこんなことを言われたのでしょうか。
一つには、弟子たち、つまり人間の思いと神の思いとは異なることを気づかせるためです。キリストの弟子は、絶えず主の御心は何なのかを問い、「御心をお示しください」と祈らなければなりません。わたしたち罪人は、主の御心を悟ってしまったり、神が分かってしまうなどということはありません。もし、神の言葉がみんな分かった気になってしまったならば、説教者は神の御心ではなく、自分の考えを語るようになってしまうでしょう。神の言葉に従って歩もうとする者は、主の思いと自分のの思い、感覚が違っていることをわきまえていなくてはなりません。
次に「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とイエスは言われましたが、主の御心を成し遂げたら空腹がなくなるなどということもありません。それでも、イエスが言われたということは、キリストの弟子、神の民には、第一にして揺るがすことのできない務めがあることを教えようとされたということです。
そもそも4:4からのこの出来事を読むと、名も知られぬ一人の女性、周りから白い目で見られていたであろう一人の女性をイエスは知っておられ、この女性と出会うために来られたことがうかがい知れます。
しかし、弟子たちはその女性に興味を持ちませんでした。主が心を向けている一人の人に、弟子たちは関心が持てなかったのです。弟子たちは、イエスの空腹を心にかけていましたが、イエスの心がどこに向いているかは分からずにいました。
イエスは、イエスが心に留める名も知れぬ一人の人を弟子たちに託されるのです。イエスが天に帰られた後、弟子たちが主の御心を成すのです。弟子たちは、主の御心は何なのかを問い続け、聞き続けなくてはなりません。
日本キリスト教会 憲法の前文の最後にはこうあります。「キリストのご支配に服し、聖なる公同の教会の本旨を実現するため、日本キリスト教会は憲法および規則を定める。」わたしたちの教会の本分は、主の御心の実現のために仕えることにあるのです。
わたしたちは主の御心、神の御旨をよく考える必要があります。救いは主の御心によるのです。神のひとり子イエス キリストが世に遣わされたのも、神の御旨によるものです。
けれど教会の会議では、この世の知恵やわたしたちの良識が優先されてしまうことが多々あります。わたしたちが必要と感じることが必要でない訳ではありません。けれど、神の民は主の御心を第一とし、主の御心を成すために召されたのです。
今月末、わたしたちの教会は定期総会を開きます。そこで確認されなければならないことは、わたしたちの教会は主の御心を成すために仕えるということです。日本キリスト教会信仰の告白は、教会の務めに対して「主の委託により」と言っています。教会は、わたしたちがよいと思うことをするのではありません。そうではなく、主から委託されたこと、主の御心をなすのです。そして主に祝福されて歩むのです。
この新しい1年が、神の御心をさらに知り、主と共に歩み、主にある喜び、希望が増し加えられることを願っています。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは、わたしたちがあなたと共に歩み、あなたが与えてくださる救いに与り、喜び生きるようにと語りかけてくださいます。どうか語りかけてくださるあなたの御言葉を通してあなたを知っていくことができますように。信仰から信仰へと歩んでいけるよう聖霊の導きをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン
聖書:ヨハネによる福音書 4:31〜34(新共同訳)
待降節、降誕節があって、少し間が開きました。
きょうの場面は、イエスの一行がガリラヤへと行く途中、サマリアのシカルという町に立ち寄ったところから始まります。このシカルという町にはヤコブの井戸と呼ばれる井戸があって、イエスはその井戸の傍らに座り込んで休んでおられました。そこで一人の女性と出会います。福音書はこの女性の名前を記しません。この女性とイエスの対話が始まります。何とも不思議な対話でした。しかしこの対話の中で、イエスはこの女性に自らのことを明らかにします。
彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」するとイエスははっきりとお答えになります。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」
「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚きました。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と尋ねる者はいませんでした。」
普通なら関わりを持たないサマリアの女性と話しているのは不思議でした。サマリアは、北イスラエルの首都であったサマリアを中心とする地域です。北イスラエルがアッシリアに滅ぼされた後、アッシリアの移住政策により民族の混合が進み、ユダヤの人たちからは純粋なイスラエル民族ではなくなったと差別されるようになり、ユダヤとサマリアとは関わりを避けるようになっていました。
弟子たちはあえてサマリア人と関わろうとはせず、何も尋ねませんでした。しかしイエスは違いました。
イエスが特別な人であることは、彼女にもよく分かりました。彼女は、水を汲むために井戸に来たのですが、水がめを置いたまま町へと駆け出し、出会う人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」と言って回りました。
弟子たちはと言うと、疲れて動けなくなってしまったイエスのために食べ物を探しに行っていたので、「ラビ、食事をどうぞ」とイエスに食事を勧めます。「ラビ」というのはユダヤ教の教師に呼びかける言葉です。
するとイエスは「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われます。弟子たちはイエスの意図が分からず、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言い合いました。それを見てイエスは「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と言われました。
イエスに「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われて、「あぁ、イエス様、あなたをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることが、あなたの食べ物ですものね」とはなりません。もちろんイエスも弟子たちが自分の思いと同じく感じられるとは思っておられないと思います。
ではなぜイエスはこんなことを言われたのでしょうか。
一つには、弟子たち、つまり人間の思いと神の思いとは異なることを気づかせるためです。キリストの弟子は、絶えず主の御心は何なのかを問い、「御心をお示しください」と祈らなければなりません。わたしたち罪人は、主の御心を悟ってしまったり、神が分かってしまうなどということはありません。もし、神の言葉がみんな分かった気になってしまったならば、説教者は神の御心ではなく、自分の考えを語るようになってしまうでしょう。神の言葉に従って歩もうとする者は、主の思いと自分のの思い、感覚が違っていることをわきまえていなくてはなりません。
次に「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とイエスは言われましたが、主の御心を成し遂げたら空腹がなくなるなどということもありません。それでも、イエスが言われたということは、キリストの弟子、神の民には、第一にして揺るがすことのできない務めがあることを教えようとされたということです。
そもそも4:4からのこの出来事を読むと、名も知られぬ一人の女性、周りから白い目で見られていたであろう一人の女性をイエスは知っておられ、この女性と出会うために来られたことがうかがい知れます。
しかし、弟子たちはその女性に興味を持ちませんでした。主が心を向けている一人の人に、弟子たちは関心が持てなかったのです。弟子たちは、イエスの空腹を心にかけていましたが、イエスの心がどこに向いているかは分からずにいました。
イエスは、イエスが心に留める名も知れぬ一人の人を弟子たちに託されるのです。イエスが天に帰られた後、弟子たちが主の御心を成すのです。弟子たちは、主の御心は何なのかを問い続け、聞き続けなくてはなりません。
日本キリスト教会 憲法の前文の最後にはこうあります。「キリストのご支配に服し、聖なる公同の教会の本旨を実現するため、日本キリスト教会は憲法および規則を定める。」わたしたちの教会の本分は、主の御心の実現のために仕えることにあるのです。
わたしたちは主の御心、神の御旨をよく考える必要があります。救いは主の御心によるのです。神のひとり子イエス キリストが世に遣わされたのも、神の御旨によるものです。
けれど教会の会議では、この世の知恵やわたしたちの良識が優先されてしまうことが多々あります。わたしたちが必要と感じることが必要でない訳ではありません。けれど、神の民は主の御心を第一とし、主の御心を成すために召されたのです。
今月末、わたしたちの教会は定期総会を開きます。そこで確認されなければならないことは、わたしたちの教会は主の御心を成すために仕えるということです。日本キリスト教会信仰の告白は、教会の務めに対して「主の委託により」と言っています。教会は、わたしたちがよいと思うことをするのではありません。そうではなく、主から委託されたこと、主の御心をなすのです。そして主に祝福されて歩むのです。
この新しい1年が、神の御心をさらに知り、主と共に歩み、主にある喜び、希望が増し加えられることを願っています。
ハレルヤ
父なる神さま
あなたは、わたしたちがあなたと共に歩み、あなたが与えてくださる救いに与り、喜び生きるようにと語りかけてくださいます。どうか語りかけてくださるあなたの御言葉を通してあなたを知っていくことができますように。信仰から信仰へと歩んでいけるよう聖霊の導きをお与えください。
イエス キリストの御名によって祈ります。 アーメン