日々是興味深々

日々の生活の中で興味を持った光景を画像に切り出した日記帳

オブジェと化したマリア様

2014年02月24日 | Weblog





ある施設で見かけた小さなマリア様の銅像。
真紅のバラに囲まれて、静かに佇んでいた。

ここは、教会でも何でもないただの商用施設なのだが、装飾としてマリア像が置かれていたのだった。
かつてキリスト教に多少関わったことのある私は、敬虔な信者ではないが、やはりマリア像や十字架を見ると少し身が引き締まる思いがする。

それにしても施設のオブジェとしてマリア像を展示するとは、如何ばかりかと思う。
宗教への強い拘りがなくなってきた日本の昨今で、何をかくそう自分もその輩の範疇に入っている人間だとは思うけど、さすがにある領域を超えると抵抗を感じてしまう。
ファツションとして十字架をモチーフにした装飾品やオブジェも巷にあふれる中で、敬虔な信者から見れば冒涜だと感じられやしないだろうか・・・。
そんな懸念がふと頭をよぎるのだ。

装飾用のオブジェとして据えられたマリア像なれど、マリア様はマリア様。
その麗しき姿を画像に納めさせていただき、大事に保管しておきたくなったので撮影させてもらった。






Camera : Canon EOS60D


ミッドナイトフリーウェイ

2014年02月21日 | Weblog




深夜の高速道路は、行き交う車も僅か。
都会のビルの壁に挟まれ、縫うように一筋の光の帯の中で黒き路面を晒している。
所謂「首都高速道路」は、日本の経済成長の象徴であり、東京オリンピックの開催に合わせて建造されたと聞いたことがある。
当時都心は、既にビルが乱立し、新たに道路を建設しようにも買収にコストがかかり過ぎ、立ち退きを行っていては肝心のオリンピックに間に合わないという問題を抱え、苦肉の策で打ち出されたものが、都心を流れる川の上に建設するというアイデアだったらしい。
そういわれると確かに首都高速は、川の上を通っている印象が深い。
立ち退きを必要とせず、都内を縦横無尽に道路を建設できる素晴らしいアイデアだったと思う。

一方、江戸の昔から人工的に作られた水路、つまり川は、風の通り道にもなっていて、蒸し暑い夏には、川の上を涼風が吹きぬけていくお蔭で街はけっこう涼しかったらしく、高速道路の建設で涼風は無残にもその道程を阻まれて行き場を失い駆け抜けることを立たれてしまったのだと言う。
涼風に煽られて風鈴が鳴る風情も敢え無く消え去ってしまったのだった。


利便性を取り、人が手を加えれば自然の摂理は失われ、それとともに人の恩恵をも失われる。
人工的な利便性から自然の恩恵を差し引けば、人は大きな恩恵を被られるのだろうか。
そんな単純な引き算で割り切れるほど、人の英知と自然の恩恵と脅威は単純ではないもだろう。
数十年前に誰が地球温暖化で北極が消え去ると想像しただろうか。
想像できたとしても多くの人は、遠いまだ遠いおとぎ話のように考えていたに違いないのだ。
人はより高みを目指し止まない因果な生き物が故に、未来永劫自然破壊は続くのだろう。
このままでは・・・と思いつつも自分の先の先の子孫の時代の話だと高を括っていてはいけないのだと理解しなければならないのだ。


ミッドナイトフリーウェイ・・・人が求めた利便性の極致であり、人の英知の結集の象徴なれど、その裏で消えていった川面がもたらした恩恵を失い自然の摂理を歪曲してしまった象徴でもあるのだ。
ただひたすらにその上を駆け抜けるだけではいけない気がしてならない。








Camera : Canon EOS6D




大雪に見舞われる日に

2014年02月14日 | Weblog




先週末に引き続き、関東は大雪に見舞われてしまった。
就業時刻前に会社から帰宅命令が出て、通勤の混雑も無くスムーズに帰宅したのだが、週末の予定はこれでオジャンと相成った。

今年関東に降る雪は、今までの雪質と違い、いわゆる水分を含んだ大粒の牡丹雪ではなく、粒子の細かい粉雪なのがちょっと新鮮だ。
北海道のようなパウダースノーには程遠いものの、新雪を踏めばギュッギュッと雪が鳴く。
20年前に居住していた北海道の冬を彷彿とさせてくれる雪質にちょっと心奪われそうだ。

マンションのエントランス前が街路樹を配置したちょっとおしゃれなタイル張りの広場になっていて、根元には街灯が配置されているのだが、降り積もった粉雪が静かに堆積されて何びとも立ち入らないことからちょっとお洒落な風情を醸し出していた。
荒らされていない堆積されたままの雪の平原は都会では希少価値だと思う。

その昔、今日のような雪が降り、校庭一面を白く覆えば、我先にと飛び出して行って踏み荒らせれていない場所を一番に荒らすのが腕白坊主の雪に対する儀礼みたいなものだった。
校庭中を走り回り、鬼がタックルで捕まえる鬼ごっこなんぞ始めた日には、雪だというのに全身に汗かいて、気が付けば手足の先だけが痺れるほど冷たくなって堪らず校舎に戻ってストーブで手足を温めたものだ。
手足が温まる頃には全身の血が頭に登ってみんなほっぺたを赤くしてのぼせたような顔つきをしていた光景を思い出す。

ずっと忘却の彼方に押し遣っていて、もう引き出されることの無かった思い出が、何かのきっかけでまるで昨日のことのように思い出されてしまうのは歳を取った証拠だろうか。
確かに五十を半ば過ぎて歳を取ったのだから、素直に享受して思い出に浸ることへの抵抗など毛頭なくなっている。

雪が降り積もれば世間は大騒ぎで、何をやるにしても困難なことの多い困った現象なれど、自分の中で固く閉ざされた引き出しが空くことで自分だけの楽しみの世界が享受できるという利点もあるのさと自分に言い聞かせて悦に入る。
重ねた歳月分の賜物は、つまらないところでしか現れないけれど、それでも上々の人生と言い聞かせてみた。








Camera : Canon EOS7D

冬日の曇天は幻世の趣

2014年02月06日 | Weblog



真冬の空にはなかな見られない不思議な雲の様子を見て慌ててシャッターを切る。
薄雲に太陽は遮断されるも光は雲を透過して膨張して見え、下には入道雲のような雲が湧いている。
空だけ切り取ってみれば、何だか幻世の世界か、果てはPCゲームの背景かと見間違うほど幻想的で不思議な世界。
更に下の海と港湾の風景は、見慣れた現世の世界となっていて、どうも現実の風景とは思えない。
いっそ雲間を裂いて竜でも現れてくれないだろうか。
撮影出来たら大スクープもので、撮影者としてテレビに出られるかも知れないな・・・。
などと身勝手な妄想を膨らませていた。

風景写真を撮り始めて見る風景中に勝手な妄想描ようになった。
さして理由は無いけれど、見た目の風景の素晴らしさを楽しみ更に妄想すれば更に別の味わいとなって楽しめるということを知ってしまったからなのか、一粒で二度おいしいという昔の菓子メーカーのキャッチフレースではないが、遥々遠くまで脚を運んだ見返りを求めたいだけなのかもしれない。

考えることと妄想することは、いつでもできるという利点があって、場所も選ばない。
混雑した電車の中だって邪魔になる本やノートを広げることなくできてしまうし、集中しているとあっというまに目的地に到着でき、時間の長さを感じなくて済むという利点がある。
だけど反動で独り言でも呟いた日には、完璧におかしな人になってしまいそうで怖いとう意識もある。
妄想癖と言うけれど考えることも癖のうちだと信じている。

染み付いた癖は取り除けない。
風景を見る度に勝手な妄想を膨らませ、悦に入る変なオヤジというキャラはきっと払拭出来ずに続くに違いないのだ。






Camera : Canon EOS6D



朔月参り

2014年02月02日 | Weblog




毎月1日に神社に詣でてお参りすることを「朔月(ついたち)参り」と言うらしい。
朔月は、月立(つきたて)の音便で「こもっていた月が出始める」を意味し、その月の無事を祈願する風習なのだということが分かった。

宮司の祝詞に向かい、長い時間手を合わせ微動だにしない人を眺めながら、何をそんなに祈願しなければならない事があるのかと不思議な面持ちでいると、次から次へと祝詞を待つ人たちが列を作っていく。
そんなに困った人たちが多いわけもなく、一体何だろうとある人に聞いてみると「月初めだからですよ」と教えてくれたものの今一つ飲み込めず、自宅に帰り調べてみてこの習わしを知ったのだった。

この古くからの習わしを知るにつけ、その月の無事なんて今まで考えたこともない自分には、生ける日、生ける月、生ける年の尊さの微塵も感じることなく生きてきたことを初めて知らされた。
元旦に初詣はするものの、どこかセレモニー的な感覚に陥って、無事を祈願することふでは無く、儀式として執り行っていただけのことなのだ。

よくよく考えれば、私は既に今まで生きてきた年数の半分も生きられない身の上なのだ。
好きな時に好きな場所に行ける日もあとどのくらいだろうか・・・。
もっと早く気付くべきだったのか。
気付いたところで寿命が延びる訳もなく、一月寿命が延びたところで余計に月日を重ねただけになってしまうと考えるのは、まだ死に対して畏怖の念を抱いてない愚か者が故のことなのだろう。

その月の無事を願うようになるのはいつの日か。
今は実感がなくとも、もうすぐそこまでやって来ているように思えてならない。
こんな不埒な自分でも神様は願うことを受け入れてくれるのだろうか。
釈然としないモヤモヤの中に身を置きながらその日が来るまで待つことにしようと思う。









Camera: Canon EOS7D