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ノグチサトキ

名もなきギタリストの物語

相性について

2015-07-31 | 自分史

そもそも、私とは誰なのか・・・。 

例えば、性別、年齢、容姿、出自、学歴、仕事、年収、趣向・・・、・・・、

これら、ひとつひとつの要素をもって、私という人間性が構成されている訳であり、

過去から現在があって、また未来が生じてくるものかと思います。

 

とは言え、仮にそれが10として、

常日頃、その10の全てを意識して生きている訳ではありません。 

職場に居れば職場の、自宅に居れば自宅の、

外に入れば外、意識するしないに関わらず、

その時々に応じた自分を引き出して過ごしているところです。

 

もちろん、気分も大きく関わることと思いますし、

体調によることもあるでしょう。

 

また、その一つ一つについては、普段、特に意識しなくてとも、

何かの拍子に、その一つが自分自身の全てであるかの如く

自分に覆いかぶさることがあるかと思えば、

同じことでも、全く何事もなかったように感じたり、

或いは、時間の経過により感じ方が変わるものもあれば、

他人にとっては、さして問題にしていないことも、

自己の存在を揺るがす大問題であったりすることもあるわけです。

 

それは、思想信条かも知れないし、宿命や運命かも知れない。

そもそも、意識化さえ出来てないものかも知れませんが、

このようなことは、私に限らず、誰しも、大なり小なり持ち得るものかと思います。

 

一般的には、それを「拘り」とか「価値観」で顕され、

場合によっては、「コンプレックス」という言葉に代えられたりするようです。

 

いずれにしても、その辺りが、

社会性や人生観に大きく関わってくるものかと感じますし、 

そう考えると、詰まるところ、人間関係なんてものは、

相性に尽きるのではないかとも考えるところです。

 

信頼関係の根本的なところに関われば拘わるほど、

それは顕著ですし、

いくら話したところで、解る人には何も言わずとも伝わる反面、

逆に解らん人には、何を言っても解らんのではないかと思わないでもなく、 

それをわざわざ時間を費やして、説明するのも無意味だと言わざるを得ません。

 

話せば解るというのは、基本的には、詭弁でありますが、

確かに利害がある時には有効ですし、

仕事ならまだしも、むしろ、方法論を優先して、

その機に及んでさえ、表面的に取り繕ったとしたら、

自己犠牲以外の何ものでもありません。

 

極端に言えば、自己否定にさえなりかねませんし、

場合によっては、孤立しているように見えることがあっても、

共感を得る数の問題でもないのです。

 

とは言え、そう言ってしまえば、身も蓋もないところが、

世渡りの難しいところであり、折り合いが必要な部分かと思います。

それゆえ、せめて、プライベートぐらい、

意に違わぬ人達とは一切関わらぬようにしたいと思う今日この頃。

ただ、拘りと固執の違いを理解して、

客観的に捉えるのは、容易ではありませんけども・・・。



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