先日、一か月ぶりのボランティアに参加して来ました。
PC教室(コンサポート港南台)で教えていただいて最近twitterをよく活用し、様々な情報を得ます。ボランティア参加にも、twitterを通じて現地の方からもらえる情報がとても貴重です。 twitterから入る情報は本当に早く、他のマスメディアとの時差をしばしば感じます。この差は、早さだけではないようにも思います。
東松島市は、twitterで仙石線・石巻~矢本間が開通したと聞いていました。踏切に差し掛かると、折よく2両編成の列車が通過。地元の人間ではないのにただただ嬉しい。思わず列車に向かって子供のように手を振る人も。人々が帰り、街は確実に活気を取り戻してきています。
45号線からいつものように石巻市内に入り渡波(わたのは)地区を通過。家屋の周囲の瓦礫はずいぶん片付けられていましたが、窓もなく、ガランとした家が並び、もちろん人影もありません。この地区の人たちが家に戻れる日は一体何時になるのだろうか。
先月物資を運んだ牡鹿半島の侍浜を更に進み、今回は大原浜へ。ここも被害が甚大な所で、石巻の市街地に比べて復旧作業も遅れ、通れる道路が辛うじて確保されているのみ、家屋も手つかずの状態です。
物資も十分に届かないので、嗜好品などは皆無。「炭酸飲料が欲しい!」に応えて仲間と必死に買い集めた飲料を届けました。大原浜には船は辛うじて数隻あるが、地盤沈下で岸壁が下がってしまい使うことができないとのこと。漁師をされている区長さんが話してくれました。
今回も通行証を東松島市で発行(自治体により発行状況に差があり)してもらったので、作業はそちらで。
ボランティアセンターは、一か月ぶりの参加なのにスタッフさんが覚えていてくれた。運動公園の中は芝生の上にテントが張られ、ワンちゃんを連れて来ている人も。顔見知りとのんびり立ち話をしたり、さながらキャンプ場だ。トイレも気付いた人が掃除をして何時も清潔。センターテント内には、備品の他に皮手袋、長靴、雨具などの貸出品や経口補水液用の粉末やコーヒーなどが常時整えられ、ボランティアへの心使いを感じる。
さあ、昼食を食べたら作業開始。
国道45号線山側の側溝泥出しです。この辺は水は上がらなかったようですが、低い側溝にはかなり泥が入り込んでいます。土袋と人数分のスコップ、そして変な工具二本をマイクロバスに積み出発。先ほどの変な工具(名前不明)は、側溝の蓋を持ち上げる物と判明。「これ、上手に使えるようになると側溝専門になるっちゃ」と利府市から参加の青年。若い女の子の無駄のない動きを観察させてもらい、いざ作業。それでも要領を得るまでにしばし時間がかかる。解った頃には疲れて足腰が・・・。曇り空で気温はそれほど高くないが、30分に1回の休憩。配られた塩飴を頬張る。8人、いえ私を除く7人の機動力で、午後の作業は予定より早く終了。折角なので残った時間を使い市内を歩く。5月、6月の時と比べ街中は泥の汚れも無くなり、お店を開き始めたところも増えて。先月伺ったお寿司屋さんは、入口に資材が積まれ工事中の様だ。ご主人の握ったお寿司が食べたい。翌日は、雲ひとつない青空の下、7人のグループで庭の泥だし。3月11日、1メートル近く津波が押し寄せ、つい先日室内の泥だしが終わり、床の張替をしたばかりとのこと。もうこれ以上お願いできないからと、100坪からの広い庭をご夫婦でやろうとしていました。4か月が経過し、ヘドロはすっかり乾燥し、5~10センチほどの固層が庭一面を覆い、7人のボランティアが入っても、結局一日掛けても庭の半分ほどで時間がきてしまいました。リーダーが「継続しますから安心してください」と告げ作業を終わりました。台風が来る前に片付けが終わりますように。
17日から災害支援ボランティアに参加して参りました。
今回は東松島でのお手伝いです。
初日は、唯一個人受付をしている所(それだけ物資が不足している)へ野菜などの食糧や日用品の物資を届けるために、牡鹿半島の侍浜まで足を伸ばしました。
三陸道路から東松島市街に入り、国道45号線の道沿いは大方片付いていますが、一歩海側に入るとまだ手つかずの所が多く街道沿いとは景色が一変します。
石巻へ入ると地盤沈下のため、特に蛇田、渡波辺りは川の水面が異常に高く見えます。
隧道を抜け渡波に入って行くと、建物のほとんどは消えてなくなり、気仙沼と同じく灰色の景色が続きます。
復旧作業の順番があるのか、ここはまだほとんど手が付けられていません。
石巻を通過し牡鹿半島へ入っていくと、左手に広がる海岸線は内海で被害が少なかったのか美しい景色が見えていますが、反対側は小さな集落が幾つも幾つも無くなっていました。
物資を届け牡鹿半島から戻る途中、3階建て女子高校の前に差し掛かると、グラウンドには瓦礫が建物の高さに届くほどうず高く積まれ、校舎が飲み込まれてしまいそうな景色に胸の詰まる思いがしました。
東松島市は、綺麗に区画整理され、市街地にはおしゃれな家が立ち並ぶ仙台のベッドタウンの様です。
震災の日、海岸線から約5キロの所まで津波が押し寄せ、水は何時までも引かず、高台に避難した人が町に戻ったのは一週間近く過ぎた後だったと運び出し作業にうかがった寿司屋の主人が話してくれました。
11日の前にも大きな地震が有ったものの津波が来なかったので、今回も住民の誰もが津波の心配をしなかったようです。遠くで警報と避難指示の放送が聞こえ、ふと海岸方向に目をやると黒い波が見え、、「早く逃げろ!」と言う警察官の叫び声に店の扉を開け放ちたまま慌てて逃げ出したそうです。津波は、店のカウンターの高さにまで達したと言うことですが、戻ってみると大きな営業用冷蔵庫も金庫も流されたものか盗られたものか無くなっていたそうです。
一見すると建物には何も変化が無いように見えますが土台も柱もゆがんでしまい、修復するには莫大な費用が掛るとのこと、先立つものもなく止む無く大広間のあった棟を取り壊し店舗のみに縮小し営業を再開することにした、親子三代続いた店を守ろうとする主の苦渋の選択がありました。
女性陣の最初の作業は、器を半分に分けて行くこと。半分は店に残すそうです。そして残りの半分は…どうなるのでしょう。 鮎の塩焼きを乗せる美しい「鮎皿」も主の言い付け通り二つの箱に納めました。地震が無かったらちょうど今頃からこの皿の出番だったことでしょう。「一日も早くまた使われますように」と念じずにはおれません。 客室の要らなくなった箱膳やテーブル、家具などが次々に運び出され建物の中はガランとして何とも言えない寂しさが伝わってきます。
「再開したら必ず食べに来ますから」
お店が一日も早く再開されることを祈りつつ店を後にしました。
気仙沼市本吉町今朝磯は美しい海岸線の続く所でした。
遠くに目をやれば海は碧く澄み、ウミネコが飛びかう長閑な風景にも見えますが、眼下は・・・
今、漁港には一隻の船も無く、土台だけが残された家屋の跡から津波の激しさが伝わり、
想像以上の惨状に言葉も出ません。
小高い丘の上に立つ町民集会所広場には、
がんばろう日本の吹き流しと共に主を失った大漁旗が所在無げに風になびいています。
昨日までの二日間、気仙沼市の浜地区ボラティアセンター(はまセン)で作業を手伝わせていただきました。
ボランティア参加者はさまざまで、
リタイヤして赤帽さんを始めた大宮から参加した方は、6日間の参加で本日帰るも、明日再び物資を運んで来るとのこと。
秋田県から片道3時間の道のりを毎週参加される方。
はるか岐阜から重機を運び込んで参加された解体プロの面々。
福岡県行橋市など市の職員さんも交代で支援に駆けつけているとのこと。
奈良や兵庫、全国各地からの参加者。 本日は総勢60名ほど。
りピーターとして参加された長野県の工業高校の先生は、今回は生徒さん6名と共に参加。
参加者の多くは20~30代ですが、中高年もがんばっていました。
私の参加した班は個人宅での仕分け作業です。
見晴らしの良いそのお宅には、海を一望できる場所に浴室があり、
景色を眺めて湯船に漬かっていたであろうその浴室のみを残し
後は家屋の土台だけが残り、家屋は跡かたもなく消えていました。
重機で粉々になった木材等の山を20名ほどで
貴重品、木材、鉄、プラスチック、瓦、モルタル、可燃物、などに仕分けをしていきます。
作業を開始すると間もなく、木材やガラスの破片の間から大きな安全ピンの様な物が次々に出てきました。
漁に使う道具ですが、ステンレス製で高価な物なので拾い集めるよう指示がでました。
巨大な安全ピンは一斗缶いっぱい集まりました。
一日がかりで仕分け作業はほぼ完了しました。
積み出しの車もボランティアの持ち込みに頼らざるを得ず、台数に限りがあり、
仕分けた物は時間までに搬出しきれず、残りは明日に持ち越しとなります。
流出したショッピングセンター跡地が集積所へとなり、
別のボランティアグループが待機して積み下ろし作業をします。
はまセンのHPに「出来ることはたくさんあります。1時間でも良いです。」のメッセージに
自分にもできることがあるかもしれないと思い、今回参加してみました。
確かに重機など機械の力では出来ない細かな作業は、やはり人の手でやるしかありません。
お茶碗を洗ったり、写真などの貴重品の洗浄作業など仕事は様々でした。
被災された方々に元気を取り戻していただくために、一日も早く片付けが終わるよう今後も
出来ることを続けてみようと思います。
本日は雨が時々降りましたが何とか作業をすることができました。
出発前に用意出来なかった釘踏み抜き防止用の中敷もセンターで貸して頂き二日間の作業無事終了。
これから横浜へ帰ります。体力的にも作業量は僅かですが、これからも出来る事で応援していきたいです。手弁当で参加すべきところですが、昨夜は宇都宮ボランティアセンターからの炊き出しでマグロステーキ丼を頂きました。めっちゃ美味しかっです。ごちそうさまでした。
時間を追うごとに被害の様子が明らかになってきました。大変なことになってしまいました。
東北や長野県の皆様には心よりお見舞い申し上げます。
3月11日 午後2時46分。今までにない大きな揺れを体験しました。
当時放課後でしたが、校内には一部の児童が残っていました。
ぐらっと揺れ間もなく停電となり、防災盤の警報が鳴る中、子ども達を安全な所に避難させました。
1回目の揺れがおさまるまで、時間がとても長く感じました
子ども達たちは、恐怖で表情を強張らせていましたが、幸いけがをした子はいませんでした。
保護者の方へ引き渡すまでの間、お腹に入れるものを調達するため、二手に分かれて近くのコンビニとスーパーへ。
既に店内の棚には商品がほとんどありませんでしたが、辛うじてパンとスープを買うことができました。
停電で薄暗い通路に長蛇の列ができ、電卓を叩く店員の表情は殺気立っていました。
(防災備蓄庫内の備品は、防災拠点になった場合のみ使い、職員が勝手に使うことは許されていません。)
ライフラインの内、水道とガスは使うことができるので、懐中電灯と、理科室のロウソクで明かりをとり、午後6時過ぎに軽食を摂らせました。
子ども達は懐中電灯の明かりの中で、歌集で歌を歌ったり、ゲームをしたり、宿題を済ませる子さえいました。
午後8時 最後の児童が帰宅し、私たちは本日の任を解かれました。校長先生は本日保健室に一泊します。
暗闇の中、駐車場へ向かうと、星がとてもよく見え切なく思えました。
反町に住む同僚を送り届け、家に帰りついたのは午前3時でした。
連絡の取れなかった松島の伯父夫婦は無事が先ほど確認できました。
息子も、無事でいることが判りました。
配置転換で、この日仙台を発つ予定でしたが、勤務先の仙台病院には負傷者が多数運び込まれているようで、応援要員として暫く留まることになったようです。 被災された方々のためにしっかり働いてください。