ファンタジーノベル「ひまわり先生、事件です」

小さな街は宇宙にリンク、広い空間は故里の臍の緒に繋がっていた。生きることは時空を翔る冒険だ。知識は地球を駆巡る魔法の杖だ

1月18日(月)のつぶやき

2016年01月19日 | ファンタジーノベル

ブログを更新しました。 『1月中旬特選映画【2】★映画のMIKATA「はなちゃんのみそ汁」★映画をMITAKA』
ameblo.jp/sasuganogyosui…



初詣といえば。…それは勿論「杉さま」の神社ですーよ。

2016年01月07日 | ファンタジーノベル


初詣といえば、勿論「杉さま」の神社ですーよ。もう此処へ引越す以前に存在したずっとずっと昔からあった「杉山神社」に初詣に参りました。しかし近頃、初詣の参拝者の多いこと凄い事ー。以前は閑散としていた境内は参拝客であふれていました。何んという人混みなのか、まるでアイドルのコンサート、まるでバーゲン会場の入り口、まるで福袋を買いたい行列のようです。私は驚くばかりです…。日本人の宗教心が深まった?かな、それとも、八百万の神様のご利益が深まったか?かなー。いやいやそんな呑気で呆けた理由ではないだろうーね。安倍政権自民党への不安からなのではないでしょうか…???自分の生活の将来が不安ー、子供のこの先の格差が怖ろしいー、贅沢をしていないのに生活が年々苦しくなっているー、病気になったらどうすればなどの不安をお賽銭を投げ込んで心静めているでしょうーね。こういう私も、中高年の一人。年金では生活できないよなー、ひとたび病気になったら生活は崩壊するだろうなー、まだ働けるとしても、働くとしても中高年の「失業」は厳しいよなー、雇用保険は削られ減らされ生活保護以下ですからねー、政治家たちへの怨念を神社にぶつけ祈るほかはないでしょうよ…!!!宗教は現実の苦しみを癒やす阿片・・・なのかな。それとも、安倍政治の与える世論操作「一億総活躍社会」とか「介護離職者ゼロ」などという阿片のようなキャッチフレーズと幻想でこの世の憂さを忘れるか―な。

関東以外の土地に「杉山神社」というのは、あるのかどうか知りませんが、地方にはその土地土地で古から根づいた霊験のある古式ゆかしい神社や、「住吉」や「熊野」や「八幡」や「白山」などのお馴染みの神社系譜にゆかりの神社が点在しています。そんなポピュラーな神社から見れば「えー聞いたことないな…」という神社ですねー。」神奈川県横浜市を中心に川崎市、東京都町田市、稲城市などに、宗教法人登録されているだけでも35社もあるそうです。合祀されたものも含めると72社あまりあると言われている杉山神社です。不思議にもほとんどが、これら特定の地域に集中しています。謎にみちた神社なのですーよ。

だから決して杉良太郎の人気にあやかって、参拝者が増えたわけではありません・・・。でも一度杉良太郎が何処かの境内で「杉さま」がお祭りの仮設舞台の上で、あの例の時代劇のテーマソングで100万枚を超えるヒット曲「すきま風」を是非ぜひ歌ってほしいな…。



第9章連載≪12≫「ひまわり先生、大人たちfまだ大陸の砂塵の中に彷徨をしているのでしょうか…」

2016年01月03日 | ファンタジーノベル


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
★登場人物の紹介★富田工場長編★

多摩川商店街の裏話は、大抵トキ婆さんの「玉肌の湯」が噂の発生源であります。街に古くから住んでいる人間は、その親のまた爺さん婆さんの時代から、嫁がどこの村から来て、その親戚が何処に勤めているとか、その従妹がどこへ就職したとか、孫が何歳の時にどんな病気に罹ったとか、何世代の昔でも、村から街に変わったとしても、長い歴史の変遷はお互いに「ア~そうだったな…」と、うすら昔話のように記憶と伝説に残っているものでした。知らなくても忘れても、トキ婆さんに聞けばイイよーと、言って教えてくれた。淳子の叔父で、印刷会社「夏目印刷工房」の工場長を勤める富田は、以前から正体はどうもハッキリしない存在であったが、ある時のニュースをきっかけに話題が盛り上がったことがあります。6年2組の龍が登戸研究所に関係するネットニュースを淳子に話し始めた時でした。龍によると、

…静岡市の製紙工場で、孫文などのすかしが入った特殊な用紙が見つかった。明治大学の研究者が確認し、旧陸軍登戸研究所の発注で中華民国の紙幣を偽造するために作った用紙と判断した。明治大学平和教育登戸研究所資料館(川崎市多摩区)が昨年7月、「巴川(ともえがわ)製紙所」(本社・東京)の静岡市駿河区にある工場で確認。約30センチ四方279枚がつづられていた。資料館によると、用紙には中華民国建国の父・孫文の横顔のすかしがあり、絹の繊維がすき込まれていた。当時の中華民国で広く流通していた5円札の特徴だった。北京の歴史的建造物「天壇」のすかしが入った紙もつづられており、これも当時の別の5円札の特徴という。すかしの出来や絹の繊維の密度などを点検した形跡もあった。・・・という記事でした
(参考:http://www.asahi.com/articles/ASGDS4RTHGDSULOB00J.html)
その時、トキ婆さんが言うには、富田少佐はなー、その昔は陸軍中野学校にいたそうだよ。そこから登戸に来たよ。あの映画にもなったスパイ学校だよ。戦争中は偉い人だが、戦争が終われば犯罪者だよ。勝てば官軍、負ければ賊軍だー。札偽造印刷の犯罪者だがーね。夏目もなー、大日本印刷に勤めていたそうだよ。無理矢理ににせ札印刷のために軍隊に徴用されたんだー。あそこでな、偽札偽造もそうだが、毒ガスも風船爆弾も中国人への人体実験も殺人兵器も開発してたそうだぞー。あそこはな、戦争中は陸軍の重要拠点だぞ、昭和天皇も三笠宮殿下も東条英樹も視察に来たことがあるんだ…。どうだ、ビックリしたろ。


>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
多摩川小学校のひまわり先生の子どもたち…、君子、悟、美佳、太一、徹たちの6年2組の新聞班は、誘拐されたひまわり先生の嬰児・勇樹を捜すために、10年後にもう一度、小学校の桜の古木の下に帰ってきた。5人は固く手をつなぎ、桜の満開の下で、今この時の再会に、それぞれの顔を見合いながら感涙した。時の経過と共にお互いか失ったものに哀しみ、世界を彷徨い探し続けた末に見つけた心の糧がここにあったことを頷いた。多摩川小学校には、町に住む茜や龍や緑や源太たちの仲間がいたが、残るもの去るものもいた、それは街の変化と共に変わっていた。
小さな街は、宇宙にリンクしていた、そして、広い世界の先には、生まれた街の臍の緒に繋がっていた。生きることは、いつも時空を翔る冒険だ。知識は、地球を駆巡る魔法の杖だ。見つけたものは、地球を闊歩した巨大恐竜の足跡とグーテンベルクと戯れる蝶だった…

////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////////

10年も15年も経てば心も身体も成長する。もう緑も成熟した女になっている。あの頃は未だ元気な母の経営するお店ペットショップの手伝いをしていた。動物好きな三宅緑は、高校を卒業する出るころにはしばらくはペットショップ「ノアの箱舟」を手伝っていた。がその内に学生のお手伝いでは満足せずに、自分でお店を切り盛りしたくなって、ペットショップの隣にこじんまりした、カフェバー「ソロモン王の館」を開いた。ペット愛好家が動物をお店に預けて、動物の自慢話に花を咲かせるお店でした。緑は、客のいない夜には、カウンターの上に大きなニシキヘビをのせて、爬虫類と会話していた。いっぱい引っ掛けて帰る初めてカウンターに腰掛けた酒飲みを驚かせることが、しばしばあった。緑は、蛇の眼を見ながらウィスキーを飲んでいた。太一が扉を開けて入ってきた、「緑、元気か…」と、相変わらず威勢がいい。

 同級生達もちりじりになって、地元に残っている昔の仲間も、数えるだけになってしまった。太一もその一人だ。商店街の小さな八百屋は、今や押しも押されぬスーパーストアー「アグリカルチャー」という新鮮野菜を売り物にする店舗を全国に展開している実業家になっていた。中国の宮廷料理、ヨーロッパのスローフード、インドの香辛料理など、世界の食文化を食卓に乗せるフード事業で成功している。けれども、どういう訳か地元の八百屋も昔どおりに開き、ねじり鉢巻き袖まくりで、店先で大声を張り上げている。「この街は、僕の夢を育ててくれたところなんだ…。このお店は6年2組の仲間がやっているから、時々遊びに来るよ…」といって、緑のお店を接待と商談に使っている。商売の大切なお客だからといって、東京の豪華なホテルのレストランに接待しない、銀座の豪華なキャバレーなど使わないのが太一らしいところでした。

 緑のカフェバーは、昼間は商店街の暇つぶしの溜り場になっていた。夜はカフェバー「ソロモン王の館」の看板に変っていた。昔、緑がそうだったように、昼間は、アルバイトの女子大生に喫茶を手伝わせ、本格的な美味しいカレーライスとスパゲッティをランチタイムに食べさせていた。さまざまな香りを放つ本格的な落ち着いた紅茶専門店なので、ファッション雑誌におしゃれでモダンなお店としてカラーページに紹介された事もある。お手伝いの女の子はアルバイトをしながら女優志願の、結構セクシーな女子大生なので、噂が噂を呼んで、近くの若者が頻繁と通い、おしゃべり好きな主婦達が常客となって、結構、繁盛していた。緑もフードビジネとペットショップに意外な商才を発揮していた。

 太一と同じく、やはり同級生の夏目淳子も時々、昼間の喫茶店に顔を見せる。淳子は出版者の編集者から独立して、中国や韓国やインドや東南アジアの現代文学や映像芸術を日本に積極的に紹介している。淳子の名刺には、まるで大東和共栄圏の時代に暗躍した闇の組織のような、さまざまな肩書きが並んでいた。四角い名刺の頭には、≪亜細亜藝術文化、エキセントリック・エージェント&エディター≫というなにか古めかしく謎めいた、怪しい名前が印刷されていた。

 緑の魅力なのだろうか、近所の中年たちが足しげく通う。商店街の一心太助の親父がお得意さんと立ち寄ることもあった。夏目印刷公房の富田工場長も工場の若いオペレーターを連れて飲みに来ることもあった。三宅校長も娘の様子を伺いにカウンターに座っていることもあった。なんとなく寄る辺ない近所の中年たちの、溜まり場となってしまったようだ。

 まだ独身の緑がお店に現われると、カウンターで所在なげにビールを片手に侘しく飲んでいた一人の客の瞳も、急に輝いて、アルコールを一気に煽る、なまなましい欲望が燃え上がるようだ。珍しく淳子が、印刷工場の職人たちと共に飲みにきている。「緑ちゃん、待っていました。工場長がさっきから、お待ちかねです。緑ちゃんはどうしたの、今晩は遅いね…と、落ち着きませんよ…」「緑ちゃん、今度の休みにデートしない…」などと、軽口さえ叩くが、近所の常連客だから気心が知れている。どんなに酔っても、羽目を外すことはなかった…。彼らは緑より未だ若い世代で、彼女が校長の娘であることなど知らない。ましてペツトショップとカフェバーの経営者であることなど知るはずもない。

 既にだいぶアルコールが入って、熱気は最高潮に達していた。夜になると店内は急にカラオケの音が店内に大きく響いた。富田工場長の十八番はいつもの軍歌でした。彼の絶唱がもう始まっている。印刷工たちもだいぶ酔いしれている。緑に手を振りながら、「緑ちゃん、花も満開。後で夜の桜見物に行こうよ、小学校の桜の巨木の下で、酔いつぶれましょう…ねえ…」と、もう呂律が回らなくなっている。繁華街のスナックのように、ぶらりとサラリーマンが立ち寄り、高級なウィスキーを注文して、グイーッと煽り、大騒ぎをして憂さを晴らす様な場所ではないが、結構賑わっていました。「ヨウ…」といってお店に入ってくる10年来の顔見知りだけしか来ないので、大声を張り上げて歌う品の無い軍歌も、ここでは無礼講で通っている。でも、今日の富田工場長はだいぶボルテージが上がっている。

#♭♬「ここは御国の何百里。離れて遠き満州の赤い夕日に照らされて、友は野末の石の下…軍律きびしい中なれど、これが見捨てて置かりょうかしっかりせよと、抱き起こし、ほう帯も弾のなか…むなしく冷えて魂は、国へ帰ったポケットに、時計ばかりがコチコチと動いているとも情けなや…思いもよらず我一人、不思議に命ながらえて、赤い夕日の満州に友の塚穴深く掘ろうとは…」。🎵🎵#♭♬ 薄暗いスナックの中でマイクを片手に軍歌を朗々と歌う富田工場長のカラオケ好きは工場内でも有名であった。

 桜の満開の夜に、ピンクの花びらが路上を染め、夜なのでそれが雪がパラついているように見えた。「待ってました…富田工場長」と、煽てると十八番のこの≪戦友≫が一曲目に流れる。遠く中国大陸を思い出すように視線を遠くに流して、煌々と輝くスポットライトに向かって、両足の白いスニーカーを軍靴のように凛凛しく揃えて、直立不動に敬礼する。富田工場長の人生の謎の部分が、彼の背後に広がる壁の影に隠し絵のように投影される。「しっかりせよと、抱き起こし…」という所で、床に膝をついて両手を広げ、とめどない涙をこらえるように、傷ついた戦友を抱きとめるしぐさは、まるでどさ回りの村芝居かがっている。

 そのポーズがあまりにも真に迫っているので、工場の若い職工がいつも冗談半分で、「工場長よ、軍歌なんかよ…、いま時、鶴田浩二の同期の桜は流行らないよなー。せめて懐メロは北島三郎か、美空ひばりだろうよな…」と、言った。その時です、途端に血相を変えて、ぶるぶると拳を握って飛び掛りそうな険しい表情に変った。バカャロー、ついこの前だぞ、この軍歌が日本人の現実だったのは。若い奴らが、お国のためといって死んでいったのはー。生きるのが虚しいといって、練炭燃やして車の中で自殺するのと違うぞ。生き甲斐がないとかお金のために働きたくないーなどとつまらぬことを吐いて、挙句に虚しいと死ぬのとはわけが…」と、富田工場長が激しく吼えた。彼の本音である。

 緑がテーブルの向こうから場をとりなすように、「富田さんの軍歌って、感動します。なんか胸にジーンと響いてきます…」と、妙に持ち上げた。「叔父さん、あんまりおっかない声を出さないでよ。緑ちゃんがビックリするわよ…」と、叔父の軍歌になれている淳子も仲に入った。「ソウカ、そうだ、イや悪かった。淳子、ごめん。ごめんだ、面目ない…。俺は未だに自分が、のうのうと生きているのが、申し訳なくて、面目なくて。生きているのがだんだん恥ずかしくなるんだ…」と、また鳴き声のような嗚咽を交えて、歌い始めた。彼の溺酔した意識は、いまだ遠い中国大陸の砂塵の中をさ迷っている。軍歌を歌うたびに、戦友のみたまは、彼の魂を呼びよせる。「どこまで続く、泥濘ぞ、三日二夜を食もなく、雨降りしぶく鉄かぶと…既に煙草はなくなりぬ、頼むマッチも濡れはてぬ、飢えせまる夜の寒さかな…敵にあれど遺骸に、花を手向けて懇ろに、興安嶺よいざさらば…」。軍歌が佳境になってくると高音がますますハスキーに響き、歌声はだんだん往年の三浦洸一によく似てくるようだ。

 緑の母が生きている頃に、富田工場長の軍歌を歌う姿をみて、うっすり涙を浮かべてつぶやいた事がある。ここにいる誰も知らない富田の過去があった。淳子だけはうすうす理解できた。印刷工場の忙しい時に、淳子の濡れたオシメさえ取り替えてくれた叔父の冨田は、誰にも聞かれたくない過去を子守唄のように語り聞かせていたのを、淳子の遠い記憶に木霊のようにひびいていた。

 淳子と緑のそばには、いつの間にか太一が座っていた。「淳子、顔をあわせるの、久しぶりだわね。仕事忙しいの?」「そんなでもないんだけれど…。この店に姿を現したのは、私が一番よ?太一も、今晩あたり店に来ると思っただけど、遅かったわね…」「俺は、昼に暇だから来たわー、なんか落ち着かなくてさ。胸騒ぎさ。何かありそうで怖いんだー。」、と1人で不安を募らせている太一であった。いつ仲間を前に野太い声で、1人で喋って、さっさと帰る太一だったが、今晩は何か様子が違う。「俺たち新聞班がばらばらになって、卒業するときに桜の木下で円くなって、円卓の騎士のように手を重ねあって、かたく手を握り、誓い合ってさ…」。太一は何時もと雰囲気が違う。淳子もしみじみとなってきた、「あれから十五年経つのね、みんな、どんなに変っているか、再会するのが楽しみだ。富田叔父さんにも誘拐のことは話しているわ。きっと協力してもらえる…。なにしろ、冨田叔父さんは中国の裏社会を知り尽くしているから。何か手掛かりはつかめるはずだわ…」。太一が緑に、「ところで、校長先生が亡くなったんだって…」と確かめた。

突然、緑が噂の真実を確かめるように始めた、「そうなの。内緒よ、絶対まだ黙っていて。自殺…。母が施設でなくなつたの、そのあと直ぐに…」と、耳打ちした。「富田叔父さんと同じなのよ、戦中派の心はまだ中国大陸の砂塵の中を、彷徨っているのよ。どこかでまだ、砲弾の余韻が続いているの。平和な日本でゆっくり余生など送れない人ばかり…」と、まだマイクを握って軍歌を熱唱している工場長の方を見ながら、淳子が言った。

」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」
/

第8章連載≪11≫「ひまわり先生、大事件です、戦争を知らない子供たちが戦争ごっこをしています…」

2016年01月01日 | ファンタジーノベル


★登場人物の紹介★三宅緑編★
三宅平八郎は多摩川小学校の元校長でした。元々は信州・高遠の出身であったが、トキ婆さんが言うには、陸軍の研究所を移転するときに彼がその準備のために、無理矢理に協力させられ、川崎に連れてこられたようです。彼の妻もその時一緒にここに移り、娘の緑はここで生まれた。緑も6年2組のクラスメートですが、動物好きな少女でした。緑の家は、まるでノアの箱舟のようにいろいろな動物や生き物たちが飼われていました。朝は鶏の一番どりが鳴き、夕方は川向こうの橙色の燃えるような太陽が沈むのを見つめて、愛犬のジョンが地球の終末を警告するように、空に向かって吠えていた。

 緑の動物が好きは自然に囲まれた信州に育った母の血を受けついているのかもしれません。小学生の時はウサギ小屋の飼育係であった。その頃に盛んに、「私ねー、動物の言葉が話せるのーよ。私、生き物の心が分かる見たいなの」と、皆に話していた。理知的な徹などは、真っ先に「ジャー、ヘビや鰐の心が読めるのかよー。あんな爬虫類や両生類にだいたいな、心なんてないだろー。心があるのは人間だけだよ。哺乳類のイルカなんかは仲間同士の泣き声でお互いに危険などの合図を送っているらしいけどね。ア~そうだ、ミツバチも8の字を描いて仲間に花の位置と方向の合図を送っているようだね。鳥の囀りもまた意味があるようだし、チンパンジィーなどの猿類になると、さらにもっと高度な言語表現まであるようだけれどもー、でもそれは心とは言わない筈だよ。」そんなことを話しはじめればもう徹の世界です。「そう言えば、動物学者のコンラート・ローレンツ博士は、インプリンティング、刷りこみ理論という面白い鳥の本能を言ってるーね。犬は人間の3才程度の知能があるらしいよー。だがそれだって心とはまた違うだろうーね」。徹はこれまた、ひまわり先生と勝るとも劣らぬ物知りでした。ただ、徹ならば緑に対して、自分の知識をひけらす程度でしたが、同じクラスの悪戯っ子たちは、緑がそんなことを言うならば、ワイワイ囃し立てて、揶揄ってしまうのが落ちでした。緑の周りがざわつくともう徹では手に負えなくなる。そんな時は、太一が飛び込んでくる。「緑を泣かせたら、俺様が承知しないぞ・・・。雄太いい加減にしろよー。奥田、揶揄うのは辞めろよ、緑とは幼馴染だろー。豊よ、お前の母ちゃんがお店に来ても野菜をまけてやらないぞー。」と、緑をかばった。雄太も太一と負けず劣らず、腕っぷしの強い悪戯っ子であった。雄太を抑えられるのは、もう太一しかいなかった。

10年後に緑は、動物好きが高じて多摩川商店街で、小さなペットショップを経営することになった。動物のことは緑に聞けと言われるほどの動物好きで、一時期は獣医になることも真剣に考えたこともあった。が、父の不遇な「死」を経験かしてからは、人間にも動物にも見方が変わってしまったようだ。小学校のころ、緑が世話をしていた学校の隅にあった動物小屋の延長のようなものであった。ペットショップには、小学校と同じく亀やウサギやリスも網の中に飼われていました。生き物の心がよく分かればわかるほど、人間をもっと知りたくなった緑でした。怒りに横溢して物を壊す人、絶望に崩れ正気を失った心、他の生き物に力で威嚇する動物、自分の生存を脅かすものを襲う動物など、人間にも動物にも生き物全てに心があると思っていた。生き物をもう一度じっくり観察したいとペットショップの隣に、街の人々が集まるお酒とコーヒと食事のできるお店を開いた。

日本国で絶滅種の生き物を集めて、ノアの箱舟のような動物王国を作りたいと、いつも言っていたが、ペットショップを経営している今でも獣医になる勉強を怠ってないようです。動物の世話をしながら、ペットの病気を治す獣医になる希望を持っている。でも、ペットショップとは違って彼女の部屋には、禁じられた猛毒を持つ爬虫類や獰猛な牙をもつ猛禽類が徘徊していた。一度、彼女の部屋に泥棒が忍び込んだことがあるが、大きな悲鳴とともにも一目散に2階ベランダから飛び出して足の骨を折って病院に入院したエピソードがある。大きく長い蛇が泥棒の足に絡みつき、白い牙を持った動物が唸っていたので、怖ろしくなるのは当然かもしれません・・・。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
ひまわり先生の子どもたち…、君子、悟、美佳、太一、徹たちの6年2組の新聞班は、誘拐された勇樹を捜すために、10年後にもう一度、小学校の桜の古木の下に帰ってきた。5人は固く手をつなぎ、桜の満開の下で、今この時の再会に、それぞれの顔を見合いながら感涙した。時の経過と共にお互いか失ったものに哀しみ、世界を彷徨い探し続けた末に見つけた心の糧がここにあったことを頷いた。多摩川小学校には、町に住む茜や龍や緑や源太たちの仲間がいた。

小さな街は、宇宙にリンクしていた、そして、広い世界の先は、生まれた街の臍の緒に繋がっていた。生きることは、いつも時空を翔る冒険だ。知識は、地球を駆巡る魔法の杖だ。見つけたものは、地球を闊歩した巨大恐竜の足跡とグーテンベルクと戯れる蝶だった…

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カーキー色の迷彩服を着てヘルメットを被り、本物そっくりの自動小銃を抱えて、重たそうな軍靴で山中を走りまわる「戦争ごっこ」が、若者の間で流行っているそうです。戦争の気分に浸るために、頭の天辺から足のつま先まで戦闘中であるかのような、疑似体験を演出する。あたかも戦時中の軍隊のように、本物の戦争を真似して、おもちゃの武器で撃ち合うゲームである。本当の戦争を知らぬ世代の、子供じみたゲームでもある。

賑やかな繁華街の裏路地に踏み込むと、米軍や韓国軍などの中古品が狭い店内に所狭しと、圧縮展示されているアーミーショップが並んでます。軍事お宅たちが休みの日などは、お店の中に彼らが屯していた。戦争を体験した世代から言えば、思い出したくもない忌まわしい記憶なのだが、長い平和に麻痺した世代にとっては、徴兵制のある国が羨ましく、戦争が刺激と興奮のゲームのように感じられるようである。 富士山の樹海では、早朝から笑いあう歓声と、軍歌の勇ましい音楽と泥と小枝を踏みつける音が、木立を駆け抜けていった。彼らはお互いの名前を呼びながら、さっきから擬似戦争ゲームがもう始まっている。

「おいー、雄太、さっき弾が命中したろー、ゲームオーバーだよ・・」。「純、違う、違う。ホンと、隠れていた樹に当っただけだよ…」。「でも豊よ、空気銃じゃ、やっぱり迫力ないよな、音が本物らしないよな…気分が今ひとつ盛り上がらないよ…」。「実よ、お前一斑だよな、敵なのに親しく話し掛けるなよ、ひらけるな…」。「今度さ、カジカセ持ってきて、軍歌を流しながら撃ち合うか…」。「馬鹿も程ほどにしろよ、どこの軍隊がそんなことをする。ゲーセンに来たわけジャーないぞ…」。「実、雄太よ…、そろそろ引き分けにしようか…」。「分ったよ、でも第一班はあと1人いるはず…・、満、隠れんボウしているんじゃないぞ。敵前逃亡で軍事裁判にかけるぞ…」。「満、いるなら答えろ、あんまり奥に入ると道に迷うぞ…。気の陰から死体が現れるぞー。」。「おーい、奥田満一等兵、直ぐに本隊に戻れ…・」。「純一よ、満が樹海の亡者に浚われたぞー…」。「おーい、満よ、早くし現われないと、前線においてくぞ…」。「源田実2班陸佐報告します、遠山軍曹は無念の戦死をいたしました。樹海で一晩の野宿してもらいましょう…」。「満、本当においてくぞ、富士山の樹海でサバイバルできる自信があるのかよ…」。樹海のさらに光のとどかない樹木の密集した奥から、叫び声が響いた。「じゅ・・・ん、みのるーー、ヒトガ、ヒトガ、シ・ン・デ・イ・ル・」と、叫んでいる。「満、満、何処にいるんだ…、発煙筒をたけ…」。4人が、満を見つけて駆け寄ってきた。樹の根元にまだ1週間もたっていない首吊り自殺をした老人の縊死体があった。老人の死を見たことがないようだ。どす黒く歪んだ顔は、棺おけに入った死体のように、死に化粧もほどこされていないに。肉親の「死」にあまり立ち会った事がない彼らにとって、他人の「死」は、偶発的で醜いものだ。

 樹海の遺体のそばに、ビニール袋に包まれ、重たい石が上に乗せられて置かれていた。警察の手から緑に渡された父の遺書があった。

緑は母の記憶で語られる父の姿をこういっていました…音楽が専門であった父の晩年は、信州の小学校の校長であっても、教室でオルガンを弾き、子供たちと唱歌を歌って、天職を全うしているかのような楽しそうな一日でした。家に帰ってからも、オペレッタの一幕みたいに、子どもたちと歌った愉しい興奮の余韻があるのかー、家の玄関先で朗らかな大声で歌っていました。戦前に親から譲られた外国製のピアノを、洋館風の防音室でひたすら弾いていました。ひたすら鍵盤を弾き、自分の音に酔いしれたている父を、私は、何度も垣間見たことがあります。音楽が人生そのものであった父にとって、子供たちと一緒に音楽を歌い、奏でることはこの上のない愉悦でありました。しかし、戦争が次第に激しくなると、ゆっくりと家でクラッシックを堪能することさえが出来なりました。学校では戦時色が強くなると、万世一系の天皇制を賛美する教育勅語と戦争を鼓舞するような勇ましい軍歌が巷に溢れ、小学校の教育現場にも押し寄せてきました。けれど父は、絶対に軍歌に酔いしれることはありませんでした。流行歌手の歌が軍歌になり、有名な作曲家が、高らかに戦勝を祝い、戦を鼓舞する勇ましい軍楽を作曲するようになる頃に、父は、毎日が大変苦しそうで、戦火が激しくなる前に直ぐに教職を下り対とも思っていたようです。その頃、地元では満州開拓団が中国大陸へ移住する準備をしていた。父はそれも村の人々を説得して、移住には猛反対さえしていました。その父も敗戦の前に、関東への教育現場を移動する転勤命令が下りていました。…

「私は音楽を喜び、子供たちと音楽で愉しく過ごすような教員生活を送りたかったのです。父の父も信州の小さな村の校長でした。そして、同じ苦しみを親子で味わいました。誤解のないように、わたくしの40年間の小学校の教員生活がいつもつまらなかったと言うわけではありません。わたくが死ぬ前にこんな長たらしい遺書を残したりするのも、今までの教職を悲観して死んだと曲解されない為なのです。自分が死んでいく理由を、理屈っぼくを遺書の中で書くなど変な話しですが、私には40年間の間に、一万人近い生徒を学び屋から送り出しましたが、子供たちは二度と日本には戻らなかったー。音楽をとおして、子供たちとふれあうことが、わたくしの生甲斐でした。」 「戦争を語ることも、その悲惨さを伝える事も、実際の戦場は、それ以上に凄惨だったのです。経験したことのない若い人にそれを伝えるのは、難しいことです。未だに生き地獄の光景に魘されて、真夜中に叫んで目を覚ますことが、私にも度々あります。老人ホームで生活をしている妻のように、痴呆が進んで、幼児のような無垢な表情になって、悲しいことも愉しいことも忘れてしまう前に、私は自分の手で、そんな恐怖を終わりにしたかったのです。わたくしはわたくしの戦争が、なんだったかをはっきりと意識できる間に自ら命を断ちます…」。三宅平八郎少尉の遺書はこう結ばれていた。
>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>