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真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

「勝尾寺文書」の中に見える浄月上人関係の史料を和訳紹介し、併せて簡単な解説を試みることとします。

三輪上人慶円の立川流相伝の事〈其の三〉

2013-07-26 22:19:22 | Weblog
三輪上人慶円の立川流相伝の事〈其の三〉


訂正と補遺
●訂正の事:
第三章に於いて『諸流潅頂』の醍醐仁寛流「秘密潅頂血脈」の相承に関して、「又塩野佛心房アバン、バンア(梵字:avam,vam-a)より之を伝う。」なる注記があり、更に、
「又」「三輪上人、バンア(梵字:vam-a)より伝うる年」と注記して、
正治元年(1199)二月五日、慶円、之を伝う〔云云〕。
 建保五年(1217)四月廿一日、心海、之を伝う。
と記されている事を紹介してから、続けて三輪上人の此のバンアからの伝法に付いて「(塩野佛心房)バンアから是を重受」と間違って書きました。アバン(阿鑁)とバンア(鑁阿)は別人であり、「塩野佛心房」はアバンの通称であってバンアの事ではありません。
従って以下の文章も訂正する必要が生じるのですが、アバン・バンアに付いては不明な点が多い事と、今後新しい知見を得る可能性もある事から、暫らくそのままとさせて頂きます。
●塩野佛心房アバンの事
『諸流潅頂』の注記だけでは、果たして三輪上人慶円がアバンから潅頂を受けた事を示しているのかどうか不分明であると言えます。又此のアバンの事績に関してはほとんど何も分からないと言えますが、同一人かもしれない阿鑁なる人に関する史料を二点紹介します。第一は『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』に収載する一連の仁寛(蓮念)流(立川流)印信類の中に見える「阿鑁阿闍利」です。それはNo. 6254「檀上潅頂心法心血脈」であり、弘長二年(1162)五月十八日に鑁吽が憲海に授けたもので、即身成仏の観想文と相承血脈と印言が一続きに記されています。観想文の内容には鎌倉中後期の風(趣向)が感じられて平安末まで遡るかどうか疑問ですが、その「相承次第」は、
(前略)範俊僧正 勝覚僧正 蓮念阿闍利 見蓮聖人 阿鑁阿闍利 鑁吽阿闍利 憲海
と成っています。
見蓮は白河院政後期から鳥羽院政期の人と考えられるので、阿鑁は後白河院政期前後の人でしょうが、鎌倉時代初期まで活動していた事もあり得るでしょう。ただ憲海が阿鑁の弟子鑁吽から弘長二年に此の印信を授けられたとすれば、阿鑁・鑁吽師資は二人ともかなり長命であった必要があり、此の血脈には欠落部があるような気がします。それでも此の「阿鑁阿闍利」が「塩野佛心房」である可能性も否定できないので、今ここに紹介したのです。
第二は醍醐寺蔵『伝法潅頂師資相承血脈』の「小嶋流」の条に見える中坊方祖行尊の付法弟子「阿鑁」であり、その相承血脈は、
真興 春秀 利朝 太念 能尊 行尊 阿鑁
であろうと考えられます。又行尊の付法資には高野の大智房「基舜」も記されていて、此の阿鑁の活動期も平安末に比定できるでしょう。
●慶円弟子の阿鑁と実賢弟子の阿鑁
話が大変ややこしくなりますが、慶円には伝法の師と同名の付法弟子阿鑁・鑁阿がいます。ここでは先ず阿鑁に付いて述べます。既に第三章に於いて、櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』で紹介されている「菩提心論潅頂印明の血脈」を示して、常観房慶円が慈教房阿鑁に之を授けている事を明らかにしました。
又、上記『伝法潅頂師資相承血脈』の「三宝院流」の一段を見ると、金剛王院大僧正実賢(1176―1249)から仁治三年(1242)七月九日に伝法潅頂を受けた蓮海上人阿鑁がいます。醍醐寺座主実賢は当時関東掛錫(けしゃく)の最中であり、此の蓮海上人なる阿鑁も関東を中心に活動していた人なのでしょう。年代の上では慶円弟子の慈教房と蓮海上人という二人の阿鑁は同一人物である事も考えられます。
又葉室(藤原)定嗣(1208―72)の日記『葉黄記』には同じ頃に活動していた「阿鑁阿闍利」に関する記事があります。それは宝治元年(1247)正月の記事であり、25日に阿鑁阿闍利を自宅に招いて長日(ちょうにち)北斗供の事に付いて相談し、翌26日には本尊の北斗曼荼羅を製作して同阿闍利に開眼供養させています。此の阿鑁阿闍利に付いても他に参照できる史料が見当たらず、慶円弟子の慈教房との同異について判断する事は出来ません。
●慶円弟子の鑁阿
次に慶円弟子の鑁阿に付いてですが、『大日本古記録』の『民経記』第八巻に収載する「経光卿維摩会参向記〔嘉禎元年(1235)十月八日より十六日に至る〕紙背文書」の中に、上人自身と弟子鑁阿に関する興味深い史料があります。それは龍門寺の護摩供田の相論に関わる文書であり、三輪上人慶円と「寺家(興福寺)」との関係や上人の「嫡弟」に付いて新しい知見を与えてくれます。
先ず「紙背文書」の第一紙は前後欠である上、文中にも欠失部が多く、全体の正確な内容を知るのは困難ですが、『民経記』編者の注記も参照して大体の内容を箇条書きにして下に示します(一部に推測を含みます)。
(一)「宗意」は自分の事を「上人(慶円)の嫡弟」と称しているが、上人の臨終の時(貞応二年(1223)正月27日)に参合しなかった。
(二)宗意は上人入滅以前から相論(訴訟)を企て、鑁阿に渡される筈の「寺家(興福寺)の御下し文」を横領して、今「無道の相論」に及んでいる。
(三)「件の護摩供田」は龍門寺に設置されるのが当たり前で、「三輪別所(平等寺)」に置く事はあり得ない。
(四)此の事に関しては既に「寺家理趣院(範円)御寺務の時」、両方から提出された証文を御覧になって、「静西の譲り」は間違いないから「文書の理に任せて鑁阿の進止たるべき由云々」と仰せ下されたのである。(範円の興福寺別当在任期間は貞応二年二月七日以後、嘉禄二年(1226)七月13日以前)
(五)是に依って「鑁阿は龍門寺に於いて長日の護摩供」を怠る事無く勤行している。
(六)宗意の方から提出された申し状(陳述状)は、色々と不備・不自然な点があって信用できない。
次に「紙背文書」の第二紙も前欠していますが、残存部の冒頭に、
(龍門寺の)所司等、謹み以って言上すること、件の如し。
     嘉禄三年(1227)三月 日     龍門寺所司等〔上〕/〔在判〕
と記されていて、第一紙と同一文書の末部に相当するようです。
以上の諸点を参照して事の概要を推察すれば、慶円上人の滅後にその遺領(護摩供田)をめぐって、龍門寺の鑁阿と三輪別所の宗意との間で相論になったという事でしょう。文書の差出人が「龍門寺所司」となっていますから、三輪別所と龍門寺の間の係争案件と見る事も出来るでしょう。
龍門寺(廃寺。奈良県吉野郡)は龍門瀧を中心に発達した古代の山岳寺院で、平安時代前期には大寺院として知られ、藤原道長は治安三年(1023)十月の高野参詣の途次、当所に宿泊して瀧の付近を参観しています。三輪別所(平等寺。奈良県桜井市)は古く聖徳太子の創建という伝承があり、慶円によって中興された後、比較的早い時期に平等寺と称されていたようです。中近世を通じて三輪明神の別当寺(宮寺)の地位にありましたが、明治維新の廃仏で廃寺となり、現在は再興されて三輪山平等寺(曹洞宗)を称しています。
第二紙には続けて寛元元年(1243)十一月日付の「龍門寺の沙汰人等」に宛てた下知状が記されています(是にも数箇所の欠失部があります)。標題に、
相伝幷(ならび)に代々の(興福寺別当の)御下し文の旨に任せて鑁阿をして龍門寺の寺元菅生別所護摩供田一町八反を領知・領掌せしむべき事
と云い、内容の大体を知る事が出来ます。即ち龍門寺の護摩供田の本家職である興福寺別当が代々発給した安堵(あんど)状の趣旨の通りに、供田の庄官・百姓に対して鑁阿の支配に従うよう命じた興福寺別当(円実)の御教書(みきょうしょ)です。
そして此の御教書に所載する「鑁阿請状」には、慶円と興福寺との関係を示す注目すべき記述があります。即ち「請状」の冒頭以下に、
彼の(護摩)供田は、先師三輪上人(慶円)、故二条僧正御房(雅縁)の御寺務(興福寺別当)の時、御下し文を賜り、始めて護摩供田を(龍門寺に)寄進せられ了んぬ。即ち鑁阿は之を伝領して、(後に)理趣院(範円)・大乗院(実尊)の御下し文を賜預し了んぬ。
と記されていて、慶円が龍門寺に於ける長日護摩供の料所(供田)を寄進するに当たり、興福寺別当(寺務)の安堵(保証)を求めていた事が分かります。当時の別当雅縁僧正(1138―1223)と慶円との個人的な関係に付いては今後の研究に俟つとして、慶円が興福寺別当の権威を認めて、その庇護の下に佛事の勤修を企てていた事が明らかです。
参考までに『興福寺寺務次第』(続群書類従4下)によって、承久二年(1220)正月十六日の雅縁補任(第四度)以降の同寺別当を列挙すれば、
範円 貞応二年(1223)二月七日以後の補任
実尊 嘉禄二年(1226)七月13日補任
実信 寛喜二年(1230)三月日補任
円玄 貞永元年(1232)三月八日補任
実信(第二度) 天福元年(1233)三月27日補任
円実 嘉禎元年(1235)三月四日補任
定玄 寛元二年(1244)正月一日補任
となります。即ち上記寛元元年の御教書(下知状)は興福寺別当円実によって発給されていた事が判明します。
又鑁阿は慶円を「先師」三輪上人と称していますが、始めの「龍門寺所司」陳状(四)によれば「護摩供田」を慶円から直接譲られたのでは無く、「静西」から譲られたらしく思われます。

以上(平成25年8月7日)

三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の二)

2013-04-13 18:42:38 | Weblog
三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の二)

(3)今一つの慶円相承仁寛方血脈
『神道大系 論説編 真言神道(下)』には、慶円が性心(心海)に授けた印信集である『諸流潅頂』なる書があり(p.3―19)、是も『諸流水丁部類聚集』と同じく江戸時代憲誉の書写本ですが、両書に収載する印信の内容に相当大きな相違があります。従って両書の比較対照が課題になります。しかし今は此の件に付いては概略を述べるに止め、『諸流潅頂』の中に記された慶円相承の今一つ(或いは二つ)の仁寛方血脈に焦点を当てる事にします。
『諸流潅頂』は前半の「常途の諸流潅頂」と後半の「秘密乃至識大潅頂」の部分とから成り、前半部には中川・小野・醍醐・勧修寺厳覚・広沢・壺坂(子島)等の諸流十五通の印信が収められています(印信の数に付いては他の数え方も出来ます。「壺」坂は「兼」坂と誤記されています)。子島の第九秘印(第一章〈13〉に相当)に付いて特に「阿弥陀院流に之あり」と記されていて、慶円にとって阿弥陀院流が特別な存在であったかの如く感じられます。此の「阿弥陀院流」の事は次章に於いて考察するとして、後半部には「秘密潅頂」「最極秘密五部・三部潅頂の八五古印」「識大潅頂法」があり、特に「識大潅頂法」は委悉の印信三種から成り注目されます。
血脈は「秘密潅頂」と「識大汀(潅頂)」の二種だけであり、その中「秘密潅頂」の血脈は仁寛方ですが、先に「識大汀血脈」を示しますと、
真興僧都 仙救入寺 和救大徳 経暹(けいせん) 円寿 隆尊 基舜 融源 興鑁 教毫 入鑁 俊円 鑁印 慶円 性心(心海)
と次第する珍しい子島血脈です。しかし、大智房基舜から慶円に至るまでその中間に六人もの付法者が介在しているのは気になります。第一章〈13〉「二界密印」の伝法血脈に依れば、勝尊の弟子である基舜は「長寛元年(1163)十月十二日、(高野)阿弥陀院に於いて」五智房融源に子島流の伝法潅頂を授けていました。又慶円の方は此の〈13〉「二界密印」を「勝尊 観而 覚日 慶円」と次第相承していたのです。
一方『諸流潅頂』に於いては、慶円が性心に授けた潅頂年月日として建保五年(1217)五月一日、同四月二十一日、同四月十一日が記されています。『諸流水丁部類聚集』に記された授与年月日は、最初同年四月八日から最後は同六月十五日でした。
それでは次に本章の眼目である「秘密潅頂血脈」に記された仁寛方の血脈を示しますと、
空海 真雅 源仁 聖宝 観賢 淳祐 元杲 仁海 成尊 義範 勝覚 仁寛 覚印心覚 真鑁 珍融 印覚 慶円 性心 〔又塩野佛心房アバン、バンア(梵字:avam,vam-a)より之を伝う。バン(梵字:vam)〕
と次第相承されています。此の血脈に続けて「本に云く」と注記して、
文治六年(1190)正月十三日、之を伝う〔云云〕。
と云い、更に「又」「三輪上人、バンア(梵字:vam-a)より伝うる年」と注記して、
正治元年(1199)二月五日、慶円、之を伝う〔云云〕。
 建保五年(1217)四月廿一日、心海、之を伝う。
と記しています。
此の仁寛方血脈は義範(1023―88)の法流を相承していますが、前章で見た光明潅頂の血脈は範俊の法流であり、又空阿上人慈猛が審海に授けた仁寛(蓮念)方血脈は範俊か定賢法務の流でしたから、是は立川流としては珍しい相承次第であると言えます。
一方、注記の「塩野佛心房アバン(阿鑁)、バンア(鑁阿)」に付いては、先ずアバンとバンアは別人で二人なのか、それとも同一人なのかよく分りませんが(後で説明します)、慶円は文治六年正月印覚から「秘密潅頂」を受けた後、更に正治元年二月に(塩野佛心房)バンアから是を重受したのです。但し、此の伝法血脈は別して記されていないので、似たような仁寛方の血脈であろうと推察する外ありません。
又「塩野」に付いて検討すれば、現在全国には数カ所の塩野なる地名が存在していますが、その中でも山形県米沢市の塩野に比定して間違いないと考えられます。米沢市塩野には平安時代前期に弘法大師と論争した事で名高い法相宗の徳一(生没年未詳)が開創したと伝える塩野毘沙門堂があり、「大覚法眼」と称された「吠尸羅(べいしら)城」弘鑁、即ち毘沙門城(寺)の弘鑁なる人が慶円の付法弟子である三輪の宝篋上人から伝法した事を示す史料が金沢文庫保管称名寺聖教の中に存しています(此の弘鑁が「大覚法眼」と称された事は続群書類従28下『先徳略名口決』に記されています)。即ち慶円は塩野(佛心房)バンアから受法し、バンアの弟子か孫弟子の(塩野)吠尸羅城弘鑁は慶円弟子の宝篋から受法したと考えられるのです。
その事に付いて少し詳しく見る事にします。先ず『金沢文庫古文書 九 佛事編下』所載の第6336号から6355号に至る文書は、一部を除いて「羽州山北米尸羅城寺本願」の弘鑁が相承した印信を願海・円寵・慈済に授けたものであり、弘鑁は金剛王院相承三宝院流を主として他に成就院流・勧修寺流を宝篋上人から相承した事が確認できます(宝篋は金剛王院実賢僧正の潅頂資です。又弘鑁法眼は「覚義大法師」から理性院流の乗印相承賢信方も相伝しています)。
又称名寺聖教文書第25函10-1『諸尊秘決』(弥勒等五法)の奥書に、
文暦二年(1235)〔乙未〕三月日、三輪慶円上人の旧室に於いて宝篋上人に対し奉り、如実上人并びに弘鑁、智泉房の三人、同時に諸尊の法を伝受す。時に廃忘(はいもう)に備えんが為、少々弘鑁之を記す。(以下略)
と云い、同趣の奥書は第25函10-2『諸尊秘決』(不動法等)にも記されています。
その他、『国文学』2000年10月号の真鍋俊照「真言密教と邪教立川流」は立川流に関する旧来の通説を踏襲していますが、その中で弘鑁が「宝篋上人の所伝」を記したらしい『三昧耶戒秘事』の一節を紹介しています。
それでは説明を後回しにしていたアバン(阿鑁)の事ですが、此の人はバンアとは別人で慈教房と称し、慶円から受法していた事を示す史料があります。それは櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』で紹介されている正応六年(1293)に紀州根来寺の中性院に於いて頼瑜が憲淳に授けた仁寛(蓮念)方の「菩提心論潅頂印明の血脈」であり、
勝覚 蓮念上人 見蓮上人 覚印大法師〔定明房〕 覚秀大法師〔持明房〕 慶円上人〔常観房〕 阿鑁上人〔慈教房〕 来迎上人〔引俊房〕 真空上人〔廻心房〕 頼瑜阿闍利〔俊音房〕 報恩院法印〔憲淳〕 道順
と次第相承されています(p.388)。即ち勝覚から慶円に至る間は第一・二章で見た『諸流水丁部類聚集』の〈26〉「光明汀(潅頂)血脈」と「観」蓮を「見」蓮とする以外は同じであり、第二章の最後でコメントしたように慈猛が審海に授けた「光明潅頂印信」の血脈と完全に一致していると考えられます。又慶円は覚秀から光明潅頂の他に菩提心論潅頂を受けていたのですが、覚秀からの相伝がこれ等に留まるものでは無かったと考える方が自然でしょう。
少しく話が多枝に亘った感がします。本章の最後に三輪上人慶円の立川流相伝に付いて整理しておくと、上人は光明潅頂と菩提心論潅頂を受法した覚秀に、本章で述べた「秘密潅頂」受法の印覚とバンアを加え、合わせて三師から醍醐の仁寛(蓮念)方を相承した事が知られます。

(4)慶円相承の潅頂諸印信中に於ける立川流の位置
『諸流水丁部類聚集』と『諸流潅頂』に記された分の他にも幾つか慶円が相承した潅頂印信乃至法流の所伝があります。第一章に於いて『諸流水丁部類聚集』〈2〉が成就院流(広沢流)であると述べましたが、その相承血脈は記されていませんでした。勧修寺の慈尊院僧正栄海(1278―1347)が撰した『ゲンビラ鈔』巻十九の「瑜祇切文(きりもん)」の条には慶円相承の広沢血脈が見えますから、先ずその事から述べる事にします(大日本佛教全書52p.587上~)。「瑜祇切文」は単に「偈頌」とも、又「即身成仏義言」とも称されていて、『瑜祇経』の肝要を切り出したとされる「若凡若聖」以下四字五十余句の偈頌を言います。先に慶円の相承血脈を示せば、此の場合は広沢西院の仁厳(にんごん)律師方であり、
覚法親王 性(聖)恵親王 信証僧正 仁厳律師 琳慶阿闍利 信曜阿闍利 春寛阿闍利 堯仁阿闍利 慶円上人
と記されています。此の血脈は『密教大辞典』の「仁厳方」の項に載せるものと、春「寛」を春「覚」とする以外は同じですが、第一章〈24〉「受明汀印信」血脈と〈27〉「一宗大事潅頂印信」同様に堯仁阿闍利が伝授の師に成っているのが注目されます。
『ゲンビラ鈔』では上の血脈を記す前に、『三輪慶円上人行状』に記す有名な八幡宮参籠時に屍体を背負って墓所に捨てた物語と、文永五年(1268)七月に円宗坊阿闍利が記したと云う「或る記」を載せています。『上人行状』の方は、物語の中で八幡神の化現である「優婆塞(うばそく)」が上人に授けた「宗の大事である二行許りの偈」が「若凡若聖」の偈頌であった事を主張する為に引用したのです。一方、「或る記」に於いては、かつて醍醐に住していた僧が「若凡若聖の文の結句を知らんと思いて尋ね」ながら知り得ずして亡くなった為に、その執着心のせいで「大和の国の有る僧」に取り付き(慿依して)三輪上人を請じて是を教えてもらった話が記されています。猶、以上の『ゲンビラ鈔』の文は血脈も含めて総て栄海僧正の弟子俊然(生没年未詳)の『四巻鈔』巻上に転載されています(真言宗全書31p.234上~)。
次に前章でも言及した『金沢文庫古文書 九 佛事編下』の第6351号「菩提心論秘印」は建治三年(1277)十二月十七日に弘鑁が円寵に授けた印信ですが、その相承血脈は、
成就院大僧正御房〔寛助〕 定意房 蓮月房 西樹房 理一房〔理海〕 常観房〔慶円〕 蓮道房〔道円を改め宝篋と名く〕 (弘鑁 円寵)
と記されています。
又子島流に付いては南院方を本流とするようですが、『密教大辞典』に依れば叡尊を開祖とする大門坊方の両流を伝えています。即ち、
叡尊 俊尊 房覚 念豪 慶円 智慧 (以下略す)
と相承する分と、
叡尊 俊尊 実範 円善 慶円 覚心 (以下略す)
と次第する分です(覚心は「引摂院方の祖」とされています)。
次に『新修稲沢市史 資料編七 古代・中世』の「中世一 Ⅲ市外所在文書」に収録する249「清流血脈」に依れば、慶円は中院流実範方をやはり円善から相承しています。その血脈は、
〔中院〕明算―教真―〔中川〕実範―円善―〔三輪〕慶円―尊栄―
と次第していますが、慶円は他にも円善から実範相承の諸流を授けられた事が考えられます。
猶実範の法流相承に付いては注意すべき点があります。それは三輪上人慶円が実範(―1094―1144)から直接伝法したと云う史料がある事です。即ち醍醐の法流を詳しく知る上で最も重要な典籍の一つである同寺蔵『伝法潅頂師資相承血脈』(同寺文化財研究所『研究紀要』第1号に翻刻収載)に於いて、勧修寺厳覚弟子実範の付法弟子を記して「実範―道意〔阿部引摂房〕―慶円」と「実範―慶円〔三輪上人〕」という二通りの血脈が見えますが(p.82下)、実範が亡くなった天養元年(1144)に慶円はわずか五歳の幼童でしたから本より付法する事はあり得ません。一方、慶円は中川(なかのかわ)の本流である勧修寺厳覚の流を安倍崇敬寺(文殊院)の引摂房道意から相承したようです。
又『野沢血脈集』巻第二の三輪流潅頂血脈の条に於いては、三輪上人慶円が金剛王院実賢(1176―1249)から伝法した事が記されています(p.406)。年代的には不都合が生じないにしても、前記『伝法潅頂師資相承血脈』の実賢付法の条に慶円の名前は見えませんから疑わしいと言わざるを得ません。
さて今まで述べ来った慶円相承の真言法流は神祇信仰とは無関係のものでしたが、櫛田良洪著『続真言密教成立過程の研究』に於いて東寺宝菩提院蔵の「伊勢潅頂の血脈」が紹介されていて、
慶雲阿闍利 皇慶阿闍利〔乃至〕 内供(ないく)寛有 明弁 慶円上人〔三輪〕 廻心上人(真空)〔木幡〕 明道上人 (以下四、五人略す)
等と記されています(p.512)。慶(景)雲阿闍利は往昔山岳佛教の道場として栄えた筑前背振山(せぶりさん)の東密僧であり、中古の台密諸流の元祖である谷阿闍利皇慶(977―1049)は此の景雲に師事して東密の秘伝奥義を授けられたと伝えています。
ここで今までに記した慶円相承の諸法流に付いてその潅頂受法の師を列挙すれば、先ず『諸流水丁部類聚集』に於いて覚日・堯仁・覚秀・淳詮・恵深の五人であり、是に加えて『諸流潅頂』の鑁印・印覚・鑁阿の三人、その他に理一房理海・念豪・円善・道意・明弁の五人であり、都合十三人の名前を知る事が出来ます。又相承の法流・印信類に関しては、今までに紹介した分が総てと云う訳では無く、更に広範であった事が推察されるのです。
参考までに神祇からの相伝に付いて言及すると、『神道大系 論説編 真言神道(下)』に収載する『三輪流聞書口伝』には、
(前略)〔出雲大社〕素盞鳴尊(すさのおのみこと)―大己貴命(おおなむちのみこと)〔三輪明神なり〕―慶円上人〔三輪流の源始なり。弘法大師より廿七代を経たり。〕
と記されていて、上人が三輪明神から直接に神託を受けた神の子であると主張しているらしく思われます。
三輪上人と称された常観房慶円は当時としては実に多様な法流を相伝していたのですが、それでは慶円が本流としていた真言法流は何流でしょうか。本章の始めに見た『ゲンビラ鈔』に抄出する『上人行状』の物語の中で、慶円は八幡神の化現である優婆塞(うばそく)に対して、
真言教は諸佛の秘蔵なり。中に於いて師ゝの異説、重ゝの潅頂は何れか真実至極の正伝、決定(けつじょう)成佛の印明ならん。
と問い尋ねていますが、此の挿話(エピソード)は只の作者の創作では無く、上人相伝の潅頂印信類が甚だ数多く内容も多義多彩であった事を反映しているようです。
慶円の本流に関する上人自身乃至弟子達の言葉が見当たらないにしても『諸流水丁部類聚集』を通覧する時、冒頭に「阿弥陀院(の)御伝」と特記している事が注目され、本名(諱/いみな)を避けて通称を用いた上で別して「御伝」と言っていますから、一応此の「阿弥陀院」の法流が根本であろうと推察されます。それでは阿弥陀院とは誰を指しているかと云えば、第一に考えられるのは高野大楽院の開基とされる大智房阿闍利基舜(俊)(本名俊義。1084―1164.8.29)です。
基俊を阿弥陀院と称した事は、『血脈類集記』第四の明算付法の条に於いて明算弟子良禅阿闍利(高野検校。1048―1139)の付法資25人を列挙する中で記されています(『真言宗全書』39p.111上)。亦第一章で述べたように『諸流水丁部類聚集』〈13〉の「二界密印」に於いて、長寛元年(1163)十月十二日に阿弥陀院に於いて大智房基舜より五智房融源が「御伝受」した事が記されています。従って「阿弥陀院御伝」と云うのは、融源が基俊から相承した法流を指していると考えて間違い無いように思われます。それでも大きな疑問が残ります。それは此の血脈に於いて、慶円は基俊の法流では無く、その師勝尊の法流を受けている事です。一方、『諸流潅頂』の「識大汀血脈」では、慶円は確かに基舜―融源の流を鑁印から授けられていました。
立川流(仁寛流)の相伝に関しては慶円の本流では無いにしても、覚秀・印覚・バンアの三師から受法している事を考えれば上人にとって重要な法流であったと言えます。上人の立川流相伝は一時の好機を捉えた偶然の受法では無く、意図的に仁寛の法流を追求した結果なのでしょう。それは亦慶円が活動した平安末から鎌倉初期に於いて、醍醐の仁寛(蓮念)方が真言僧の中で根強い影響力を有していた事の傍証であるとも言えるのです。
最後に第一章〈21〉の「菩提心論汀印信」に付いて少しく言及して置きます。『密教大辞典』の同項によれば、此の印信は中性院流・意教諸流・山本流・伝法院流等に相伝している由であり、印明の口決は諸流を通じて今の慶円相伝と同じであるようです。慶円は是を治承二年〈1178〉正月に伝受したのですが、恐らく是より古くて信頼するに足る印信は存在しないでしょう。残念なのは、慶円は此の印信に於いて伝法の師に言及していないので、当初此の印信が如何なる法流の中で相承されていたのか分かりません。しかし慶円は建保五年(1217)四月十二日に是を性心に伝えた事を記してから、
又口決に云く、(中略:印明を説く)成就院大僧正の御伝〔云云〕。秘中の深秘〔云云〕。
 建久八年(1197)二月二日、伝受すること了んぬ。   慶円
と述べていますから、「成就院大僧正(寛助)の御伝」かどうかは兎も角、菩提心論潅頂は元来仁和寺の中で相伝されていた事が伺えます・

以上で本篇を終了しますが、基本史料として用いた『諸流水丁部類聚集』『諸流潅頂』は共に江戸時代の写本であり、亦対校本も存在しないようです。従って所収の慶円相承の印信類が上人乃至弟子性心(心海)相伝の原本の内容を忠実に伝えているか問題になります。諸賢によるの今後の詳しい研究に期待します。
(以上)

三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)

2013-04-04 02:22:33 | Weblog
三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)

日本の佛教は飛鳥時代の聖徳太子以来、在来の神祇信仰に対して寛容であり、佛教僧侶が八百万(やおよろず)の神々と敵対した物語は一部を除いてほとんど知られていません。それは教理的側面に固執するより現実的な有り様を重視する日本人の実際的性格に起因するのでしょう。当初は大陸から渡来した佛菩薩と在来の神祇は別々に祀られて互いに交渉する事もありませんでしたが、聖武天皇が宇佐(大分県北部宇佐市)の八幡神の託宣を受け入れて奈良の大佛を造立した事と、次いで平安時代初期に八幡神が自らを「大菩薩」と称した事は、その後の日本に於ける佛教と神道の共存共栄の道に大きな方向性を与えたと云えるでしょう。その後平安時代の中期以降、延暦寺の鎮守である日吉(ひえ)山王権現が天台宗の隆盛に伴って全国に進出した同宗寺院に祀られたように神佛の習合が一般化し、特に密教にあっては台密・東密を問わず平安後末期には神祇に関する習い事(口決)が多く作られて相伝されるようになりました。
東密三十六流の中に数えられる真言三輪流は、そうした密教と神祇信仰の融合を如実に示す一典型と云う事が出来ます。但し同流と云えども、鎌倉時代中期以前に於ける神佛習合の実態はそれ程明らかで無いと云うべきでしょう。すなわち現存史料に照らして、神祇潅頂に代表される神祇に対する密教作法の体系が出来上がったのは鎌倉後期になってからの事と考えられます(但し神祇潅頂だけを取り上げれば、鎌倉中期には既に行われていたと言います)。
さて『神道大系 論説編 真言神道(下)』には真言三輪流乃至三輪流神道に関連する多くの史料が収載されていて、同流を研究する上で大変重要でしかも便利な書籍ですが、その中に三輪上人慶円(1140―1223)が授受した潅頂印信類を集めた『諸流水丁(潅頂)部類聚集』と題された書物が収められています(p.87―108)。所載の慶円相承血脈が総て慶円付法資の性心で終わっているので、本書は性心が類集したらしく思われます。又本書は慶円という比較的著名な人物に関わる真言諸流の詳しい潅頂受法記録であり、鎌倉前期という時代を考慮すれば真言宗史に於ける諸流潅頂に付いての大変貴重な史料であると云えるでしょう。一方、慶円上人と立川流との関係は従来から指摘されている事ですが、本書に記す「光明潅頂」の相承次第は立川流即ち醍醐仁寛方の血脈であり、本書に依って始めて上人の真言受法全般に於ける仁寛(蓮念)方の占める位置に付いて考究が可能になると云えるでしょう。

(1)三輪上人慶円相承の潅頂諸印信
(印信の数が多いので、私に〈〉中に番号を打って示します。その数え方は、解釈により相違しますから、一応の説である旨諒承して下さい。)
『諸流水丁部類聚集』は先ず「阿弥陀院(大智房基舜)御伝」として〈1〉「小野大乗院の良雅阿闍利(―1089―1122)の流」・〈2〉成就院流・〈3〉~〈12〉南院流(子島流南院方)の都合三流十二伝を載せています。「南院」とは子島流祖真興僧都が高野山に開創したと伝え、『密教大辞典』に依れば南院流祖維範は真興から数えて第五代の付法資であり、維範―円尊―隆尊―基舜と血脈次第しています。
次いで「阿弥陀院流なり」と傍注のある〈13〉「二界密印」の印言と伝法血脈を載せて、
(前略)範俊 勝覚 聖賢 亮恵 房覚 勝尊 基舜 融源 興鑁 隆賀
と云い、更に潅頂年時に付いて、
長寛元年(1163)十月十二日、(高野)阿弥陀院に於いて大智房(基舜)より五智居(「居」は「房」の誤り)の御伝受し了んぬ。
と記しています。即ち高野の五智房融源が基舜(俊)(本名俊義。1084―1164.8.29)から受法した時の年月日ですが、又「已上の印(信)は三輪流に之有り」と注記して、その血脈は「勝尊 観而 覚日 慶円」であると云っています。そうするとここで「阿弥陀院流」と云っているのは、基舜よりはその師である勝尊の法流を指しているのかも知れません。基舜の伝法の師として「隆」尊なる人が記されている血脈があって「勝」尊は少し気に懸りますが、今はこれ以上の言及を控えさせて頂きます。猶、上の「二界密印」は「醍醐の第二重」としてよく知られる一印二明の潅頂印言です。
次に〈14〉「両部一体密印潅頂」〈15〉「両部各五部潅頂」を記した後に〈16〉「石山内供印信」を載せて、
建久六年(1195)三月十五日   金剛佛子慶円
と云いますが、受法の師や潅頂道場に付いては記されていません。
次に〈17〉「三部合行秘密汀(潅頂)印信」の後に〈18〉「五智佛汀印口伝」を記して、
建久三年(1192)三月二日   慶円
と云い、続けて是と一具らしい〈19〉「成就五智佛汀印口伝」を載せて、
建久四年(1193)八月八日、伝授すること了んぬ。   慶円
と云います。「伝受」では無く「伝授」と云うからには、慶円が授けた事になりますが、恐らく「伝受」の誤記であろうと考えられます。
次に〈20〉「菩提心論汀」を記して、
建保五年(1217)四月八日夕、三輪山に於いて口決し了んぬ。
と云い、是は次出の史料に依って慶円が弟子性心に授けたものと知れます。次の〈21〉「菩提心論汀印信」では、潅頂印言と「八葉白蓮一時(「時」は「肘」の誤り)間」の四句偈と「口決」を記してから、
治承二年(1178)正月廿一日、之を伝う。   慶円
建保五年(1217)四月十二日、性心に之を伝う。
と述べ、更に「又口決」を記して、
建久八年(1197)二月二日、伝受し了んぬ。
と云います。その次に〈22〉「菩提心論三部大日汀法」と〈23〉「又一師説」を載せていますが、以上四伝の菩提心論潅頂に関する一連の口決を慶円が誰から伝受したのか一向に記載されていません。
次に〈24〉「受命汀印信」を記して、
 建保五年(1217)四月廿一日、伝受し了んぬ。
伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
と云い、次いで口伝等を記して「受命汀血脈」を出だし、
(前略)仁海僧正 寂円大法師 俊円大法師 永久阿闍利 仲叡阿闍利 堯仁阿闍利 慶円大法師 性心大法師
 建保五年四月廿一日、之を示す。
と云います。此の受「命」(受明)潅頂印信は一般に、範俊―勝覚―聖賢という伝法次第で知られていますが、是は上醍醐の理趣房寂円の法流です。その事よりも二種の相承血脈を対照して、受明潅頂印信の本説が仁海僧正の口決にある事を確認できる点で、今の印信は大変貴重な史料であると云えます。
その次に載せる〈25〉「光明汀印信」は、別ブログ『金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介』で解説した空阿上人慈猛(じみょう 1212―77)が金沢称名寺長老審海(?―1304)に授けた一連の仁寛(蓮念)方潅頂印信の中の8. No.6235「光明潅頂印信」に相当します。その事は次出の〈26〉「光明汀血脈」が蓮念方血脈である事からも確認できます。但し慈猛の印信では「印は口伝」とのみ云いますが、今の慶円相承の印信は口伝の印を記すのみならず、両印信の口決内容は大きく相違しています。これらの事に付いては第二章に於いて詳しく検討します。今の印信末尾に、
建保五年(1217)四月八日、之を示す。
 伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
と云い、又血脈に、
(前略)範俊 勝覚 蓮念 観蓮 覚印 覚秀 慶円 性心〔改め心海と名く〕
 建保五年四月八日、之を示す。〔三輪山に於いて伝授し了んぬ。〕
と記しています。
次に載せる〈27〉「一宗大事潅頂印信」は終わりに、
是の両印言を以って両界最極秘事と云うなり。入室写瓶の中より一人を撰んで、最後(の期)に之を授くべし。穴賢(あなかしこ)々々。
 文治三年(1187)十一月一日、之を示す。
伝授大法師位堯仁、資慶円に授け了んぬ。
と云いますから、その相承次第は「受明汀」と同じなのでしょう。
その次の〈28〉「秘密汀印信〔淳詮伝〕」は、秘密潅頂に用いる三種印言を説いてから、
 正治二年(1200)十二月十六日
伝燈阿闍利淳詮、資慶円に授け了んぬ。
と云い、最後に中院流の良禅検校(1048―1139)方の血脈を載せて、
大日如来 金剛手 達磨掬多(ダルマキクタ) 善無畏 玄超 恵果 空海大師 真雅 源仁 益信 神日 寛空 元杲 仁海 成尊 明算 良禅 検賢 房光 豪覚 淳詮 慶円 性心
と記しています。常の伝法血脈と相違して、「八祖」の部分は胎蔵「造玄血脈」に依り、又広沢流元祖とされる益信僧正の法流を小野流祖の仁海僧正が伝えていて興味をそそります。
次に〈29〉「両部五佛惣印汀印言」〈30〉「内縛に二種あり」〈31〉「心月輪秘密潅頂印信」を載せて、〈29〉の末に、
文治二年(1186)九月十五日、受け了んぬ。
〈30〉の終わりに、
文治二年八月十五日、伝受すること了んぬ。
と云いますが、共に伝法の師に付いては言及していません。
次の〈32〉「汀印信〔淳詮伝〕」は、印言自体は醍醐の初重・第二重に同じであり、その後に、
 建保五年(1217)六月十三日、之を示す。
伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
と記してから中院流の良禅検校方の血脈を載せています。その胎蔵血脈は〈28〉で見た胎蔵「造玄血脈」以下の次第に同じであり(但し「金剛手」を「金剛薩埵」とする)、
次に金剛界の血脈に、
大日如来 普賢 文殊 龍猛 龍智 金剛智 不空 恵果
已下は胎(蔵)を加う(「を加う」は「の如し」か)
と記していますが、常の「八祖」の部分は金剛界「造玄血脈」に依っています。即ち両界共に「造玄血脈」を用いています。
次の〈33〉「三部秘密許可印信」の「三部」とは佛蓮金の三部であり、
 建久七年(1196)十二月廿日、之を示す。
伝燈大法師位恵深、資慶円に授く。抑(そもそ)も此の法を持すれば更に以って至極の真言道を成じ、若し此の三部許可を持せざる時は、潅頂を受くると雖も専ら真言宗念すべからず。(中略)恵深は此の秘法を以って慶円に授け、慶円は性心に授け了んぬ。
と記しています。
次いで〈34〉「法王汀印信」に、
 建保五年(1217)六月十五日、之を示す。
伝燈大法師慶円、資性心に授け了んぬ。秘中の深秘なり。他見すべからざるなり。
と記してから、最後の〈35〉「職位印言〔王位の時、口開白〕」を載せて、
 建保五年六月十五日、之を示す。
伝燈阿闍利大法師位慶円、性心に授く。
と云います。印言を記して「次印口伝〔四海領印なり〕」と云いますから、〈34〉〈35〉は謂わゆる「即位潅頂」に関わる印信である事が分かります。又裏書きに口伝の「四海領印」を記してから「貞永二年(1233)卯月(四月)五日、切り了んぬ。」と注記を加えています。
以上で簡単ながら『諸流水丁部類聚集』本文の解説を終わりますが、参考までに奥の識語も紹介して置きます。「
〔已上の印信口決等、心肝に納むべし。師の聴許を蒙り之を書写せること、不慮の感応なり。随喜、尤も深し。〕
       金剛資行空
 惟(これ)時に元文二〔丁巳〕(1737)正月十四日、書写すること畢んぬ。
       高健教嶽〔春秋六十六歳。夏臘三十六〕
右、慶円上人御自筆の本にして而も之を写す。
元文三戊午(1738)七月朔日(ついたち)、伝受す。(同四年)己未九月廿二日、長老御自筆の御本を以って書写すること了んぬ。
       文性自賢〔行年三十四〕
文政三〔庚辰〕(1820)四月三日、頼誉に書写せしめ、自ら校し了んぬ。
       金(剛)資憲誉」
即ち当該写本は江戸時代後期の文政三年に憲誉なる真言僧が(右筆の)頼誉に書写させ、自分で校了したものと知れますが、識語の最初に出る行空に付いては年代等よく分りません。
追記:大智房基舜に付いて当初無かった生没年等の注記を加えました。又その師勝尊に付いて「此の勝尊は小野流の名匠として知られた真慶阿闍利の弟子かとも思われます。」と述べましたが、年代的に見て考え難いので「」内の文章を削除する等しました。(平成25年4月15日)

(2)立川流「光明汀(潅頂)印信」の事
前章で述べたように〈25〉「光明汀印信」は、別ブログ『金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介』で解説した空阿上人慈猛(じみょう 1212―77)が金沢称名寺長老審海(?―1304)に授けた一連の仁寛(蓮念)方潅頂印信の中の8. No.6235「光明潅頂印信」に相当します。その事は次出の〈26〉「光明汀血脈」が醍醐の蓮念方血脈である事からも確認できます。但し仁寛を祖とする立川流は、明治以降に誤謬が一時定説にまでなった謂わゆる「邪教立川流」、即ち「内三部経」流とは何の関係もありません。その事に付いては既に十分に論証しましたから、今はここで説明する必要も無いでしょう。
さて慶円は此の光明潅頂を覚秀から授けられたのですが、時代が下がるとは云っても、称名寺審海が空阿上人慈猛から相伝した立川流の潅頂印信が大変広範なものであった事を考えると、慶円の場合も「光明潅頂」の他に覚秀から相承した潅頂印信類があったであろうと推測されるのです。しかし、現時点ではその事に具体的に言及することは出来ません。
以下に「光明汀印信」とその「血脈」を訓(よ)み下して載せますが、図示してある部分は概要を説明するに止めますので諒承して下さい。
〈25〉「光明汀印信」
光明汀印信〔又ア(梵字:a)字汀と云うなり。又金色泥塔法とも云うなり。〕
印は口伝 明はア(梵字:a)
口伝に云く、
先に内縛印〔台〕 真言に曰く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に外縛印〔金〕 真言に曰く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に二手、互いに指首を指股に指し入れて、二大指を並べ立てて月輪印とす〔蘇(悉地)〕。真言(に曰く)、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に同印にして、左大(指)を以って上に置けるを台大日と名づけ、真言は前に同じ。次に同印にして、右大を以って上に置けるを金大日と名づけ、真言は前に同じ。次に同印にして、二大を並べて月(輪)に入れて、真言は前に同じ。(之を)不二大日と名づく。
口伝に云く、二大を月輪に入るるは両部の大日、理智不二と成る義なり〔云云〕。
次に虚円月輪の印にして〔我心は是なり〕、真言は前に同じ。ア字(梵字:a)を観ぜよ。指端に各五佛ありて、五智の光を放つ。掌内は本尊のア(梵字:a)字にして、掌背は吾がア(梵字:a)字なり。
(次に虚円月輪印の中に梵字のア字を書いて、是が金胎不二の大日である事を示し、その上に浄土変真言オン・ボク・ケンを法報応三身に配当する事等を示しています。次記を参照して下さい。)
ア(梵字:a)〔五古印。地大〕 バン(梵字:vam)〔八葉印。水大〕 ラン(梵字:ram)〔三角(火輪印)。火大〕 カン(梵字:ham)〔法輪印。風大〕 ケン(梵字:kham)〔金合印。空大〕 ウン(梵字:hum)〔塔印。識大〕
オン(梵字:om)〔法身。智拳印〕 ボク(梵字:bhuh)〔報身。外縛して心上に安ず。〕 ケン(梵字:kham)〔応身。羯磨印〕
我覚本不生 出過語言道 諸過得解脱 遠離於因縁 
知空等虚空 如実相智生 以(已)離一切暗 第一実無垢
(我は本不生を覚る 語言の道を出過したり 諸過、解脱を得て 因縁を遠離す
空の虚空に等しきを知り 如実相智、生ず 以って一切暗を離れ 第一実にして無垢なり)
 建保五年(1217)四月八日、之を示す。
  伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。
(コメント)
建長七年(1255)二月に慈猛が審海に授けた「光明潅頂印信」は、印に付いて「口伝」と云うのみで具体的に記していませんが、今の慶円が性心に授けた印信に於いては詳しい「口伝」が記されています。しかし、是が慈猛相承の口伝と同じかどうかは確認できません。
慶円の印信は印言の口伝に加えて、六大の種子と浄土変真言に関する口決や「我覚本不生」以下の『大日経』巻第二「具縁真言品之余」に出る偈頌を載せていて、是も慈猛の印信には見えません。しかし慈猛の印信にあっても口決として、口に「ア」を唱えて意(こころ)に「本不生の理」を観ずれば解脱に至るという道理を説いているので、両印信の本意は基本的に変わっていないと言う事が出来ます。
〈26〉「光明汀血脈」
大日 金剛薩埵 龍猛 龍智 金剛智 不空 恵果大師 空海和尚 真雅 源仁 聖宝 観賢 淳祐 元杲 仁海 成尊 範俊 勝覚 蓮念 観蓮 覚印 覚秀 慶円 性心〔改め心海と名づく〕
 建保五年(1217)四月八日、之を示す。〔三輪山に於いて伝授すること了んぬ。〕
師の口伝に云く、天竺に女凡大王と申す人あり。七重の楼を其の内に造り、此の法を修行せる間、其の母智定夫人はア(梵字:a)字を煎じること七日して楼に懸くる時、其の法成就なり〔云云〕。故にア(梵字:a)字汀と云う〔云云〕。
又云く、大師は宗里津にして口に此の法を修し、印を以って泥塔に懸け給える時、泥塔は息して金色塔と成る。故に金色泥塔法と云うなり。
(コメント)
慈猛が相伝して審海に授けた「光明潅頂印信」には血脈が記されていませんが、他の印信に依って慈猛相伝の立川流、即ち醍醐の仁寛(蓮念)方血脈は、
(前略)勝覚 蓮念 見蓮 覚印 覚秀 浄月 空阿(慈猛) 審海
であった事が知られます。「観」蓮と「見」蓮は同人らしく思われますから、両血脈の相承次第は同じであり、慶円と浄月の両上人は覚秀門下の同法の弟子であった事が判明します。

沙門某作の「心定撰『受法用心集』序」に付いて

2011-09-20 21:11:25 | Weblog
沙門某作の「心定撰『受法用心集』序」に付いて

いわゆる「邪教立川流」は通説に反して平安時代の醍醐寺僧仁寛/蓮念(?―1114)の法流(立川流)とは何の関係も無い事は、既に本文庫の『金沢文庫蔵の立川流聖教の和訳紹介』に於いて明らかにした通りです。ただ高野の宥快(1345―1416)等が誤って立川流なる名称を用いたのにもそれなりの理由があったに違いありません。その事を史料の上から明らかにするのは現時点では非常に難しいと云えますが、一つにはその邪教に特定の名称が付いていなかった事が考えられます。又此の邪教に関するほとんど唯一の詳しい同時代史料である誓願房心定作『受法用心集』によれば、此の邪教の根本テキストは「内三部経」なる題名で呼ばれていました。それで私は此の邪教そのものを「内三部経流」と称すべきであると主張しました。
ところが最近になって古人もやはり此の邪教を指して「内三部(経)」と呼んでいた事に気が付きました。それは取りも直さず「沙門某」が『受法用心集』に寄せた文永九年(1272)序文の中で、「爰に邪法あり。内三部等と名づく。」と述べている事です(守山聖真著『立川邪教とその社会的背景の研究』附篇p.530)。此の「沙門某」がどのような経歴を有する人物なのか具体的には殆んど分かりません。『受法用心集』巻下にある古い書写奥書には、
文明四年(1472)十一月十五日、高野山多聞院に於いて(多聞院)本を以って写し了んぬ。   永智二十四才
と云いますから(同書p.571)、沙門某作の序が付された『受法用心集』の写本が高野山にあった事だけは分かります。亦同じく書写奥書中に載せる「別本後記」に、
此の書は越州の住侶心定〔誓願房と号す〕の作なり。但一覧を歴(ふ)る処、邪人迷妄の思いを哀しみ、正法破滅の事を悲しむ。抄主(誓願房心定)の存念、愚意に相通ず。仍って感悦の余り、即ち之を書写し畢んぬ。但し条条不審難破の内、其の詞に少しく取捨を加う。又自宗の問答に付きては所存を別つこと有るが故に愚意に任せて書き改むること多々なり。被閲の者、意に任せて文を削れ。   時に文永五年(1268)十月七日
と述べていますが、年代が近似する事から此の識語も序を寄せた沙門某が書いたらしく思われます。しかし是はただの推測に過ぎません。猶『立川邪教とその社会的背景の研究』に載せる『受法用心集』の写本は明応九年/1500七月に「権少僧都増道」が写したものです(p.571)。
一方、これも最近になって気付いたのですが、三浦章夫編『興教大師伝記史料全集〔史料〕』に収載されている『伝法覚バン(原梵字vam)口決』(所蔵者不明)の末部に今の沙門某作の『受法用心集』序が記されています(pp.1250,51)。此の『口決』がいつ頃製作されたのか詳しくは分かりませんが写本には、寛永十五年(1638)と文化四年(1807)の二つの書写奥書がありますから、先ずそれらを紹介しておきます(p.1251)。
寛永十五暦、仲秋の日、右筆に命じて書写し了んぬ。   沙門京識
文化四〔丁卯〕年九月、豊山方丈宝庫の秀算僧正の御本を以って平野峯敬をして之を書写せしめ、自ら校合し了んぬ。   総持院沙門秀陽 」
又編者の注記に、
本書は、護国寺本、諸法通用口決〔私〕覚バン記に作り、滋賀県飯福寺所蔵本は、通用口決に作り、元文元年(1736)彦旭の書写せるものなり。
と述べています(p.1251)。
此の『伝法覚バン口決』は総じて六箇条から成り、最後の第六条以外は漢文訓読様の和文で記されています。又「覚バン(原梵字vam)上人云く」で始まる第一条が全体の8割前後を占めていますから、残余の条目は後世の追加になるものでしょう。第一条は十八道法に関する覚鑁上人の口決(解説)であり、第二~五条は真言事相に関わる各種の口伝、そして最後の第六条が沙門某作の『受法用心集』に寄せた序文です。
以上の事から「沙門某」は覚鑁上人の法流すなわち伝法院流の門徒であった可能性が高いと云えます。わずかながらも沙門某の具体的な経歴に接近出来たと云えるでしょう。
それでは以下に守山聖真著『立川邪教とその社会的背景の研究』の収載本(Aで表記)をテキストとし、『伝法覚バン口決』を対校本(Bで表記)として、沙門某作『受法用心集』序の和訳と現代語訳を掲出します(校訂内容は一部のみ表示)。

〈1〉「『受法用心集』小序」の和訳
(私に段落を設けます)
竊(ひそか)に以(おもんみ)るに、人に定性無く形に好悪あり。心は縁に随い転変し、身は境に依り遷移す。是の故に仏法は縁より生ず。因無くして独り生ぜず。妄心は縁に随って起こる。境無くして起こらず。善悪の報は皆縁を得て(A待ちて)生ず。染浄(ぜんじょう)の心(A法)は悉く境(A縁)に随って来る。
故に知識を諸方に尋ね善財の志を抽(ぬ)きて、密教を都鄙に求め薩埵の行を勤む。遂に秘密の壇場に入り速やかに覚王の真位に昇り、幸いに重々の潅頂を受けて早く法身の内証を得(う)。凡そ諸州に往来して修学・稽古すること三十七年、諸師に参候して問答・決疑せしこと四十余歳なり。
爰に邪法あり。内三部経(経:A等)と名く。是則ち邪人の妄説、狂惑人の作なり。近来道俗、此の法に依り邪見を起こし、当世の緇素(しそ)此の義を執して正理に背く。悲しいかな、五濁(ごじょく)の悪人、正法に盲いて邪法を執す。苦しいかな、八苦の衆生、妄法を誤って真言と称す。
是に於いて一沙門あり。名けて心定と曰う。造記の抄あり。受法用心集と号す。此の記(此の記:B法説)は深く正理に順じ、此の抄は殊に仏意(ぶっち)に契(かな)う。我が願いは既に満ち、衆望(しゅもう)亦足れりとは唯(ただ)是此の謂(いい)なるか。
之に依って沙門某、進みては諸人の迷妄を遮し、退きて門徒の教訓と為す。明師の教えを挙げ、邪法の輩を誡め、智徳の語を示して狂惑の族を禁(いまし)む。彼を扶(たす)くるに大要を以ってし、此に加るに小序を以ってす。願わくば此の要簡を以って迷人を導き、正路に趣かしめん。望むらくは此の麁筆を留めて向後(きょうご)に贈り、謹序(Aナシ)、群生を利せんのみ。
 時に文永九年〔庚午〕九月二十七日〔丁卯〕   沙門某 (B「時に」以下ナシ)

(2)「『受法用心集』小序」の現代語訳
心静かによく考えてみると、人として定まった性質は無く、その外形には好悪がある。心は機縁に惹かれて転変し、身体は境遇に応じて変化する。そうであるから仏法(真実に気が付く事)も機縁があって生じるのであり、理由が無くそれ自体から生まれるのでは無い。妄心も縁に惹かれて起こり、何かに対する事が無ければ起こらないのである。善悪の報いは必ず機縁に応じて現れるのであり、汚れた心も清らかな心も共に何かに対する事があって生まれて来る。
そうであるから(自分は)諸方に優れた指導者を訪ね求めて『華厳経』の善財童子の志を追慕し、密教を都鄙に探訪して金剛薩埵の行を勤めた。そうして遂に秘密の潅頂壇に入って如来の真実位に昇り、幸いに重々の伝法潅頂を受けて法身大日如来の覚りの心を知ることが出来た。総じて諸国を遍歴して学問と修行に励むこと三十七年、諸師を訪ねて疑問を呈し、或いは問答して疑惑を決すること四十余年に及んだのである。
さて爰に邪法が存在している。その法門は内三部経と呼ばれている。是は取りも直さず邪人の妄説であり、狂惑せる人間が作ったものである。ところが近来の道俗は此の法に惹かれて邪見を起こし、当世の僧侶も俗人も此の教えを信奉して本来の正しい道理に反している。何と悲しい事か、五濁の悪世に生きる人々には正法が目に入らず、ひたすら邪法に執着している。何と苦しい事か、八苦のただ中にある衆生はでたらめな教えを誤って真言と称している。
ここに一人の沙門がいる。その名前は心定と云う。彼が著した書物があり、『受法用心集』と名づけられている。此の著作は深く正しい道理に相応し、大変仏の教えに適っている。(伝法潅頂の印信に)自分の願いは既に満たされ、諸々の希望も成就したと記されるのは、きっと此のような事を云うのであろう。
そこで沙門某(自分)は、積極的に人々の迷妄を破り、そうで無くとも弟子信徒の教訓と成す為に、道理に明るい師僧の教えを挙げて邪法を信奉する輩に戒告し、智徳に溢れた言葉を示して狂惑の族を誡めるのである。その事を補助するために大要を述べ、此の書に小序を寄せる事とした。願わくば此の簡要の語が迷人を導き、望むところは此の粗末な文章を後世に贈って、謹序が多くの人々の利益となるように。
 時に文永九年〔庚午〕九月二十七日〔丁卯〕   沙門某


(以上)
(平成23年9月21日)

真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

2008-04-29 03:13:21 | Weblog
真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説


浄月上人は本編ブログ「金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介」に於ける空阿上人慈猛(1212―1277)に立川流を伝授した師匠であり、また同様に続編ブログ「続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介」の意教上人頼賢(1196―1273)も此の人から立川流を相伝しました。
浄月上人は一般仏教史に於いては全くその名前を知られていない人ですが、鎌倉時代中期に活躍した摂津国勝尾寺の僧であり、『箕面市史 史料編一』の勝尾寺文書には上人起草の文書五通を含めて少なくとも八通の関連文書が採録されています。此のブログはこれ等総ての文書を和訳解説して、幾分なりとも浄月上人の実像を浮かび上がらせる事を目的としています。

勝尾寺は大阪府箕面市の北東部の山中にある高野山真言宗の寺院で、本尊の十一面観音は西国三十三所観音中の一体として第二十三番札所にもなっています。その参道沿い渓谷の紅葉と雄壮な滝で知られる観光名所でもありますが、その開創は古く奈良時代にまで遡ります。仍ち光仁天皇の皇子開成によって宝亀年間(770-781)の頃に伽藍が造営され弥勒寺と称したのが当寺の濫觴であると伝えています。
平安時代中期には天台宗総持寺の別院として「勝尾山寺」と称されていた事がわかっていますが、鎌倉時代になると浄月上人に見られるように真言宗の影響が強くなったようです。しかし、勝尾寺の法流に付いての研究はほとんど為されていないらしく詳しい事はわかりません。
勝尾寺史の概略に付いては日本歴史地名体系28『大阪府の地名Ⅰ』の「勝尾寺」の項を参照して下さい。

『箕面市史 史料編一』(勝尾寺文書)
No.178 本住吉(もとすみよし)神人(じにん)百姓等請文(うけぶみ)案
(朱筆)「神人百姓等連署状案」
本住吉神人等、領家の仰せに依り存知すべき旨申し請け了んぬ(「領家」の傍らに「浄月上人の事なり」と朱注あり)。件の社領に於ては、領家御得分の所当米幷びに佃、原の給田等は勝尾寺の東谷の御持仏堂に寄進せる由、仰せを蒙り畢んぬ。仍って御一期の後は常住の僧徒の為に、御時料幷に公事(くじ)等に於ては、一心一向に領家御存生の時の如く存知せしむべく候う。御遺言に於ては違失すべからざる由、仰せを蒙り畢んぬ。此の旨を以て神人等、子々孫々に至るまで存ぜしむべく候う。若し此の旨に背きて疎略・懈怠(けたい)、を致し候わば、日本国中の有勢無勢の大小神祇、冥道の罰を、神人等蒙るべく候う者なり。
  宝治元年(1247)〔歳次丁未〕八月三十日
       僧教明   僧浄徳
       僧文慶   僧教円
       僧慈明   津守是弘
       津守為弘  同子為永
       津守忠友  同 子
       津守    津守
       僧源慶   同 子
       僧信慶   同子忠元
       津守友安  同 子
      (朱注)「当社領の公文」
       沙弥西明  同子真重
      (朱注)「連署状執筆の仁なり。明円、之を承伏す。」
(朱注)「已上両通の状は、本住吉社領を以て勝尾寺東谷の浄月上人建立の持仏堂に御寄進し、僧衆の計いと為すべき旨、之を言い置かると所見すなり。」
(朱注)「浄月上人自筆の袖書」
此の田ハ慈王の給田に宛て給い了んぬ。仍ち社分の公事・所当を免じ了んぬ。〔在判〕「浄月の判なり」一期の後に妨げを致す輩あらば、此の谷の僧衆に訴え申し、其の妨げを停止すべし。此の状を以て扶持せしむべき状、件の如し。

コメント:浄月上人が領家として支配する本住吉社領を勝尾寺東谷に自ら建立した持仏堂へ寄進した事につき、領地の神人僧等が是を承諾して上人一期の後も同様に常住僧の扶持に励む事を誓約した請文です。位署に記された津守某は若しや上人と同族の人達でしょうか。
本住吉社は摂津国兎原郡にあり(神戸市東灘区住吉宮町)、伝承に依れば住吉大社遷座前の本地とされます。浄月上人は恐らく此の本住吉社の社務家の出身なのでしょう。此の事については後出の第216号文書を参照して下さい。
最後の上人自筆の袖書に記された慈王なる人物に関しては第198号文書に於いても言及されています。

No.188 後家石梨子氏田地売券案
故延清相伝の田を沽却し渡し進むる立券文の事
     〔建長三年(1251)五月十八日 浄月在判〕(朱注)「已上自筆」
  合佰捌拾(180)歩は
  摂津国本住吉御領田に在るなり。
右件の田、元は延清死去の後に彼の後世を訪(とぶら)わんが為、後家の沙汰して件の田を沽却せしむべき由を申し候う処、領家の此の田(事カ)を聞こし食して、件の田は全く以て他人に売るべからず。三ケ年の所当にて伝領すべき処なり。但し、件の後家一期の間は所当・公事を免除して預け給うべき由、仰せ下され畢んぬ。仍って領家の仰せの旨に任せて沽却し渡し進むる所は明白なり。向後(きょうご)更に他の訪(×妨)げあるべからず。仍ち後日の沙汰の為、新たに券文を放てる状、件の如し。
  建長二年八月十八日       後家石梨子氏〔在判〕
 御一期の後、件の田に訪(×妨)げを致すべからず候う。 高円〔在判〕
仍ち署判を加え申す処は明白なり。           国利〔在判〕

コメント:次の第189号と一具の文書。本住吉社の御領田内に延清なる人物が相伝していた田の沽却状(売り渡し状)です。
延清の死後にその妻が夫の追善供養の費用を捻出するために田を売却しようとしたが、領家が介入して「他人」に売り渡すことを禁じ、年貢三年分で田を買い取ることにした。但し後家が生きている間は引き続き年貢を受け取ることが出来るという条件が付いています。
この「領家」とは189号文書を見ると、旧来の領家から権利を買い取った浄月上人その人を指すようです。従って延清と上人とは近縁関係にあったと考えられます。又た標題下の浄月自筆の日付は本文作成時から九箇月も経過していますが、誤写なのかどうかよく分かりません。


No.189 浄月上人田地宛文案
(朱筆)「浄月上人宛文」
延清佰捌拾(百八十)歩の田を後家一期預け給う事
右、件(くだん)の田は、直物(じきもつ)に限り領家より買領せるが、後家一期の間、所当・公事(くじ)を免除して預け給う処なり。若し使等、下知の状に背き所当・公事を宛て行わば、子細を衆僧に訴え申すべし。仍って向後(きょうご)の証文の為に仰せ下す所、右の如し。
    建長二年(1250)八月十八日
〔領家浄月上人判形〕
  在判

コメント:上の第188号と一具の文書。即ち沽却状に記された後家一期に関する条件が領家の浄月上人によって保証されています。
又た当時上人は既に相当高齢に達していたと考えられますが、後家一期の後は誰が延清田を沙汰(支配)するのか記されていません。所当・公事免除の件につきトラブルになった時は「衆僧」に相談するよう指示していますが、是は本住吉社の神人僧を云うのでしょうか。

No.198 浄月上人裏書案(朱書)「浄月上人自筆の裏書」 
(朱書/見せ消ち)「貞永二年(1233)正月廿五日 文屋則安売券の裏書。浄月上人自筆」
この則安が田は慈王に宛て行い(あてがい)給える所の田なり。同九条二里二十九坪神殿
九条二里廿七坪半 これハ慈明御出挙(すいこ)五石の代
          〔曳き募り進上する所の田ヲ自上〕
慈王が給田に宛て給える所なり。所当・公事は皆な免ずる所なり。之を以て衣食の助けと為し、在庄の時ハ時料(ときりょう)と為し、東谷にあらむ時ハき物(法衣か)として、他心なくして、東谷おくの持仏堂例時懺法を懈怠(けたい)無く勤仕せしむべし。更に人に語らわるべからず。若し浄月一期の後に所ノ沙汰人、妨げを致さば、此の状を以て僧衆に訴え申すべし。此の用途を受用(じゅゆう)して未来際を尽くすに至るまで浄月の後世菩提を訪(とぶら)うべき状、件の如し。
   建長五年(1253)六月十三日       浄月〔在判〕
(朱筆)「已上、袖書・裏書等は当社領の田畠、東谷僧衆の計(はから)いたるべき旨を定め置かるる類書なり。」

コメント:浄月上人が田畠売券(権利書)の裏に記した慈王宛ての譲状である。此の慈王は上人の入室(にっしつ)の弟子と考えられるが、名前から判断して未だ受戒に及ばない若年者らしい。然しながら上人が自らの後世を託した人物であるから余程の信頼を得ていたのであろう。
東谷の持仏堂は後の216号文書に記されているように、上人が勝尾寺東谷に建立した堂舎であり、又た最後の朱書に云う「当社」とは同文書によって「摂津国兎原郡内本住吉社」と知れる。

No.199 印信血脈案
(朱筆)「印信血脈案」
許可金剛弟子浄月両部伝法潅頂密印(左の「浄月」は「聖舜」と記されるべきであり、不審と言わざるを得ない。)
   〔自余は之を略す〕
 建長六年(1254)〔甲寅〕十月十五日  弟子聖舜
伝授阿闍梨伝燈大法師位浄月、之を示す〔在判〕

「同」
金剛界伝法潅頂密印
   〔自余は之を略す〕(省略部に胎蔵界密印もある筈です)
 建長六年〔甲寅〕十月十五日〔井宿〕 弟子聖舜
伝授阿闍梨伝燈大法師位浄月、之を示す〔在判〕

「同」
伝法潅頂秘印
   〔自余は之を略す〕
 建長六年〔甲寅〕十月十五日  弟子聖舜
伝授阿闍梨伝燈大法師位浄月、之を示す〔在判〕

「同」
授与伝法潅頂最秘密印
   〔自余は之を略す〕

コメント:浄月上人が弟子聖舜に授けた四通の伝法潅頂印信を集めた文書です。肝心の印真言が総て省略されていますが、印信の書き出し部分を本編ブログに記した慈猛が審海に授けた諸印信と対比することによって、これら四通の印信の種類を特定する事ができそうです。
先ず最初の許可(こか)印信は本編ブログの10.No.6237「伝法潅頂密印」であると考えられます。書き出し部に「許可金剛弟子審海両部伝法潅頂密印」と云います。慈猛は是を一通り伝法潅頂印信を授けた後、第二巡目に授与していて順番が相違しています。
次の伝法印信は1.No.6226「両部阿闍梨位印」であり、その次の「秘印」は6.No.6233「伝法潅頂秘印」、そして最後の「最秘密印」は9.No.6236「潅頂最秘密印」と考えられます。最後の印信は醍醐の第二・第三重印明に当たる事を本編ブログに説明してあります。
以上の推測が正しければこれ等の印信も総て醍醐仁寛流すなわち立川流の印信になります。又た今の場合、浄月上人は聖舜に対して是等四通の印信を建長六年10月15日一日に纏めて授与したのです。

No.200 浄月上人書状案
存知せしむる間、沙汰者願成房 事に源慶いろうまじきよし起請(きしょう。誓約書)をかゝせける事、「是れ極めて上の為め彼の女の為めに僻事(ひがごと。不都合)なり」の由下知し了んぬ。〔其の故ハ〕相互に語らいて公事をも共に勤仕する義ならハ、こゝろゆきて返せとこそ存じたるお   作人三段も四段も、源慶とかたらいて作らする事ハゑし候うまじ。日来遺恨に思い候いつる事なればと申す間、「此らは預所に訴え申すべきなり。此て事を切りて耕作をも為すべきなり」の由下知 所、  を使を切り付けテ責むる条、以ての外の僻事なり。縦い約束ありと雖も人領を妨げて、返すべき時に返さずして公事を切り宛て、日来五年作り取りて七斗の物を置くべきや。彼の責使にも下知せしめ給うべし。又た彼の預所殿にも此の由披露あるべきなり。穴賢々々。
   十二月廿七日               浄月〔在判〕
(朱書)「已上両通の状は上人の自筆なり。類書と為(し)て之を進覧す。」

コメント:朱書に云うように両通が兼備していれば具体的な事情が判明するかも知れないが、此の文書だけでは詳しい経緯は分かりません。それでも浄月上人が領家として仲裁命令に当たっているらしい事が推察されます。文中の源慶なる人物は最初の178号文書に署名しているのが見えます。又た文中の「彼の女」とは若しや189号文書に登場する「後家」のことでしょうか。

No.211 住吉大神宮禰宜(ねぎ)公文(くもん)両職補任状案
(朱筆)「禰宜公文両職宛文(あてぶみ)案 (抹消)浄月上人宛文案」
                     (朱筆)「浄月上人」領家〔在判〕
補任 住吉大神宮禰宜幷に公文職事
  弓削真安
右、彼の人を以て社家の両職に補任すること先例に任せ畢んぬ。早く社務を掌り、而して神事已下を違例無く奉行せしむべき者なり。仍って神人(じにん)・供僧・在地人等、宜しく存知せしむべし。違失せしむること莫かれ。補任の状、件の如し。
  正嘉三年(1259)二月十八日       僧浄仏〔在判〕
              (朱注)「定乗なり」僧慶祐〔在判〕
僧蓮仏〔在判〕
(朱筆)「当社領は定乗別して相伝せる地に非ざる間、宝治(1247―49)以後に浄月上人、之の如き宛文を成され、定乗も又た僧衆の一分と為(し)て署判を加え了んぬ。正文 当公文重舜之を帯す。仍ち此の宛文を以て四十余年当知行し、今に相違無き上は、故上人の所領せる条異論無き者なり。」

コメント:弓削真安なる人物を住吉大神宮の禰宜兼公文に補任することを記した文書。日付の下に三名の僧侶が署判(名前と花押)を加えているが、領家として袖部に花押(袖判)を加えた浄月上人が此の補任状の発給者です。
今まで見てきた文書から浄月上人が本住吉社の実力者である事は容易に推察されますが、此の文書が記すように住吉大神宮の神職や荘官を任命しているのは、一体いかなる権限に基づいているのか分かりません。普通には神職・荘官の補任権は社務、即ち宮司か宮寺の別当が所有している筈です。いずれにしても浄月上人は本住吉社のみか大神宮にまでその影響力を有していたのでしょう。

No.216 浄月上人置文案
(朱筆)「浄月上人置文留案」
勝尾寺東谷に建立せる所の持仏堂に摂津国兎原郡内本住吉社領田地を寄進する事
  合拾肆(十四)町の内、神田伍町・神戸田九町は次第相承の証文四通相い副う
右、件の社領は、予、先祖より相伝する所なり。而して勝尾寺は、四聖往生の跡、(阿弥陀)三尊来迎の砌なり。茲に因って聖跡を貴び  なり。此の山に止住して練行すること年旧(ひさ)し。爰に八旬の齢
       彼の浄土(極楽浄土)に寤寐(ごび)することを望深す。仍って一宇の持仏堂を建立して九品教主尊(阿弥陀如来)を安置し、彼の相伝の領田を寄せ、遥かに菩提の善苗を植う。社頭恒例十二ヶ月の神供を備え奉る用途の外に於いては、或いは仏聖燈油を備え、或いは僧食・修理に配す。就中(なかんず)く止住の僧侶に於いては、三衣一鉢を帯さず、持戒定斎に非ざるよりは、吾が寺の器なること能わず。柔和忍辱(にんにく)を以て先と為し、道心慈悲を以て本と為す。朝暮に怠らず、日夜に心を励まし、宜しく予の菩提を訪らい寺の興隆を致すべし。若し彼の社頭の為に証文ありと称して沙汰を致す輩に於いては、謀書と号して罪科に所(処)すべし。諸事、僧衆和合して、進退領掌を為すべし。全く他の妨げあるべからず。加之(しかのみなら)ず異議異説を吐きて違乱を成せる衆は、是れ則ち梟悪(きょうあく)の輩、狼藉の族なり。須らく寺内より追却し、僧中より濱(擯)出すべし努々々(ゆめゆめ)穴賢々々。此の状に違失すること莫れ。此の遺状を破れる輩に於いては、今生現世に必ず三宝の罰を蒙り、当来(来世)には無間(むげん。無間地獄)の底に堕ちるべし。或/吾志之至諸仏捨諸而已(文意やゝ不明)。又た後日の証券の為、連署し判行を加えしむのみ。
(朱筆)「本案の定」
(抹消)「正嘉弐年(1258)〔戊午〕十一月十六日」
              (朱筆)「自筆を以て名字二字を書き判を加え了んぬ」
              (抹消)「名字二字は自筆なり」
 正元元年(1259)〔己未〕五月 日       浄月〔在判〕
                       金剛仏子〔々々〕
(朱筆)「(抹消)『此の置文の正文は』去る正元の比、『東谷の仏閣僧房回禄(焼失)の後に』明円離寺の刻に『之を捜し取り畢んぬ』、件の置文の正文已下の重書等悉く之を捜し取り、洛陽(京都)に移住せしめ畢んぬ。而して上人加判の留案相い残れる間、之を進覧す。」

コメント:浄月上人(1180頃―1259?)が、勝尾寺東谷に建立した持仏堂に自ら相伝の本住吉社領田地を寄進する事と、弟子僧達に対する遺誡とを記した置文の案文(写し)。
此の社領について「先祖より相伝する所」と述べていますから、上人は本住吉社を支配する有力な家の出身者であると考えられます。また文中に「八旬の齢」すなわち八十歳と云うから、逆算してその生年も大体分かります。
しかし最後の朱書の抹消部に依れば、此の置文が作られて幾年を経ること無く正元年間(1259―60)に持仏堂は火災の為に消失してしまいました。又た朱書の書き様からすれば、上人は此の置文を認めて程なく入滅したらしく思われます。
朱書中に見える明円なる僧は、上人と連署している「金剛仏子」と同人でしょうか。猶お第201号文書「沙弥真覚田地売券案」にも「明円自筆留案」なる朱筆があります。

さて最後に浄月上人が付法弟子の覚証に授けたものらしい『内護摩口決』なる書が現存しているので、その事に付いて簡単に述べておきます。
本編ブログで記したように浄月上人の立川流相伝は、
蓮念(仁寛)  見蓮  覚印  覚秀  浄月
と次第したものですが、上人の師匠である覚秀に付いても、又た受法年時や灌頂道場に付いても確かな事は何も分かっていません。一方、上人には本編ブログの空阿上人慈猛や、続編ブログの意教上人頼賢のような密教史の上で著名な弟子僧がいたのですが、他にも多くの弟子がいたことでしょう。
金沢文庫には称名寺の住僧澄尊が相承した立川流印信が八枚伝わっていて、その血脈次第は、
蓮念  見蓮  覚印  覚秀  浄月  覚証  豪瑜  澄尊
と成っています(櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』p.353参照)。
而して大覚寺蔵の永禄八年(1565)写『内護摩口決』一帖の奥書に、
建長七年(1255)十月十七日 覚證
伝燈大法師位浄月、覚證に之を授く。
此の抄は秘本(なり)。
と記されています(『大覚寺聖教目録』第三函第十五号)。

今後更に浄月上人や立川流全般に関する研究が発展する事を期待して此のブログを終了させて頂きます。次のブログは愛染明王をテーマに取り上げる予定です。

(以上)