金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介

皆さんは立川流に関する通説が全く間違っている事をご存知ですか?鎌倉時代の史料を使ってその事を明らかにします。柴田賢龍

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2023-09-06 19:28:13 | Weblog
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「光明潅頂印信」の事

2013-09-07 10:49:15 | Weblog
「光明潅頂印信」の事

金沢文庫保管称名寺聖教中に存する慈猛(本名空阿。1215―95)が称名寺審海に授けた一連の立川流(醍醐仁寛流)印信の中から、今までに「一心潅頂印信相承」「瑜祇潅頂密印(瑜伽瑜祇理潅頂)」「潅頂最秘密印(理智冥合)」に付いて、成立の由来や近似する他流相伝の印信等を見て来ました。本章に於いては和訳紹介分の第8として示したNo.6235「光明潅頂印信」に関して、これらの事を考えてみます。

(1)三輪上人慶円相伝の「光明汀(潅頂)印信」
「光明汀(潅頂)」と題された印信は、三輪山平等寺(三輪別所)の中興開山として知られる三輪上人慶円(常観房。1140―1223)相伝の印信類の中にも見出す事が出来ます。しかも同血脈に依って、これが蓮念(仁寛)方の所伝である事も知られます。この慶円相承の印信は、『神道大系 論説編 真言神道(下)』に収載する『諸流水丁(かんじょう)部類聚集』なる書物の中にあります。本書は慶円上人が授受した潅頂印信を類集したもので、奥書に依れば文政三年(1820)四月に金資(金剛佛子)憲誉が右筆の頼誉に書写させて、自ら校訂を加えた写本を原本としています。憲誉奥書の一つ前に、
右、慶円上人御自筆の本なり。而して之を写す。
元文三戊午(1738)七月朔日(ついたち)に伝受す。(同四年)乙未九月廿二日、長老御自筆の御本を以って書写すること了んぬ。
       文性自賢〔行年三十四〕
と記されていますが、果たして写本の文言が慶円自筆本をそのまま正確に伝えているのか確認するのは困難です。それでも内容から判断して、特に偽撰を疑う必要も無いと考えられ、本書は鎌倉初期の諸流伝授の実態を伺う上で非常に貴重な典籍であると言えます。

(2)慈猛相伝と慶円相伝の両印信の同異
慈猛相伝の「光明潅頂印信」は既に和訳紹介を済ませていますが、比較の為にここに転載する事にします。
「光明潅頂印信〔又た阿字潅頂トモ云うなり。又た金色泥塔トモ云うなり。〕
 印は口伝
 明 ア(原梵字)
  建長七年二月三日、之を示す。
伝燈大法師位慈猛、資審海大法師に授け了んぬ。
  秘中の深秘なり。他見すべからざる者なり。「慈猛」(花押)
月輪観に云く、印を結べば我身は月輪と成る。月輪とは光にて有るなり。体相は無し。口に阿とは本不生の理をヨブナリ。意に本不生の理を思う。本不生の理とは、我が念念の心は常に発るとも色形はなし。来ること無く、去ること無し。不思議の心性の妙理なり。身口意の三業にカク思えば妄想の止むを菩提心と云うなり。身は光と成って空なり。口に空の名(阿字)をヨベバ其の語は空なり。意に亦た空の理を思う。サレバ我が三業は共に空なり。罪障は、妄想顛倒の諸法の実に有ると思うに有るなり。サレバ此の如く思いに静かなる時、無量無辺の罪は滅するなり。能々観想すべし〔云々〕。 」
此の印信に於いては印を秘して「口伝」とのみ記していますが、慶円の印信は口伝に付いて詳しく記しています。以下に慶円相伝の印信を和訳掲載しますが、簡便の為に図入りの観想等を説く部分は省略します。
「光明汀印信〔又たア(梵字:a)字汀と云うなり。又た金色泥塔法とも云うなり。〕
印は口伝。 明はア(梵字:a)。
口伝に云く、
先ず内縛印〔台(胎蔵)〕。 真言に云く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に外縛印〔金(金剛界)〕。 真言に云く、
オン・ア・ソワカ(梵字:om a svaha)
次に二手、互いに指首(指先)を指股に指し入れて(非内非外縛印)、二大指を並べ立てて、月輪(がちりん)印〔蘇(蘇悉地)〕とす。真言(に云く)、オン・ア・ソワカ(梵字:omm a svaha)。次に同印にて、左大を以って上に置く。台大日と名づく。真言は前に同じ。次に同印にて、右大を以って上に置く。金大日と名づく。真言は前に同じ。次に同印にて、二大を並べて月(掌中)に入る。真言は前に同じ。不二大日と名づく。口伝に云く、二大を月輪に入ることは両部大日の理智不二と成る義なり〔云云〕。次に虚円月輪之印〔我心は是なり〕とす。真言は前に同じ。ア(梵字:a)字を観ぜよ。指端に各五佛ありて五智光を放つ。掌内には本尊のア(梵字:a)字、掌背に吾がア(梵字:a)あり。
(中略:虚円月輪印らしき図があり、中に大きく梵字のアを書く。その他、浄土変の真言(オン・ボク・ケン)と法報応三身、佛蓮金三部との対応を記す等の事あり。)
我覚本不生(我は本不生を覚れり) 出過語言道(語言の道を出過して) 諸過得解脱(諸過より解脱することを得たり) 遠離於因縁(因縁を遠離して) 知空等虚空(空の虚空に等しきを知る) 如実相智生(如実相智生じて) 以離一切暗(以って一切暗を離る) 第一実無垢(第一実無垢なり)
 建保五年(1217)四月八日、之を示す。
  伝燈大法師位慶円、資性心に授け了んぬ。 」
両印信を較べると、先ず印信の短い本体部は全く同じと云えます。
次いで口伝の印に付いては慈猛の印信には何も記されていませんから、一応慶円の印信に依る外はありません。慶円の印信に於いては、両部の印言と蘇悉地印言より以下の部分では書き様が異なり、蘇悉地以下は改行せずに続けて書いていますから、恐らく此の部分は両部印言より後に成立した口伝であると考えられます。
これらの事から推測して「光明潅頂」なる法門の肝要は、虚円合掌、即ち非内非外縛印か虚円月輪印を結び、その中に光明を放つ金色の阿字を置いて、阿字本不生の空理を観想する事であったと思われます。要するに光明潅頂とは、阿字観に関わる一種の口伝を潅頂印信の型式を用いて伝授したものでしょう。「瑜祇潅頂密印(瑜伽瑜祇理潅頂)」の印言は、虚円合掌(非内非外縛印)にバン(梵字:vam)明、或いはア(梵字:a)でしたから、「光明潅頂」と「瑜祇理潅頂」とは印言に関しては同類であると言う事が出来ます。
猶慶円の印信の最後に記された「我覚本不生」以下八句の偈頌は、『大日経』巻第二「入漫荼羅具縁真言品第二の余」の冒頭部に於いて、毘盧遮那佛が執金剛菩薩に告勅する部分から引用しています。

(三)相承血脈の事
慈猛が審海に授けた仁寛流の印信類には両種の相承血脈が含まれている事は、既に「和訳紹介」篇に掲出して示した通りです。両種とは言っても、小野僧正仁海の次に覚源―定賢―勝覚と成尊―範俊―勝覚という相承の違いがあるだけで、
勝覚―蓮念(仁寛)―見蓮―覚印―覚秀―浄月―空阿(慈猛)―審海
なる血脈に相違はありません(No. 6227、6239)。
是に対して慶円相承の「光明汀血脈」は、
(前略)成尊 範俊 勝覚 蓮念 観蓮 覚印 覚秀 慶円 性心〔改名心海〕
であり、慶円は慈猛の師浄月上人と同じく覚秀から相伝しています。血脈の「観」蓮は「見」蓮と同じ人でしょう。猶血脈授与の年時に付いて慶円は、
建保五年四月八日、之を(性心に)示す。〔三輪山に於いて伝授すること了んぬ。〕
と記しています。
このように慶円は立川流の光明潅頂を相伝したのですが、慶円の在世時に他流に於いても光明潅頂なる印信乃至口伝は相承されていたのでしょうか。現在伝わっている諸流の潅頂印信類はほとんどが近世の写本であるのみならず、その多くは近世になって互いに諸流の印信を参照して新しく編集したものですから、慶円当時の事はなかなか知るのが困難であると言えます。慶円相承の印信集である『諸流水丁(かんじょう)部類聚集』にしても江戸時代後期の写本であり、果たしてその内容が原本に忠実なものであるかどうか確かな事は分からないと前述しました。
当HP『柴田賢龍密教文庫』の子ブログ『真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介』の記事「三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の一)(其の二)」に於いて、慶円が十余人の師から小野流を中心に数十通に及ぶ諸流の諸種潅頂印信を受けていた事を記しました。そして慶円は別して仁寛/蓮念方の光明潅頂受法に付いて詳しく記しています。その事と鎌倉中期の一次史料である慈猛相伝の立川流印信類の中に別して光明潅頂印信がある事を考え合わせれば、慶円在世時にあっては、「光明潅頂」は同流にのみ相伝されていた他流に不共(ふぐう)の法門であった事が考えられます。

(以上)

「理智冥合」潅頂印明の事

2011-08-27 17:55:11 | Weblog
「理智冥合」潅頂印明の事

金沢文庫保管称名寺聖教の中にある立川流の印信の中、前に「一心潅頂印信」と「瑜伽瑜祇理潅頂密印」について少し詳しく見ましたが、本稿では「理智冥合」と称される潅頂印明について検討します。先ず「理智冥合」なる言葉については既に『柴田賢龍密教文庫』の「真言情報ボックス第2集」欄の「2. 「理智冥合」と平安仏教」に於いて、中国・日本に於ける年代順の使用例について相当詳しく説明しましたから再説を省きます。ただ平安時代後末期から鎌倉時代にかけて顕密を問わず此の語が愛好され、様々多くの使用例が各種仏教典籍に見られる事だけを述べておきます。

〈1〉慈猛相承の「理智冥合」印明
次に本ブログで紹介した空阿上人慈猛が金沢称名寺開山の審海に授けた所謂(いわゆる)立川流印信の中では9. No.6236「潅頂最秘密印信」の中に於いて「理智冥合」印言が説かれています。是は「コメント」に記したように醍醐の第三重秘印明に相当します。とりあえずもう一度この印信を下に掲載します。
9. No.6236「潅頂最秘密印」
授与伝法潅頂最秘密印
胎蔵界
 印は卒覩婆〔無所不至〕 明〔口伝に在り〕
ア アー アン アク アーンク (原梵字)
金剛界
 印は卒都婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
バン ウン タラク キリク アク (原梵字)
理智冥合
 印は卒覩婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
ア バン ラン カン ケン (原梵字)
  建長七年二月三日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛」
是に対して次のコメントを付しました。
コメント:注によれば是は切紙の印信である。潅頂印信は本来竪紙に記すべきもので、此の印信の正統性を低めている。端裏書に「三重」と注しているが、初めの胎金一印二明は醍醐の第二重、後の「理智冥合」が第三重で所謂「霊託印信(託宣印信)」である。」
よく知られているように醍醐の潅頂印明には初重(許可/こか)と重位の別があり、初重は胎金各別の二印二明、第二重が一印二明、第三重は胎金同じで一印一明です。すなわち第三重の極位(ごくい)に於いては胎蔵・金剛両界の差別性を無視して本源的な同一性が強調されているのです。平安時代末には胎蔵は理界、金剛界は智界という定式が成立していましたから、極位(ごくい)に於ける両界の同一性を「理智冥合」という言葉で表したのです。

〈2〉静怡相承の「理智冥合」印明
金沢文庫保管称名寺聖教の中には他にも日付を除けば是と全く同じ印信が蔵されています。それは『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』のNo. 6521「伝法潅頂印明」で、日付は「延慶三年(1310)卯月(四月)十六日」とありますが印信の授受者は記されていません。しかし是は静怡なる人が智照上人に授けたものと考えられます。それと云うのも同書には是を含む一連の文書らしい同日付の印信四通が掲載されていて、その中には静怡が智照上人に与えた潅頂紹文(じょうもん)であるNo. 6518「伝法潅頂印信」があるからです。
此の紹文によれば静怡は「先師法印権大僧都〔宗遍〕」の弟子であり、又大日如来から数えて両部大法第二十八葉の弟子であるとも述べています。静怡の経歴についてはよく知りませんが宗遍(1236―93)は鎌倉後期の理性院流を代表する学匠の一人であり、光明峰寺の証聞院々主として、又醍醐寺理性院の院務代として当時著名の人物です。
しかしながら今の潅頂印信の相伝は常の理性院流の血脈とは余程異なったものらしいのです。同書には智照が静怡から相承した何れも興味深い数種の血脈が掲載されていますが、上記の如く静怡が大日如来から第28代の弟子である事を信ずれば、それに合致するのはNo. 6510「相承血脈」に記されたものだけです。果たして是が今のNo. 6518「伝法潅頂印信」・No. 6521「伝法潅頂印明」と対応しているのか何とも覚束(おぼつか)ないのですが、とりあえず此の血脈を示してごく簡単に検討します。
是は智照から更に剱阿へ伝えられたもので延慶二年(1309)十二月二十一日の日付があり、
(前略)範俊 厳覚 良勝 良弘 真慶 勝尊 光遍 明観 真空 観俊 宗遍 静怡 智照 剱阿
と次第相承しています。即ち勧修寺の良勝方血脈ですが、良勝の弟子良弘法印(1130―88―)は六波羅常光院の僧で平家政権下の寵僧として活躍したものの、それが為に平家没落後は阿波国に配流されるなど不遇をかこちました。又その弟子真慶は知法の阿闍利として名を知られた人でしたが詳しい伝歴は不明です(後世に至って真慶の名を貶める伝承が生まれましたが、ここでは言及を控えます)。
その他の血脈は三宝院勝覚が範俊から相伝しているのが二種(勝覚―賢観と勝覚―淳観)と静与(静誉/せいよ)が範俊から伝えているのが一種であり、これらの血脈は全てその後が、
増仁 仁禅 尊念 聖長 阿鑁 頼深 聖尋 真空 観俊 宗遍 静怡
と成っています。
さてここで胎蔵・金剛両部の印に無所不至/塔(卒塔婆)印を用い、真言は胎蔵が五阿、金界が五智とする醍醐の第二重について説明を加える必要があります。それは此の印明は勧修寺系の法流では乍二塔(さにとう)印明と称し、古来「寅時印信」の説として非常に有名である事です。是は保安二年(1121)五月二十四日「寅時」に勧修寺厳覚が蓮光房良勝に授けた事が名称の由来と成っているのですが、また「乍二塔」は「胎金二つ乍ら塔印」という意味です。しかし「寅時印信」には醍醐の第三重に当たる印言は説かれていません。
してみれば今問題としている醍醐の第三重を「理智冥合」と称する印信はやはり三宝院勝覚の系統に属するのかとも思われます。また誰が最初に此の「理智冥合」なる名称を付与したのか、仁寛方の他にも検討史料が増えた訳で、それを決定するのは非常に困難の事であろうと思われます。

〈3〉『弘誓院大納言入道殿御口伝』の説
上に見た〈1〉〈2〉の印信の小野流潅頂印信の中で占める位置に付いて言及した口決があります。それは金沢文庫保管称名寺聖教の中の『弘誓院大納言入道殿御口伝』と題された至って短篇の写本の中に記されています(第241函2、第254函3)。
弘誓院大納言入道殿と云うのは摂政九条良経の子である藤原教家(1194-1255)の事です。教家は菩提心によって元仁二年(1225)九月に権大納言の職を辞し、出家して法名慈観を称し、真言道の研鑽に勤めて小野随身院流の血脈にその名を留めています。当時の政界の実力者で光明峯寺殿、或いは出家して法性寺禅定殿下などと称された摂政九条道家は教家/慈観の御兄さんです。
さて此の『口伝』の中で冒頭に、
「口伝に云く、伝法潅頂に二様あり。一には、胎(蔵)には内五古印と五ア(原梵字:a)(の真言)、金(剛界)には塔印と五智の種(子の真言)であり、此の様は正しき此の流の三重の秘密潅頂等の具足に授くる作法是なり。一には、胎には塔印と五ア(原梵字:a)、金は同印と五智の種であり、理智冥合には同印と五大の種であるが、是は別して三重の次第等を悉くは授けずしてサスカニ(そうは云ってもやはり)又尋常に授くるヲリノ作法なり。」
と述べています。
引用後半部の意は、三重の潅頂印言を全て丁寧に授けはしないけれども、それでも重位の印明を授ける時は、一印(塔印)二明(五阿と五智)と理智冥合の一印(塔印)一明(五大/アバンランカンケン)を記した潅頂印信を付与するのである、という事でしょう。即ち既に潅頂入壇を遂げている受者に重ねて潅頂を授ける場合は、許可(こか/初重)を略して授けないで重位(第二・三重)だけを授ける作法があると言っているようです。
随身院流の血脈によれば、慈観は東寺一長者にも成った随身院大僧正親厳(しんごん 1151―1236)の潅頂弟子です。師僧の親厳は随身院顕厳の弟子ですが、又「尊念」からも受法していて、その血脈は、
範俊―静誉―増仁―仁禅―尊念―親厳
であり、〈2〉で見た静誉方の血脈と一致しています。しかも此の『御口伝』の後半部に於いて「尊念僧都の第三重」なる秘密潅頂印言を説いていますから、上に紹介した冒頭の口伝も静誉方のものかも知れません。そうすると時代的に考えて、仁禅か尊念あたりの周辺で一印一明の潅頂印言(醍醐の第三重に相当する)を「理智冥合」と称するようになったのではないかとも考えられるのです。それは兎も角、此の『弘誓院大納言入道殿御口伝』は潅頂印信の歴史を考究する上で貴重な証言を提供していると云えます。
又一印一明の潅頂印言に「理智冥合」なる名称を付与したのは経軌の説や古来の相承口伝に基づくものでは無く、多かれ少なかれ時代の風潮に乗じた恣意的なものですから、他派他流に於いては他の潅頂印言を此の名称で呼んでいるとしても何ら不思議ではありません。次にその例を見てみましょう。

〈4〉興然方相承の「理智冥合」印信
『金沢文庫古文書 第九輯 佛事編下』のNo. 6206「潅頂印信」は、勧修寺の興然阿闍利(1121―1203)が応保二年(1162)12月11日に内山(うちやま)真乗房亮恵(1098―1186)から相伝した「最秘」印信であり、その中で是が「理智冥合」の秘説である旨が記されています。亮恵は醍醐の三密房聖賢の弟子であり内山永久寺の学僧として当時著名の人でしたが、実には醍醐寺三宝院の阿闍利でもありました。
そうすると此の印信も醍醐の相伝かと云うと実はそうでもありません。先ずは印信を見てから話を続けましょう(文中「亮恵」を「高恵」と誤記しているので訂正します)。
No. 6206「潅頂印信」
「  〔最秘、最秘。応保二年十二月十一日、之を伝え奉る。興然、之を記す。〕
潅頂印
(紙背註)「潅頂〔法務御房(寛信)、(淳)観闍利に伝う。闍利、真乗房〔亮恵〕に伝う。真乗房、興然に伝う。〕」
塔印 但し二頭指を宝形に作る。是は火輪を表せり。
二大指を並べて掌中に入る。
両部の大日、一体和合の身にして理智冥合すなり。
真言
ア・アー・アン・アク・アーク、バン・ウン・タラク・キリク・アク(原梵字)
(以下省略します)」
コメント:
先ず紙背に記された相承次第によれば、是は勧修寺法務寛信の伝であり、それを醍醐の淳観(淳寛/しゅんかん)阿闍利が受法したのです。淳観は三宝院勝覚・理性房賢覚等の潅頂弟子であり、理性院流淳観方の祖とされていますが、また寛信法務とは大変親しい間柄でした。淳観から是を伝えた亮恵は初めに述べたように三密房聖賢の付法資であり、当時の真言事相の名匠です。応保二年十二月に亮恵から是を受けた勧修寺の理明房阿闍利興然(1121―1203)は、単に慈尊院流の祖と云うに止まらず、諸師から伝法を重ねて小野流を集大成した稀に見る大学僧です。
●印信に記された塔印は、二頭指(人差し指)を合わせた部分を尖(とが)らせる点が常の印と相違しますが、今は是に付いては放っておきます。「二大指を並べて掌中に入る」とは、両部の大日如来(二大指)が現象界の差別性を離れて本源的は平等の世界に入り、「一体和合の身となって理智冥合する」事を表しています。今の「掌中」は心月輪であり、また自性清浄心・法界・如如などと解する事が出来ます。
●真言は五阿・五智ですが、注意すべきは〈1〉〈2〉の印信と違って是を一行に書き記している事であり、此の事によって今の大日如来が二身和合した一体の「理智冥合」尊である事を強調しています。
●是と同類の印信が俊然(しゅんぜん)作『四巻鈔』巻上の「聖観音印信」の条に「最極秘密潅頂印」と題して採録されています(『真言宗全書』31、p.250下)。印文は小異しますが、二大指に付いて「両部の大日、一体和合の身にして理智冥合すなり」等と述べるのは全く同じです。ところが真言は、
ノウマクサンマンダボダナン・アクビラウンケン(原漢字)
であり、八遍之を誦して前の三遍を胎蔵、後の五遍を金剛界に配当しています。
此の印信は貞和二年(1346)三月に勧修寺の慈尊院栄海(ようかい)僧正が俊然律師に授けたものであり、その相承次第は、
範俊―厳覚―寛信―淳寛―亮恵―興然―栄然―聖済―栄海―俊然
であり、寛信から興然に至る間は全く同じです。称名寺聖教の印信の方は興然の批記(識語)があって古形を留めているように感じられますが、若しその通りだとすれば『ゲンビラ鈔』十九巻を著して小野流潅頂印信に関する第一人者であるはずの栄海僧正の法流相承も規範とするに足りないという困った問題が生じます。

〈5〉塔印を「理智冥合」とする行遍僧正の説
鎌倉時代の中葉になると仁和寺/広沢流に於いても塔印、即ち大日如来の標示である無所不至印や外五股印を以って「理智冥合印」と称する事が行われるようになりました。東寺一長者にもなった仁和寺菩提院の行遍大僧正(1182―1264)の口伝集とされる『参語集』の巻第五(秘々中深秘の巻)の「智拳印以下潅頂秘印事」の条に於いて、
又無所(不至)印は塔印なり。竪差別の印なり。(是は地水火風空の)五輪を(順に)上に向ける。外五股印も塔印なり。横平等の印なり。彼等は皆理智冥合の印なり。
と述べて更に口説を記しています。
行遍は勧修寺の慈尊院栄然からも受法を遂げていますから、恐らくは〈4〉に述べた興然の印信に付いて伝授を受け、それを敷衍して更に自説を書き記したのでしょう。


(以上)

瑜伽瑜祇理潅頂について

2010-12-10 19:39:21 | Weblog
瑜伽瑜祇理潅頂について
〈1〉瑜祇潅頂とは?
初めに「瑜祇潅頂」の事について少し説明しましょう。鎌倉時代に於いては特に中期以降、瑜祇潅頂は小野流を中心に大変な人気があって、現存の諸史料から各種の「瑜祇の印信」が製作発給されていた事が分かります。しかし近世になると瑜祇潅頂に対する関心は薄れ、現在では真言宗僧侶の間でも話題になる事は少なくて伝法潅頂と較べると何となく「雲を掴(つか)むような」趣きが無いでもありません。
『瑜祇経』所説の印真言を用いて潅頂印信を作成する例としては「阿闍利位印信」が最も有名で亦権威もありました。天長年間(824―834)に弘法大師が弟子の実恵(786―847)と真雅(801―879)に授けたとされる「天長印信」と称する一連の潅頂印信が伝わっていますが、此の中にも阿闍利位印信はあります。是は金剛界に『瑜祇経』の「阿闍利位品第三」の印言、胎蔵印明には同経「金剛吉祥品第九」出る「胎蔵八字真言」と法界定印を用いています。亦是は慈猛が審海に授けた立川流印信中では和訳紹介分の第1No. 6226「両部阿闍利位印」に当たります。
しかし『密教大辞典』等を参照すると普通に瑜祇潅頂と云う時は同経序品に説く「卒都婆法界普賢一字心密言」すなわち「バン(梵字:vam)」一字明と「大羯磨印」(今の場合は外五股印)を以って潅頂印言とします。前回の記事で紹介した宝篋上人の伝と云う「一心潅頂印信」に於いては、印に無所不至(むしょふじ)印を用いていた点が異なりますが、潅頂に関係するときは外五股印も無所不至印も共に塔印と称されます。
又「瑜祇切文(きりもん)の大事」と称する「若凡若聖」で始まる五十二句の偈頌(げじゅ)を記した印信があります。此の偈頌を「切文」「即身成仏義言」「秘密偈頌」等と言い慣わしていますが、実には是は『瑜祇経』の文ではありません。但口伝に依って『瑜祇経』から秘密に切り出されたとされているのですが、是に付いても異説があり、出典は不明としか言いようがありません。此の印信は平安時代後期の鳥羽院政期には既に相当普及していたようであり、又是に付いても多くの口伝があります。
例えば、此の偈頌は『瑜祇経』から切り出された文では無く弘法大師の師匠である唐の恵果(けいか、746―805)和尚の作であると云い、又堀河天皇(1079―1107)崩御の際には此の文を身に着けていたとも言います。
〈2〉瑜祇理潅頂
さて前回の記事で現代語訳して紹介した「一心潅頂印信相承」の中で、当文書の発給者である慈猛は此の潅頂の事を「瑜伽瑜祇の理潅頂」と称していました。ところが慈猛が審海に授けた仁寛方印信中には他にも斯く称する例があります。それは和訳紹介分の第19No. 6251「瑜祇潅頂密印」であり、印信冒頭に「許可(こか)金剛弟子審海瑜伽瑜祇理潅頂密印」と題されています。是は後で現代語訳して解説しますが、非内非外縛印を両部不二の印として示すところに特徴があり、真言は一心潅頂と同じく「バン」一字です。
それでは「理潅頂」とは何か特別な意味があるのでしょうか。瑜祇潅頂は両部不二の位とされていますから、言葉を変えれば理智不二であり、今の「理」潅頂が「理智」に対して言われている事では無いと思われます。一般的に考えれば、普通潅頂儀礼は各種の道具と所作(作業/さごう)次第から構成されていますから、そうした作業潅頂に対して道具と所作を用いないから理潅頂と云うのかとも考えられます。又『瑜祇経』の「内作業潅頂品」第十一の所説に基づいて所作を行う瑜祇の「内作業潅頂」もありますから、是に対して理潅頂と云っているのかも知れません。よく分からないと言わざるを得ませんが、それでは和訳紹介分の第19No. 6251「瑜祇潅頂密印」を現代語訳で示し、簡単にコメントを記します。
〈3〉現代語訳:瑜祇潅頂密印
許可金剛弟子審海(金剛弟子審海に許可する)瑜伽瑜祇理潅頂密印
 無相法身位〔一印一字〕
非内非外縛印 両手の八戸(尸/し/指)を鉤の形にして向かい合わせとし、そのまま互いに交える。各指の首(さき)を以って、左は右指の根(指の付け根の間)を拄(さ)し、右は左指の根を拄す。八戸(尸/指)は同様に内側に入れず、又外側にも出さないようにして、虚円(こえん)の形に作る(丸くする)。二大指は相交えて少し内側に入れる。明(みょう/真言)に曰く、
バン(梵字:vam、以下同じ)〔帰命の句は無し〕 若しくはア(梵字:a、以下同じ)〔帰命の句無し〕
伝(口伝)に云く、心法を門として(心の世界に立って)此の位に入る時はバンの明であり、若し色法を門として(事物の世界に立って)此の位に入る時はアの明とすべきである〔云々〕。
口(く/口伝)に云く、金剛界法の五相成身(ごそうじょうじん)、次に胎蔵法の五輪成身、その次に此の真言を用いるべきである〔云々〕。
 正嘉元年(1257)七月廿五日 弟子審海
伝授阿闍利伝燈大法師位慈猛 」
コメント 標題の「理潅頂」という言葉と共に此の印信で注目すべきは何と言っても「非内非外縛印」であると云えるでしょう。此の印は『瑜祇経』に説かれている訳では無く、確かな経軌の本説は無いようです。金剛界法は外縛を印母(いんも/基本の印)とし、胎蔵法は内縛を印母としますから、両部不二の印として誰か日本の阿闍利が此の印(虚円合掌とも言います)を案出したのでしょう。此の印信は立川流/醍醐寺仁寛方の相承と解されますが、同種の印信は野沢諸流に相伝されています。『密教大辞典』の「非内非外縛印」「非内非外大事」「虚円合掌」等の項目を参照して下さい。
○此の印信はその後も審海が開山となった称名寺に於いて相伝継承されていたらしく、『金沢文庫古文書』第九輯には、正中二年(1325)五月二十八日付の権大僧都成瑜が定教に授けたNo.6603「瑜伽瑜祇理潅頂密印」が掲載されています。
補説
金剛界法には此の「非内非外縛印」とやゝ似通った印があります。それは金剛界大供養会の「十七雑供養」の最後第十七番目の印であり、経軌には名称が付されていませんが、醍醐寺や勧修寺の小野流に於いて金剛界法を修す時の基本テキストとされた延命院僧都元杲(げんごう 914―995)作『金剛界念誦私記』では「説法」と云います。
その印相は金剛界法の本軌である不空三蔵訳『金剛頂蓮華部心念誦儀軌』には、
次に応(まさ)に指爪を合わすべし
とだけ説かれていますが、元杲の『私記』では是を、
十指の爪を一処に聚集(しゅじゅう)して心に当つ。
と書き改めています。即ち左右の十本の指の先を集めて、両手を丸く球状にします。そうすると此の供養会の「説法」の印は「虚円合掌」の一種であると云う事も出来るでしょう。

宝篋上人相伝の「一心潅頂印信」について

2010-11-14 20:26:15 | Weblog
宝篋上人相伝の「一心潅頂印信」について
金沢文庫保管称名寺聖教中の慈猛が審海に授けた一連の立川流印信の中には明らかに鎌倉時代になって製作されたと思われる多くの新案の印信があり、立川流の祖とされる仁寛(蓮念)の時代、即ち白河院政期にまで遡れるものを正確に特定するのは現時点では容易な事ではありません。又鎌倉時代の新作であるにしても「誰が、何時」といった具体的な事はほとんど分からないのが実情であり、わずかに血脈上に記された人物の中の誰かが作ったのであろうと云えるに過ぎません。此の事は「印信」が伝法潅頂に関わる秘密の文書とされている事を考えれば至極当然と言えるでしょう。
そうした中で先に和訳して紹介した立川流印信の第18. No.6250「一心潅頂印信相承」と対になるのではないかと思われる、「宝篋上人の口授」である旨を注記した「一心潅頂印信」なるものが存在する事に気がつきました。慈猛が審海に授けた「一心潅頂印信相承」は印信の相承に付いて記した紹文(じょうもん)であり、印真言を記した本来の印信ではありませんでした。是に対して『金沢文庫古文書 第九輯 仏事篇下』に収載するNo.6475「一心潅頂印信」は紹文を欠いていますが印真言等を記した本来の印信であり、「宝篋上人の口授」である旨の注記があります。両方の「一心潅頂」の異同については確認できないのですが、ここでは一応同一の潅頂口決であるとして一緒に現代語訳で紹介する事にしました。宝篋上人に付いては後文のコメントで簡単に言及します。
〈1〉現代語訳:一心潅頂印信相承
「最極(さいごく)秘密瑜伽瑜祇一心潅頂印信相承
今よく考えてみると瑜伽瑜祇の(経説に基づく)理潅頂は、姿も形も色も無い無相法身の究極的な意思の発露(ほつろ/マニフェスト)であり、本覚の仏如来の久遠(くおん)寿命を示し、金剛薩埵(さった)の活動精神の肝心である。それは即ち大持金剛が理智不二の大教を顕説して金剛薩埵に授け、金剛薩埵は龍猛菩薩に授けたのである。このようにして一心潅頂の法を伝授することは、祖師根本大阿闍利弘法大師に至るまで八葉(八代)を経て、今愚身(慈猛)に至っては第二十四代であり、伝授の経緯と師資の血脈(けちみゃく)相承とは鏡に見るように明らかである。今顧みれば自分は最初慈覚大師の門徒に列なって顕密の学業に励み、後に弘法大師の門に入って醍醐の清流を掌(てのひら)に酌み、浄月上人の所に於いて秘密重位の潅頂を伝受した。爰(ここ)に沙門審海は過去世の機縁が結実して一心潅頂を受けてその阿闍利となる印可を相伝し畢った。(理智)不二の法水に浴してその姿は一智の尊容を得たのである。是(慈猛が審海に一心潅頂を授けた事)は即ち仏から受けた恩に酬(むく)い、師の(寛大なる慈愛の)徳に答えようとしたのである。自分の願いは既に満たすことが出来たから、余計な思いをする必要も無くなったのである。
  正嘉元年(1257)〔丁巳/ひのとみ〕七月廿五日  審海
阿闍利伝燈大法師位慈猛 」
コメント 是は空阿上人慈猛(じみょう 1212~1277)が、後に金沢称名寺長老となる妙性房審海( ~1304)に授けた一群の灌頂印信の中に於いて、慈猛が自らの受法歴について述べている点からも珍重すべきものです。
○この「一心潅頂」は詳しくは「瑜伽瑜祇一心潅頂」と云い、亦「瑜伽瑜祇」の「理潅頂」とも述べていますから、是が所謂(いわゆる)「瑜祇潅頂」の一種である事がわかります。「一心」とは具体的には何を指しているかについて、下の印信とそのコメントを参照してください。
○「大持金剛」とは金剛界大日如来の金剛名です。詳しく云えば、金剛界三十七尊の功徳を具備する毘盧遮那金剛薩埵であり、『金剛頂経』に於いては一切如来の要請に応えて金剛界大曼荼羅を説き明かします。
○「理智不二の大教」は『瑜祇経』を言います。但し同経に「大持金剛」なる語は出ていません。『瑜祇経』も『大日経』や『金剛頂経』と同じように金剛薩埵から龍猛菩薩に授けられたとする所に本印信の特徴があります。
○「浄月上人」に付いては此のホームページの『真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説』を見て下さい。浄月上人から伝受した「秘密重位の潅頂」に今の一心潅頂が含まれている事は勿論でしょう。
〈2〉現代語訳:一心潅頂印信
(端裏書)「一心潅頂印信」
「一心潅頂 〔宝篋上人の口授〕
時に金剛界如来は復た卒都婆法界普賢一字心密言を説いて言く、
バン(梵字:vam)
 永仁七年(1299)四月十一日   楽範(花押あり)
(以下、原文は一字下げ)右の禅(親指)と風(人差し指)を押し合わせて帰命バン(梵字:vam)、左の智(親指)と風を押し合わせて帰命ア(梵字:a、以下同じ)、左右の手を合わせてバン(梵字:vam、以下同じ)を誦すれば両部不二が成就する。是は金剛・胎蔵一体の塔婆である。右のバン(金剛界)と左のア(胎蔵界)とが和合して此の(両部不二の)塔婆と成るのである。
摂大(しょうだい)軌に云く、正覚は甚だ深密であって言葉で表現することが出来ない。是を指して卒都婆と為すのである〔云々〕。
既にバン字を以って卒塔婆としている。バン字は塔婆であると(口決によって)習うのである。〔口伝〕大師御筆の(バンとアの)両字を並べた塔は水輪である。」
小野・仁和寺(広沢)の口決の大事は此の事にある。
(以下、原文は一字下げ)口決に云く、金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇とは即ち今の此の塔婆を云うのである。左はアで赤、右はバンで白、(左右合わせて両部)不二のバンである。
高野山真然(しんぜん)僧正(804―891)が建立した中院の小塔は是である〔云々〕。
又不二一如はその本質を形であらわせば半月(はんがち)の如くであり、而二(にに、金胎別々)は満月(まんがち)に似ている。(『理趣経』の初段に)「(欲界の他化自在天王宮の中にある大摩尼殿は)半満月等で荘厳されている」と云うではないか。
(弘法大師の)御作に云く、不二は是の如し。只□二詮一(而二の理を究めれば一に帰着すること?)の名称である。秘密の名であると知らなければいけない。」
コメント 宝篋上人(1189―1235―)は亦蓮道上人とも言いますが、通称(房名)が蓮道房で法名(諱/いみな)が宝篋です。名称に付いては改名等の事がありますが省略します。有名な三輪の慶円上人(1140―1223)の弟子であり、醍醐寺の金剛王院大僧正実賢(1176―1249)から三宝院流の伝法潅頂を受け、宝篋自身は東密三十六流の一つである三輪流の祖とされています。著作に『瑜祇経口伝』二帖があり、同経に見識が深かった事が伺えます。
○此の印信の全てが宝篋上人の口授に基づいて製作されたのか、或いは相承の印信に一字下げの部分(口授)を付加しただけなのか、現時点では異本と対照できないので何とも言いようがありません。
○冒頭の「時に金剛界如来は」から「説いて言く、バン」までは『瑜祇経』序品の文です。此の印信からも窺えるように、鎌倉時代になると『瑜祇経』を両部大経の上位に位置する両部不二の秘経とする思想が勢力を得るようになります。
○此の『瑜祇経』の文から「一心潅頂」なる名称が、「普賢一字心密言」すなわち「バン」一字による潅頂の意味である事が分かります。「一心」とは一字真言のことです。
○「楽範」なる人に付いては未詳ですが、花押を書き添えている事からも分かるように此の印信の発給者です。
○此の印信の口決は、伝法潅頂の秘印である無所不至(むしょふじ)印/塔印の左右の親指と人差し指が梵字のバン(vam)に似ている事からヒントを得たのであろうと思われます。但し両方がバン字では教理上の説明が出来ないので、左はア字で胎蔵界、右はバン字で金剛界、両手で不二(ふに)の塔婆と述べています。
○「摂大軌」は胎蔵法四部儀軌の一つである善無畏三蔵訳の『摂大儀軌』です。詳しい名称は非常に長いので『密教大辞典』等を参照して下さい。是は弘法大師の請来典籍の中に含まれず、慈覚大師円仁が初めて本邦に将来しました。
○「中院の小塔」は有名な高野山龍光院の瑜祇塔です。現在の塔は焼失後に再建されたものです。

(以上)

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訂正とお詫び

2008-04-06 07:39:10 | Weblog
このブログを含む密教関係の論文・読み物がホームページ「柴田賢龍密教文庫」で閲覧できます。



内容を一部訂正します。
本稿に紹介した印信の中、2番目のNo.6227「伝法潅頂血脈」のコメントに於いて、慈猛の師「浄月上人」を三井寺の慶政上人に比定しているのは誤りです。詳しくは続編ブログ「続・金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介」を参照して下さい。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。

金沢文庫蔵の真言立川流聖教の和訳紹介(結語)

2008-03-13 16:18:24 | Weblog
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です)


20. No.6255「伝法灌頂阿闍梨位事」
伝法潅頂阿闍梨位事
昔、大日如来の金剛胎蔵両部界会を開き(中略)。小僧、数年の間、求法の誠を尽し、幸いに先師浄月上人随いて重々の印可を蒙り写瓶の誉れを得。後に頼賢阿闍梨の所に於いて重ねて具支潅頂の印璽を受く。今授くる所は是なり。爰に審海大法師には先に上人の密印許可等を授け、今伝法職位を授与して次後の阿闍梨と為す。後哲に示さんが為に記して之を授く。能く五塵の染を洗い、八葉の蓮を期すべし。是れ則ち三世の仏恩に酬い、一世の師徳に答う。吾が願は此の如し。余念すべからず。
  文永元年四月一日乙巳 大法師審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:建長六年八月から始めた潅頂法伝授の最後を締め括る印信(紹文)で付法状とも云える。印明の印信と血脈を欠く。意教上人頼賢のことは別篇(ブログ)で詳説する。
以上見てきた仁寛(蓮念)方印信の中、仁寛の時代すなわち白河院政期まで遡るものは多くないと考えられるが、何れにせよ仁寛をいかがわしい邪教の祖とする説こそいかがわしい事がほぼ明らかになったと思う。
金沢文庫には慈猛が審海に授けたもの以外にも多くの立川流(仁寛方)印信がある。それらには時代も下がりより自由な風を示すものも見られる。

21. No.6254「檀上灌頂心法心血脈」
無相極位至極檀上潅頂色心二法心法心血脈相承印信次第
夫れ即身成仏は是れ色心二法より心法心法を覚悟して法然の道理を証する覚位なり。心法心法を覚れるを如来と名く。如来とは即ち大覚を証せる位なり。色心二法を召入如来寂静智と名く。即ち大覚を証する位は即ち如来にして、如来は即ちアア(原梵字)等なり。アは即ち諸仏の父母なれば諸仏も亦た衆生なり。色心二法より虚空を生じ、周遍して法界を照らす。法界衆生より心法を生ず。心法体作は是れ諸仏の総体なり。諸仏の総体は亦た是れ衆生の総体なり。衆生の総体は即ち諸仏の総体なり。故に凡地の帰処の総体と云えり。凡地とは法界にして、法界とは心法心法なり。凡地より体を生じ形を作れるを色心二法と云うなり。亦た凡地とは一切総体の冥合して総体より総体を生ず。即ち心法心法なり。故に即身成仏とは毗廬舍那如来の肝心を顕し、金剛薩埵所修の道法とは龍女なり。龍猛とは龍女の子息なり。龍智は即ち彼の龍猛の舎弟にして釈迦末代の法命たり。次に龍女の色心色、心法心法を符属す。是の如き心法の符属とは、色心二法は内外の肝心、心法心法の口伝を龍女に授く。龍女と云うは即ち金剛薩埵なり。此の潅頂を檀上潅頂と名く。檀上とは、彼の龍女、卍字より龍猛を生ぜる処を檀上と名く〔云々〕。
  相承次第
大日如来  (中略)  成尊僧都  範俊僧正  勝覚僧正  蓮念阿闍梨  見蓮聖人  阿鑁阿闍梨  鑁吽阿闍梨  憲海
 此の如く師資相承は明鏡なり。末葉、之を記すのみ。
金剛界 智拳印〔加持四所〕 ア バン ウン タラク キリク アーク (原梵字)
胎蔵界 理拳印〔加持四所〕 バン ア アー アン アク アーク (原梵字)
理智冥合印 卒都婆〔加持四所〕 ア バン ラン カン ケン ウン (原梵字)
  弘長二年五月十八日
         授者仏子憲海
 阿闍梨伝燈大法師位鑁吽、之を示す

コメント:弘長二年(1262)に鑁吽が憲海に授けた新案の潅頂印信。当時の真言界に於ける思潮の一端を示して興味深い。 

22. No.6330「舎利灌頂印信」 (端裏書)
舎利秘法〔深秘潅頂〕 一印一真言〔弁備の次第は常の如し〕
此の法は潅頂なり。
 印は無所不至印なり。但し二火(中指)を交えて内に入れよ。即ち印を成ず。明に曰く、
  アーンク バーンク (原梵字)
口伝に云く、風(人差し指)は五輪塔、二火(大の誤写)は廓、二地・ニ水(小指と薬指)は光、二火は釈迦の舎利なり〔云々〕。又た云く、二火は浄飯王と摩耶夫人の和合せる赤白二諦()の身骨なり。是を釈迦の身骨と云うなり。此の尺迦の身骨は即ち自性身の身骨なり〔云々〕。之を以て意を得よ。
(中略)
 是れ即ち秘々中、深々秘中の秘法なり。
 弟子一人の外は之を伝受せず。穴賢々々。
  建治元年七月廿七日 弟子女仏
伝燈大法師位 了印、之を示す

コメント:No.6315~6331の十七通も亦た仁寛(蓮念)方の印信であるが、慈猛が審海に授けた分と大に異なるものがある。此の事は鎌倉中後期に阿闍梨の意楽によって新案の印信が多数作られた事を如実に示している。その中でも上の建治元年(1275)に了印が女仏に授けた印信は特に珍奇なものである。口伝に性的表現が見られるけれども、此の様な観想と実際に性的儀礼を行なう事とは全く別の問題である。


<結語>
冒頭に記した心定作『受法用心集』は、
問う。近来世間に内の三部経となづけて目出たき経ひろまれり。此の経、昔は東寺の長者、天台の座主より外に伝えざりけるを、近比流布して京にも田舎にも人ごとにもてあそべり。此経の文には女犯は真言一宗の肝心、即身成仏の至極なり。
という書き出しで始まる。(本書は守山聖真著『立川邪教とその社会的背景の研究』附篇に載せる)
心定は「立川の一流秘書」を皆伝していたが、建長二年(1250)に越前国赤坂の新善光寺に於いて「立川の折紙ども」の中に「内三部経菊蘭の口伝七八巻」が交っているのを見て不審に思った。注意すべきは『受法用心集』の中で「立川」流なる語が出るのは此の二箇所だけである。
翌年上洛した時に計らずも「彼の法の行者に遇いて経書をうつし、秘伝を書きとる」事ができた。その後心定は空観上人如実の弟子と成り、此の内三部経について尋ねた所、名前も聞いたことが無いという返答であった。思案の結果、心定は此の内三部経の法門を批判する為に本書を著したのである。
心定によれば此の「三経一論の相承血脈」は、
大師  観賢  淳祐  寛空  寛朝  雅慶  済信  深覚  仁海  成尊  信覚  範俊  覚法々親王  寛助  寛信  聖恵法親王  厳信
なる奇妙なものであった。長くなるので説明は省くけれども、醍醐の勝覚・仁寛(蓮念)が記されていない事に最も留意すべきである。即ち此の事から「内三部経流」と立川流(仁寛方)とは関係無い事が分かる。
次に宥快の『宝鏡鈔』で問題となるのは、
一説に云く、醍醐三宝院権僧正(勝覚)の弟子〔僧正の舎弟〕に仁寛阿闍梨〔後に蓮念〕と云う人あり。罪過の子細あるに依って伊豆国に流され、彼の国に於いて為渡世具妻俗人肉食汚穢人等授真言為弟子
なる一説の漢文で残した部分である。是は、
渡世の為に具妻の俗人、肉食汚穢の人等に真言を授けて弟子と為し
と和訳すべきであろうが、仁寛が「渡世の為に妻を具し」等と解するのが定説になっているらしい。是も再考を求めたい。

金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介

2008-02-18 14:55:24 | Weblog
金沢文庫蔵真言立川流聖教の和訳紹介
(「金沢文庫蔵」とあるのは正確には「金沢文庫保管重文称名寺聖教」の事です)


真言立川流は平安時代白河院政期の醍醐寺僧仁寛阿闍梨を流祖とする真言法流であり、従って醍醐流仁寛方と称する事もできるであろう。此の法流が現今の如く性的儀礼を伴う邪教の一派などと解されるに至った理由と経緯は単純なものでは無い。
鎌倉時代中後期の誓願房心定が書き記した『受法用心集』なる二巻の書によって、当時異様な性的儀礼を伴う真言法門を信奉する人達が存在していた事が知られる。私はその法流を仮に「内三部経流」と名付けているが、その理由は後の<結語>で説明する。
一方、南北朝時代の著名な高野の学僧宥快はその著『宝鏡鈔』に於いて、仁寛より受法した武蔵国立川の陰陽師が『受法用心集』に記されたいかがわしい真言一流を始めたのであると主張した。
かくして何時の頃からか仁寛阿闍梨と「内三部経流」とを直接結びつける説が平然と行われるようになった。それが間違いである事は『受法用心集』と『宝鏡鈔』を少しく丁寧精確に読めば誰でも理解できる筈であるが、今や立川流イコール邪教とする通説が強すぎて思考力を妨げるようである。
立川流すなわち真言の邪教とする説に近年最初に疑問を呈したのは大正大学の櫛田良洪教授である。昭和39年に刊行された『真言密教成立過程の研究』に於いて氏は金沢文庫に蔵される鎌倉時代写の仁寛方印信に着目し、従来の立川流に関する通説を再検討する必要がある事を主張した(第四章「邪流思想の展開」)。しかしながら氏の所説は、立川流に関する複雑な誤解の連鎖を解明するには、史料の分析とその方法論に於いて未だ十分とは云えないものであった。その後、金沢文庫が主催して此れ等立川流印信の展観も行われたが、その詳細な研究はほとんど行われないまま現在に至っていると云えよう。
そこで私は『金沢文庫古文書』の第九輯『仏事篇下』に収載されている三十余通の鎌倉時代写仁寛方(立川流)印信を、此のブログの字数制限内で出来るだけ多く和訳紹介し、最後に立川流に関する理解が果てしなく混乱した経緯と理由を簡潔に説明する事とした。

1.No.6226「両部阿闍梨位印」
金剛界伝法灌頂密印
摂一切如来大阿闍梨行位印真言
バザラ ソキシマ マカサトバ ウン ウン(原漢字) 
 (印文を略す)
大悲胎蔵界伝法灌頂密印
阿闍梨行位大印の真言に曰く
アクビラウンケン ウン キリク アク
 (印文を略す)
故和尚(恵果)云く、義明供奉に両部大阿闍梨法を授くと雖も未だ此の印を授けず。唯だ一人に在り。好々、吾が恩に報ずべし。写瓶は実恵に在り。又た入壇授法の弟子は頗る多しと雖も唯だ汝一人に之を授く。云何が汝は吾が恩に尽報すべきや。穴賢こ、々々。入室と雖も器量に随いて之を授くべし。
右、天長二年三月五日、東寺に於いて貞観寺真雅阿闍梨に授け畢んぬ。
伝授阿闍梨遍照金剛空海
  建長三年八月七日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:是は三宝院流意教方の名僧空阿上人慈猛(じみょう 1212~1277)が、後に金沢称名寺長老となる妙性房審海( ~1304)に授けた一群の灌頂印信中の最初のものに見える。但し「建長三」は実には「建長六」の誤読である。上の印信の内容については『密教大辞典』の「天長印信」の項を参照して下さい。

2. No.6227「伝法灌頂血脈」
真言宗伝法灌頂相承
大日如来 金剛薩埵 龍猛菩薩 龍智菩薩 大弘教三蔵〔法諱金剛智〕 大弁正三蔵〔法諱不空〕 青龍阿闍梨〔法諱恵和〕 弘法大師〔法諱空海〕 貞観寺僧正〔真雅〕 南池僧都〔源仁〕 醍醐根本僧正〔聖宝、世に尊師と号す〕 般若寺僧正〔観賢〕 石山内供〔淳祐〕 延命院大僧都〔元杲〕 曼荼羅寺僧正〔仁海〕 御在所僧正〔覚源〕 醍醐寺法印〔定賢〕 三宝院僧正〔勝覚〕 阿闍梨蓮念 見蓮聖人 覚印大法師 覚秀大法師 浄月上人 空阿大法師
  建長六年八月四日 金剛弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師慈猛示

コメント:上の阿闍梨蓮念は仁寛、空阿大法師は慈猛でその師浄月上人は三井寺の慶政上人のことです。此の血脈は仁海から覚源、定賢と相承された所に特徴があり、醍醐座主方と称することも出来る。

3. No.6229「授与印信許可(こか)文」
印信許可を授与する文
夫れ両部大法相伝して尚お久し。大日如来は西天の肇祖たり。弘法和尚は日域の大師なり。師資相承して伝燈大法師慈猛、審海に授与す。而して今ま金剛仏子(審海)は早く密門に入り、久しく両部の道に遊ぶ。仍りて両部密印を授与すること已に畢んぬ。故に弟子本名の上に金剛法名を加え畢んぬ。
  建長六年八月四日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:慈猛が審海に授けた伝法許可潅頂の印信。是は次の印真言を記したものに対して紹文(じょうもん)と云う。

4. No.6230「伝法許可秘印」
伝法許可秘印
ム(胎)大師  大日剣印
  (印文を略す)
 アバラカキャ(原梵字)
金大帀(師) 智拳印 四処を加持して頂に散ず
オン バザラダト バン (原梵字)
蘓悉地印 右拳を以て左拳に覆い臍下に置け
オン バザラサンジ バン (原梵字)
  建長六年八月四日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

5. No.6231「伝法灌頂阿闍梨位印」
最極秘密法界体伝法灌頂阿闍梨位印
 先師誡め云く、秘惜するは罪あり。善人にも惜むが故なり。伝授するは罪あり。非器にも授くるが故に〔云々〕。
在昔大日如来、大悲胎蔵・金剛秘密の両部界会を開いて金剛薩埵に授く。数百歳の後、龍猛菩薩に授く。是の如く金剛秘密の道を伝授すること祖師根本大阿闍梨弘法大師に迄(いたるま)で即ち八葉を経、今ま余身に至り二十四代なるが、大悲胎蔵の道に拠らば二十三代に当る。伝授の次第と師資の血脈相承は明鏡なり。方に今ま小僧早く俗塵を遁れて専ら仏道に帰し、数年心を励まして真言の道を求法す。多日剋念して師を尋ね、密教の家にて適(たまた)ま引摂に遇い幸いに伝授を得。爰に審海大法師は永く名利の二門を捨て、深く三密の教法を信ず。之に因って密印の許可を授くること既に畢んぬ。宿因多厚にして五智の瓶水に沐し、骨肉の哀み深くして密室の智燈を得たり。是れ則ち三世の仏恩に酬い一世の師徳に答う。吾が願いは此の如し。余念すべからず。
  建長六年八月七日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:是は定型を踏襲した伝法灌頂の印信(紹文)。慈猛は先に許可灌頂を授け、今伝法灌頂を授けたのである。

6. No.6233「伝法灌頂秘印」
伝法灌頂秘印
 大阿闍梨云く、灌頂に多種あり。
 普通の大(師)門徒の様 外五股印
 アビラウンケン(原梵字)
大帀(師)の伝。口決に云く、 外五股印。
 ア アー アン アク アーンク (原梵字)
 普通の大門徒の様 智拳印
 バザラ ダト バン (原梵字)
大帀の伝。口決に云く、卒都婆印。
  (印文を略す)
 バン ウン タラク キリク アク (原梵字)
  建長六年八月七日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:先に胎蔵、後に金剛界、それぞれ二種の印明を示している。慈猛は此の八月七日に最初のNo.6226「両部阿闍梨位印」(瑜祇印信)と合わせて、都合三通の灌頂印信を審海に授与した。血脈は許可灌頂と同じであるから授けなかったのであろう。

7. No.6234「三衣法」 (本文和訳を略す)
是は五条・七条・九条の各袈裟につき、印明を結誦し観想を成してから身に着けるべき事を説いた印信(折紙)。建長六年12月28日に慈猛が審海に授けた。印は三宝院流では塔印を用いるが、ここでは剱印(二中指剱形)の一種を用いている。又た通途の印信に比して広範な口決を書き記している。中でも口決中に五条袈裟は胎蔵大日理法身、七条は金界大日智法身、九条は蘇悉地大日不二法身と云うから台密教理の影響を受けている。又た不二大日は「首に理智冥合の五仏宝冠を戴く」とも云う。
元来此の種の口伝は折紙、或いは切紙と称して灌頂印信とは異なるカテゴリーに属するものであるが、鎌倉中期以降は特に地方寺院に於いて灌頂印信と折紙類をない交ぜに授ける事が盛行したようである。
猶お『密教大辞典』の「三衣印言」と「三衣法」の項目を参照して下さい。

8. No.6235「光明潅頂印信」
光明潅頂印信〔又た阿字潅頂トモ云うなり。又た金色泥塔トモ云うなり。〕
 印は口伝
 明 ア(原梵字)
  建長七年二月三日、之を示す。
伝燈大法師位慈猛、資審海大法師に授け了んぬ。
  秘中の深秘なり。他見すべからざる者なり。「慈猛」(花押)
月輪観に云く、印を結べば我身は月輪と成る。月輪とは光にて有るなり。体相は無し。口に阿とは本不生の理をヨブナリ。意に本不生の理を思う。本不生の理とは、我が念念の心は常に発るとも色形はなし。来ること無く、去ること無し。不思議の心性の妙理なり。身口意の三業にカク思えば妄想の止むを菩提心と云うなり。身は光と成って空なり。口に空の名(阿字)をヨベバ其の語は空なり。意に亦た空の理を思う。サレバ我が三業は共に空なり。罪障は、妄想顛倒の諸法の実に有ると思うに有るなり。サレバ此の如く思いに静かなる時、無量無辺の罪は滅するなり。能々観想すべし〔云々〕。

コメント:是は鎌倉時代中期以降に多数製作された新案の印信の一種と考えられる。『密教大辞典』の「光明潅頂印信」の項によれば口伝の印は「虚円月輪印」である。同書「光明潅頂(三)」と「光明潅頂印言」の項も参照して下さい。

9. No.6236「潅頂最秘密印」
授与伝法潅頂最秘密印
胎蔵界
 印は卒覩婆〔無所不至〕 明〔口伝に在り〕
ア アー アン アク アーンク (原梵字)
金剛界
 印は卒都婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
バン ウン タラク キリク アク (原梵字)
理智冥合
 印は卒覩婆〔同印〕 明〔口伝に在り〕
ア バン ラン カン ケン 〔原梵字〕
  建長七年二月三日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:注によれば是は切紙の印信である。潅頂印信は本来竪紙に記すべきもので、此の印信の正統性を低めている。端裏書に「三重」と注しているが、初めの胎金一印二明は醍醐の第二重、後の「理智冥合」が第三重で所謂「霊託印信(託宣印信)」である。

10. No.6237「伝法潅頂密印」
許可金剛弟子審海両部伝法潅頂密印
金剛界伝法潅頂密印
 加持諸仏行者、無上菩提最勝決定の記を授くる印〔智拳〕
 真言に曰く
 バザラ ダト バン
胎蔵界伝法潅頂密印
 毗盧遮那大妙智五大印〔外五股印、口伝に在り〕
 真言に曰く
 アビラウンケン
  建長七年二月三日  弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:是も切紙の印信。端裏書に「第二重」と云う。以上三通の切紙印信が同日に授与されたのである。

11. No.6238「密印潅頂」
最極秘密即身成仏潅頂密印
法界空中の純浄大円明なる本覚月輪は理智を正悟して自行化他・内証外用は十界同位なる即身成仏の印〔亦た内縛月輪印と云う〕
内縛して二大(指)の面を相い合わせ、八指の面を各の二大に付く。是れ八識会して第九識に入る意なり。明に曰く
ア(原梵字)〔(帰命)句無し〕
  建長七年二月十三日 弟子審海
阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:是も切紙の印信。端裏書に「台」即ち胎蔵と注す。印信タイトルに「即身成仏」と云うのも興味を引く。

12. No.6239「秘密灌頂血脈」
真言宗秘密潅頂血脈相承
大日如来  金剛薩埵  龍猛菩薩  龍智菩薩  金剛智三蔵〔胎蔵界に拠るときは金剛智を除くべし〕  不空三蔵  恵果阿闍梨  空海和尚  真雅僧正  源仁僧都  聖宝僧正  観賢僧正  淳祐内供  元杲大僧都  仁海僧正  成尊僧都  範俊権僧正  勝覚僧正  蓮念阿闍梨  見蓮聖人  覚印大法師  覚秀大法師  浄月大法師  空阿大法師〔金剛智を除き已上二十三人は両部に亘る〕
  建長七年二月十三日 金剛弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛示す

コメント:此の血脈は大旨No.6227に同じであるが、成尊・範俊から勝覚に次第する事に特徴がある。慈猛から審海が相承した血脈は、勝覚の伝法三師定賢・義範・範俊の中、義範方を欠く。前述したように蓮念は仁寛のことである。

13. No.6241「胎蔵界秘密潅頂密印」  建長七年二月十三日に慈猛が審海に授けた切紙の印信。師伝の印を記した新案の潅頂印信である。初めに「許可金剛弟子審海胎蔵界秘密潅頂密印」と題し、次に中台八葉の五仏四菩薩と不動明王につき総印と別印各三品を説く。最後に「法界不至」以下の塔印五種(無所不至遍法界塔印)を示して終わる。

14. No.6242「金剛界秘密潅頂密印」  上と一対の印信。初めに「許可金剛弟子審海金剛界秘密潅頂密印」と題し、金剛界五仏・八供養菩薩と一印会大日に付きやはり総・別各三品の印明を説き、最後に無所不至一印に五明を示す。

15. No.6243「秘密灌頂印信」
最極秘密自受法楽秘密潅頂印信相承
夫れ以るに秘密潅頂は是れ自受法楽の深法、至極究竟の仏位にして毗廬遮那法王の髻珠、金剛薩埵の心府なり。 (中略) 小僧数年の間、求法の誠を尽し、幸いに浄月上人に随いて秘密潅頂職位の印可を蒙ること既に畢んぬ。爰に審海は深く三密の教を信じ、四(威)儀の観行怠らず。寔に宿因多厚にして五智の瓶水に沐し、骨肉の哀み深く、密室の智燈を得。是れ則ち三世の仏恩に酬い、一世の師徳に答う。我が願は既に満つ。余念すべからず。
 建長七年二月十三日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:切紙の印信(紹文)。師匠の浄月上人に言及しているのが注目される。

16. No.6245「即身成仏潅頂印」  建長七年二月十三日に慈猛が審海に授けた切紙の印信でNo. 6238と一対に成っている。大旨同じであり金界の「法界内縛日輪印」を記す。血脈を含めて同日に六通の印信を授けている。

17. No.6249「至極灌頂密印」
至極潅頂大日阿闍梨位密印
摂一切如来大阿闍梨行位印
 (印文を略す)
オン バザラ ソキシマ マカサトバ ウン ウン
師資相承の口伝に云く、金剛胎蔵両部大教は此の印中に摂在す。是れ三部総印なり。ソキシマとは法性大日の密号なり。ウン・ウンとは両界の種子なり。此の故に大日印鑰印と名け、亦た飛行自在印と名け〔具には口伝に在り〕、又た即身成仏印と云う。多種なりと雖も極位の菩提決定すること、彼の密力に依るなり。設い眼肝渡すと雖も、輙く此の位を授くべからず。能々機を撰んで授与すべし。
 正嘉元年七月廿五日 弟子審海
伝授伝燈阿闍梨位慈猛

コメント:阿闍梨位潅頂印信の一種。是も切紙。口伝の自由な言葉の中に時代の移り変わりが感じられる。

18. No.6250「一心灌頂印信相承」
最極秘密瑜伽瑜祇一心潅頂印信相承
夫れ以るに瑜伽瑜祇の理潅頂は是れ無相法身の至極究竟、本覚覚王の遠寿(久遠寿命)、金剛薩埵の心肝なり。然れば則ち大持金剛、理智不二の大教を開きて金剛薩埵に授け、金剛薩埵は龍猛菩薩に授く。是の如く一心潅頂の道を伝授すること祖師根本大阿闍梨弘法大師に迄で即ち八葉を経、今ま愚身に至り第二十四代にして、伝授の次第と師資の血脈相承とは明鏡なり。方に今ま小僧初は慈覚(大師円仁)の門徒に烈して顕密の学業に励み、後に弘法の門家に入りて醍醐の清流を掌に酌み、浄月上人の所に於て重々の潅頂を伝受す。爰に沙門審海は宿運の催す所、一心潅頂の職位の印可を伝うること既に畢んぬ。不二の法水に沐して一智の尊容を得たり。是れ則ち仏恩に酬い、師徳に答うなり。我が願い既に満つ。余念すべからず。
 正嘉元年七月廿五日  審海
阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:やはり竪紙では無く切紙に記された印信(紹文)。慈猛自ら天台より東寺に転じた事を述べている。醍醐の血脈中に何故三井寺の浄月上人が登場するのかは又た別篇(ブログ)で検討する。

19. No.6251「瑜祇灌頂密印」
許可金剛弟子審海瑜伽瑜祇理潅頂密印
 無相法身位〔一印一字〕
非内非外縛印 (印文を略す)
明に曰く、
バン(原梵字)〔句無し〕 若しはア(原梵字)〔句無し〕
伝に云く、心法を門と為して此の位に入る時はバンの明。若し色法を門と為して此の位に入る時はアの明なるべし〔云々〕。
口に云く、金(剛界)の五相成身、次に胎の五輪成身、次に之を用うべし〔云々〕。
  正嘉元年七月廿五日 弟子審海
伝授阿闍梨伝燈大法師位慈猛

コメント:前と一対の切紙の印信。以上此の日に三通の印信が授与されたが血脈を欠く。


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