真言立川流の相伝者浄月上人の史料紹介と解説

「勝尾寺文書」の中に見える浄月上人関係の史料を和訳紹介し、併せて簡単な解説を試みることとします。

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三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の二)

2013-04-13 18:42:38 | Weblog
三輪上人慶円の立川流相伝の事(其の二)

(3)今一つの慶円相承仁寛方血脈
『神道大系 論説編 真言神道(下)』には、慶円が性心(心海)に授けた印信集である『諸流潅頂』なる書があり(p.3―19)、是も『諸流水丁部類聚集』と同じく江戸時代憲誉の書写本ですが、両書に収載する印信の内容に相当大きな相違があります。従って両書の比較対照が課題になります。しかし今は此の件に付いては概略を述べるに止め、『諸流潅頂』の中に記された慶円相承の今一つ(或いは二つ)の仁寛方血脈に焦点を当てる事にします。
『諸流潅頂』は前半の「常途の諸流潅頂」と後半の「秘密乃至識大潅頂」の部分とから成り、前半部には中川・小野・醍醐・勧修寺厳覚・広沢・壺坂(子島)等の諸流十五通の印信が収められています(印信の数に付いては他の数え方も出来ます。「壺」坂は「兼」坂と誤記されています)。子島の第九秘印(第一章〈13〉に相当)に付いて特に「阿弥陀院流に之あり」と記されていて、慶円にとって阿弥陀院流が特別な存在であったかの如く感じられます。此の「阿弥陀院流」の事は次章に於いて考察するとして、後半部には「秘密潅頂」「最極秘密五部・三部潅頂の八五古印」「識大潅頂法」があり、特に「識大潅頂法」は委悉の印信三種から成り注目されます。
血脈は「秘密潅頂」と「識大汀(潅頂)」の二種だけであり、その中「秘密潅頂」の血脈は仁寛方ですが、先に「識大汀血脈」を示しますと、
真興僧都 仙救入寺 和救大徳 経暹(けいせん) 円寿 隆尊 基舜 融源 興鑁 教毫 入鑁 俊円 鑁印 慶円 性心(心海)
と次第する珍しい子島血脈です。しかし、大智房基舜から慶円に至るまでその中間に六人もの付法者が介在しているのは気になります。第一章〈13〉「二界密印」の伝法血脈に依れば、勝尊の弟子である基舜は「長寛元年(1163)十月十二日、(高野)阿弥陀院に於いて」五智房融源に子島流の伝法潅頂を授けていました。又慶円の方は此の〈13〉「二界密印」を「勝尊 観而 覚日 慶円」と次第相承していたのです。
一方『諸流潅頂』に於いては、慶円が性心に授けた潅頂年月日として建保五年(1217)五月一日、同四月二十一日、同四月十一日が記されています。『諸流水丁部類聚集』に記された授与年月日は、最初同年四月八日から最後は同六月十五日でした。
それでは次に本章の眼目である「秘密潅頂血脈」に記された仁寛方の血脈を示しますと、
空海 真雅 源仁 聖宝 観賢 淳祐 元杲 仁海 成尊 義範 勝覚 仁寛 覚印心覚 真鑁 珍融 印覚 慶円 性心 〔又塩野佛心房アバン、バンア(梵字:avam,vam-a)より之を伝う。バン(梵字:vam)〕
と次第相承されています。此の血脈に続けて「本に云く」と注記して、
文治六年(1190)正月十三日、之を伝う〔云云〕。
と云い、更に「又」「三輪上人、バンア(梵字:vam-a)より伝うる年」と注記して、
正治元年(1199)二月五日、慶円、之を伝う〔云云〕。
 建保五年(1217)四月廿一日、心海、之を伝う。
と記しています。
此の仁寛方血脈は義範(1023―88)の法流を相承していますが、前章で見た光明潅頂の血脈は範俊の法流であり、又空阿上人慈猛が審海に授けた仁寛(蓮念)方血脈は範俊か定賢法務の流でしたから、是は立川流としては珍しい相承次第であると言えます。
一方、注記の「塩野佛心房アバン(阿鑁)、バンア(鑁阿)」に付いては、先ずアバンとバンアは別人で二人なのか、それとも同一人なのかよく分りませんが(後で説明します)、慶円は文治六年正月印覚から「秘密潅頂」を受けた後、更に正治元年二月に(塩野佛心房)バンアから是を重受したのです。但し、此の伝法血脈は別して記されていないので、似たような仁寛方の血脈であろうと推察する外ありません。
又「塩野」に付いて検討すれば、現在全国には数カ所の塩野なる地名が存在していますが、その中でも山形県米沢市の塩野に比定して間違いないと考えられます。米沢市塩野には平安時代前期に弘法大師と論争した事で名高い法相宗の徳一(生没年未詳)が開創したと伝える塩野毘沙門堂があり、「大覚法眼」と称された「吠尸羅(べいしら)城」弘鑁、即ち毘沙門城(寺)の弘鑁なる人が慶円の付法弟子である三輪の宝篋上人から伝法した事を示す史料が金沢文庫保管称名寺聖教の中に存しています(此の弘鑁が「大覚法眼」と称された事は続群書類従28下『先徳略名口決』に記されています)。即ち慶円は塩野(佛心房)バンアから受法し、バンアの弟子か孫弟子の(塩野)吠尸羅城弘鑁は慶円弟子の宝篋から受法したと考えられるのです。
その事に付いて少し詳しく見る事にします。先ず『金沢文庫古文書 九 佛事編下』所載の第6336号から6355号に至る文書は、一部を除いて「羽州山北米尸羅城寺本願」の弘鑁が相承した印信を願海・円寵・慈済に授けたものであり、弘鑁は金剛王院相承三宝院流を主として他に成就院流・勧修寺流を宝篋上人から相承した事が確認できます(宝篋は金剛王院実賢僧正の潅頂資です。又弘鑁法眼は「覚義大法師」から理性院流の乗印相承賢信方も相伝しています)。
又称名寺聖教文書第25函10-1『諸尊秘決』(弥勒等五法)の奥書に、
文暦二年(1235)〔乙未〕三月日、三輪慶円上人の旧室に於いて宝篋上人に対し奉り、如実上人并びに弘鑁、智泉房の三人、同時に諸尊の法を伝受す。時に廃忘(はいもう)に備えんが為、少々弘鑁之を記す。(以下略)
と云い、同趣の奥書は第25函10-2『諸尊秘決』(不動法等)にも記されています。
その他、『国文学』2000年10月号の真鍋俊照「真言密教と邪教立川流」は立川流に関する旧来の通説を踏襲していますが、その中で弘鑁が「宝篋上人の所伝」を記したらしい『三昧耶戒秘事』の一節を紹介しています。
それでは説明を後回しにしていたアバン(阿鑁)の事ですが、此の人はバンアとは別人で慈教房と称し、慶円から受法していた事を示す史料があります。それは櫛田良洪著『真言密教成立過程の研究』で紹介されている正応六年(1293)に紀州根来寺の中性院に於いて頼瑜が憲淳に授けた仁寛(蓮念)方の「菩提心論潅頂印明の血脈」であり、
勝覚 蓮念上人 見蓮上人 覚印大法師〔定明房〕 覚秀大法師〔持明房〕 慶円上人〔常観房〕 阿鑁上人〔慈教房〕 来迎上人〔引俊房〕 真空上人〔廻心房〕 頼瑜阿闍利〔俊音房〕 報恩院法印〔憲淳〕 道順
と次第相承されています(p.388)。即ち勝覚から慶円に至る間は第一・二章で見た『諸流水丁部類聚集』の〈26〉「光明汀(潅頂)血脈」と「観」蓮を「見」蓮とする以外は同じであり、第二章の最後でコメントしたように慈猛が審海に授けた「光明潅頂印信」の血脈と完全に一致していると考えられます。又慶円は覚秀から光明潅頂の他に菩提心論潅頂を受けていたのですが、覚秀からの相伝がこれ等に留まるものでは無かったと考える方が自然でしょう。
少しく話が多枝に亘った感がします。本章の最後に三輪上人慶円の立川流相伝に付いて整理しておくと、上人は光明潅頂と菩提心論潅頂を受法した覚秀に、本章で述べた「秘密潅頂」受法の印覚とバンアを加え、合わせて三師から醍醐の仁寛(蓮念)方を相承した事が知られます。

(4)慶円相承の潅頂諸印信中に於ける立川流の位置
『諸流水丁部類聚集』と『諸流潅頂』に記された分の他にも幾つか慶円が相承した潅頂印信乃至法流の所伝があります。第一章に於いて『諸流水丁部類聚集』〈2〉が成就院流(広沢流)であると述べましたが、その相承血脈は記されていませんでした。勧修寺の慈尊院僧正栄海(1278―1347)が撰した『ゲンビラ鈔』巻十九の「瑜祇切文(きりもん)」の条には慶円相承の広沢血脈が見えますから、先ずその事から述べる事にします(大日本佛教全書52p.587上~)。「瑜祇切文」は単に「偈頌」とも、又「即身成仏義言」とも称されていて、『瑜祇経』の肝要を切り出したとされる「若凡若聖」以下四字五十余句の偈頌を言います。先に慶円の相承血脈を示せば、此の場合は広沢西院の仁厳(にんごん)律師方であり、
覚法親王 性(聖)恵親王 信証僧正 仁厳律師 琳慶阿闍利 信曜阿闍利 春寛阿闍利 堯仁阿闍利 慶円上人
と記されています。此の血脈は『密教大辞典』の「仁厳方」の項に載せるものと、春「寛」を春「覚」とする以外は同じですが、第一章〈24〉「受明汀印信」血脈と〈27〉「一宗大事潅頂印信」同様に堯仁阿闍利が伝授の師に成っているのが注目されます。
『ゲンビラ鈔』では上の血脈を記す前に、『三輪慶円上人行状』に記す有名な八幡宮参籠時に屍体を背負って墓所に捨てた物語と、文永五年(1268)七月に円宗坊阿闍利が記したと云う「或る記」を載せています。『上人行状』の方は、物語の中で八幡神の化現である「優婆塞(うばそく)」が上人に授けた「宗の大事である二行許りの偈」が「若凡若聖」の偈頌であった事を主張する為に引用したのです。一方、「或る記」に於いては、かつて醍醐に住していた僧が「若凡若聖の文の結句を知らんと思いて尋ね」ながら知り得ずして亡くなった為に、その執着心のせいで「大和の国の有る僧」に取り付き(慿依して)三輪上人を請じて是を教えてもらった話が記されています。猶、以上の『ゲンビラ鈔』の文は血脈も含めて総て栄海僧正の弟子俊然(生没年未詳)の『四巻鈔』巻上に転載されています(真言宗全書31p.234上~)。
次に前章でも言及した『金沢文庫古文書 九 佛事編下』の第6351号「菩提心論秘印」は建治三年(1277)十二月十七日に弘鑁が円寵に授けた印信ですが、その相承血脈は、
成就院大僧正御房〔寛助〕 定意房 蓮月房 西樹房 理一房〔理海〕 常観房〔慶円〕 蓮道房〔道円を改め宝篋と名く〕 (弘鑁 円寵)
と記されています。
又子島流に付いては南院方を本流とするようですが、『密教大辞典』に依れば叡尊を開祖とする大門坊方の両流を伝えています。即ち、
叡尊 俊尊 房覚 念豪 慶円 智慧 (以下略す)
と相承する分と、
叡尊 俊尊 実範 円善 慶円 覚心 (以下略す)
と次第する分です(覚心は「引摂院方の祖」とされています)。
次に『新修稲沢市史 資料編七 古代・中世』の「中世一 Ⅲ市外所在文書」に収録する249「清流血脈」に依れば、慶円は中院流実範方をやはり円善から相承しています。その血脈は、
〔中院〕明算―教真―〔中川〕実範―円善―〔三輪〕慶円―尊栄―
と次第していますが、慶円は他にも円善から実範相承の諸流を授けられた事が考えられます。
猶実範の法流相承に付いては注意すべき点があります。それは三輪上人慶円が実範(―1094―1144)から直接伝法したと云う史料がある事です。即ち醍醐の法流を詳しく知る上で最も重要な典籍の一つである同寺蔵『伝法潅頂師資相承血脈』(同寺文化財研究所『研究紀要』第1号に翻刻収載)に於いて、勧修寺厳覚弟子実範の付法弟子を記して「実範―道意〔阿部引摂房〕―慶円」と「実範―慶円〔三輪上人〕」という二通りの血脈が見えますが(p.82下)、実範が亡くなった天養元年(1144)に慶円はわずか五歳の幼童でしたから本より付法する事はあり得ません。一方、慶円は中川(なかのかわ)の本流である勧修寺厳覚の流を安倍崇敬寺(文殊院)の引摂房道意から相承したようです。
又『野沢血脈集』巻第二の三輪流潅頂血脈の条に於いては、三輪上人慶円が金剛王院実賢(1176―1249)から伝法した事が記されています(p.406)。年代的には不都合が生じないにしても、前記『伝法潅頂師資相承血脈』の実賢付法の条に慶円の名前は見えませんから疑わしいと言わざるを得ません。
さて今まで述べ来った慶円相承の真言法流は神祇信仰とは無関係のものでしたが、櫛田良洪著『続真言密教成立過程の研究』に於いて東寺宝菩提院蔵の「伊勢潅頂の血脈」が紹介されていて、
慶雲阿闍利 皇慶阿闍利〔乃至〕 内供(ないく)寛有 明弁 慶円上人〔三輪〕 廻心上人(真空)〔木幡〕 明道上人 (以下四、五人略す)
等と記されています(p.512)。慶(景)雲阿闍利は往昔山岳佛教の道場として栄えた筑前背振山(せぶりさん)の東密僧であり、中古の台密諸流の元祖である谷阿闍利皇慶(977―1049)は此の景雲に師事して東密の秘伝奥義を授けられたと伝えています。
ここで今までに記した慶円相承の諸法流に付いてその潅頂受法の師を列挙すれば、先ず『諸流水丁部類聚集』に於いて覚日・堯仁・覚秀・淳詮・恵深の五人であり、是に加えて『諸流潅頂』の鑁印・印覚・鑁阿の三人、その他に理一房理海・念豪・円善・道意・明弁の五人であり、都合十三人の名前を知る事が出来ます。又相承の法流・印信類に関しては、今までに紹介した分が総てと云う訳では無く、更に広範であった事が推察されるのです。
参考までに神祇からの相伝に付いて言及すると、『神道大系 論説編 真言神道(下)』に収載する『三輪流聞書口伝』には、
(前略)〔出雲大社〕素盞鳴尊(すさのおのみこと)―大己貴命(おおなむちのみこと)〔三輪明神なり〕―慶円上人〔三輪流の源始なり。弘法大師より廿七代を経たり。〕
と記されていて、上人が三輪明神から直接に神託を受けた神の子であると主張しているらしく思われます。
三輪上人と称された常観房慶円は当時としては実に多様な法流を相伝していたのですが、それでは慶円が本流としていた真言法流は何流でしょうか。本章の始めに見た『ゲンビラ鈔』に抄出する『上人行状』の物語の中で、慶円は八幡神の化現である優婆塞(うばそく)に対して、
真言教は諸佛の秘蔵なり。中に於いて師ゝの異説、重ゝの潅頂は何れか真実至極の正伝、決定(けつじょう)成佛の印明ならん。
と問い尋ねていますが、此の挿話(エピソード)は只の作者の創作では無く、上人相伝の潅頂印信類が甚だ数多く内容も多義多彩であった事を反映しているようです。
慶円の本流に関する上人自身乃至弟子達の言葉が見当たらないにしても『諸流水丁部類聚集』を通覧する時、冒頭に「阿弥陀院(の)御伝」と特記している事が注目され、本名(諱/いみな)を避けて通称を用いた上で別して「御伝」と言っていますから、一応此の「阿弥陀院」の法流が根本であろうと推察されます。それでは阿弥陀院とは誰を指しているかと云えば、第一に考えられるのは高野大楽院の開基とされる大智房阿闍利基舜(俊)(本名俊義。1084―1164.8.29)です。
基俊を阿弥陀院と称した事は、『血脈類集記』第四の明算付法の条に於いて明算弟子良禅阿闍利(高野検校。1048―1139)の付法資25人を列挙する中で記されています(『真言宗全書』39p.111上)。亦第一章で述べたように『諸流水丁部類聚集』〈13〉の「二界密印」に於いて、長寛元年(1163)十月十二日に阿弥陀院に於いて大智房基舜より五智房融源が「御伝受」した事が記されています。従って「阿弥陀院御伝」と云うのは、融源が基俊から相承した法流を指していると考えて間違い無いように思われます。それでも大きな疑問が残ります。それは此の血脈に於いて、慶円は基俊の法流では無く、その師勝尊の法流を受けている事です。一方、『諸流潅頂』の「識大汀血脈」では、慶円は確かに基舜―融源の流を鑁印から授けられていました。
立川流(仁寛流)の相伝に関しては慶円の本流では無いにしても、覚秀・印覚・バンアの三師から受法している事を考えれば上人にとって重要な法流であったと言えます。上人の立川流相伝は一時の好機を捉えた偶然の受法では無く、意図的に仁寛の法流を追求した結果なのでしょう。それは亦慶円が活動した平安末から鎌倉初期に於いて、醍醐の仁寛(蓮念)方が真言僧の中で根強い影響力を有していた事の傍証であるとも言えるのです。
最後に第一章〈21〉の「菩提心論汀印信」に付いて少しく言及して置きます。『密教大辞典』の同項によれば、此の印信は中性院流・意教諸流・山本流・伝法院流等に相伝している由であり、印明の口決は諸流を通じて今の慶円相伝と同じであるようです。慶円は是を治承二年〈1178〉正月に伝受したのですが、恐らく是より古くて信頼するに足る印信は存在しないでしょう。残念なのは、慶円は此の印信に於いて伝法の師に言及していないので、当初此の印信が如何なる法流の中で相承されていたのか分かりません。しかし慶円は建保五年(1217)四月十二日に是を性心に伝えた事を記してから、
又口決に云く、(中略:印明を説く)成就院大僧正の御伝〔云云〕。秘中の深秘〔云云〕。
 建久八年(1197)二月二日、伝受すること了んぬ。   慶円
と述べていますから、「成就院大僧正(寛助)の御伝」かどうかは兎も角、菩提心論潅頂は元来仁和寺の中で相伝されていた事が伺えます・

以上で本篇を終了しますが、基本史料として用いた『諸流水丁部類聚集』『諸流潅頂』は共に江戸時代の写本であり、亦対校本も存在しないようです。従って所収の慶円相承の印信類が上人乃至弟子性心(心海)相伝の原本の内容を忠実に伝えているか問題になります。諸賢によるの今後の詳しい研究に期待します。
(以上)
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