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春風駘蕩

いつの時代でもこうありたい

民主党のお粗末な茶番劇

2006年02月28日 | 日記
22日の党首討論。メール問題を取り上げたのは終了間際の9分間だった。新証拠は示せず、形勢は不利、前原誠司代表
がとった窮余の策が間際の「逃げ」だった。野党党首にとって晴れの舞台であるはずの党首討論が、これでは逆に民主党の
イメージを下げるだけだ。声を張り上げる前原代表の姿が虚勢に映り、痛々しい。

どこから入手したのかも言えない不明朗なメールを衆議院予算委員会の場で暴露し、個人名を挙げて疑惑追及に出た
永田寿康議員の責任は重い。小泉総理は当初から「ガセネタ」と退けていたが、日がたつにつれニセものであることが
判明した。困った民主党が持ち出したのが国政調査権の発動だった。

ニセものを提出しておいて国政調査権の発動を言い出すなど、ちゃんちゃらおかしい。間違いをしでかしたのなら正直に
謝るべきだ。そして、その責任をきちっととるのが公党としての責務だろう。武部幹事長の家族は世間から白い目でみられ、
ひどい目にあっている。これにどう応えるのか。

23日午前、永田議員が議員辞職の意向を野田佳彦国対委員長を通じて鳩山由紀夫幹事長に伝えたという。当然のことだろ
う。永田議員だけではなく、前原代表、鳩山幹事長、野田国対委員長ら民主党幹部がどのような責任のとり方をするのか。
この一件、「政権交代が可能な政党」を自任する民主党にとって、あまりにも幼稚でお粗末な茶番劇だった。

鎌倉の春

2006年02月06日 | 日記
天気がよかったので瑞泉寺まで散歩に出かけた。途中、いつものように荏柄天神社に立ち寄り、梅の様子をうかがったが、
花はまだだった。蝋梅は満開。梅の開花がいつもより遅いのは、今年の冬が例年に比べて寒かったからだという。

瑞泉寺にはゆっくり歩いて行ったので着いたのは午後2時30分を過ぎていた。昼食を瑞泉寺脇の「凛林」でとろうと、
妻があらかじめ予約を入れていたので、遅くなったのを承知で店を訪ねたら、店主は快く2階和室に案内してくれた。

テーブルについたらガラス製の保温器の上にジャスミン茶を乗せた丁寧なお茶セットが運ばれてきた。客への心遣いが
伝わってくる。お昼メニューの中から「手打三種冷やしそばと天ぷら」のセットメニューを注文したら、これがとても
美味しい。中華麺とごまだれがよく合っている。中華精進料理とはこのようなものかと思いつつ、店主に礼を言って店を
後にした。

だらだら坂を登り、山門をくぐると瑞泉寺の境内だ。ここの梅もまだだった。水仙も日当たりのよいところの数束が花を
つけているだけで、ほとんどが葉っぱだけ。昨年、目に付いた福寿草も今年は見当たらない。満作もまだだった。
境内を一巡し、いつものように大宅壮一の評論碑をながめてから帰路に。

途中、鶴岡八幡宮に立ち寄り、源平池沿いに歩き、段葛に出た。いつものコースだが、人が多い。鎌倉はいつも観光客で
賑わっている。大通りを横切り路地に入り、映画専門のキネマ喫茶に立ち寄った。妻が予約していたマキノ雅弘自伝
『映画渡世』(天の巻、地の巻)を購入。駅前を通り抜け、東急百貨店の横に出て、さらに路地に入り、そこを抜けて
大通りに出た。目的は鯖寿司だった。

帰宅してからインターネットで「凛林」を検索してみたら驚いた。「凛林」の代表は、オーナーセェフの林清隆氏、
彼の父親・りんくんび(林訓美)氏は中華の鉄人・陳健一氏と並ぶ有名人。テレビ出演や講演等で活躍中とのことで、
「凛林」ではプロデューサー役。遅い時間にもかかわらず、二人を快く受け入れてくれた、あの方が、りんくんび氏
だったのだ。恐縮。

国民政治協会の新年懇談会

2006年01月24日 | 日記
財団法人国民政治協会主催の「経済界と自由民主党役員との新年懇談会」が、24日夕、東京・紀尾井町のホテル
ニューオータニで開催された。経済界からは奥田碩経団連会長、自由民主党からは小泉純一郎総裁(総理)が出席した。

主催者の稲葉興作国民政治協会会長の挨拶に続いて壇上に立った武部勤幹事長は「20日に国会が召集され、いま代表質問
が行われているが、冒頭、民主党が『自民党の勝利は粉飾決算によるものだ』と言った。これは自民党を支援してくれた
国民の皆様を冒とくするもので、絶対に許せない。党は早速、これに対し懲罰動議を提出した」と報告。司会者の要請の応え
「星影のワルツ」の替え歌、「戦いのワルツ」を披露、会場を盛り上げた。

やがて小泉総裁が警護の方々に囲まれて足早に入場。そのまま壇上に案内され「昨年の総選挙では大変お世話になった。
国民の期待に応え、改革を加速させていくのが自由民主党の責務。力を合わせ改革を推進しよう」と挨拶。

奥田経団連会長は「日本経団連は、一昨年から政党の政策評価に基づいて政治寄付を行っている。その結果、政治寄付は
年々増加している。今後とも、自民党が確固たる基盤のもと活躍できるよう協力する」と挨拶。

乾杯の音頭をとった山口信夫日本商工連盟会長は「経済界の方々との会合など、いろんな会合に出たが、こんなに沢山の
政治家が出席している会合はない。さすがだと思う。経済界は自民党を応援しているので頑張って欲しい」と力強く挨拶し、
乾杯。

三重奏によるクラシックの生演奏が流れるなか出席者は和やかに懇談し、小泉総裁の前には相変わらず激励の列ができ、
記念撮影をお願いするなど、人気の高さを見せていた。

第73回自由民主党大会

2006年01月18日 | 日記
自由民主党は、18日午前、東京・港区の新高輪プリンスホテルで第73回定期党大会を開いた。
大会は、司会者の河井克行衆議院議員と坂本由紀子参議院議員による開会宣言、二期会ソプラノ歌手・宮部小牧さん
による国歌と党歌の斉唱の後、議長団を選出、議事に入った。

武部勤幹事長の党情・政策、運動方針、党則改正、予算・決算等の報告の後、功労者等の表彰、ゲストスピーチ
(神崎公明党代表、奥田経団連会長)とスペシャルスピーチ(オペラ歌手の中島啓江さん)があり、
小泉総裁の年頭演説が行われた。

小泉総裁は「国民の期待を大事にして、さらに改革を加速させていくのが今年の自由民主党の大きな責務だ」と述べ、
「50年にわたり一時期だけ野党になったが、ほとんどの時期を通じて自由民主党が政権担当の大きな責任を果たしてきた。
この責任を自覚し、よき歴史、伝統、文化を守りながらも『保守したくば革新せよ』という言葉を銘記して、新しい時代に
対応できるような体制を皆さんとともに築き上げていきたい」と訴えた。

党運動方針には、「立党50年宣言」「新理念・新綱領」に基づく新憲法の制定、教育基本法の改正、小さな政府の実現など
のほか、靖国神社参拝の継承などが掲げられており、重点政策として、民需主導の新たな成長と財政健全化、省庁再編や
公務員制度の改革、防衛庁の省への昇格などが明記されている。この運動方針が了承された。

大会アピールの朗読後、フィナーレを飾るイベントとして、司会者の指示に従いブロックごとに起立し、ペンライトを灯して
歓声をあげた。今年は大きな選挙がないのでこうしたイベントになったのだろうが、ずっと党大会を見てきた者として、
議事の簡素化には一抹の不安を覚える。総裁演説を除き、執行部として演壇に立って報告を行ったのは幹事長1人だけだった。

アーミテージ氏と靖国問題

2006年01月14日 | 日記
今朝の日経の「ポスト小泉 新春に聞く」欄に前米国務副長官・アーミテージ氏(61)のインタビュー記事があった。
ワシントン支局の秋田浩之記者のインタビューだが、日本通のアーミテージ氏がこの時期、何を言っているのか興味がある
ので読んだ。アーミテージ氏は記者の質問に以下の通り答えている。

「靖国参拝が米外交をやや複雑にしていることは疑いの余地はない。だが、小泉純一郎首相は平服で参拝し、参拝が個人的
な信念に基づくものであることも明確にした。首相が個人的な信念を持つのは許されるべきだ。中韓が怒るのは分かるが、
もう少し理解してもよいのではないか」(ポスト小泉候補と日中、靖国問題についてのコメント)。

「靖国は症状にすぎず、問題そのものではない。症状だけに注意を払っていると問題の核心を見失う。日中韓が理性的な
普通の関係を築けるかどうか、論議を傾けるべきだろう」(靖国問題と総裁選の争点についてのコメント)。

「日米は中国に人権、信教の自由、報道の自由を促さなくてはならない。中国が国際社会の有益なメンバーになるつもりなら
人権と自由、個人の尊厳を尊重する必要がある」。「中国が望ましい方向に向かわない可能性に備え、手を打っておくことも
肝心だ。日米の安全保障協力を強めるため、演習を増やし、相互運用能力を高めなければならない。憲法9条を巡る論議の
方向は好ましい」(中国の台頭についてのコメント)。

中国に対して日米が協力して相互運用能力を高めるよう努めなければならないというアーミテージ氏の指摘は正しいと思う。
また、「靖国は症状にすぎず、問題そのものではない」という指摘もさすがだと思う。靖国を問題にしているのは中国である。
そして、その裏に台湾問題を含む中国のアジア政策が見え隠れしている。

もっと言えば、中国がアジアにおける覇権を実現させるためには、どうしても日本が障害となる。常に日本を牽制しておか
なければならない。靖国は中国にとって格好の材料で都合のよいカードなのだ。確かに小泉総理の靖国参拝は国内外に大きな
波紋を引き起こした。だがその反面、靖国にこだわる中国の真意がどこにあるのか、そのことを日本人に考えさせる格好の
「教材」にもなった。

物言えば唇寒し・・・

2006年01月12日 | 日記
昨日、自民党のOBの方々と昼食をともにした。話題が政治の話しになるのはやむを得ないことだが、現場を離れたOBと
いうこともあってか、現状に対する批判が多かった。「党内に議論がなくなった」「イエスマンばかりだ」「政務調査会
があるのにこれとは別に自民党のシンクタンクを創るのは屋上屋だ」といった発言だ。

なかでもショックだったのは、昨年11月の「立党50年記念党大会」にOB議員が招待されなかったということだった。
ハマコーさんこと、浜田幸一元衆議院議員はテレビ番組のなかで「招待状も来ないのに出席できるわけがないじゃないか」
とコメントしていたというが、他のOB議員も同じような気持ちだったろう。

改革というスローガンのもと、従来のシステムや古い人間たちが次々に捨てられていく。批判すると抵抗勢力のレッテル
を貼られ、周囲から白い眼でみられる。物言えば唇寒しというのがいまの自民党だ、というのだ。

今朝の日経新聞に加藤紘一元幹事長のインタビュー記事が掲載されていた。「自民党は党内で擬似政権交代をやってきた。
ハト派とタカ派、党人派と官僚派。そういったダイナミズムがなくなり、議員が発言しなくなった。予算編成でも
『しょせんは首相と竹中平蔵総務相、中川秀直政調会長が決めること』という声が聞かれる。物言えば唇寒しの雰囲気は
よくない」と。

これらの声をどう判断すればよいのか。加藤元幹事長の発言は、党内が割れても政権交代はないという自民党のよき時代
への郷愁のようでもあるし、中選挙区時代の権力闘争の構図のようでもある。小選挙区選挙という現実、民主党という政党
の存在を直視する時、これらの批判が必ずしも的を射たものではないように思えてならない。

総理の年頭記者会見

2006年01月05日 | 日記
4日朝、小泉総理の年頭記者会見をテレビでみた。就任以来5回目の新年を迎えた総理は、不良債権を処理し、
景気を回復基調に乗せるなど、これまでの実績を踏まえ、改革路線が正しかったことを強調した。そして、総理就任
以来4年間続いた、「成長なくして改革なし」か、「改革なくして成長なし」かの、いわゆる路線論争に決着をつけた
と胸を張った。

総理の会見は自信に満ちた力強いものだった。構造改革路線の正当性と昨年秋の総選挙圧勝による政権基盤の強化が
その背景にある。自民党総裁の任期切れが9月に迫っているのに、依然として国民の支持は高く、指導力を保持している。
これには驚くというしかない。ただひとつ、アジア外交、とりわけ中韓両国との関係悪化が懸念されているだけである。

中韓両国との関係改善を質した記者の質問に対し、小泉総理は次のように答えた。「外国の政府が一政治家の心の問題に
対して、靖国参拝はけしからぬというのは理解できない。精神の自由、心の問題について、政治が関与することを嫌う
言論人、知識人が、私の靖国参拝を批判することも理解できない。まして外国政府が心の問題にまで介入して外交問題に
しようとする姿勢も理解できない。精神の自由、心の問題は誰も侵すことのできない憲法に保障されたものだ」。

これに対する翌5日の新聞論調。朝日新聞の「社説」は「これほど理解力が足りない人が、内閣総理大臣を続けていたの
だろうか。そう思いたくもなるような光景だった。年頭の記者会見で、小泉首相は自らの靖国神社参拝に対する内外の
批判について、5回も『理解できない』を繰り返した。『理解できない』と口をとがらせるよりも、少しは『言論人』ら
の意見にも耳を傾けてはどうか」。

産経新聞の「主張」は「首相の靖国参拝は戦没者を慰霊するためのものであり、世界各国で行われている戦死者慰霊儀式
と変わりない。小泉首相が『外国の政府が心の問題に介入して、外交問題にするのは理解できない』と語った通りである。
中韓は靖国参拝という日本の国内問題に内政干渉する愚に気付くべきだろう」。

ところで、総理のいう「言論人」とはだれのことをさすのか。5日の朝日新聞に「渡辺・読売主筆、本社主幹と対談」
「首相の靖国参拝を『おかしい』と批判」という小さな記事があった。5日発売の月刊誌『論座』2月号で読売新聞の
渡辺恒雄主筆と朝日新聞の若宮敬文論説主幹が対談、首相の靖国参拝について渡辺氏が「軍国主義をあおり、礼賛する
展示品を並べた博物館(遊就館)を、靖国神社が経営しているわけだ。そんなところに首相が参拝するのはおかしい」と、
厳しく批判しているという記事だった。総理のいう「言論人」とは、案外、このへんにあるのではないだろうか。

2006年 元日

2006年01月01日 | 日記
新年おめでとうございます。
 
わが国の65歳以上の高齢者人口は2500万人、総人口に占める割合は20%に達し、国民の5人に1人が高齢者
だそうです。私もアッとう間に65歳を迎えることになりました。今年から高齢者の仲間入りです。

昨年の暮れ、社会保険庁社会保険業務センターというところから「重要書類在中」という封書が届きました。中には
「国民年金・厚生年金保険 老齢給付裁定請求書」という書類が入っていました。65歳の誕生日が1月14日なので
事前に届けられたのでしょう。

書類には、住所、氏名の記載欄のほか、「老齢基礎年金の繰下げ希望欄」があり、そこには、「老齢基礎年金の繰下げ
受給(66歳以降に受給)を希望する方は〇印をつけてください」と書いてあり、その横に「希望する」という文字だ
けが印刷されていました。

私は給与所得者なので、繰下げを希望してもよいと思いましたが、先輩たちに聞いてみると、ほとんどの人が65歳から
もらっていました。彼らが言うには、「いつまで生きていられるかわからない」「もらえる時にもらったがよい」「繰下げ
たとしてもそれほど金額は違わない」と言うことでした。結論として、私は繰下げ受給を希望しないことにしました。

これによって、私は2月から年金受給者になります。年金がいくらになるのかわかりませんが、もらえるのは嬉しいこと
です。妻と2人で質素な生活をしていますので何とか暮らしてはいけますが、これからも健康に留意し、元気に生きていき
たいと思っています。
 
本年が実り多き年となりますよう、心よりお祈り申し上げます。

子が親を看ることの幸せ

2005年12月27日 | 日記
23日は天皇誕生日で祝日。25日までの3連休を利用して母見舞いのため長崎の実家に帰った。母は87歳。
骨粗しょう症のため数年前から入退院を繰り返していたが、ひと月ほど前、急に立つことができなくなり、
入院してリハビリに励んでいた。21日に退院したとのことで、私が会ったのは退院後2日目だった。

母はベッドに横たわっていたが、私の見舞いを喜んでくれた。私はお盆に帰省できなかったことをお詫びし、
無事退院でき、正月を家で迎えられることの幸せを喜び合った。

母は寝たっきりではなく、朝7時に起床、車椅子で洗面所に行き、8時に居間で車椅子に座ったまま朝食。
血圧や骨粗しょう症などの薬をのみ、テレビなどを観ながらしばらく休んだあと再度、洗面所に行き、
その後、しばらくベッドで休む。これが午前中の日課だ。

午後は、正午に居間で昼食、薬をのみ、2時ごろまで家族と話をしたり、テレビを観たりしてくつろいだ後、ベッドに。
6時に夕食、薬をのみ、洗面所に行き、8時までにベッドに戻るというのが母の1日。風呂は2日に1回、弟夫婦が
世話をしており、気候がよくなればデイサービスにも行く予定という。

大正7年生まれの母は、来年8月、満88歳になる。数えで言えばすでに88歳になっている。米寿を迎えるのでお祝い
をしなければ・・・ということになり、来年5月の連休中に母の米寿の祝いをすることにした。

母を看ている弟夫婦も誕生日がきたら63歳になる。老いが老いを看ているわけで、当人たちにとっては大変だろうが、
親が長生きをし、子どもたちがいつまでも親のめんどうを看ることができるのは、子どもたちにとって最高の幸せでは
ないだろうか。 

映画 『男たちの大和』

2005年12月20日 | 日記
映画 『男たちの大和/YAMATO』 を観た。封切の12月17日に観に行く予定だったが、仕事の都合で19日になった。
話題作なので映画館(銀座東映)はさぞかし混んでいるのではないかと思ったがそれほどでもなかった。観客の層は年配の方
から若者まで、そして男女さまざまだった。

太平洋戦争末期の昭和20年4月5日、第二艦隊司令長官伊藤整一は連合艦隊司令部から大和の水上特攻作戦(菊水一号作戦)
の命を受ける。伊藤長官は、この無謀な作戦に苦悩しつつも、大和に死に場所が与えられたと覚悟を決め、これを受諾する。
翌6日夕刻、大和以下10隻の艦隊が沖縄に向かって出撃。大和の艦長は有賀幸作、乗組員は3000余名だった。

出撃してまもなく、敵潜水艦が暗号も使わず大和の動きを逐一基地に報告していることを知った伊藤長官は偽装航行を中止し、
進路をまっすぐ沖縄へ向け南下していく。7日12時32分、鉛色の雲の合間から米軍艦載機の大群が現れ、急降下で大和を
襲撃。大和は主砲、副砲、高角砲、機銃の一斉砲撃で米軍機を迎え撃つ。約2時間の壮絶な攻防の末、14時23分、大和は
大爆発とともに黒煙を上げて轟沈。生存者はわずか270余名だった。

大和の生存者の話をもとに、作家の辺見じゅんさんが書き上げた『男たちの大和』がこの映画の原作だ。監督・佐藤純彌、
音楽・久石譲、主題歌・長渕剛、製作・角川春樹ほか、スタッフは錚々たるメンバー。また、出演者も反町隆史、中村獅童、
鈴木京香、仲代達矢、渡哲也、白石加代子、寺島しのぶ、奥田瑛二、長嶋一茂、蒼井優、松山ケンイチ、渡辺大といった
豪華キャストだ。

いま、なぜ大和なのか。佐藤監督はこの問いにこう答えている。「作り方によっては大和の戦記という、60年前を描いた
過去の物語だけに終わってしまう。それだけは避けなければと思った。現代の物語を同時進行させながらあの時代を描けば、
当時の特年兵と同じ15歳の現代の少年が背負ったものは何かと考えることになる。大和の悲劇が現代の問題ともつながっ
ていることを今の若者たちも理解し、背負ってくれるのではないか」と。

確かに、この映画は、大和という旧日本海軍の象徴的な軍艦の最後と、戦争という時代の宿命を背負いながら生きなければ
ならなかった当時の若者たちの生きざまを重ね合わせ、60年前の若者たちがどう生きたかを映し出している。それだけに
戦闘場面のリアリティーもさることながら、過酷な時代にあって真剣に生きようとした若者たちの純真な姿に感動し、涙を
流すのである。