徒然草庵 (別館)

人、木石にあらねば時にとりて物に感ずる事無きに非ず。
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黄金のポルトガル 白亜のベレン(2012年1月)

2020年05月08日 | 旅行
ポルトガルへの旅 (2012年1月アーカイブより)


ポルトガルと言えば21世紀も20年を過ぎた今日、すっかりヨーロッパ内での「一流国」とは言いがたい立場に甘んじてしまっている。いや、これは随分控えめな表現かもしれない。何せ今ではギリシャと並んでユーロ経済破綻の引鉄となりかねない「経済三流国」なのだから。しかし世界史において、この国が最も輝きを放った瞬間も確かに存在していた。

大航海時代(初期)である。

誰か忘れたが、ある作家が「ひとつの国のごく限られた時代に奇跡的なまでに才能に溢れた人間が集約されることがある」と書いていた。15世紀のポルトガルはまさにこの奇跡的な時代の中にあったと言える。なお日本の歴史に「南蛮人」として彼らが登場するのは、もう少し時代が下って1543年のこと。だいたい「種子島に鉄砲伝来」とセットで扱われている。
ロカ岬から見た冬の大西洋は果てしなく、荒い波が打ち寄せる断崖、吹きすさぶ西風に私のような凡人はビビリまくり、すっかり呑まれてしまったが、一方であの海に敢然と船を漕ぎ出して行った人種がいたのだから恐れ入る。しかも世界の果ては某人気海賊映画にあるような「大奈落」で、人を食らう巨大タコだの海ヘビだのが跋扈していると皆がマトモに信じていた(!)時代に、である。

西へ!

当時のポルトガル人・・・いや(レコンキスタ以降の)イベリア半島人には本当に頭が下がる。
領土・富への飽くなき欲望がこうして時代を作るのだ。

ポルトガルを旅した2012年の初め、そんな彼らの「夢のあと」を追うべく、世界遺産・ベレンBelem地区を訪れた。市内を走るトラムは通常小型の1両編成だが、ベレン地区を往復する路線(15番)だけが大型で非常に近代的なデザインの2両編成になっている)。コメルシオ広場から真新しいトラムに揺られて20分・・・テージョ河沿いに続く街並みを西へと向かった。





多少活躍した時代は異なるが、世界史を勉強する生徒が一度は覚えさせられる名前がある。おそらく「世界で最も有名なポルトガル人」トップ3なのは間違いない。そしてポルトガルの黄金時代を語るのにこの3人は外せない。

・初代ヴィゼウ公爵インファンテ・ドン・エンリケ(別名:エンリケ航海王子)
・ヴァスコ・ダ・ガマ(喜望峰・インド航路発見者)
・フェルナン・デ・マガリャンイス(=英語名のマゼランで知られる、最初の地球一周航海船団の長)

特に上2名は21世紀に至るまでポルトガル人が最も誇りにしている「祖国の功労者」。このふたりが眠っているのが、ベレンにあるジェロニモス修道院である。



ジェロニモス修道院(wikiより)
ヴァスコ・ダ・ガマによるインド航路開拓及びエンリケ航海王子の偉業を称え、1502年にマヌエル1世によって着工された。1511年に回廊など大部分が完成したものの、その後マヌエル1世の死やスペインとポルトガルの同君連合による中断等もあり、最終的な完成には300年ほどかかっているという。









新大陸からの莫大な富を全てこういった大聖堂や修道院、宮殿につぎ込んでしまい、何ひとつ国内の産業や福祉に使わなかった為政者の愚かさ衝撃が、こうしたモニュメントとしてポルトガルのあちこちに残っている。とはいえ、白大理石で作られたファサードも中庭も目を奪われるほど美しいのは確か。いかにも大航海時代の記念碑らしく柱や窓には精緻に刻まれた船のロープ、錨、貝やサンゴ、魚、イルカといった海のモチーフが散りばめられていて、見ていて飽きない。


椰子の木をモチーフにした柱が幾重にもアーチを作る空間

かなりの数の観光客が入っているはずだが、建物の中はざわめきというよりも不思議な静謐さに満ちていた。回廊を廻って、修道院内の教会部分に当たる「サンタ・マリア教会 Igreja de Santa Maria」を見下ろすバルコニーに出ると、突然パイプオルガンの響きが耳を打った。運よく正午の演奏に居合わせたのだ。演奏を聴きながら階下へ降りていくと、大理石の棺が安置されていた。エンリケ王子と、ヴァスコ・ダ・ガマのものである。

                

ところでエンリケ航海王子について高校時代に聞いた面白い話。その称号「The Navigator」に相応しくもなく「実は船酔いがひどいタチで、さまざまな冒険者や船乗りを援助したものの、自身で遠洋航海の探検に出ることはついになかった」という…。さらに脱線すると、私の元上司の一人はポルトガルが好きで(某外大のポル語科を本気で受けたくらい)エンリケ航海王子は憧れの人だそうだが、そんな彼は4ヶ国語を操り世界を飛び回るビジネスマンにも関わらず「飛行機が死ぬほど大嫌い」だと言っていた。何だか似ている・・・w

閑話休題。

ベレンの街(正確にはリスボン市内のべレン地区)はテージョ河の河岸に開けた場所で、河に沿っていくと、4月25日橋の赤い鉄塔や河口が大西洋につながる水平線までを一望できる。この日はお天気がことのほか良く、汗ばむほどの陽気で白い大理石や御影石で舗装された河岸の遊歩道はたくさんの人で賑わっていた。





しばらく行くと「発見のモニュメント」がある。1960年にエンリケ王子の500回忌を記念して造られた白亜の記念碑で、当時の外洋型帆船「カラベル船」をデザインした巨大なものだ。ポルトガルの発展の基礎を築いた偉人達が石となって遥かな彼方を見つめている。



左からエンリケ航海王子、ポルトガル王アフォンソ5世、ヴァスコ・ダ・ガマ、ペドロ・アルヴァレス・カブラル(ブラジルの発見者)、マゼラン。右端に日本でもなじみ深いイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルの姿が見える。また足元には大理石と青銅のモザイクで世界の地図、そしてポルトガル人がその地に到達した年が刻まれている。新世界や中東、アジアからの観光客はまず自分の国を探して、そこで記念写真を撮るのがお約束らしい。






↑当然やる。

興味深いことに、エンリケ王子(ヴィゼウ公爵家)の紋章にはこんな言葉が添えられている。

(意味:成すことへの渇望)









テージョを望むべレンの高台に王宮があったかの時代、大河の果ての海を見下ろす彼の胸中には常にこの言葉があったのだろうか。



たとえ本人が船酔い体質で自らは海にこぎ出さなかったとしても、彼に援助されたポルトガル人たちが日本に漂着しなければ、火縄銃や他の様々な文化を持ち込まなければ、日本の歴史が大きく変わっていたことは想像に難くない。550年前のこの国と今の私が生きる国はやっぱりどこかで繋がっている。・・・だから歴史は面白いっ!





そのまま「ベレンの塔」まで散策していく。テージョ河をさかのぼってきた使節や客人はここでいったん足止めされる。そのための城館・兼・砦としての機能も備えた優美な塔である。(地下には何と牢屋まである!)かの司馬遼太郎は「街道をゆく」の中でポルトガルを訪れ、ここのバルコニーで船乗りを見守る白大理石のマリア像から着想したのか・・・この塔を「テージョの貴婦人」と評した。その時代から二十余年、景色は変わらずに美しく残っている。

□     □     □

お昼を食べずに歩いていたので、ここでお茶とおやつタイムにすることにした。ベレン名物の「ナタ」ことカスタードエッグタルトを売る老舗「パステイス・デ・ベレン」は1837年創業。ジェロニモス修道院直伝のレシピを頑固に守っているという。



持ち帰りのお土産を求める地元民&観光客でごった返しているが、店内はかなり広く、昼下がりの混雑にもかかわらずすぐにテーブルに案内された。年配の背の高いウェイターが注文を取りに来る。ちなみにポル語オンリー。

ウェイター「ご注文は?」
私「ドス パステイス! それからえーっと、ドス カフェラッテ ポルファヴォール」(冷汗)
ウェイター(微笑して)「わかりました」

えーっとって何だよwと相方がツッコんで来るが(爆)「多少アレでも通じれば良いのだ!」ほどなくして熱々の焼きたてタルト到着♪







甘さは控えめで、カスタードクリームとサクサクのパイ生地のコンビネーションが素晴らしい。あっという間に平らげてしまった。当然「もうちょっと食べようか?」「もちろん!」という流れになったものの、ビミョ~な私のポル語もここまで。ウェイターのおじいちゃんは、見た目若く見える東洋人(私)を子どもとでも思ったのか?「こっちにおいで」と、孫を呼ぶようにカウンターのショーケース(しかも裏=お店側w)に私を連れて行くと、皿を片手に「欲しいのを指してくれればいいですよ」と身振りで説明してニコニコしている。

私「じゃあ、カラメルパイと、アップルパイと、エッグタルトもう2つと、ココナツケーキ!」
ウェイター「すぐにお持ちしますね。お水はいかがですか?」
私「ください♪」(ポルトガルではいわゆるお冷が普通に出てくることが多い。もちろん無料)



これまた美味しくて完食!
最高のおやつ(兼・昼食)となった。