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出生数、21年に80万人割れも コロナで少子化想定超え&実は怖くない!「人口減少社会」の「希望の未来」

2020-12-26 16:09:08 | 日記

下記は日本経済新聞オンラインからの借用(コピー)です

日本の少子化が想定を超える速さで進んでいる。結婚の減少や晩婚化に新型コロナウイルスの感染拡大のため妊娠を控える傾向が重なり、2021年の年間出生数は80万人を割り込む試算が出てきた。現実になれば公的推計より10年以上も少子化が前倒しになり、人口減に拍車がかかる。新型コロナによる人口構造の変化で、現役世代が高齢者を支える社会保障制度は一段の改革を迫られる
年間2500件以上のお産を扱う愛和病院(埼玉県川越市)。妊娠の確認などに訪れる初診患者は20年4~11月に前年同期比でおよそ5%減り、21年1~2月に出産予定の人は20年比で2割減った。ほとんど経験のない落ち込みといい、「新型コロナで妊娠を控えているのではないか」とみている。
国立成育医療研究センター(東京・世田谷)も21年1~2月の出産予約が落ち込み、3月以降も回復が鈍い。左合治彦副院長は「先行きがわからず、経済面も含めた不安から妊娠をためらう人がいるのでは」と少子化の加速を危惧する。
妊娠する女性の減少は統計からも明らかだ。厚生労働省がまとめた1~10月の妊娠届の件数は前年同期比5.1%減。5月に前年同月比17.6%減となるなど4月に緊急事態宣言が出た後の落ち込みが大きい。地域別にみると4月以降は10月まで東京都が9.1%減、北海道が8.1%減、大阪府が7.6%減といったように感染者数の多い地域で減少が目立つ
日本総合研究所の藤波匠・上席主任研究員が妊娠届などを基に試算したところ、20年の出生数は84万8000人となり、21年は79万2000人まで落ち込む。100万人を割った16年からの減少ペースは急で、国立社会保障・人口問題研究所(社人研)が17年に示した最も新しい推計よりも12年前倒しで80万人を割ることになる。出生数は戦後の第1次ベビーブーム時に比べわずか3分の1だ
婚姻数が減っているのも懸念材料だ。厚労省の人口動態統計によると、婚姻数は20年1~10月の速報値で42万4000件と前年同期から13%以上も減った。藤波氏は「非婚化が中長期的にも出生数の減少をもたらす可能性がある」と危惧する。
少子化が進めば、既に減少局面に入っている日本の人口は一段と先細る。第一生命経済研究所の星野卓也・副主任エコノミストが足元の出生状況を踏まえて試算したところ、日本の人口は49年に1億人を切る。社人研の推計値から4年の前倒しとなる。今後わずか30年で、現在の東京都2つ分に近い2500万人以上が減る超人口減時代だ。
星野氏は「在宅勤務などが浸透して外出が減れば出会いの機会も減る」と指摘する。社会の変化で出生や婚姻数の減少傾向が止まらない可能性があるとして「コロナ収束後、出生や婚姻数が元に戻るような施策が必要だ」と主張する。
【関連記事】
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日本の社会保障制度は現役世代が高齢者を支える仕組みだ。政府は18年から世代間の負担の偏りを抑える「全世代型社会保障改革」を掲げるが、想定より早く若年人口が減れば、改革は追いつかない。年金の支給額減少や医療費負担の増大などのしわ寄せが若年世代に一段と向かえば、経済不安などから結婚や出生をためらう悪循環に陥る。

実は怖くない!「人口減少社会」の「希望の未来」

下記は東洋経済オンラインからの借用(コピー)です

日本をやさしさで処方する
―青々とした樹々のあいだから、木洩れ陽が差している。風がそよぎ、はらはらと葉が地面に落ちると、そこには木立の光と影。わたしたちは、空と大地のなかにあるのだ―。
まるで松任谷由実の「やさしさに包まれたなら」が流れてくるような読後感をもった。新しい未来が待っており、悲観しなくてもいいのかもしれない、という希望が訪れる。
「人口減少社会」という言葉を目にしたとき、暗雲垂れ込めるようなイメージを抱く人のほうが多いだろう。最近は、人口減少に対して、解決策の提示もなく警鐘を鳴らすだけ鳴らして、わたしたちの不安を過度にあおる文物も多い。そんなとき、どこかわが身を責められている気がして、そっとページを閉じてしまう。
どうしてこんなに苦しいのだろう。
そんな痛みとも嘆きともつかぬものが去来し、途方に暮れるわたしたちに、広井氏は「処方」を差し出してくれた。
決して誰かを怖がらせたり、不当に責めたりするのではない物言いで、的確に日本の進むべき道筋を示す。「処方」だから現状分析やその治療法には、ちょっとだけ傷の痛みや薬の苦みを感じる場面があるかもしれないが、定量・定性的な科学的データを基に、中長期的なスパンで見通した、極めて現実的で地に足のついた10の提言である。
まず冒頭では、「2050年、日本は持続可能か?」という問題設定の下、3つの観点ー(1)財政あるいは世代間継承性、(2)格差拡大と人口、(3)コミュニティないし「つながり」ーに関する持続可能性と、「幸福度」といった主観的な要素も視野に入れたAI技術による将来シミュレーションが提示される。
日本社会の現状そして今後において重要と考えられる149個の社会的要因を抽出するとともにそれらからなる因果連関モデルを作成し、それを基にしてAIを活用したシミュレーションによって2018年から2052年までの35年間の期間にわたる約2万通りの未来シナリオ予測を行い、それらをまず23のシナリオ・グループに分類した上で、最終的に6つの代表的なシナリオ・グループに分類した。分類にあたっては、①人口、②財政・社会保障、③都市・地域、④環境・資源という4つの局面の持続可能性と、(a)雇用、(b)格差、(c)健康、(d)幸福という4つの領域に注目した。
ここから明らかにされたのは、日本全体の持続可能性を図っていくうえで、「都市集中」か「地方分散」かが、最も本質的な分岐点であるということだ。
今から8〜10年後の間に両シナリオの分岐が発生するが、持続可能性の観点から望ましいのは「地方分散型」。また、約17〜20年後まで継続的な政策実行が必要で、その間に地域内の経済循環が十分に機能しなければ、持続不能となる可能性があるという。
つまり、日本は「地方分散型」を前提に、不断の努力を続けるべきだというのである。地方から上京し、都内に住むわたしには少し耳の痛い話である。
しかし、広井氏の描く今後の地方都市の「デザイン」は、魅力的にみえ、むしろ都会暮らしに疲れた心が癒やされ、満たされるかもしれないとも思えた。ドイツのニュルンベルク郊外にあるエアランゲンのような、緑豊かで空間が広く、適度なにぎわいと、ゆるやかなコミュニティのつながりが感じられる、「人間の顔をした」地方都市が例示されているからである。
ドイツは人口約8000万人で、面積は日本とほぼ同じ。2100年に日本の人口が約8000万人で定常化すると予測されていることと照らし合わせると、人口がある程度減少しても日本は国としてやっていけることが実証されているといえる。ただし、そこに必要なのは、生活の基盤として効果的に機能し、人間のからだに心地よくフィットする社会の「デザイン」だと広井氏はいう。
わたしたちはポスト資本主義社会を求めている
地方出身の人なら経験があると思うが、田舎のしがらみに嫌気がさし、強い憧れを抱いて上京したうちは、それなりに都会の暮らしを謳歌する(中世当時の本来の意味とは異なるが、「都市の空気は自由にする」とはよくいったものだ)。
だが生産者として働き始めると、とにかく毎日大量のタスク処理が求められ、そのめまぐるしさに気後れし、心を乱される日も増える。
また、新しいモデル(流行)を切れ目なくつくり続け、自己否定を繰り返すことで自己増殖していく消費社会(あるいはそこでみせられる「こうでなければ人でない」といわんばかりの広告が象徴する情報社会)というものに、都会の消費者として付き合っても、たまに振り回されすぎて生きづらい。
こうした大量生産、大量消費の回転を、情報の力で加速し、もっと速く、もっともっと速く、もっともっともっと……(ハムスターの回し車を想像してほしい)となると、そのうち遠心力でどこかに吹き飛ばされてしまうのではないかと不安になる。
広井氏によると、このアメリカ的な資本主義を基調とした「限りない拡大・成長」志向が日本に根強いのは、高度経済成長期に味わった「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の成功体験をいまだ引きずっているからである。
また、社会保障をはじめとした日本全体のシステムが「分配の問題は成長によって解決できる」といった前提で組まれているので、この発想を捨てられない。
だが、「地球資源の有限性といった物質的・外面的な意味」でも、「幸福といった精神的な充足の面」でも、「ある種の飽和点ないし限界に達しつつある」と広井氏は続ける。ホモ・エコノミクス的な思考のまま、大量のエネルギー消費や不当な人的搾取を続ければ、資源の枯渇や紛争の契機をもたらしかねず、実は自分たちで自分たちを奪っているということだろう。
そして面白いのが、こういった問題が認識されてきた帰結として「人間の利他性」「協調行動」「関係性」に関心が集まり、脳研究や行動経済学、ソーシャル・キャピタル論、幸福研究などが湧き起こってきたのではないかという見立てだ。
広井氏は、かつて狩猟採集社会や農耕社会の成熟・定常期に起こった「物質的生産の量的拡大から文化的・精神的発展へ」移行した歴史になぞらえて、「人間の行動や価値の力点を変容させていかなければ、人間の生存が危ういという状況に現在の経済社会がなりつつある」と推論する。
つまり、遠心力で吹き飛ばされる前に、高速回転以外の道が模索され、よりよい世界へたどり着けるかもしれないということだ。少し安堵する。
日本は「第3の定常期」へ進めるか
広井氏が、従来より高次の価値観が希求され、今まさに時代が変わろうとしていると述べるのには科学的な根拠がある。それは、アメリカの生態学者ディーヴェイが「世界人口の超長期推移」で示した、世界人口は大きく3回の増加と成熟化・定常化のサイクルを繰り返しており、現在は3回目の定常期への移行期と捉えられるという理論だ。
しかし、現在の日本では、アメリカの影響を受けた強い拡大・成長路線が推し進められており、この価値観のままでは日本は崩壊の道を歩んでいくことになるのかもしれない。
小泉政権時代の構造改革で非正規雇用労働者が増え、若者世代は奨学金を返せないでいる。大規模小売店舗立地法(大店立地法)の施行によって大規模店舗が進出し、地方の商店街はシャッター通りと化している。また、現在の都会に人が吸い寄せられる構造では地方から人が離れ、農業従事者も減るだろう……。
こういったことから、広井氏はヨーロッパの「環境志向+相対的に大きな政府」型を好ましいと考えており、現時点では若者、地方、農業向けのベーシック・インカムなどによって富の再配分を考え直す提言もする。調和がとれた社会モデルを目指そうとする公平性とやさしさが、主張の端々に立ち現れている。
人類はポスト・ヒューマンの夢を見続けるか
そして、最も目から鱗だったのが、「シンギュラリティ(技術的特異点)」あるいは「ポスト・ヒューマン」論が「一見非常に新たな方向であるように見えて、実は近代社会のパラダイム、つまり個人が利潤を極大化し人間が自然を支配するという世界観をいわば極限まで伸ばしていったものに過ぎない」という点だ。
人工知能が人間の能力を超えるとされる“2045年問題”、テクノロジーによって身体を操作・改造したり、人間の意識を機械へ移植したりする“現代版「不老不死」の夢”などが盛り上がりをみせている現代に、わたしはかねてよりうっすらとした違和感をもってきた。
もちろん、テクノロジーの発展によって大いに恩恵を受けていると思う。しかし、そのうちに「『人間』より『データ』のほうが価値が高いんです」などと言われそうで、人間のためのデータなのか、データのための人間なのかわからない。今でさえ、高速なデータ通信に身体がついていけないときがあり、どうしてぼうっと生きていてはいけないのかと悲しくなるのに。
ものごとの適正なサイズから、膨張しすぎて自縄自縛に陥っていないか。
広井氏が、はたして人間の「生」を無限に引き延ばすことが幸福なことなのか、倫理なき「拡大・成長」路線は破綻がこないかと述べてくれたことがうれしかった。
とはいえ、残念ながらサンクコストが惜しくて、これまで歩んできた道をなかなか引き返せないのが人間の性である。今後さらに人口が少なくなっていくなかで、国やさまざまな組織、個人が、どのように欲望を昇華させ、どのように幸福を捉えていくかが問われていくだろう。
また、生存戦略として人間の欲望は尽きることなく、名誉欲から中国でゲノム編集された双子が生み出されたり、支配、反発、防衛……といった理由で核武装や貿易戦争が起こったりする。
世界や日本の「定常化」を阻む不測の因子は無数にあり、日本がグローバル社会から切っても切り離せない立場であるという理由から、日本国内のみならず、国外の状況と、各国との適切な関係性構築についても引き続き注視したい



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