How many rivers must I cross? I don't know...

幸せになりたくて川を渡る・・・

英詞の魅力と魔力 ~モリッシーの文学的素養

2014-11-23 23:46:38 | 80’S 以降UK

Strangeways,here we come

当時のモリッシーの心境を端的によく表していると思う。
鬱屈した日々を過ごしていた彼が、あれよあれよという間にスターダムにのし上がった。
恐らく自身でも身辺で起きていることを上手く理解できないことも多々あっただろうと思う。


先の記事で英米文学の原題に心を打たれた経験を書いたが、ひとかどの文学的素養を持ち、且つ言葉を紡ぐ才能のある方が書いたものには、それがポップ・ミュージックの歌詞であろうと僕は同様の感銘を受けた。
80年代のUKで活躍したThe Smiths の楽曲たちは、その中でも群を抜いて僕の心を打ったものが多くある。


冒頭の一文をタイトルに冠した The Smiths のスタジオ録音盤4枚目に当たるアルバム。
そこに収録されている曲の歌詞の一節に、僕は一抹の寂しさを抱きながらもぐっと胸に迫るものを感じた。

Stop me, oh, stop me
Stop me if you think that you've
Heard this one before
Stop me, oh, stop me
Stop me if you think that you've heard this one before

Nothing's changed
I still love you, oh, I still love you
...Only slightly, only slightly less than I used to, my love


とても簡単な単語の羅列で読み解くのも何ら困難は伴わない。
受験英語で習う文法を知っていれば充分に理解できる。
A面の5曲目に当たる"Stop me if you think that you've heard this one before" の冒頭かつサビの一節だが、特に後半の"Nothing's changed..." 以降に、僕は言葉には出来ない寂しさを感じた。


「何も変わってないよ、僕は今もきみのことが好きさ。
 でもね、ほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、前より好きじゃなくなっちゃたなあ・・・」

「何も変わらないのよ、私は今もあなたのことを愛しているわ。
 ただね、ほんの少し、ほんの少しだけ、愛は薄れたわ」

一人称を僕にするか私にするか、二人称をあなたにするかきみにするか、そして文体をどのような調子にするのか、どういう訳を当てるのが最適なのか僕にはわからない。
訳し方によっては若者が発する軽い恋愛のような印象にもなるし、重い感じの大人の恋愛のようにもなる。
でも、いずれにしろ日本語を宛てるとたいした感銘も受けない。
それが英文のままだとぐっと胸に突き刺さる。


"only slightly" を二度繰り返している。
このことにより、迷いながら、ためらいながら、そして言葉を慎重に選びながら心情を吐露している様子が伝わってくる。

"less than I used to"
「嘗て自分がそうであったよりも少し」というのが直訳だ。

この人の中に何かがあって、以前よりも愛の気持ちが薄れて行ったのだろう。
でもそれを英語であれ日本語であれ、直截的な表現をしたのでは相手を傷つけてしまう。
以前よりも愛は薄れたとはいえ、今尚愛している存在 "my love" なのだ。
その相手を気遣いながら躊躇して発している様が思い浮かぶ。
もしかしたら、その言葉を発したことによって、相手から自分への愛も薄まるかもしれないと不安を感じているのかもしれない。
そういうことを僕は上手に日本語で伝えられるだろうか。
いやそれは非常に難しい。
そんな僕が、もしこのモリッシーの書いた一節を翻訳した上で理解しても感銘は受けなかったように思う。
そもそも"than I used to" を上手に日本語にすることが困難なのだ。
だからこそ、ここは原文のまま理解したい。鑑賞したい。
僕は自分自身でそれが出来たと思っている。
出来たからこそこれほどまで感銘を受けたのだ。

このような感銘を与えてくれる歌詞がモリッシーが書いたThe Smiths の曲中には随所にある。
メロディに載せた言葉だから文字を宛てるなら「詞」なのだろうが、モリッシーが書いたものには僕は寧ろ「詩」の文字を宛てたくなる。
純粋に言葉だけ取り出して「詩」として鑑賞することも可能だとさえ思う。



僕は幼い頃より読書が好きだったし、文章を書くことも好きだった。
同様に音楽を聴くのも好きだったが、聴くときは常に歌われる言葉を気にしていた。
僕も次第に成長していくと、その言葉が耳触りになってきた。
日常の会話で使う言葉と同じ種類の言語がメロディにも載っている。
とうことは直ちにそれが理解できるということだ。
そうなると、これは高慢な感じでとても言い難いことなのだが、言葉を綴った方々の文学的なセンスがなさ過ぎて聴くに堪えない。
しょうもない言葉遊びや無理やり踏んだこじつけの韻、何処かで覚えてきた難解語を敢えて用いる、そもそも「詩」でも「詞」でもなく単なる文章やんかと思わせるものも多数。

いやでもそれは仕方ないことなのだ。
あくまでそれは音楽なのだから。
そのメロディラインの修飾のようなものなのだ。
あまり小難しい言葉を並べても逆に聴かれなくなることの方が多いのだろう。
作り手だってそれで商売しているわけだから、その辺りのことはよく考えて分かっているだろう。

やはり言葉の鑑賞のためには読書なのだ。
音楽は音楽として楽しめばよいことなのだ。
そう思い始めると、僕は国産の音楽は殆ど聴かなくなった。
それでもやはり僕は言葉が気になる。
英詞の曲を聴いてもそこで歌われている言葉は必ず確認する。
その作業をしてく中で、モリッシーは特別だと感じた。
他のアーティストの詞にも感銘を受けることはある。
しかし、モリッシーのそれに受ける感銘は、質も量も比較にならない。



I don't owe you anything, no
But you owe me something
Repay me now

Too freely on your lips
Words prematurely sad

Life is never kind
Life is never kind
Oh, but I know what will make you smile tonight

(I Don't Owe You Anything の一節)




Coyness is nice, and
Coyness can stop you
From saying all the things in
Life you'd like to

(Ask の一節)

Askのこの一節で"coyness"を用いるところなど心の底から敬服します。
特にこの曲はサウンドも美しいし、詞の中に文学少女らしき人物も登場するのでリンクを貼っておきます。



Ask / The Smiths (you tubeへ)

Ask Shyness is nice, and
Shyness can stop you
From doing all the things in life
You'd like to

Shyness is nice, and
Shyness can stop you
From doing all the things in life
You'd like to

So, if there's something you'd like to try
If there's something you'd like to try
ASK ME - I WON'T SAY "NO" - HOW COULD I ?

Coyness is nice, and
Coyness can stop you
From saying all the things in
Life you'd like to

So, if there's something you'd like to try
If there's something you'd like to try
ASK ME - I WON'T SAY "NO" - HOW COULD I ?

Spending warm Summer days indoors
Writing frightening verse
To a buck-toothed girl in Luxembourg

ASK ME, ASK ME, ASK ME
ASK ME, ASK ME, ASK ME

Because if it's not Love
Then it's the Bomb, the Bomb, the Bomb
the Bomb, the Bomb, the Bomb, the Bomb
That will bring us together

Nature is a language - can't you read ?
Nature is a language - can't you read ?

SO ... ASK ME, ASK ME, ASK ME
ASK ME, ASK ME, ASK ME

Because if it's not Love
Then it's the Bomb, the Bomb, the Bomb
the Bomb, the Bomb, the Bomb, the Bomb
That will bring us together

If it's not Love
Then it's the Bomb
Then it's the Bomb
That will bring us together

SO ... ASK ME, ASK ME, ASK ME
ASK ME, ASK ME, ASK ME
Oh, la ...


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幸せになりたくて川を渡る  ~ブログタイトルの由来

2014-11-23 01:48:26 | 音楽徒然



How many rivers must I cross? I don't know...
当ブログに冠したこのタイトル。
直訳すれば「幾つの川を渡らなければならないのか? 僕にはわからない」。
それを「幸せになりたくて川を渡る」としたのはすこし意訳が過ぎたかなと思うところもある。


このタイトルは、80年代から90年代にかけてUKで活動していたHurrah!というバンドの曲の一節から頂いた。
見ず知らずの誰かのブログを読む気になるかならないか、その要素としてブログタイトルは非常に重要なのは誰でもわかる。
だから当然のことながら僕は頭を悩ませた。

でも僕は本来なら日本語のタイトルを付けたかった。
延竿を使った日本古来よりの伝統的な釣りのスタイル。
竿一本、糸一本、鈎一本という最も簡素な仕掛けの釣り。
その仕掛けで和的な美や可憐さをもつ渓魚を釣るブログが中心になるのだから、横文字のタイトルを付けたとあっては、読んで頂く方が抱く釣りのスタイルのイメージが損なわれると考えたからだった。
更に言うなら、英語のタイトルなどややもすれば時代錯誤な流行歌のような印象を与えかねない。
それは既に20代の頃から、自身で曲作りをしていた頃から感じていたことだった。

しかし実際は違った。
これはいい。このタイトルにしよう。
それが結果的に日本語であれ英語であれ、迷うことなくそう思えたものをタイトルにしていた。


凄く手前味噌というか、過去の栄光を自慢するような言い方でとても恐縮なのだが、学生時代には英文小説を原書で読めるくらいには英語を理解できた。
当時は英文を読んで頭の中で翻訳するという作業などなくてもそのまま理解できた。
手に取るように登場人物の心情や情景、イメージが沸き上がってきた。
国産の流行歌に触れたとき、英語をよく知らない人が無理やり捻り出した英単語やそれらを用いた英文で付けたタイトルは、そのような雰囲気が濃厚に漂っていることはすぐに感じ取れたし、逆に英語をよく分かっていらっしゃるのだなと感じるタイトルにも出会った。

そのような感覚を持って小説の原書に触れていると、古今の英米作家の小説タイトルにハッとさせられることも多く、自身で曲のタイトルを考えていた時も、たまたま相応しいタイトルが英語であったというだけだ、陳腐なタイトルの流行歌ではないのだと、少し引っ掛かるものがありながらもそのまま用いていた。

具体的に例を上げて話をするならこういうことがある。
僕が最も胸を打たれた原題は、ヘミングウェイの「武器よさらば」のそれだ。
"A Farewell to Arms"
「A Farewell to...か。凄いな。」
ある意味原題そのままと言ってもよい邦題だが、「英語には"A Farewell to"という表現があるんだ。この感覚を日本語で表現するのは難しい」。そう感じた。
どうしてもその感覚を日本語では表現できなくて、僕はその後、自身で作った曲に "A Farewell to Knee"というタイトルを付けた。


"Tender is the Water" 最初はこれをブログタイトルにしようかとも考えた。
これも過去に自身で作った曲のタイトルだった。
スコット・フィツジェラルドの長編「夜はやさし」の原題"Tender is the night"にヒントを得た。
しかし、タイトルそのものはよくても、自身の中でこのタイトルを採用することには胸のつかえが取れなくて断念した。

"So gentle water,so close to me"というのも考えた。
しかし、長いだけで心に響くものはない。

「水と翠と○○と」というのも考えた。
しかしこれも「○○」に当てはめるのに相応しい語が見つからずに却下した。

なんとかして「水」という語をタイトルに入れたかったのだが、いっそ水から離れてみようかと考え、ならば単純明快に「鮭一の本流釣りブログ」にでもしようかと、半ば捨て鉢にもなってみた。
これだったら「ああ、本流釣りのブログなのだな」とひと目でわかる。
でもあまりにも芸がなさすぎる。



そんな思案に暮れていたときにふと思い出したのが、現在タイトルに冠している"How many rivers must I cross? I don't know..."だった。
「フラー!はね、ロックっぽいんだよ。だから鮭一さんの好みだと思うよ」。
数年前に某SNSの音楽コミュニティで知り合った女の子から音源を頂いた。





その後も気持ちが上向いているときのドライブなどでよく聴いていた。
ヴォーカルもコーラスも演奏もミックスダウンも、その全てが荒削りで稚拙だった。
だけどメロディラインや各々のギターのサウンドとフレーズは凄く心に響くものを感じたし、何より音楽に対する直向きなスピリットを強く感じた。
絵に描いた様なインディーズの音源であり、それこそ僕が大好きなものだった。

佳曲が多い一連の楽曲群において、どちらかと言えば "How many rivers" は平凡な出来上がりになっているように感じる。
タイトルやメロディラインを思うと、恐らく製作者の意図としては川が滔々と流れゆく様をイメージしていたのだろう、若しくはリスナーに想起させたかったのだろうと予想したくなる。
でも残念ながらそこまで昇華させらてはいないように感じる。

ではどうやったら "How many rivers" を雄大な川の流れのような曲に仕上げられるのだろう。
凄腕の敏腕プロデューサーが着いたら可能かもしれない。
でも、Hurrah! のメンバーとその時のレコーディングスタッフでは無理だったと思う。
壮大な曲に仕上げようとして無理だったのか、或いはそもそも無理だと分かっていながらやってみたのか。
はたまた逆に「このバンドでは無理だな」という感じを醸し出すことを思い描きながらの想定済みの作業だったのか。
真相は分からない。
とにかく僕はこの「無理だな」「力量不足だな」という感じも全て含めてこの "How many rivers" が好きだ。


色んなことが積み重なって僕にのしかかり、ついに心の病を発症してしまった数年前の僕は、それまでの仕事も貯えも趣味の品々も、思い描いていた人生の夢も失った。
でもひとつだけ失いたくないものがあった。
それが渓流釣りだった。

多くのものを失い、多くの人が去った。それは仕方ない。どうしようもない。
でも、渓流釣りだけは失いたくない。
それを失ったら生きていく意味がない、僕は真剣にそう思う。

世間一般で多くの人が考える幸せな生活は、もう僕には送ることはできないだろう。
それは悲しいことだけれども仕方がない。
ただ仕方ないと諦めるのではなく、少しでも上昇していけるように前を向いていたい。
そのような慎ましい人生の中のささやかな幸せでいい。
それを僕に感じさせてくれる渓流釣りだけは奪われたくない。
野山に囲まれた清廉な流れの中で美しく可憐な渓魚たちに出会う。
僕にとっては非常に贅沢でとても幸せな時間なのだ。
幸せになりたくて僕は渓魚に会いに川に降り立つのだ。
もしかしたら、何度も降り立つうちにいつもよりは少しだけ余計に幸せな気持ちになれることがあるかもしれない。

"How many rivers must I cross? I don't know..."
そんな思いで、Hurrah!の"how many rivers"からタイトルを頂いた。





「フラー!はね、ロックっぽいんだよ。だから鮭一さんの好みだと思うよ」。

「ロックっぽい?僕はべつにロックは好きではないのだがなあ・・・」などと思いながら焼いてくれたCDを再生し始めた。
「ああ、確かにロックっぽいというのは分かる気がする。単純にカッコいいなあ」と聴き始めて間もなく感じた。


勿論それまでにもHurrah!というバンド名は音楽誌でよく目にしており既知のバンドではあった。
ただ、音源を入手することが出来ずに未聴のままだった。
ネオアコ筋でよく語られるバンドではあったが、「単純にカッコいいなあ」と感じたようにロック的な雰囲気が色濃く漂う。
そのためかこれはネオモッズ筋でも語られて良いのではないかなと感じた。

エフェクト処理で楽器の素の音が分からなくなるというようなサウンドではなく、グレッチやリッケンバッカーの音も聴こえる。
ギターのサウンドやフレーズは間違いなくロック的なものだけど、何故かこのバンドにはとてもポップな感覚も感じる。
それが何故なのか、どうしてなのか、長い間分からなかったが、最近になって漸くうまく説明できるようになった。

かなり無理があるのだが、例えるなら初期のビートルズのようなものなのだ。
ここで僕が言っている初期ビートルズとは、革ジャンとリーゼントでロックンロールを演奏していた頃から、丸襟スーツとマシュルームカットにしながらも尚ロックンロールを演奏していた頃のことを指している。
両バンドともサウンドもフレーズもロックなのだが、演奏しているミュージシャン、ソングライターには抜群のポップセンスが備わっている。
それが分かったとき、ネオモッズ筋で語られてもいいのではないかなと感じたことにも納得がいった。

自分で書いておきながら比べるのもどうかと思うのだが、ビートルズの場合はそのセンスがあまりにも稀有なものだったということだろう。
Hurrah!については残念ながらそこまでのセンスはなかったということになるのだろう(勿論運や巡り合わせというのもあるが)。
確かに演奏やレコードとしてのプロダクション的には稚拙な部分も多くある。
しかし楽曲そのものやメロディのセンスはかなり優れていると感じるし、ロック的なサウンドとフレーズの中で絶妙にポップ感覚が備わっている。
活動そのものは80年代前半から行なっていたということだが、キッチンウェアからのアルバムとしての音源のリリースは1987年と他のネオアコ勢に比べると少し時期が遅いという不運もある。
見た目によるものなのか、何処か地味な印象を与えかねない。
結局1991年に解散してしまい、僕もずっと音源を探していたが入手できないままだった。



"Hurrah!"の音源は、2009年に入手できた。
先ほど書いたように、某SNSの音楽コミュニティで知り合った女の子から提供して頂いた。
僕はその後身辺で色々と面白くないことが起きて疎遠になってしまった。
「今頃どうしているのかなあ・・・」と思っていた頃、久しぶりにその女の子からメールが届いた。

「今更のようにね、ブログやってんだよ。ほとんど釣りネタだったけど、これから暫く禁漁だからさ、その間は音楽ネタでも書いて行くつもりだよ。だからたまに見に来てね。」と伝えた。


見に来てくれるといいなと思いながら僕は今これを書いている。
あのとき彼女に音源をもらえなかったら、恐らく今も僕はHurrah! を未聴のままだろう。
ありがとう、JA嬢。


Hurrah! " How many rivers"  you tubeへ




How Many Rivers


How many rivers must I cross
I don't know
How many rivers must I cross
I don't know

Talk about your days
I hope are too narrow
To the �・‰. a better day I'll go
Oh and the load I carry
Makes me slow
We'll bring the burden's truth
We're watch it grow

(chorus)

Where are those freaks
Who had me down
They won't believe their eyes
When they see where I'm bound
Where the sun shines
Where the sun's so high
Walk on their fingers
Watch how �・‰ rise

How many rivers must I cross
I don't know

These eyes have seen through god
These lips have tasted love
And those been far away
But the hope has always stayed

(chorus)

I'll make you pause when people stand
And shake these hands
I'll make you pause when people stand
And shake these hands

How many rivers must I cross
I don't know