溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

“随筆『平均的気にしい論」(その3),アメリカの意志”③

2015年10月19日 | 日記

詩人「当時のGHQの動きに非常に気をもんでいたのが、文化人類学者で詩人でもあるルース・ベネディクト女史なのだ。例の著作『菊と刀』の最後の方の章“子供は学ぶ”で、敗戦直後の日本人について、こんな風に書いている。

――日本人は彼らの生活様式のために高い代価を払ってきた。彼らは、アメリカ人が、呼吸する空気と同じように全く当然なこととして頼り切っている単純な自由を、自ら拒否してきた。今や日本人は、敗戦以来デモクラシーを頼りにしているのであるが、われわれは、全く純真に、かつ天真爛漫に、自分の欲するままにふるまうことが、どんなに日本人を有頂天にさせるものであるかということを思い起こさなければならない。この喜びを誰よりもよく表しているのは杉本夫人であって、杉本夫人は、彼女が英語を学ぶために入学した東京のミッションスクールで、なんでも好きなものを植えてよい庭園を貰ったおりの感銘を書き記している。先生は生徒の一人一人に、一片の荒れたままの土地と、なんでも生徒の望むとおりの種とを与えた。

“この何を植えても良い庭園は私に、個人の権利という、今までに経験したことのない、全く新しい感情を味あわせてくれた。・・・そもそも、そのような幸福が人間の心の中に存在しうるということ自体が、私にとっては驚異であった。・・・今までに一度だって仕来りに背いたことのない、家名を汚したことのない、親や、先生や、町の人たちの顰蹙を買ったことのない、この世の中の何物にも害を加えたことのない私が、好き勝手にふるまう自由を与えられたのである”

――ほかの生徒たちはみんな花を植えた。ところが彼女が植えたのは、なんとジャガイモであった。

 “この馬鹿げた行為によって私の得た、無鉄砲な自由な感情は、誰にもわからない。自由の精神が私の門戸をノックした”

そしてこの後に、女史は、杉本夫人の庭にある鉢植えにされた菊について、

――毎年品評会に出されるために、小さな目につかない針金の輪をはめこんで正しい位置に保たれるが、この針金の輪を取り除く機会を与えられた時の杉本夫人の興奮は、幸福な、また純粋無雑なものであった。

天皇について女史も非常に気を遣いながら、

―― ―九四五年八月一四日(日本は一五日)に日本の最高至上の声として認められている天皇が、彼らに敗戦を告げた(玉音放送のこと)。彼らは敗戦の事実が意味する一切の事柄を受け容れた。それはアメリカ軍の進駐を意味し、・・・(同時に)彼らの侵略企図の失敗を意味した。そこで彼らは戦争を放棄する憲法の立案に取りかかった。

そして「天皇制の保存は非常に重大な意義があった」とも。ここまで読むと、先の杉本夫人の『菊』は天皇のことではなかったかと思う。すなわち“神格化”という枠を外して自由を得たのだ、と詩人らしい表現・・・。ついでに言うと、最初に軍人の固有名詞の多さの指摘があったが、彼らが帯びる、『刀』についてだ。「身から出た錆」は自分で始末する、自己責任の言葉で、帯びる人間には刀の煌々たる輝きを保つ責任があると同時に自分の弱点、持続性の欠如、失敗などから来る当然の結果を承認し、受け容れなければならない。自己責任ということは日本においては、自由なアメリカよりも遥かに徹底して解釈されている。日本人は、西欧的な意味において<刀を棄てる>{降伏する}ことを申し出た、と綴っている。

そして、GHQの占領政策についてはこんな風だ。

「一定の(占領)政策が、果たして望ましいのか、望ましくないのかということを確信をもって判断するだけの日本文化に関する知識を有する人間は少数しかいないありさまだ」と危惧して「日本が平和国家として立ち直るにあたって利用することのできる日本の真の強みは、ある行動方針について“あれは失敗に終わった”と言い、それから後は、別な方向にその努力を傾けることのできる能力の中に存している。・・・対日戦勝日の五日後、まだアメリカ軍が一兵も日本に上陸していなかった当時に、東京の有力新聞である毎日新聞は敗戦と敗戦がもたらす政治的変化を論じつつ“しかしながら、それはすべて、日本の究極の救いのために役立った”と言うことができた。この論説は、日本が完全に敗れたということを、片時も忘れてはならない、と強調した。日本を全く武力だけに基づいて築き上げようとした努力が完全に失敗に帰したのであるから、今後、日本人は平和国家としての道を歩まねばならない、と言うのである。・・・日本人の辞書では、ある個人もしくは国家が、他の個人もしくは国家に辱めを与えるのは、誹謗や、嘲笑や、侮辱や、不名誉の徴標を押し付けることによってである。日本人が辱めを受けたと思い込んだときには、復讐が徳になる。・・・アメリカの日本占領が効果を収めるかいなかは、アメリカがこの点において慎重にふるまうかいなかにかかっている」とGHQに対して、はっきり言っている。そして、ソ連とアメリカの軍拡競争に巻き込まれるのを恐れながら、平和な世界の中にその位置を求めるであろうと期待した。

その一方で「もしそうでなければ、武装した陣営として組織された世界の中に、その位置を求めるであろう」と、今日の安全保障関係をも予想したようなところまであるが? ともかくに天皇を国家の首部にし、戦争放棄、封建制度撤廃を原則とした憲法は一九四七年(昭和二二年)に施行された。そして女史は翌年秋、ニューヨークで冠状動脈血栓で急死した。六一歳だった。結局、ずうっとアメリカにいてこれらを書いたのだ」

女将「えらい女ごはんでしたんや・・・」

                                                              (つづく)

参考文献=*「近代日本総合年表」(岩波書店1968年11月第1版)

*「菊と刀(日本文化の型)」(ルース・ベネディクト著、長谷川松治訳、講談社学術文庫、2013年第30刷)

*フリー百科事典「ウイキペディア」から「極東国際軍事裁判」「連合国軍最高司令官総司令部」などの項目


「平均的きにしい論」③”アメリカの意志”の2

2015年10月13日 | 日記

呼びかけ人「確かに、これら名前の挙がった軍人のうち、荒木、梅津、土肥原、小磯らは東條とともにA級犯罪容疑で起訴された28人の中に入っている。しかし、起訴されていない固有名詞も多い。この記事作成の動機が何であったか、GHQの文書が出てくればはっきりするのだが・・・。この掲載記事の範囲で判断するしかないが、占領政策を推し進めるうえで必要な部分を時間の流れを追って書いておくという姿勢が読み取れる。当然のこととしてアメリカの正当性を論じなければならないし、自然と“多目的”になったのではないかな。GHQによる新聞用紙統制下、検閲下というなかで連載期日を12月6日からと指定しての掲載だ。米軍による歴史観だと決めつけられても仕方ないが、これを記述するのに際し、多くの日本人が先の大戦をどう受け止め、推し進めた人物たちをどう思っているかを推し量りたかったのではないかな。占領政策を進めるうえで世論というものを強く意識しているのがうかがえる。」

山好き「歴史記述である以上、自然な“流れ”というものがなければならない。日本軍の中国大陸侵攻は詳しいが、そこから太平洋戦への挑み方が一足飛びの感がある。天皇に関しての記述が少ないのも気になる。原爆に関しても少なすぎる」

呼びかけ人「同時並行してドイツを中心としたヨーロッパでの戦況にも多くのスペースを割いている。第2次世界大戦のなかでの日本の位置を描こうと努力している。日本軍の動きに合わせてアメリカ側の国務省の動きを詳細に描いている。ヨーロッパ、中国の戦い方を同時並行的に扱い第二次大戦全体を俯瞰するようになっている」

文明史好き「それにしても。70年前のGHQの慌ただしい動きはすごいね。財閥解体、農地改革や婦人参政権は有名だが、年表だけで辿ってみたんだけど、金融、鉄鋼・造船、繊維、漁業・捕鯨などの産業、それに医療、教育、文化と非常に多岐にわたっている。日本製ペニシリンの市販を森永製菓と万有製薬に限り認可するとか、日本の警察官が進駐軍将校に敬礼を行うよう覚書を出すとか、映画検閲に関する覚書、奄美大島を含む琉球列島・小笠原群島などに対し日本の行政権を停止する覚書・・・、その動きの中の一つがこの『太平洋戦争史』の歴史記述なわけだが、同じ教育部門が扱ったのに、日本語の“ローマ字化”がある。日本語は漢字が多すぎて難解、識字率が上がりにくいために民主化を遅らせていると若い将校がローマ字表記を提案する。しかし、それはどうかなという意見もあって、じゃ「読み書き」の世論調査をやってみようとなった。15歳から64歳までの老若男女17000人を対象にした全国調査をやってみると、なんとなんと98%近い識字率だった。世界的にも例を見ない高さで、この計画は即中止となった。言語というのは民族を特徴付けるもので、民族の心にまで入り込んで、変革を求めようとは、強引すぎるよね。

呼びかけ人「原爆については、連載10日目“無条件降伏”の見出しのところで、こんな風に触れている。 “TNT二万トンの破壊力を有するこの一弾は広島の兵器廠都市の60%を一掃してしまった。偵察写真によれば6・9平方㍄の同市のうち4・1平方㍄が完全に粉砕され、同地区の五つの主要工業目標は吹き飛び、・・・投下後四時間にわたって塵埃と煙が市内を包み・・・直ちに損害の程度を見極めようとすることは不可能であった”と。 たしかにそっけない。そのあとに“ソ連軍進軍を再開”の記事を挟んで“第二回の原子爆弾”の見出しで長崎を書いている。たった百字程度だ。“・・・戦略航空部隊は今度は長崎に投下した。広島の爆弾よりも遥かに大きな破壊力と火災を起こさしめた。爆発の煙は5万㌳も空中に立ち昇り175㍄以上の遠方から望見された”と。 爆撃機のパイロットの報告をそのまま綴っている感じだ」

文明史好き「広島8・6からちょうど一か月後の、九月初めに、あのバーテェット記者が広島に入り『全世界に私は警告する』と人類が初めて経験した、その酷い症状、その惨状を発信、原爆がいかに非人道的であるかを告げている。マッカーサーは烈火のごとく怒り、直ちに日本国外へ追放している。それを考えると、あの時点(「太平洋戦争史」の連載)でGHQはあまり書きたくなかっただろうな」

呼びかけ人「天皇に関してだが、前文の真珠湾攻撃のくだりで“警告なしに攻撃したことは陛下ご自身の御意志ではなかったのだ”と触れている。そして連載の最後の、ポツダム宣言が発せられところで、“ついに日本をして無条件降伏及び連合軍の占領を基礎条件としてこれを受諾せしめた。日本国民にとってこれは公正にして強硬な条項を提出した。即ち軍指導者の排除(但し天皇はその限りに非ず)、武装解除、戦争犯罪者への峻厳なる処罰、日本領土中の諸地域の占領、軍需生産の破壊、・・・日本国民の根本的な自由及び民主主義的傾向への再覚醒などを要求した”と但し書きで記述するが、GHQの天皇に対する考えがはっきり出ている」                                         

                                                            (つづく)

 


随筆「平均的気にしい論」(その3) の1

2015年10月05日 | 日記

“アメリカの意志”

山好き「女将さん、お久しぶり。約束より、ちょっと早く来ちゃった。時間があったので、さきほど、ここ祇園花見小路をぶらぶらして、建仁寺まで行ってきたけど、中国語が飛び交っていた。すごいもんだね」

女将「昼だけやけど・・・。おいでやす・・・お友達、次々来たはりますえ・・・」

呼びかけ人「みなさん、ご苦労さん。一か月前に送った新聞連載『太平洋戦争史』(*1)のフロッピー、読んだ感想を聞かせてほしい。目の前の串揚げを味わいながら・・・」

詩人「きょうの案内文に概要が書かれていたので、助かったけど、旧字体なので結構難しい漢字があったり、表現も今とは違って難解なところもあった。旧制中学だが副読本として同じものを読んだとあったが、当時の学生の国語レベルは高かったんだ。それにしても軍人の名前がやたら出てくるね。荒木(貞夫)大将、南(次郎)大将、金谷大将、石本権四郎大尉、梅津美治郎大将、土肥原賢二少将、阿部信行大将、駐米日本大使野村吉三郎大将、さらに小磯国昭大将、杉山元帥、畑元帥そして東条英機大将。まだまだあるが当時の新聞読者はみんなよく知っていた大物軍人なのだろう。だが、戦後生まれの我々は東条や小磯以外、突然文中に飛び出して来るって感じで、“これ誰や”だった。まず“連載”前文に相当する「はしがき」に荒木が登場する。その部分を要約すと・・・。

『これらの戦争犯罪の主なものは軍国主義者の権力濫用、国民の自由剥奪、捕虜及び非戦闘員に対する国際慣習を無視した政府並びに軍部の非道なる取扱いなどであるが、これらのうち何といっても彼らの非道なる行為で最も重大な結果をもたらしたものは“真実の隠蔽”であろう。それは一九二五年(大正一四年)治安維持法が議会を通過した瞬間に始まる。この法律が国民の言論弾圧を目的として終戦(一九四五年)まで約二十年間にわたりその過酷の度を増し、政治犯人がいかに非道なる取扱いを受け、人権を蹂躙せられたかは既に世人のよく知るところである。・・・一九三〇年(昭和五年)の初期、日本の政治史は政治的陰謀、粛清、そしてそのころようやく台頭しつつあった軍閥の専制的政策に反対した政府高官の暗殺によって大転換を画したのであった。・・・一九三一年(昭和六年)総選挙は国民が政府の政策に全く不満であり、*支那に対する宣戦せられざる戦争の責任者たる関東軍に対し各方面とも明らかに反対であるという争うべからざる証明を与えた。ことの急展開に驚愕した軍部は現代において最も残忍なる粛正工作の一つを行うに至り、また軍部が政府の支配力を獲得することによって来たるべき擾乱の時代に彼等の支配力を拡大し地位を確保するに至った。(すなわち)一九三二年(昭和七年)一一月九日、選挙運動の最中に大蔵大臣佐々木準之助が暗殺され、五月五日には団琢磨が反動団体血盟団の一員によって暗殺された。引き続き五月一五日の午後には犬養首相の暗殺された有名な五・一五事件が勃発した。 

五・一五事件が起きた昭和八年(一九三三年)から昭和一一年(一九三六年)までの間に所謂“危険思想”の抱懐者、主張者、実行者という“嫌疑”で検挙された者の数は五万九千を超えた。荒木大将の下では思想取締中枢部組織網が厳重な統率下に編成さられ、国民に対し、その指導者の言に一切の批判を許さぬことを教えることになった』

と、荒木大将の行状を説明している。そして梅津 美治郎。彼は終戦時の参謀総長である。ここに出てくる軍人の固有名詞はこの歴史記述の作成動機と関連があるように思うがどうか」

文明史好き「東京裁判だろ。僕も感じた」

呼びかけ人「ここに出てくる軍人の名前はその時々の政権中枢にいて満州侵攻など歴史的事件で大きな役割を演じている。南(次郎)大将は、満州事変勃発時の第2次若槻内閣の陸軍大臣。国際協調を方針とする民政党政権の路線に同期の金谷範三参謀総長とともに寄り添いつつも、陸軍内部の推進運動や世論に突き上げられ、最終的には関東軍に引きづられた。土肥原賢二少将は、大正元年(1912年)、陸軍大学校卒業と同時に、参謀本部中国課付大尉として北京の情報機関で対中国工作を開始し、天津特務機関長に出世、満州事変の際には奉天臨時市長となり、同年11月、甘粕正彦を使って清朝最期の皇帝溥儀を隠棲先の天津から脱出させるなど、特務機関畑を中心に要職を歴任し、謀略をも辞さない強硬な対中政策の推進者として昇進を重ね、「アラビアのロレンス」ならぬ「満州のロレンス」と恐れられた。阿部信行大将は金沢藩の藩士の子として生まれ、陸士9期生、陸大19期生、2・26事件後に、陸軍大将を最後に予備役に編入。3年後に内閣総理大臣になっている」

文明史好き「起訴へ向けた予備審査的な色彩があるのかな」

                                                            (つづく)

*1=は昭和二〇年一二月六日から一〇日間、日本の新聞「毎日」、「朝日」、「読売」に掲載されたGHQ提供の、主題「太平洋戦争史」、副題「奉天事件よりミズーリ降伏協定調印まで」の記事。