溜まり場

随筆や写真付きで日記や趣味を書く。タイトルは、居酒屋で気楽にしゃべるような雰囲気のものになれば、考えました。

随筆「文、ぶん、ブン」(1)のつづき

2016年04月21日 | 随筆

“『は』の不思議”の③

 三条件の一つ「間違えが少ない」は、「間違え」がゼロになるのに越したことはないのだが、人間のやること、どこかに“落とし穴”があってゼロにすることは難しいので多田さんは「少ない」としてくれたのだが、書く方はあくまでゼロを目指して努力しないと。そこで思い当たるのが国語教師のようなデスク。原稿をチェックしていて「この動詞の五段活用を言うてみい」と言われた。これにはまいった。学者の間で、これほどえげつないやりとりはないだろう。

 ところで文章というのは書き出しが難しい。それが決まれば気が楽になる。新聞文章の場合は時間的に余裕がないので、予め決めておくといい。悩む時間を省略できる。早い話、パターン化だ。定型文。昔からあるのが突発的に起きる事象に、「何日何時ごろ、どこそこで・・・」という日時スタート型。もう一つが主体を先にもってくる「何々は・・・」の「は」(ワの音)の助詞の付いた型。「首相は〇〇日・・・」というやつ。あとは、どちらにも属さない自由な出だし。非定型としておこう。使われ方を調べてみると二つの定型は戦前も戦前、明治のころから、頻繁に出てくる。日時型は事件、災害など発生ものに使われるから当然社会部の書く原稿。対して「は」型は硬派面、政治部の書く原稿に多い。

 多田さんが助詞「は」のつく文章について面白い指摘をしている。「象は鼻が長い」は、一つの文に二つも主語がある。これはおかしい、と国語文法会で大論争になった。主語というのはヨーロッパの言葉の直訳で、日本語として考えると、「が」と「は」ははっきりと、はたらきが違う。国語学者によると「は」の方は状況を提示していて、「何々についていえば」という意味で、ここでは「象についていいますと、鼻が長い」ということになる。「私は九時に起きました」――「私についていいますと九時に起きました」となり、「ついていいますと」のところは省略してもいい。省略の妙を教えてくれているのだが、文法的にいうと、助詞のはたらき方の違いなのである。「は」は文語で「も」「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などと同じ係り助詞。下(次)にくる熟語に影響を及ぼす。「がは「の」「に」「で」「から」などと同じ格助詞。「体言について、その語が、他の語に対して持つ関係を表す、と『日本語大辞典』(講談社)は説明する。しかし、新聞記事で使う「は」は格助詞に近いはたらきをする。「ジャック アンド ベティ」で「これはペンです」(主語+述語)と言われた中学・英語を思い出す。あのころから、主語のない文章に会うと、「誰が何を言ってるの?」と問いたくなったり、気分が落ち着かないのである。文明開化以来、すっかりヨーロッパ的な感覚になっているのか・・・。万葉仮名を読んでいると「波」の音を当てて「は」は使われているが、多田さんの指摘の通り、主語+述語的なつかい方ではない。

 「日本国憲法」をみてみよう。前文で、「日本国民は・・・」と書き出し、この国の主人公は国民であると宣するために3回も「日本国民」を使い、「われらは」を入れると7回も主語扱いをする。「国民」「われら」を主部とすると、述部はどうなっているか。最初のセンテンスの中だけで、国会における代表者を通じて行動し、自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように決意し、主権が国民に存することを宣言し、憲法を確定する・・・。「日本国民」の後に「についていいますと」を入れれば、すんなり入ってくる。だから、ここの「は」も格助詞でなくて万葉時代と同じ、係り助詞なのだ。    

                                                            (おわり)                

*1多田 道太郎(ただ みちたろう・1924―2007)フランス文学者、評論家。京都大学人文科学研究所教授(西洋思想研究部門)、武庫川女子大学生活美学研究所所長などを歴任。ボードレールが専門だが、ほかにカイヨワの「遊び」論に関心が深く、大衆文化、関西文化、日本人論などについて数多くの評論を書き、現代風俗研究会の二代目会長を務めた。多田道太郎ほか編の『クラウン仏和辞典』で1978年毎日出版文化賞(企画部門)を受賞。

 


随筆「文、ぶん、ブン」(1)のつづき

2016年04月12日 | 随筆

 

“『は』の不思議”(2)

 せっかく褒めてもらったのだが、実のところ文章つくりの教育を、系統だって受けた記憶がないのである。もちろん教える側に回った記憶もない。「三つの条件」の心構えを、改めて振り返ってみた。すると、あの時がそうかな、と思い当たることもある。

 毎年、夏になると高校野球地方予選が全国で始まる。駆け出しの記者は必ず警察を担当しながら、この高校球児を、甲子園に行くまで担当させられる。望遠レンズでの撮影の難しさを覚え、暗室で焼き付けしながらセンスのなさを嘆き、複雑なルールブック「野球規則」をめくりながら、「野手選択・フィルダースチョイス」とは何かを知る。スコア・ブックを付けながら原稿を書く。見逃した選手の動きは、そばにいる大会運営の手伝いをする高校生たちに聞く。すべては事実を正確に記録するためである。ワンサイドのつまらない試合もあればスリリングな試合もある。多くの根っからの高校野球ファンが見ていて翌日の紙面を楽しみにしていてくれる。ここで“多田三条件”が必要になってくるのだ。すなわちたかが野球、「わかり易く」なくてはならないし、数字や選手名を間違っては折角の記事が台無しだ。もちろん「面白く」なくてはならない。一緒に見ていた高校生は翌日の記事に対して自分たちの感受性でもって鋭い批評を浴びせてくることもある。たとえ五行でも疎かにできない。あの複雑怪奇な野球規則を読み込めれば、刑法や刑事訴訟法を繰り返し読む自信はついてくる。そういう意味でも高校野球の取材は新聞記者の“基礎体力”を付けてくれるのである。(つづく)


随筆「文、ぶん、ブン」(1)

2016年04月04日 | 日記

 

“『は』の不思議”

 「平均してよい文章を書いているのは、新聞記者諸君以外に求めることはできない」と言ってくれたのはフランス文学者・評論家の多田道太郎さん(*1)。『文章術』(朝日文庫)という多田さんの本は、文を考えるうえで実にいろんなことを教えてくれる。まず辞書。普通には本を読むために必要とか、外国語を知るために必要だと考えるが、一番大事な辞書の用途は文を作る時なんだという。日本語では漢字を正しく使うことが重要。例えば「読後カン」「人生カン」のカン。いざ書こうとして戸惑う。読書の後に「良かったな」と想うのは「感想」だから、「読後感」、人生を広く捉え哲学的に考えてみるのは仏教用語からきた「観」。「手紙や文章を読んでいて、この種の間違いを目にすると、この人のレベルは大体こんな感じだなと評価されてしまうから、いつも辞書をそばに置いておいた方がいいと、おっしゃる。そういう多田さんがこれらをそろえておけばほぼ完璧と言ったのは、大槻文彦『大言海』、小学館『日本国語大辞典』、金田一京助他編『新明解国語辞典」』、白石大二編『新例解辞典』の四冊。この選択で広辞苑をはじめ岩波ものが一つもない。

それで辞書を意地悪く比較してみたくなった。一言で説明しにくい言葉。例えば「意味」。どう説明しているか。

『広辞苑』(第一版第一刷)は「言語によって示されている内容。意義。」

『新明解国語辞典』(第四版)は「その時その文脈において、その言葉が具体的に指し示す何ものか。用法。“君の言ってるのと僕の言うのとは(同じ言葉だが)――が違うんだよ。――ありげな。)”」

 こんなに違う。

講談社も『日本国語大辞典』を出しており、写真を多く添え、英語表現もできるだけ添えている。読者の気持ちになって作っているな、と感じる。使う方としてはそこがうれしい。(つづく)