
BRTと列車の柳津駅。昭和52年に気仙沼線が全通するまでは、ここは国鉄柳津線の終点だった。
いうなれば、大震災のせいで、元の木阿弥……いや、それ以前に開通していた旧気仙沼線の本吉~気仙沼がBRTになってしまった以上、全通前より鉄路が縮んだことになる。
ともあれ、ようやくBRTを降りることができた。柳津駅を撮ろうと、ふと電池が切れたはずのデジカメを取り出してしまった。
修正とは恐ろしいものだが、まさかと思って電源を入れると、これが動く!まさに天恵、使えるうちに使っておかないと。

柳津駅の時刻表。BRTの時刻が書いてないので、気仙沼方面は全くの空欄。

跨線橋から気仙沼方面を望む。駅を出たすぐ先は、もう草に覆われていて、かつて列車が行き交った跡を見ることはもうできない。

前谷地方面を眺めると、折り返しの列車がやって来た。時間はあるが、ホームに降りる。

ホームの駅名板。柳津はもはや終点になっている。そして、はたして再びデジカメの電池終了。

再び気仙沼方面。ぼやけたレンズ越しには、現実の鉄路はもう写らない。どこか、現実ではないところに引き込まれかねない2本のレールが伸びるだけだ。
鉄道の旅そのものを文学に昇華させた、おそらくは初めての作家である宮脇俊三先生は、「全線乗りつぶし」なる概念を一般化させた最大の功労者で、全通した気仙沼線にも開業直後に乗車している。
当時の記録は代表作『時刻表2万キロ』のエピローグとなっているが、全線開業を総出で祝い、寿ぐ地元住民に対し、彼は大赤字が確実の路線の行方を醒めた目で捉えていたのが今も印象に残っている。
当時は国鉄末期、巨額債務問題や合理化、赤字ローカル線の整理、労使の対立や職員の規律弛緩、日本の巨大な鉄道網に重苦しい話題ばかりがのしかかっていた時代である。
その筆致は、それ以前のいささか珍道中交じりの文章とはまったく対照的で、あまりにも寂しげな終結だったのだ。
もし今も先生ありせば、気仙沼線の運命をどう思うのだろうか、とは考えてしまう。
いや、この状態を見ずに済んだのは幸せだったかも知れない、とも言えそうな気もするのだが。

前谷地行となった列車が止まっている。乗ってしまわなくては。列車はしばらくして柳津を後にすると、40分程、わずか5駅を進んだだけで、終点前谷地まで来てしまった。
いうなれば、大震災のせいで、元の木阿弥……いや、それ以前に開通していた旧気仙沼線の本吉~気仙沼がBRTになってしまった以上、全通前より鉄路が縮んだことになる。
ともあれ、ようやくBRTを降りることができた。柳津駅を撮ろうと、ふと電池が切れたはずのデジカメを取り出してしまった。
修正とは恐ろしいものだが、まさかと思って電源を入れると、これが動く!まさに天恵、使えるうちに使っておかないと。

柳津駅の時刻表。BRTの時刻が書いてないので、気仙沼方面は全くの空欄。

跨線橋から気仙沼方面を望む。駅を出たすぐ先は、もう草に覆われていて、かつて列車が行き交った跡を見ることはもうできない。

前谷地方面を眺めると、折り返しの列車がやって来た。時間はあるが、ホームに降りる。

ホームの駅名板。柳津はもはや終点になっている。そして、はたして再びデジカメの電池終了。

再び気仙沼方面。ぼやけたレンズ越しには、現実の鉄路はもう写らない。どこか、現実ではないところに引き込まれかねない2本のレールが伸びるだけだ。
鉄道の旅そのものを文学に昇華させた、おそらくは初めての作家である宮脇俊三先生は、「全線乗りつぶし」なる概念を一般化させた最大の功労者で、全通した気仙沼線にも開業直後に乗車している。
当時の記録は代表作『時刻表2万キロ』のエピローグとなっているが、全線開業を総出で祝い、寿ぐ地元住民に対し、彼は大赤字が確実の路線の行方を醒めた目で捉えていたのが今も印象に残っている。
当時は国鉄末期、巨額債務問題や合理化、赤字ローカル線の整理、労使の対立や職員の規律弛緩、日本の巨大な鉄道網に重苦しい話題ばかりがのしかかっていた時代である。
その筆致は、それ以前のいささか珍道中交じりの文章とはまったく対照的で、あまりにも寂しげな終結だったのだ。
もし今も先生ありせば、気仙沼線の運命をどう思うのだろうか、とは考えてしまう。
いや、この状態を見ずに済んだのは幸せだったかも知れない、とも言えそうな気もするのだが。

前谷地行となった列車が止まっている。乗ってしまわなくては。列車はしばらくして柳津を後にすると、40分程、わずか5駅を進んだだけで、終点前谷地まで来てしまった。
![]() | 時刻表2万キロ (河出文庫 み 4-1) |
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河出書房新社 |