発願しました
諏訪大社まで甲州街道を歩きます
二年くらいかけて歩きます
貫徹できたら 拍手喝采
思いついたら やらないと気が済まない
まずは行動を起こそう!
2018.1.2 10時前 お江戸日本橋を出発
この界隈は私の子供時代のテリトリー
買い物好きの母のお供で
三越と高島屋を往復していた
あの頃は 日本橋なんて ダサく感じていた
大学の頃に山手線一周をした時に
クラブの仲間と通り過ぎたこともあった
今回 じっくり見て見たら なんて素敵な橋!
日本橋川にかかる日本橋は 二重橋だった
首都高に挟まれて 窮屈そう
近くのシャッターに 昔の面影が、、、
歩き始めてすぐ
高島屋の前は 福袋を求める人の大行列があった
箱根駅伝復路の応援沿道の整備をしている人たちもいた
大好きな明治屋の前も通る
周りのビルは新しくなったの にここは昔の佇まい
なんだかほっとした
ここのある紅茶が美味しいんだよなー
東京駅のわきをくぐって 内堀通りに出る
一般参賀の人たちで歩道は込み合っていた
福袋 駅伝 一般参賀、、、お正月の風物詩を横目に
黙々と歩いていく
敗戦後 アメリカ占領下の時の拠点となった第一生命ビル
歴史も感じながらね、、、
桜田門から半蔵門にかけては人通りも少なく
皇居の緑と石垣と お堀の水が 青空に映えていた
昔おばあちゃんと文楽を見るのに通った国立劇場前
大木が切られていて心が痛む
半蔵門からは一直線に新宿を目指す
四谷までは番町といい 昔からお屋敷がたくさんあった
甲州道中を警護する番方と呼ばれる旗本の住まいだった
怪談番町皿屋敷の発祥の地もあるだろう
そういえば四谷も四谷怪談の話があったっけ
この辺りは 当時から賑わいのある場所だったのだろう
私にも四谷見附あたりが懐かしい場所だ
アルバイトに通ったりイグナチオに行ったり、、
でも 駅のわきの石垣が昔の城門の一部だったなんて初めて知った
入り鉄砲に出女 それらを取り締まるため
四谷の城内門の他に大木戸門も置かれた
現在の新宿御苑の四谷寄りあたりに大木戸門はあった
もはや 今では名残になるようなものはなく
ただ古そうなビルが大木戸ビルと表示されているのみだった
江戸の繁栄は 徳川幕府の統制によって成り立っていたのだろう
そして今日の目的地の内藤新宿に向かう
新宿は 四谷の城門から高井戸までの間の中間地点として置かれた宿だった
この地に大名屋敷を置いていた高遠藩内藤若狭守がこの宿を置き
物資も人も ここに集まり 生活を営み 交流していった
荒木町界隈は 下町で言えば柳橋だろうか
歌舞伎町や二丁目は吉原に当たるだろうか
繁華街として栄えた新宿は 今でもその町のパワーを備えている
また現在の新宿二丁目あたりはかなりお寺があったらしい
震災や戦争や区画整理で お寺自体は解体したり移動したが
当時に作られたと思われる石仏や灯篭が ビルの谷間のお寺の境内に
今も肩を寄せ合って並んでいて なんだか 不思議な光景だなと感じた
中でも 太宗寺は内藤家の墓石も残っており
盂蘭盆会も現在も行われたりしていて由緒あるお寺だ
また南口から御苑に行く途中にある天竜寺には 江戸の三大鐘楼の一つがある
今の歌舞伎町界隈にあった遊郭で 別れがたい男女が
時を告げるこの鐘の音に涙したという・・・
また 新宿通りに面した成覚寺は 子供合埋碑がある
子供とはいえそれは飯盛女つまり遊女のこと、、
このお寺は 不遇な中でなお不幸にも亡くなった遊女たちの投げ込み寺だったのだ
遺体は藁ござにくるまれ投げ込まれたというのだから 悲しい話だ
いつの頃からか 弔いの石碑が建てられたのだという
今でもその碑は残っていて 思わず深く手を合わせて
多くの女性のつらい人生と死を思い 手を合わせ弔った
碑に掛かるようにしだれ桜が固い蕾をつけていた
春にまたきてみようと思った
合埋碑の隣には大きなお地蔵さんもあった
ここにも古い小さな石仏たちが お地蔵さんのまわりに
所狭しと体を寄せ合っていらした
一つ一つ 名前が掘ってあり 墓碑なのだと知った
お寺の入り口には 心中した七組の男女を弔うお地蔵さんもあった
うきうきした気持ちで日本橋を出発したが
新宿の発展の影の悲しい歴史を垣間見た気がした
しばらく歩いて 追分団子の本店前に着いた
追分とは二つの道の分岐点 甲州街道と青梅街道だ
時計を見ると12時過ぎだ
寄り道せずに歩けば 7キロ一時間半くらいだが
スタバで休んだり 写真を撮ったり お寺に寄ったりしたので
三時間弱が過ぎていたわけだ
本当は 幡ヶ谷の自宅まで歩こうと思ったが
新宿幡ヶ谷間は いつも歩いているので 自分におまけをして
大好きな三坪バルで ワインを飲んで帰ることにした
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