るぅあんのブログ”晴れが好き!”

店情報『aboutRouen』に続く、日々の雑感をつづっています。スウイーツの情報などの交流の場にしたいと思っています。

折り紙は、深い。

2012年11月29日 | 日記


写真は、今年の干支「龍」を、
去年の今頃、市内の石森紙店さんのお嬢さんにレクチャーを受けながら折ったもの。
しかし、受けていた時もよくのみこめず、よたよたしながら折っていたが、
自宅に戻って、実物が脇にあっても、再現できない難しさ。
とうとう、諦めてしまった。

実は、この折り紙の先生は、別にいらっしゃるのだ。
石森さんのお嬢さんは、この方に教わったものを自分に授けてくれたわけ。
今年の7月、先生は、個展を開かれたそうだ。
下は、その案内状の裏。


一貫して、『鶴』がお好きなテーマと、伺っている。
次の作品も、先生のものだ。


石森紙店の女主人は、この作品を見て、
「折り紙って良いな。」と、初めてその魅力を認識されたそうだ。
「それまでは折り紙なんて、どこが良いの。」と、思っていたとか。

自分は2年前の今頃、やはり、干支の「兎」を直接ご指導いただいたことがあった。
連れ共々に、不器用な私たちを、辛抱強く導いてくださった。
この時は、家に戻ってすぐ再現できたので、
そこから、関連の本を買ったりして、その後もいろいろなものに挑戦してみたものだった。

野沢栄子先生。
7月の個展の後、お店(石森紙店)にはお見えになっていらっしゃらないとか。
「腰が悪いのだ」と、ご本人が言っておられたのを、女主人は心配なさっている。

自分も、来年の干支『巳』の折り方を、ご指導いただきたかった。
大崎市の隣の町で、お教室をお持ちとのこと。
先生が、早く腰を治されて、お元気になられたら、是非とも通って教えを仰ぐつもりだ。
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「選択肢が多すぎると、人は決めることが出来なくなる。」という理論。

2012年11月28日 | 日記


アメリカの、女性科学者が科学的に実証した理論だそうだ。
スーパーの2カ所の入り口で、
人当たりのよい女性に調査員をお願いし、
Aでは、ジャムを6種類。Bの入り口ではAの4倍の24種類のジャムを用意
どちらに人は集まり、そのうちのどのぐらいの人が購入したか、という実験だ。

予想はつくと思うが、集客率が高かったのはB。
だが、購入率の高かったのはA、である。
この理論、26日のTV番組『ひるおび!』で紹介されていた。

「雨後の筍」ようにと形容されるように、少数政党乱立の衆院選。
どの政党を選んだらよいのか、政策・争点が”ジャム”のように、似たり寄ったり。
「決められない有権者の心理」は、この実験の「消費者の心理」と同じだ。

「TPP解散」と言われたが、脱原発と消費税増税撤回も争点に加わって、
何が何だか分からなくなってきた。
自分は、脱原発だが、TPPはよく「わからない。」
消費増税撤回は良いが、財源確保はどうするのだ?
3つが3つとも、自分が良しとする政党は一つもない。
どれかがかみ合わず、何が何だかわからない始末。

だからといって、選挙に行かないわけにはいかないではないか。
行くべきだとは思うが、
小選挙区制が残っている限り、政党を選ばねばならない。
まさに選択肢が多すぎるのは、決定力を鈍らせる。

さて、いつも愛読させていただいているブログに、
北海道大学の、山口二郎教授のコラムが紹介されていた。
日本維新の会と太陽の会が提携したことについて、
誰もが理念不在、選挙目当てのご都合主義という批判を思い浮かべるだろう。
しかし、選挙に合わせて、とにかく1つの塊を作るという決断は、うらやましいと思う。
脱原発を掲げる陣営が四分五裂している様子を見ると、特に感じる。
選挙で多数の議席を得た政党が力を持つのが民主主義である。
選挙戦で候補者が正しいことを訴えたことに満足するだけでは、世の中は変わらない。
1つでも多くの議席を取るという欲望が政党に必要である。
脱原発を主張する勢力は、・・・(中略)比例代表で
脱原発という名の統一名簿を作り
小選挙区の惜敗率で議員を決めれば、あとくされもない。
脱原発第三極の結集を図れないものだろうか。
大義は明確なのだから、野合などと言われることはないはずだ。
というものだ。

今日、以前その政治姿勢に快哉を覚えた、嘉田滋賀県知事が『日本未来の党』を立ち上げた。
「脱原発」で、「国民の生活が第一」が結集するとのこと。
「みどりの風』と「減税日本・・・」も、後に続きそうだ。
『脱原発の第三極』の動きが、本当に始まったのだろうか。

ブログにあった、保守系でない7党には、あと4党。
右派が勢いづくなか、市民派にもリアリズムが必要、のもとに
結集できないか、本当に。
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「相手”に”悪いと思う」日本人 「相手”が”悪い」と思う中国人

2012年11月24日 | 日記


このタイトル、石平VS加瀬英明『徹底解明!ここまで違う日本と中国』にあった。
石平氏の言だが、言った当人がそこで爆笑している。

反日運動が激しく、その余波もなかなか収まらない中国。
その中国は、新体制になり、習近平氏が国家主席の地位に就(つ)いた。
この人は一体どんな人なのか。、どんな風に日本に対してくるのか。
今、日本のみならずアメリカもアジアの周辺諸国も注目しているところだ。

この本は、2年前に出た本だが、十分今に通ずる内容で興味深い。
仏教も儒教思想も、日本は中国から学んできた。
精神文化の「師匠」と仰いできた中国。
だから日本人は、先日の暴徒化する中国人の姿を、どうしても信じられない思いで見てしまう。

この「ズレ」を、この本は解き明かしてくれる。
この本の副題、「中華思想が日本を亡ぼす」にあるとおり、
本当に日本が早くこの誤解(中華思想に対する)を解かないと、亡ぼされてしまうかもしれない。

この「中華思想」については、本当に驚く。
地球上の国は全て自分のもの、というものだ。
自分だけが正しく、真っ当という思想。

たとえば、倭の卑弥呼という呼び名。
は、背丈が低い、小人で、汚らしいという意味だそうだ。
学校の世界史で習ったかの「倭人伝」は、
『魏志』の東夷伝の中に出てくるそうだが、
東夷のについて、孔子は、「中国に服従しない胡(野蛮人)」と定義している。

とにかく、自分だけが真っ当だから、大昔から自分の周りの国を、
獣偏(けものへん)か、虫偏(むしへん)の名前をつけて呼んでいた。
東夷、西戒(せいじゅう)、北狄(ほくてき)、南蛮と。

こういった思想の国にとって、野蛮人の日本などに敗れた日清戦争などは、
「言語に絶する大きなショック」だった。
西洋人はどこから来たかわからない、悪魔のような異星人である。
そんな西洋人に負けてもしょうがないけど、こともあろうに、日本に!

となる。

こういった中国と日本の関係。
これは、イスラム教徒とキリスト教徒との間の不毛な、どうしようもならない対立と同じことだ、という。
イスラム教徒たちは、自分たちがキリスト教圏に科学から文芸まで、
いろいろなことを教えてやったという時代を覚えていて

ヨーロッパの人々に対して、抜きがたい優越感がある、そうだ。

ところがある日気づいてみると、
キリスト教世界によって、もう、取り返しのつかないような、どうしようもない、大きな差をつけられてしまった。
加えて、イスラム教が世界で最も優れていて、世界をそのもとに置くべきだという、
イスラム版の中華思想がある。

結果、イスラム圏では、キリスト教圏のヨーロッパとアメリカに対して、
抜きがたい優越感と癒しがたい劣等感が共存している。
キリスト教世界がどうして長足の発展をとげたのか、
西洋のよいところや、長所をみることを拒んで、
彼らが好血だから、狡猾だから、我々を追い抜いたんだという説明しかしない。

反省なき劣等感が生む実りない攻撃と差別

日本についても、中国は同じで、
日本が和を重んじて、秩序ある社会を営んで、地道な努力をしてきたということなどを、
見ようとしない、そうだ。

この見方は、尖閣諸島問題についても、発揮された。
”俺の許可を得ていないのに、お前たち勝手にやっているじゃないか”と。
「愛国無罪」の愛国は、ナショナリズムではない。
「天下イズム」という、世界を支配下に治めないと、満足できない思想

これからの日本は、この「中華人民共和国」を正しく認識し直し、
上手に矛先をかわす外交が必要ということなのだろう。

今日、尖閣諸島の接続海域から、全ての中国船が退去したという。
また、あの徹底的に破壊された青島のイオンも、業務を完全再開したとのこと。
しかしそのなかで、大手ゼネコン「大林組」が中国市場から撤退することに決定、とのニュース。
そんな動きを、どんな風に解釈すべきかと考える、この頃である。
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「悪魔は細部に宿る」

2012年11月22日 | 日記


タイトルは、梶山恵司著『日本林業はよみがえる』にあった言葉だ。
『悪魔』とは、穏やかでない怖そうな表現だが、次のような意味で使われていた。

政治家の方は、大本(おおもと)を決めると、後は実務に任せて「良し」としてしまう。
しかし、どんな仕事、経営戦略も、PDSサイクルが基本と言われる。
つまり、Plan(計画)→Do(実行)→See(統制=評価)の繰り返しだ。

実務のあらゆる段階・細部にこそ追跡・確認・検証が必要で、
「ああ、あれどうなってる?」「あれ、どこまで進んでる?」「現場の反応はどう?」とか。
それをしないで任せきりにすれば、官僚の思い通りに運ばれることもある。
「つけいる隙」が生じることもある。

最悪の場合、「大本」で論議されていたものとは、
まったく意味の異なる政策内容に変わってしまうこともありうる、という。
「最後の詰めまで、目を離さず、関わっていることが必要」ということだ。

同じようなことを、古賀茂明氏の『侃々諤々』(週刊現代12月1日号)に見た。
原子力規制委員会についてふれた記事だ。

氏は、大きく2つの指摘をしている。
その一つが、自分もTVで見ていた、田中規制委員長の所信表明。
本来、規制する立場であれば、
活断層がないことがはっきり分からない限り止める」と言うべきだったのを、
活断層があれば止める。」という発言になったこと。

「ある」のであればもちろん、「あるかもしれないと言う可能性が残る」限りは止めるというのと、
「ある」と証明されない場合は、動かして良いとは意味が違う。
田中委員長は、官僚の用意した「止める」に誘導されて、
意図したこととは逆の表明をしてしまったというのだ。

実際、あの表明を聞いた側は、誰もが「止める=動かさない」と、あの時受け止めた。
しかし、改めてよく聞けば、「活断層があれば、止める」だ。
「ある」と証明されない限りは、「止めない=動かして良い」に、なってしまった。

こんな、言葉の微妙な使い方で、意味は異なるものになってしまった。
まさしく、「細部に悪魔が宿る」ではないか。

往々にして普通の人は、大本を決め、人に任せたら、
「後は細々したことに干渉しない」ことを、「良し」としないか?
小さなことにまで口出しするのは、「関係をギクシャクさせる」と思ってしまうもの。
任せた相手との信頼関係が失われるじゃないかと。

そこに、悪魔が宿る隙が生じた、ということだ。

二つ目は、スケジュール調整。
霞ヶ関には、「スケジュールを制するものが勝者」と言う鉄則がある、そうだ。
ニュースで見ていた自分も、規制委員会の「調査」は、「あれで良いのか?」と感じた。
予め関西電力が掘った溝を、コリコリ、あちこち削ったりつついていた様子は、
何かの「やらせ」にしか見えなかった。

この調査、実は時間にして1~2時間の調査だったという。
それで何か分かるものなのだろうか。
調査を「日帰り」にした上で、東京と大飯原発では遠いので、
短時間での調査になった、という。

委員の誰も疑問に思わなかったのであろうか。
なぜ、日帰りなのだろうか。日帰りで済むことなのか。
これもまた、手順の細部にわたって検討していないことのあらわれ、といえる。

調査の段取りは、事務方の原子力規制庁が仕切るのだそうだ。
おまけに、この鉄則はまた、「安全基準の抜本的見直し」にも当てはまる、という。
委員会は、来年3月までに骨格を示し、夏までには最終案をまとめると、
言わされてしまった。

日本の安全基準は世界水準からほど遠く、何十年も遅れているのだそうだ。
「抜本的見直し」というと、「新たに作る」ことになる。
0(ゼロ)から作るとなると、どのぐらい時間がかかるか分からない。
なのに、期限を委員自らが、区切ってしまった。

当然、「間に合わせる」ことになる。
どう間に合わせるかというと、”今の事務方には能力がないので”、
電力会社に教えてもらって作るしかない
事務方からは、「時間がありません」と脅されて、
委員は、微修正程度のもので了解するしかなくなる、という。

21日のNHK『クローズアップ現代』は、まさにこのことを特集していた。
専門家会議の1人、東北大の教授も嘆いていた。
「時間がないのに、急いで判断を求められる。考える時間もない。」と。

古賀氏は最後に、これの打開策も書いていた。
新たに規制委員の人選をやり直す。
10名以上の候補を、第三者委員会で選び、
国会で十分に議論したうえで、5人の委員を決定する手続きにするべき。

新任委員は、今までの委員会の決定には縛られずに活動を始めればよい。
委員はまた、
外国人を含めた自前のスタッフを持てるようにする
さらに、規制庁の人事権を”実質的に完全に”委員会が持てるようにする。
併せて、規制庁職員のノーリターンルールに例外を認めないこと。
これで、職員は規制庁の方を見て仕事をするようになる、という。

だが、これも選挙で原発推進の自民党が政権についたら・・・
八方ふさがりの、暗澹たる気分になる、そうだ。
自分も、同じ気分だ。
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文房具も好き。

2012年11月20日 | 日記


自分は、ブンボウガーである。
特に筆記具については、始末に負えない。
自分でそう思うのだから、家の者などにはとうに諦められ、見放されている。

自分には「こんなに違うじゃないか。」と思えて仕方がない物が、
家の者は皆同じに見える、という。
基本的に、筆を変えても「書く字に変化なし。」
下手な字が上手くなるわけでなし
、というわけだ。

けれども、それは違うと思う。
書き味、つまり筆の滑りは、「書く気」を猛烈にかき立てる。
握った感じも大事。
1人1人手の大きさも、指の長さも違うのだから、手にしっくりなじむ物は、
自ずと違ってくるわけで、自分サイズは無視できない要素。
それを求めて「買ってみる」ことなる。

重さも、ビミョウに書き味に影響する。
軽すぎると、ついつい調子づいて、軽佻浮薄な気分になり、そのような字を書いてしまう。
重すぎても、長い間書き続けることは出来ず、疲れてしまう。
(長編作家でもないのに・・・)

インクの色も大事。
黒々とした『黒色』は、メーカーによっても様々な色合いがあるが、
黒すぎる黒は重たくて、窮屈な感じ。自由じゃない。
少しグレイ気味のが、安心。(なんて、言ってる。)

上の写真は、或る大型文房具店の、高級筆記具のコーナーに並べられているインクである。
なんでも、この文房具店のPB(プライベートブランド)商品とのこと。
知る人ぞ知る『S』に、作ってもらっているのだとか。
10種類ぐらいの色が並んでいて、どれにしようかと迷わせられる。

ところで自分はこのインク、壺の形が気に入って購入した。
色は、『すずめ踊りだっ茶』。要するに、茶色。
『杜の四季シリーズ』の中の一色。
すらすらと、気に入った線が書けそうな雰囲気の色だったのだ。

しかし、飛びついたのは、そのインク壺のフォルム。
わけがわからない。
「美しい形は、インテリアになるのだ。」というのがそのわけなのだ。
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