2011年のカレンダー
1月~2月
I love the darkness in my heart. Because it is just a little part of the darkness
Jesus suffered.
わたしは心の闇を愛します。それはイエスが地上で苦しんだ闇の、ほんの小さな一部ですから。
3月~4月
Nobody can separate me from Jesus. Because l am united with crucified Jesus in emptiness.
だれもわたしをイエスから引き離すことができません。すべてを取り去られることで、十字架上のイエスと結ばれているからです。
5月~6月
If we do not suffer by ourselves, our work would not be a part of the redemption of Our Lord.
わたし自身の苦しみがなければ、わたしたちの活動は主に贖いの御業の一部になりません。
7月~8月
My eyes are fixed just on Jesus on the cross,because l am not given any other
comfort.
他に何のなぐさめも与えられていないからこそ、わたしはただ十字架上のイエスだけを見上げるのです。
9月~10月
When l see the people, who live on the street, I see in them Jesus, who thirsts for our love,and l myself.
わたしは路上で生活している人々の中に、愛に渇いたイエスの姿、そして自分自身の姿を見ます。
*マザーは困っている人,飢えている人,病気の人をキリストと思ってお世話をしていたのですね…。
11月~12月
If l ever become a Saint---- l will surely be one of darkness. I will always be absent from heaven to light the light in darkness.
もしもわたしが聖人になるなら、それは「暗闇」の聖人でしょう。天国を留守にして、暗闇に灯をつけて歩くに違いありません。
マザーの言葉の解説が最後のページに掲載されていました。
<闇に輝く光>
「わたしの中に恐ろしい闇があります」と霊的指導者たちに訴えるマザーテレサの手紙が,彼女の死後、列福調査の中で多数発見されました。どうやら1950年頃から,マザーの心は神の愛の温もりや光をまったく実感できない冷たい闇に覆われてしまったようなのです。
この闇をマザーは「喪失ゆえの苦しみ」と表現しています。1946年9月10日にダージリンへ向かう列車の中で出会って以来、いつもそばにいて励まし、導いてくれたイエスが突然どこかに行ってしまったことによる苦しみだというのです。
イエスがどこに行ったのか、なぜいなくなったのか分からないまま10年の歳月が流れました。この間,マザーを支えていたのは「いつかきっとイエスが戻ってくる」という「盲目的な信仰」だけでした。
そんなマザーに転機が訪れたのは、1961年のことです。ドイツから来たイエズス会員、ノイナー神父の指導する黙想会が終わった後、マザーは同神父に次のように書送りました。
「この11年間で初めて、わたしは闇を愛することができるようになりました。なぜなら、今のわたしはこの闇が地上でイエスが味わった闇と痛みの小さな、ほんの小さな一部でしかないと信じているからです。」
イエスが十字架上で味わった苦しみ、神への愛ゆえに自分の命さえ捧げたにもかかわらず神から見捨てられる」と言う究極の苦しみを、今自分もイエスと共に味わっているのだと直観することで、マザーはついに闇を積極的に受け入れたのです。
この闇は,実は1946年のイエスとの出会いの体験を完成するものだったようにも思えます。1946年にマザーはイエスの口から「渇く」という言葉を聞き「愛したいという、また愛されたいという神の無限の望みの深淵」を感じて愛の恵みに満たされましたが,今度はイエスと同じ渇きを味わうことで愛の苦しみにも満たされたのです。こうして愛される恵みと愛する苦しみの両側からイエスと結ばれることで、マザーはもはや分ちがたいほど十字架上のイエスと一つになりました。これほどまでに深くイエスの十字架と結ばれたマザーを通して,全世界に復活の栄光が輝いていたのはむしろ当然のことかもしれません。
今年のカレンダーで紹介するのは、マザーがこの闇と渇きの体験の中から発した言葉です。それぞれの苦しみを背負って生きるわたしたちに、これらの言葉は勇気とヒントを与えてくれるに違いありません。心に深く受け止め、生きるための糧としたいものです。
片柳弘史(イエズス会司祭)
*マザーの苦しみの体験がマザーの信仰の源だったのかもしれません。