LIVING IN THE MATERIAL WORLD

「口を開いても、自分が何を言おうとしているのか分からないことがある。
そして何であれ、口から出てきたものが出発点なんだ。
もしそういうことが起きて、しかも運が良ければ、大抵の場合それを歌に変えることができる。
この曲は祈りであり、僕と主と、そしてそれを気に入ってくれる人との間の個人的な声明文なんだ」
ジョージ・ハリスンは、彼の曲の中でも最も人気の高い曲の1つ
「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」について、こう語っていた。
この曲がシングルとしてリリースされたのは、1973年5月7日。
同曲が収録されているアルバム、つまりジョージにとってソロ4作目となる、
待望の『Living inThe Material World』の発売3週間前のことだった。
ジョージはアルバム『The Concert for Bangladesh』と同名映画の仕事で多忙を極めていたため
『All Things Must Pass』に続く新作に着手したのは、1972年半ばになってからであった。
当初ジョージは、フィル・スペクターと共に取り組むつもりでいたが、彼の当てにならない
仕事ぶりのせいでさらに遅れが生じ、最終的にハリスンは、自身がプロデュースを手掛けることで
新アルバムの制作を敢行することに決めた。
これまでのアルバムは、相当数のミュージシャンが参加していることが特徴だったが、
今回、1972年秋に行われた「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」のレコーディングで
集められたのは、遥かに少人数のグループであった。
1973年初めにジョージが後から加えた素晴らしいスライド・ギターを別とすれば、
この曲で輝きを放っているのはピアニストのニッキー・ホプキンスだ。
その他、この曲に参加しているミュージシャンは、元スプーキー・トゥースのオルガン奏者ゲイリー・ライト、
ベースには旧友クラウス・フォアマン、そしてデラニー&ボニーやジョー・コッカーのバンドの重鎮を務めた
ジム・ケルトナーがドラムスを担当している。
「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」は忽ち人気を博し、ジョージの曲の中でも
最も長く愛されている曲の1つとなったが、その理由はこの曲を聴けば簡単に分かる。
一見、シンプルに思えるものの、サウンド的にも歌詞に表現された感情の面でも、上辺とは異なる複雑さがあるのだ。
各楽器は、ミキシングによって完璧に配置されている。
ライトのオルガンを土台に、軽快でありながらリラックスした雰囲気を生んでいるケルトナーのドラムス。
ホプキンスは彼の世代で最も高い評価を受けているロック・ピアニストの1人で、
ジョージの素晴らしいスライド・ギター・フリルとソロ(彼のギター・ソロの中でも最高レベル)を完璧に引き立てている。
『Living inThe Material World』のリリース時に書かれたビルボード誌のレビューによれば
「ハリスンは人々を惹きつけると確信」しており「スタジオ仲間(リンゴ・スター、ゲイリー・ライト、
クラウス・フォアマン、レオン・ラッセル、ニッキー・ホプキンス、バッドフィンガーのピート・ハムら)に
囲まれて制作したこのロンドン産の作品は、本質的に内省的かつスピリチュアルだ」
当然ながら、このアルバムには、ジョージが手掛けた最高レベルの楽曲が、1曲ならず複数収録されている。
本作の収録曲で一番古いものは、1970年に遡る。
「Try Some, Buy Some」は1970年に書かれ、当初は元ロネッツのロニー・スペクターが1971年2月に
レコーディングしていた。
「Try Some, Buy Some」およびアルバム表題曲には、本作に収録された他の多くの曲同様、
ジョージの精神性が反映されている。
そこに含まれているのが「The Lord Loves the One(That Loves the Lord)」や
「「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」だ。
「The Day the World Gets ‘Round」は、1971年8月に開催したバングラデシュ難民救済コンサート
(Concert for Bangladesh)に触発されて書かれた曲である。
その他、ビートルズが残したレガシーを振り返っている曲もあり、特に「Sue Me, Sue You Blues」がそれに当たる。
だが本作は、単に“元ビートルズ”の1人としてだけでなく、独立した個人として見てほしいという、
ジョージの願いを反映したものとなっている。
そのカテゴリーに属しているのが「The Light That Has Lighted the World」や
「Who Can See It」そして「Be Here Now」などといった曲だ。
美しい「That Is All」や「Don't Let Me Wait Too Long」といった伝統的なラヴ・ソングには、
尚も精神性があるようだが、後者には、1960年代初頭のブリル・ビルディング直系の曲が持つあらゆる
特徴が備わっていると、複数の評論家が示唆している。
アルバムのタイトルおよび物質主義に対する自身の考え方を補強するかのように、ジョージは本作の
11曲のうち9曲と、アルバム未収録のシングルB面曲「Miss O’Dell」の著作権を自身が立ち上げた
<マテリアル・ワールド・チャリタブル基金>に寄贈した。
このチャリティ基金は、バングラデシュ難民救援活動を妨げた税務問題に対処するためと、
彼が選んだ他の慈善団体を支援するために設立されたものだ。
シングル「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」は、米国では1973年5月7日、
英国ではその2週間後にリリースされた。
同曲が全米チャート入りしてから6週間後、ジョージは全米シングル・チャート1位から、
ポール・マッカートニー&ウィングスの「My Love」を引き摺り下ろし、自ら首位の座に立った。
元ビートルズの2人で全米チャート上位2つの順位を独占したのは、この時が最初で最後である。
同シングルは、英国やカナダを始め、世界各国のシングル・チャートでトップ10入りを果たした。
興味深いことに、米国でアップル・レコードの配給を行っているキャピトル・レコードは、
アルバム・ヴァージョンよりも若干速いスピードでシングルをマスタリングしていた。
その方がラジオ映えすると、彼らは考えていたからである。
米国で既に大ヒットとなっていた『Living in The Material World』が全英チャート入りしたのは、
1973年7月7日のこと。
全米に続き、あと少しのところで英国でも首位を制しかけたが、ヒット映画『That'll Be The Day』の
ロックンロール・コンピレーション・サウンドトラックに阻まれ、惜しくも最高位2位に留まった。
想像力を刺激する、本作のタイトル。
後に、ジョージの軌跡について描かれた、マーティン・スコセッシ監督による2011年のドキュメンタリー映画と、
その公開に伴い、妻オリヴィア・ハリスンが刊行した、直筆の手紙や思い出の品々等を含む秘蔵写真が掲載された
豪華写真集の両方に、同じ題が付けられている。
ジョージは後にこう述べている。
「大抵の人が“物質社会”というのは純粋にお金と貪欲さを象徴していると捉え、不快感を覚えるのだろう。
だが僕の考えでは、それは“物質世界”を意味する。
それがお金と貪欲さなら、物質社会の貪欲な人々にお金をあげてしまえばいいという考えなんだ」
ジョージは自身が特別な人間であることを、彼がよくそうしていたように、ここでもまた証明していた。
- Richard Havers


DARK HORSE

ビートルズの解散を受け、完全なソロとして行ったジョージの初ツアーは、5枚目のスタジオ・アルバム発売に先駆けた、
1974年11月に幕を開けた。
これはビートルズ4人の先頭を切って行われた初めての北米ツアーでもあり、11月2日のカナダ公演を皮切りに
各地を回ったこの1974年ツアーには、バングラデシュ・コンサート同様、インドの熟練ミュージシャン、
ラヴィ・シャンカールが参加していた。
バンクラデシュ・コンサートの出演者で、1974年のツアーにも参加したその他のミュージシャンには、
幾つかのソロ曲も担当しバンドの要となっていたキーボード奏者のビリー・プレストン、
ドラマーのジム・ケルトナーとアンディ・ニューマーク、そしてトランペッターのチャック・フィンドレーらがいた。
74年ツアーの残りのバンド・メンバーは、サックス奏者のトム・スコットと、ジム・ホーン、
そしてギタリストのロベン・フォード。
その全員がLA・エクスプレスでスコットと一緒にやっており、3人共ジョージのアルバム『Dark Horse』に参加していた。
この時のツアーは、後に<ダーク・ホース>ツアーとして知られるようになった。
ジョージは自身が新たに立ち上げた同名レーベルを通じてラヴィと契約しており、26公演に渡って行われた
このツアーでは、ツアー終盤に発売された新作の曲も幾つか演奏されている。
だがこれは、ジョージにとって幸せな時間ではなかった。
彼はツアー中ずっと咽頭炎に苦しんでおり、毎晩ハチミツと酢とぬるま湯を混ぜた物でうがいをして症状の緩和に努めていた。
1日2公演を行った日が数多くあったという事実も、状況の改善には役立たなかった。
ポーランド公演はキャンセルを余儀なくされたものの、咽頭炎によって制約が生じたにも拘らず、
ジョージとバンドはツアー中ずっと、堂々たる演奏を披露し続けていた。
このツアーが一部から批判を受けたことにジョージは不快感を覚えたが、そんな批判がなされたのは、
驚くほど高い期待を事前に抱いていた人々がいて、簡単には得られないものを望んでいたためだと思われる。
アルバム『Dark Horse』の制作は、1973年11月、フライアー・パークの自宅で始まった。
セッションでは当初『Living In The Material World』に参加していたのと同じラインナップのミュージシャンを起用。
つまり、リンゴ・スター、ジム・ケルトナー、クラウス・フォアマン、そしてゲイリー・ライトとニッキー・ホプキンスが、
代わる代わるキーボードを担当していた。
この時点でレコーディングされていたのが、「Ding Dong, Ding Dong」と、表題曲の初期ヴァージョン、
そして「So Sad」のベーシック・トラックだ。
1975年3月、ジョージの近隣に住んでいた、テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーと、その後間もなくして
ローリング・ストーンに加入するロニー・ウッドが「Ding Dong」にリード・ギター・パートを加えている。
1974年4月、ジョージはロンドンのニュー・ビクトリア劇場で行われたジョニ・ミッチェルのコンサートを観に行った。
彼は、ジョニのバックを勤めていたジャズ・ロック・バンド、LAエクスプレスに感銘を受け、
サックス奏者兼フルート奏者のトム・スコットが率いるこのバンドを、翌日フライアー・パークに招待。
これで、ハリスン、スコット、ロベン・フォード(ギター)ロジャー・ケラウェイ(キーボード)
マックス・ベネット(ベース)ジョン・ゲラン(ドラムス)が揃い、この顔触れでインスト・トラックを録音。
それが後に、アルバムのオープング曲「Hari’s on Tour (Express)」となった。
彼らはまた、 アルバム『Dark Horse』収録の「Simply Shadey」も録音している。
スコットはその後しばらくフライアー・パークに滞在し「Ding Dong」の他、2つの新曲にホーンを被せて録音した。
8月下旬、ジョージは、ビリー・プレストン、スコット、ドラマーのアンディ・ニューマーク、
ベースにウィリー・ウィークスという面々でアルバムに着手。
この全員がツアーに参加する契約もしていた。
彼らがレコーディングしたのは「Maya Love」と「Far East Man」そして「It Is He(Jai Sri Krishna)」だ。
10月上旬、ジョージはLAに飛んでツアーの準備を始めたが、その時彼の声は既に不調に陥っていた。
新しいアルバムを完成させなければならない状況の中、彼は相当なプレッシャーを受けていたのだった。
ジョージはハリウッドのA&Mスタジオを使い、ツアー・バンドと共にサウンド・ステージでリハーサルを行った。
同時に、フライアー・パークでレコーディング済みだった『Dark Horse』の楽曲に、A&Mで録音した
多くのヴォーカルを加えて曲を完成。
ジョージが喉頭炎と診断されたのは、この間のことだ。
スコットによると、ジョージはある晩一人でスタジオに入り、モーグ・シンセサイザー、ドラムス、
エレクトリック・ピアノ、エレクトリック・ギター・パートをアコースティック・ギターに加え
「Bye Bye, Love」を録音したという。
「I Don’t Care Anymore」がレコーディングされたのもこの段階のことで、同曲はアルバムには収録
されなかったものの、米国ではシングル「Dark Horse」のB面となり、その後英国では
「Ding Dong, Ding Dong」のB面に採用された。
結局ジョージは、自宅スタジオで録音した方の「Dark Horse」をボツにし、ツアー・ミュージシャン達と
同曲を録音し直している。
アルバム発表時のレビューは絶賛とは言えなかったが、時間と共に、人々は本作を異なる次元で評価するようになった。
当時のジョージの世界が本作で絶頂期を迎えつつあったのと同時に、素晴らしい何曲かがここに含まれていることに
気づいたからである。
作品発表時のレビューというものは、掲載紙(誌)の締め切りに間に合わせるため、早急に書き上げなければならない
ことが往々にしてありがちだ。
あなたのお気に入りのアルバム・コレクションの中に、購入当初にはその真価に気づかなかった作品が一体何枚あるだろう?
恐らく沢山あるのではないか。
『Dark Horse』は、そういったアルバムの1つであるはずだ。
ツアーを終え、アルバムを発表したジョージが、1975年1月にフライアー・パークに戻った際、彼はデレク・テイラーに
こう言った。
「飛行機から降りて、家に帰ると、まず庭に行ったんだ。すごくホッとしたよ。 あの時、僕は神経衰弱スレスレだった。
家の中に入ることさえできなかったんだ」
その3ヵ月後、彼はロサンゼルスに戻り、次のアルバム『Extra Texture (Read All About It)』に着手することになる。


ジョージ・ハリスン『EXTRA TEXTURE(邦題:ジョージ・ハリスン帝国)』

不運に見舞われた1974年のツアー後、ジョージは1975年1月、フライアー・パークに帰還。
デレク・テイラーにこう語っている「飛行機から降りて、家に帰ると、まず庭に行ったんだ。すごくホッとしたよ。
あの時、僕は神経衰弱スレスレだった。 家の中に入ることさえできなかったんだ」
その3ヵ月後、新しいアルバムを録音するためロサンゼルスに戻ったジョージ。
それはジョージにとってEMI/アップルからリリースされる最後の作品となった。
またLAでは、自身のレコード・レーベル<ダーク・ホース>や、同社が契約して間もないアーティスト達、
つまりステアステップス、ヘンリー・マカラック、そしてアティテュードらの事務処理も行なっていた。
別のダーク・ホース契約アーティストであるスプリンターが、ロサンゼルスのラ・ブレア・アベニューにある
A&Mのスタジオを予約していたものの、様々な事情からセッションを行うことができなくなったため、
ジョージはその時間をアルバムのレコーディングに使うことにした。
それが後に(正式名称で)『Extra Texture (Read All About It)』となるアルバムだ。
ジョージが長らく抱えてきた感情の発露となった、この作品の制作に手を貸したミュージシャンには、
ゲイリー・ライト、ジェシー・エド・デイヴィス、クラウス・フォアマン、トム・スコット、
そしてジム・ホーンら、数多くの旧友が含まれている。
本作のほぼ全体に参加しているもう1人の旧友が、ドラマーのジム・ケルトナーだ。
彼はカナダのキーボード奏者デヴィッド・フォスターと共にアティテュードを結成していた。
フォスターは『Extra Texture (Read All About It)』で、ピアノ、オルガン、シンセサイザーを担当しており、
「This Guitar (Can’t Keep from Crying)(邦題:ギターが泣いている)」と
「The Answer’s at the End(邦題:答えは最後に)」
「Can’t Stop Thinking About You(邦題:つのる想い)」でストリングスの編曲に貢献。
LAのセッションでは、アティテュードのポール・ストールワースが、ジョージ自身や
フォアマンとベースを分担している。
1975年4月21日から5月7日にかけ、ジョージは書き溜めていた曲のベーシック・トラックを録音。
まず着手したのが「Tired of Midnight Blue(邦題:哀しみのミッドナイト・ブルー)」と
「The Answer’s at the End」だ。 5月31日にジョージはオーバーダブを開始し、
この時、「You(邦題:二人はアイ・ラヴ・ユー)」と呼んでいた曲を再検討することにした。
これは、ロニー・スペクターが夫フィル・スペクターによるプロデュースの下、アップルから
ソロ・アルバムのリリースを計画していた際、1971年2月上旬に録音していた曲だ。
ロサンゼルスでは、ジム・ホーンがサックス・ソロを録音するためスタジオ入りし、他の楽器パートも追加された。
本作には同曲のリプライズで、それにふさわしいタイトルが付けられた
「A Bit More of You(邦題:君を抱きしめて)」も収録されている。
ジョージによるスモーキー・ロビンソンへの豪華なトリビュート曲
「Ooh Baby (You Know That I Love You)(邦題:うー・ベイビー、わかるかい)」と、
「His Name Is Legs (Ladies and Gentlemen)(邦題:主人公レッグス)」では、
サックス奏者トム・スコットに加え、ジョージのツアー・バンドの一員だった
トランペッターのチャック・フィンドリーが、ホーンのオーバーダブに参加。
曲題にある“Legs”は、1960年代に活躍し、コメディ・チームのモンティ・パイソンらにも
多大な影響を与えた、ボンゾ・ドッグ・バンドのドラマー“レッグス”ことラリー・スミスを指す。
この曲のベーシック・トラックは、前年に行ったアルバム『Dark Horses』のセッション中に
フライアー・パークで録音されたものだ。
スモーキーにインスピレーションを受けたジョージの曲は、思ったほど、本作の残りの大半の曲からかけ離れた
トラックにはなっていない。
『Extra Texture』は、ジョージの“ソウル・アルバム”であり、彼が魂(ソウル)をさらけだしていると同時に、
この時点までのキャリアで手掛けてきたソロ曲との大半と比べ、よりソウルフルなアプローチを取っている。
本作は、所々メランコリックである一方、時の試練に耐え得る非常に美しいアルバムでもある。
本作において、フライアー・パークにあるジョージの家にインスピレーションを受けた
「The Answer’s at the End」より美しい曲は恐らく他にないだろう。
オックスフォードシャー州ヘンリー・オン・テムズにあるヴィクトリア朝ゴシック様式のその邸宅は、
1890年代、ロンドン市の弁護士で顕微鏡愛好家のフランク・クリスプによって、13世紀の修道院の跡地に建設された。
家のインテリア・デザインと庭園の両方に、クリスプの奇抜な発想や風変わりな嗜好が反映されており、
庭の塀の入り口上部に次のような碑文が刻まれているのをジョージは見つけた。
「友人を顕微鏡で注意深く調べてはいけない。彼の短所は分かっているのだから、些細な欠点など受け流すことだ。
友よ、人生は一つの長い謎である。だから、読んで、読み通すのだ、答えは最後にある」
(ビートルズが崩壊へと向かっていた辛い時期、恐らくジョージが心に留めていたであろう)
このような胸を打つ文章を見つけ出すということと、その文にこんなにも素敵なメロディーを付けるということは、
全くの別物だ。
このトラックは、デヴィッド・フォスターが手掛けた素敵な弦楽アレンジから多大な恩恵を受けているが、
それ以上に効果を発揮しているのが彼の華麗なピアノ演奏である。
ジョージにとって最大の隠れた名曲ではないだろうか?
「This Guitar (Can’t Keep from Crying)」は、1974年の北米ツアーで受けた批判に応える形で
ジョージが書いた曲で、1975年12月にシングルとしてリリースされたが、これほど良い曲にも拘らず、
驚いたことチャート入りを果たせなかった。
「While My Guitar Gently Weeps」と比較されることはほぼ避けられず、ジョージが1968年に発表した
そのアンセム曲の水準に達していなくても驚くほどのことではない。
だが想像してみてほしい、もし「While My Guitar…」が存在していなかったどうだっただろう?
「This Guitar」はきっと、全く違った見方をされていたはず。これはそれほど優れた曲だからだ。
この曲もフォスターのピアノ演奏と弦楽アレンジのスキルから恩恵を受けている。
ジョージのスライド・ギターが前面に押し出されているが、それ自体『Extra Texture』では稀なことだ。
ジョージは1992年「This Guitar (Can’t Keep from Crying)」を、この曲でエレクトリック・ギターを
弾いているデイヴ・スチュワートのためにデモとして再レコーディング。
その10年後、スチュワートのプロジェクト『Platinum Weird』のために、リンゴがドラムを重ね、
ダーニ・ハリスンがギターを、カーラ・ディオガルディがヴォーカルを加えた。
それが本作のリマスター盤にボーナス・トラックとして収録されている。
「Can't Stop Thinking About You」もまたソウル・ソングで、この曲を“ポップ”だと
退けてしまう人もいるが、それは的外れだ。
ポップであることに何ら問題はないし、この曲にも問題など何一つない。
この曲にはソウル的な感覚が漂っているにも拘らず、どこか『All Things Must Pass』を思わせる
ハーモニー・コーラスとバック・コーラスがあり、やはり典型的なジョージの曲だ。
恐らく最も驚くべきは、この曲がシングルとしてリリースされなかったことだろう。
その他、誰もが納得のシングル「You」は、アルバム発売の2週間前にリリースされた。
英国ではBBCレディオ1の“今週のイチ押しシングル”に選ばれたにも拘らず、全英チャートで最高位38位に留まった。
米国では、全米チャートのトップ20に2週間ランクインしている。
「You」には、カール・レイドルとジム・ゴードンが参加しており、1971年2月にレコーディング。
その後間もなくして彼らは、デレク&ザ・ドミノスの2作目に着手したが、そのアルバムはお蔵入りとなった。
米国では1975年9月22日に、そして英国ではその2週間後にリリースされた
『Extra Texture (Read All About It)』は、世間一般から称賛を受けることはできなかった。
むしろその真逆だったと言える。
世の中の人々も批評家も、ジョージ・ハリスンのあらゆる作品に対して高い期待を抱いており、
殆ど大抵の場合、彼らは判断の基準を、レビュー執筆時に聴いているものにではなく、過去の作品に置いていた。
また批評家達には、対処しなければならない問題がもう一つある。つまり、聴き込み不足の問題だ。
編集者は短時間でレビューを大量生産する必要があり、その音楽に必要な聴き込み込みレベルに達していなくても、
急いでレビューを書かなくてはならないのだ。
このアルバムも例外ではない。
本作は晩成型であり、1970年代という不思議な年代の中盤に活躍していた、同時代のアーティストの作品の
数々と比べても、遥かに時の流れに耐え得るアルバムであることが証明されている。
本作はそれでも尚、全米チャートで8位を記録、全英でも16位となった。
もしあなたがこのアルバムを見落としていたとしたら、試しに聴いてみても決して失望することはないはずだ……。
そして憶えておいていただきたい、1度聴いただけでは決して十分ではないことを。


ジョージ・ハリスン『Thirty Three & 1/3』

1974年9月、ジョージ・ハリスンのレコード・レーベル<ダーク・ホース>から、最初の2枚のシングルがリリースされた。
その1枚目となったのが、ラヴィ・シャンカールの「I Am Missing You」だ。
ハリスンがプロデュースとアレンジを手がけた同シングルは、シャンカールには珍しく西洋のポップ・スタイルの曲となっている。
同日リリースされたもう1枚のシングルは、オーストラリアと南アフリカでトップ10入りを果たし、
全英ではトップ20入りしたスプリンターの「Costafine Town」であった。
それから2年後、他レーベルとの契約上の義務が終了し、アップル・レコードが段階的な縮小を行っていたのに伴って、
ジョージは自身のレーベルと契約。
その数年の間に、ダーク・ホースからは、ステアステップス、ジーヴァ(ウィングス脱退直後の)ヘンリー・マカロック、
そしてアティテュードというバンドの作品がリリースされている。
ハリスンの1975年のアルバム『Extra Texture (Read All About It)』の際に結成されたアティテュードには、
キーボード奏者のデヴィッド・フォスターが在籍。
彼はジョージのダーク・ホース移籍第1弾アルバム『Thirty Three & 1/3』にも参加している。
ジョージにとって通算7作目のソロ・スタジオ・アルバムとなる本作は、1976年5月下旬から9月中旬までの間に、
彼の自宅であるフライアー・パークで録音され、2ヶ月後の11月19日にリリースされた。
このアルバムの制作に着手した直後、ジョージは肝炎に感染。夏の盛りの間中、殆ど仕事ができない状態に陥った。
鍼灸や他の非伝統的治療法のおかげで健康を回復した後、ジョージはすぐにアルバムを完成。
本作のタイトルには、彼の年齢とLPレコードの回転数の両方が反映されている。
本アルバムに参加している他のミュージシャンは、ベーシストのウィリー・ウィークス、ドラマーのアルヴィン・テイラー、
キーボード奏者のリチャード・ティーとデヴィッド・フォスター、ジャズ・パーカッショニストのエミル・リチャーズら、
全員がアメリカ人だ。
ジョージはまた、彼の長年の音楽仲間であるゲイリー・ライトとビリー・プレストンの2人にキーボードを演奏してもらっている。 その他、ジョージとしばらく前から一緒に仕事をしているホーン奏者のトム・スコットも参加。
メイン・プロデューサーであるジョージの補佐として、彼が本作のプロデュースをアシストしたことがクレジットに記されている。
本作収録曲の1つ「See Yourself」は、ジョージが1967年に書き始めた曲だ。
長年温めていた曲はこれだけではない。
「Woman Don’t You Cry for Me(邦題:僕のために泣かないで)」と「Beautiful Girl」は両曲共、
1960年代後半にその起源が遡る。
アルバムのオープニング曲でもある前者は、彼がデラニー&ボニーとツアーを行っている最中に思いついたものだ。
この曲はジョージのスライド・ギターが特色となっており、自身よりも有名なこのバンド・メンバーに
スライドを演奏するというアイディアを授けたのは、デラニー・ブラムレットであった。
「See Yourself」と「Dear One」は、どちらも『あるヨギの自叙伝』(原題:Autobiography of a Yogi)の
著者であるパラマハンサ・ヨガナンダに触発されて書いた曲だ。
ジョージは1966年9月のインド訪問時に、この本を読んでいた。
新曲の中には「This Song」と題されたものがある。
これは「My Sweet Lord」とシフォンズの「He's So Fine」の類似性に関し、盗作の告発を受けて
訴訟問題に発展したこと、そしてその時の苦難に対するジョージの音楽的な見解となっている。
「Crackerbox Palace(邦題:人生の夜明け)」は、1976年初め、ジョージがコメディアンの
ロード・バックリーのマネージャーだった人物と出会った時の話を元に書かれた曲だ。
“ジョージのソウル・アルバム”とも呼ばれている本作で、特に際立っているのが、
優美な「Pure Smokey」であるという意見は数多い。
スモーキー・ロビンソンに捧げられたこの曲は、 モータウンの伝説的存在の功績を讃える繊細かつ
美しいバラードとなっており、ジョージの最も素晴らしいギター・ソロのうち2つがフィーチャーされている。
『Thirty Three & 1/3』のリード・シングルは「This Song」で、そのB面に選ばれたのは、同じく本作収録の
華やかな「Learning How To Love You(邦題:愛のてだて)」だった。
英国向けシングル「It’s What You Value」には、B面としてオープニング曲「Woman Don’t You Cry For Me」を収録。「It’s What You Value」は、ドラマーのジム・ケルトナーが1974年にジョージとツアーを行った際、
ギャラを現金で支払ってもらう代わりに、メルセデス・ベンツのスポーツカーの新車が欲しいと求めた後で書かれたものだ。
このアルバムにはカヴァーも1曲収録されている。それは、ビング・クロスビーが映画『上流社会』(原題:High Society)で歌ったことで有名になった、コール・ポーターの曲「True Love」だ。
『Thirty Three & 1/3』は 、米国での売り上げが『Dark Horse』と「Extra Texture』の両作を上回り、
全米チャートで最高位11位を記録。
一方、楽曲の質の高さをを考えれば理解しがたいことではあるが、英国では最高位35位に留まった。
だがよく考えてみれば、ジョージが本作のレコーディングを終了した2日後に、あのパンク・フェスティバルが
ロンドンの100クラブで開催されたのだ……音楽の時勢は変化の真っ只中にあった。
「This Song」と「Crackerbox Palace」は、全米チャートでそれぞれ最高位26位と19位を記録。
英国でリリースされた3枚のシングルは、いずれもチャートインを果たせなかった。
本作発表時、米ビルボード誌は「ラヴ・ソングとご機嫌なジョークが満載の、明るく元気なこのアルバムは、
恐らくジョージのソロ・キャリア全体の中で、最も野心が控えめな、最も楽しげで、そして最も商業路線寄りの
アルバムだろう」と評していた。それに異議を唱えることは不可能である。
同時期の他のレビューはそこまで寛容ではなかったが『Thirty Three & 1/3』は、時代を経ると共に味わいを深めた作品だ。
本作には穏やかさがあり、聴き手を魅了する内省性がある。
回顧的な評論家の1人が近年語っていた通り“壮麗な「Dear On」”は、このアルバムの“数え切れない名曲”のうちの1つ。
本作は上等なワインのように、年を重ねる毎に良さを増すアルバムなのだ。



「口を開いても、自分が何を言おうとしているのか分からないことがある。
そして何であれ、口から出てきたものが出発点なんだ。
もしそういうことが起きて、しかも運が良ければ、大抵の場合それを歌に変えることができる。
この曲は祈りであり、僕と主と、そしてそれを気に入ってくれる人との間の個人的な声明文なんだ」
ジョージ・ハリスンは、彼の曲の中でも最も人気の高い曲の1つ
「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」について、こう語っていた。
この曲がシングルとしてリリースされたのは、1973年5月7日。
同曲が収録されているアルバム、つまりジョージにとってソロ4作目となる、
待望の『Living inThe Material World』の発売3週間前のことだった。
ジョージはアルバム『The Concert for Bangladesh』と同名映画の仕事で多忙を極めていたため
『All Things Must Pass』に続く新作に着手したのは、1972年半ばになってからであった。
当初ジョージは、フィル・スペクターと共に取り組むつもりでいたが、彼の当てにならない
仕事ぶりのせいでさらに遅れが生じ、最終的にハリスンは、自身がプロデュースを手掛けることで
新アルバムの制作を敢行することに決めた。
これまでのアルバムは、相当数のミュージシャンが参加していることが特徴だったが、
今回、1972年秋に行われた「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」のレコーディングで
集められたのは、遥かに少人数のグループであった。
1973年初めにジョージが後から加えた素晴らしいスライド・ギターを別とすれば、
この曲で輝きを放っているのはピアニストのニッキー・ホプキンスだ。
その他、この曲に参加しているミュージシャンは、元スプーキー・トゥースのオルガン奏者ゲイリー・ライト、
ベースには旧友クラウス・フォアマン、そしてデラニー&ボニーやジョー・コッカーのバンドの重鎮を務めた
ジム・ケルトナーがドラムスを担当している。
「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」は忽ち人気を博し、ジョージの曲の中でも
最も長く愛されている曲の1つとなったが、その理由はこの曲を聴けば簡単に分かる。
一見、シンプルに思えるものの、サウンド的にも歌詞に表現された感情の面でも、上辺とは異なる複雑さがあるのだ。
各楽器は、ミキシングによって完璧に配置されている。
ライトのオルガンを土台に、軽快でありながらリラックスした雰囲気を生んでいるケルトナーのドラムス。
ホプキンスは彼の世代で最も高い評価を受けているロック・ピアニストの1人で、
ジョージの素晴らしいスライド・ギター・フリルとソロ(彼のギター・ソロの中でも最高レベル)を完璧に引き立てている。
『Living inThe Material World』のリリース時に書かれたビルボード誌のレビューによれば
「ハリスンは人々を惹きつけると確信」しており「スタジオ仲間(リンゴ・スター、ゲイリー・ライト、
クラウス・フォアマン、レオン・ラッセル、ニッキー・ホプキンス、バッドフィンガーのピート・ハムら)に
囲まれて制作したこのロンドン産の作品は、本質的に内省的かつスピリチュアルだ」
当然ながら、このアルバムには、ジョージが手掛けた最高レベルの楽曲が、1曲ならず複数収録されている。
本作の収録曲で一番古いものは、1970年に遡る。
「Try Some, Buy Some」は1970年に書かれ、当初は元ロネッツのロニー・スペクターが1971年2月に
レコーディングしていた。
「Try Some, Buy Some」およびアルバム表題曲には、本作に収録された他の多くの曲同様、
ジョージの精神性が反映されている。
そこに含まれているのが「The Lord Loves the One(That Loves the Lord)」や
「「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」だ。
「The Day the World Gets ‘Round」は、1971年8月に開催したバングラデシュ難民救済コンサート
(Concert for Bangladesh)に触発されて書かれた曲である。
その他、ビートルズが残したレガシーを振り返っている曲もあり、特に「Sue Me, Sue You Blues」がそれに当たる。
だが本作は、単に“元ビートルズ”の1人としてだけでなく、独立した個人として見てほしいという、
ジョージの願いを反映したものとなっている。
そのカテゴリーに属しているのが「The Light That Has Lighted the World」や
「Who Can See It」そして「Be Here Now」などといった曲だ。
美しい「That Is All」や「Don't Let Me Wait Too Long」といった伝統的なラヴ・ソングには、
尚も精神性があるようだが、後者には、1960年代初頭のブリル・ビルディング直系の曲が持つあらゆる
特徴が備わっていると、複数の評論家が示唆している。
アルバムのタイトルおよび物質主義に対する自身の考え方を補強するかのように、ジョージは本作の
11曲のうち9曲と、アルバム未収録のシングルB面曲「Miss O’Dell」の著作権を自身が立ち上げた
<マテリアル・ワールド・チャリタブル基金>に寄贈した。
このチャリティ基金は、バングラデシュ難民救援活動を妨げた税務問題に対処するためと、
彼が選んだ他の慈善団体を支援するために設立されたものだ。
シングル「Give Me Love (Give Me Peace on Earth)」は、米国では1973年5月7日、
英国ではその2週間後にリリースされた。
同曲が全米チャート入りしてから6週間後、ジョージは全米シングル・チャート1位から、
ポール・マッカートニー&ウィングスの「My Love」を引き摺り下ろし、自ら首位の座に立った。
元ビートルズの2人で全米チャート上位2つの順位を独占したのは、この時が最初で最後である。
同シングルは、英国やカナダを始め、世界各国のシングル・チャートでトップ10入りを果たした。
興味深いことに、米国でアップル・レコードの配給を行っているキャピトル・レコードは、
アルバム・ヴァージョンよりも若干速いスピードでシングルをマスタリングしていた。
その方がラジオ映えすると、彼らは考えていたからである。
米国で既に大ヒットとなっていた『Living in The Material World』が全英チャート入りしたのは、
1973年7月7日のこと。
全米に続き、あと少しのところで英国でも首位を制しかけたが、ヒット映画『That'll Be The Day』の
ロックンロール・コンピレーション・サウンドトラックに阻まれ、惜しくも最高位2位に留まった。
想像力を刺激する、本作のタイトル。
後に、ジョージの軌跡について描かれた、マーティン・スコセッシ監督による2011年のドキュメンタリー映画と、
その公開に伴い、妻オリヴィア・ハリスンが刊行した、直筆の手紙や思い出の品々等を含む秘蔵写真が掲載された
豪華写真集の両方に、同じ題が付けられている。
ジョージは後にこう述べている。
「大抵の人が“物質社会”というのは純粋にお金と貪欲さを象徴していると捉え、不快感を覚えるのだろう。
だが僕の考えでは、それは“物質世界”を意味する。
それがお金と貪欲さなら、物質社会の貪欲な人々にお金をあげてしまえばいいという考えなんだ」
ジョージは自身が特別な人間であることを、彼がよくそうしていたように、ここでもまた証明していた。
- Richard Havers



DARK HORSE

ビートルズの解散を受け、完全なソロとして行ったジョージの初ツアーは、5枚目のスタジオ・アルバム発売に先駆けた、
1974年11月に幕を開けた。
これはビートルズ4人の先頭を切って行われた初めての北米ツアーでもあり、11月2日のカナダ公演を皮切りに
各地を回ったこの1974年ツアーには、バングラデシュ・コンサート同様、インドの熟練ミュージシャン、
ラヴィ・シャンカールが参加していた。
バンクラデシュ・コンサートの出演者で、1974年のツアーにも参加したその他のミュージシャンには、
幾つかのソロ曲も担当しバンドの要となっていたキーボード奏者のビリー・プレストン、
ドラマーのジム・ケルトナーとアンディ・ニューマーク、そしてトランペッターのチャック・フィンドレーらがいた。
74年ツアーの残りのバンド・メンバーは、サックス奏者のトム・スコットと、ジム・ホーン、
そしてギタリストのロベン・フォード。
その全員がLA・エクスプレスでスコットと一緒にやっており、3人共ジョージのアルバム『Dark Horse』に参加していた。
この時のツアーは、後に<ダーク・ホース>ツアーとして知られるようになった。
ジョージは自身が新たに立ち上げた同名レーベルを通じてラヴィと契約しており、26公演に渡って行われた
このツアーでは、ツアー終盤に発売された新作の曲も幾つか演奏されている。
だがこれは、ジョージにとって幸せな時間ではなかった。
彼はツアー中ずっと咽頭炎に苦しんでおり、毎晩ハチミツと酢とぬるま湯を混ぜた物でうがいをして症状の緩和に努めていた。
1日2公演を行った日が数多くあったという事実も、状況の改善には役立たなかった。
ポーランド公演はキャンセルを余儀なくされたものの、咽頭炎によって制約が生じたにも拘らず、
ジョージとバンドはツアー中ずっと、堂々たる演奏を披露し続けていた。
このツアーが一部から批判を受けたことにジョージは不快感を覚えたが、そんな批判がなされたのは、
驚くほど高い期待を事前に抱いていた人々がいて、簡単には得られないものを望んでいたためだと思われる。
アルバム『Dark Horse』の制作は、1973年11月、フライアー・パークの自宅で始まった。
セッションでは当初『Living In The Material World』に参加していたのと同じラインナップのミュージシャンを起用。
つまり、リンゴ・スター、ジム・ケルトナー、クラウス・フォアマン、そしてゲイリー・ライトとニッキー・ホプキンスが、
代わる代わるキーボードを担当していた。
この時点でレコーディングされていたのが、「Ding Dong, Ding Dong」と、表題曲の初期ヴァージョン、
そして「So Sad」のベーシック・トラックだ。
1975年3月、ジョージの近隣に住んでいた、テン・イヤーズ・アフターのアルヴィン・リーと、その後間もなくして
ローリング・ストーンに加入するロニー・ウッドが「Ding Dong」にリード・ギター・パートを加えている。
1974年4月、ジョージはロンドンのニュー・ビクトリア劇場で行われたジョニ・ミッチェルのコンサートを観に行った。
彼は、ジョニのバックを勤めていたジャズ・ロック・バンド、LAエクスプレスに感銘を受け、
サックス奏者兼フルート奏者のトム・スコットが率いるこのバンドを、翌日フライアー・パークに招待。
これで、ハリスン、スコット、ロベン・フォード(ギター)ロジャー・ケラウェイ(キーボード)
マックス・ベネット(ベース)ジョン・ゲラン(ドラムス)が揃い、この顔触れでインスト・トラックを録音。
それが後に、アルバムのオープング曲「Hari’s on Tour (Express)」となった。
彼らはまた、 アルバム『Dark Horse』収録の「Simply Shadey」も録音している。
スコットはその後しばらくフライアー・パークに滞在し「Ding Dong」の他、2つの新曲にホーンを被せて録音した。
8月下旬、ジョージは、ビリー・プレストン、スコット、ドラマーのアンディ・ニューマーク、
ベースにウィリー・ウィークスという面々でアルバムに着手。
この全員がツアーに参加する契約もしていた。
彼らがレコーディングしたのは「Maya Love」と「Far East Man」そして「It Is He(Jai Sri Krishna)」だ。
10月上旬、ジョージはLAに飛んでツアーの準備を始めたが、その時彼の声は既に不調に陥っていた。
新しいアルバムを完成させなければならない状況の中、彼は相当なプレッシャーを受けていたのだった。
ジョージはハリウッドのA&Mスタジオを使い、ツアー・バンドと共にサウンド・ステージでリハーサルを行った。
同時に、フライアー・パークでレコーディング済みだった『Dark Horse』の楽曲に、A&Mで録音した
多くのヴォーカルを加えて曲を完成。
ジョージが喉頭炎と診断されたのは、この間のことだ。
スコットによると、ジョージはある晩一人でスタジオに入り、モーグ・シンセサイザー、ドラムス、
エレクトリック・ピアノ、エレクトリック・ギター・パートをアコースティック・ギターに加え
「Bye Bye, Love」を録音したという。
「I Don’t Care Anymore」がレコーディングされたのもこの段階のことで、同曲はアルバムには収録
されなかったものの、米国ではシングル「Dark Horse」のB面となり、その後英国では
「Ding Dong, Ding Dong」のB面に採用された。
結局ジョージは、自宅スタジオで録音した方の「Dark Horse」をボツにし、ツアー・ミュージシャン達と
同曲を録音し直している。
アルバム発表時のレビューは絶賛とは言えなかったが、時間と共に、人々は本作を異なる次元で評価するようになった。
当時のジョージの世界が本作で絶頂期を迎えつつあったのと同時に、素晴らしい何曲かがここに含まれていることに
気づいたからである。
作品発表時のレビューというものは、掲載紙(誌)の締め切りに間に合わせるため、早急に書き上げなければならない
ことが往々にしてありがちだ。
あなたのお気に入りのアルバム・コレクションの中に、購入当初にはその真価に気づかなかった作品が一体何枚あるだろう?
恐らく沢山あるのではないか。
『Dark Horse』は、そういったアルバムの1つであるはずだ。
ツアーを終え、アルバムを発表したジョージが、1975年1月にフライアー・パークに戻った際、彼はデレク・テイラーに
こう言った。
「飛行機から降りて、家に帰ると、まず庭に行ったんだ。すごくホッとしたよ。 あの時、僕は神経衰弱スレスレだった。
家の中に入ることさえできなかったんだ」
その3ヵ月後、彼はロサンゼルスに戻り、次のアルバム『Extra Texture (Read All About It)』に着手することになる。



ジョージ・ハリスン『EXTRA TEXTURE(邦題:ジョージ・ハリスン帝国)』

不運に見舞われた1974年のツアー後、ジョージは1975年1月、フライアー・パークに帰還。
デレク・テイラーにこう語っている「飛行機から降りて、家に帰ると、まず庭に行ったんだ。すごくホッとしたよ。
あの時、僕は神経衰弱スレスレだった。 家の中に入ることさえできなかったんだ」
その3ヵ月後、新しいアルバムを録音するためロサンゼルスに戻ったジョージ。
それはジョージにとってEMI/アップルからリリースされる最後の作品となった。
またLAでは、自身のレコード・レーベル<ダーク・ホース>や、同社が契約して間もないアーティスト達、
つまりステアステップス、ヘンリー・マカラック、そしてアティテュードらの事務処理も行なっていた。
別のダーク・ホース契約アーティストであるスプリンターが、ロサンゼルスのラ・ブレア・アベニューにある
A&Mのスタジオを予約していたものの、様々な事情からセッションを行うことができなくなったため、
ジョージはその時間をアルバムのレコーディングに使うことにした。
それが後に(正式名称で)『Extra Texture (Read All About It)』となるアルバムだ。
ジョージが長らく抱えてきた感情の発露となった、この作品の制作に手を貸したミュージシャンには、
ゲイリー・ライト、ジェシー・エド・デイヴィス、クラウス・フォアマン、トム・スコット、
そしてジム・ホーンら、数多くの旧友が含まれている。
本作のほぼ全体に参加しているもう1人の旧友が、ドラマーのジム・ケルトナーだ。
彼はカナダのキーボード奏者デヴィッド・フォスターと共にアティテュードを結成していた。
フォスターは『Extra Texture (Read All About It)』で、ピアノ、オルガン、シンセサイザーを担当しており、
「This Guitar (Can’t Keep from Crying)(邦題:ギターが泣いている)」と
「The Answer’s at the End(邦題:答えは最後に)」
「Can’t Stop Thinking About You(邦題:つのる想い)」でストリングスの編曲に貢献。
LAのセッションでは、アティテュードのポール・ストールワースが、ジョージ自身や
フォアマンとベースを分担している。
1975年4月21日から5月7日にかけ、ジョージは書き溜めていた曲のベーシック・トラックを録音。
まず着手したのが「Tired of Midnight Blue(邦題:哀しみのミッドナイト・ブルー)」と
「The Answer’s at the End」だ。 5月31日にジョージはオーバーダブを開始し、
この時、「You(邦題:二人はアイ・ラヴ・ユー)」と呼んでいた曲を再検討することにした。
これは、ロニー・スペクターが夫フィル・スペクターによるプロデュースの下、アップルから
ソロ・アルバムのリリースを計画していた際、1971年2月上旬に録音していた曲だ。
ロサンゼルスでは、ジム・ホーンがサックス・ソロを録音するためスタジオ入りし、他の楽器パートも追加された。
本作には同曲のリプライズで、それにふさわしいタイトルが付けられた
「A Bit More of You(邦題:君を抱きしめて)」も収録されている。
ジョージによるスモーキー・ロビンソンへの豪華なトリビュート曲
「Ooh Baby (You Know That I Love You)(邦題:うー・ベイビー、わかるかい)」と、
「His Name Is Legs (Ladies and Gentlemen)(邦題:主人公レッグス)」では、
サックス奏者トム・スコットに加え、ジョージのツアー・バンドの一員だった
トランペッターのチャック・フィンドリーが、ホーンのオーバーダブに参加。
曲題にある“Legs”は、1960年代に活躍し、コメディ・チームのモンティ・パイソンらにも
多大な影響を与えた、ボンゾ・ドッグ・バンドのドラマー“レッグス”ことラリー・スミスを指す。
この曲のベーシック・トラックは、前年に行ったアルバム『Dark Horses』のセッション中に
フライアー・パークで録音されたものだ。
スモーキーにインスピレーションを受けたジョージの曲は、思ったほど、本作の残りの大半の曲からかけ離れた
トラックにはなっていない。
『Extra Texture』は、ジョージの“ソウル・アルバム”であり、彼が魂(ソウル)をさらけだしていると同時に、
この時点までのキャリアで手掛けてきたソロ曲との大半と比べ、よりソウルフルなアプローチを取っている。
本作は、所々メランコリックである一方、時の試練に耐え得る非常に美しいアルバムでもある。
本作において、フライアー・パークにあるジョージの家にインスピレーションを受けた
「The Answer’s at the End」より美しい曲は恐らく他にないだろう。
オックスフォードシャー州ヘンリー・オン・テムズにあるヴィクトリア朝ゴシック様式のその邸宅は、
1890年代、ロンドン市の弁護士で顕微鏡愛好家のフランク・クリスプによって、13世紀の修道院の跡地に建設された。
家のインテリア・デザインと庭園の両方に、クリスプの奇抜な発想や風変わりな嗜好が反映されており、
庭の塀の入り口上部に次のような碑文が刻まれているのをジョージは見つけた。
「友人を顕微鏡で注意深く調べてはいけない。彼の短所は分かっているのだから、些細な欠点など受け流すことだ。
友よ、人生は一つの長い謎である。だから、読んで、読み通すのだ、答えは最後にある」
(ビートルズが崩壊へと向かっていた辛い時期、恐らくジョージが心に留めていたであろう)
このような胸を打つ文章を見つけ出すということと、その文にこんなにも素敵なメロディーを付けるということは、
全くの別物だ。
このトラックは、デヴィッド・フォスターが手掛けた素敵な弦楽アレンジから多大な恩恵を受けているが、
それ以上に効果を発揮しているのが彼の華麗なピアノ演奏である。
ジョージにとって最大の隠れた名曲ではないだろうか?
「This Guitar (Can’t Keep from Crying)」は、1974年の北米ツアーで受けた批判に応える形で
ジョージが書いた曲で、1975年12月にシングルとしてリリースされたが、これほど良い曲にも拘らず、
驚いたことチャート入りを果たせなかった。
「While My Guitar Gently Weeps」と比較されることはほぼ避けられず、ジョージが1968年に発表した
そのアンセム曲の水準に達していなくても驚くほどのことではない。
だが想像してみてほしい、もし「While My Guitar…」が存在していなかったどうだっただろう?
「This Guitar」はきっと、全く違った見方をされていたはず。これはそれほど優れた曲だからだ。
この曲もフォスターのピアノ演奏と弦楽アレンジのスキルから恩恵を受けている。
ジョージのスライド・ギターが前面に押し出されているが、それ自体『Extra Texture』では稀なことだ。
ジョージは1992年「This Guitar (Can’t Keep from Crying)」を、この曲でエレクトリック・ギターを
弾いているデイヴ・スチュワートのためにデモとして再レコーディング。
その10年後、スチュワートのプロジェクト『Platinum Weird』のために、リンゴがドラムを重ね、
ダーニ・ハリスンがギターを、カーラ・ディオガルディがヴォーカルを加えた。
それが本作のリマスター盤にボーナス・トラックとして収録されている。
「Can't Stop Thinking About You」もまたソウル・ソングで、この曲を“ポップ”だと
退けてしまう人もいるが、それは的外れだ。
ポップであることに何ら問題はないし、この曲にも問題など何一つない。
この曲にはソウル的な感覚が漂っているにも拘らず、どこか『All Things Must Pass』を思わせる
ハーモニー・コーラスとバック・コーラスがあり、やはり典型的なジョージの曲だ。
恐らく最も驚くべきは、この曲がシングルとしてリリースされなかったことだろう。
その他、誰もが納得のシングル「You」は、アルバム発売の2週間前にリリースされた。
英国ではBBCレディオ1の“今週のイチ押しシングル”に選ばれたにも拘らず、全英チャートで最高位38位に留まった。
米国では、全米チャートのトップ20に2週間ランクインしている。
「You」には、カール・レイドルとジム・ゴードンが参加しており、1971年2月にレコーディング。
その後間もなくして彼らは、デレク&ザ・ドミノスの2作目に着手したが、そのアルバムはお蔵入りとなった。
米国では1975年9月22日に、そして英国ではその2週間後にリリースされた
『Extra Texture (Read All About It)』は、世間一般から称賛を受けることはできなかった。
むしろその真逆だったと言える。
世の中の人々も批評家も、ジョージ・ハリスンのあらゆる作品に対して高い期待を抱いており、
殆ど大抵の場合、彼らは判断の基準を、レビュー執筆時に聴いているものにではなく、過去の作品に置いていた。
また批評家達には、対処しなければならない問題がもう一つある。つまり、聴き込み不足の問題だ。
編集者は短時間でレビューを大量生産する必要があり、その音楽に必要な聴き込み込みレベルに達していなくても、
急いでレビューを書かなくてはならないのだ。
このアルバムも例外ではない。
本作は晩成型であり、1970年代という不思議な年代の中盤に活躍していた、同時代のアーティストの作品の
数々と比べても、遥かに時の流れに耐え得るアルバムであることが証明されている。
本作はそれでも尚、全米チャートで8位を記録、全英でも16位となった。
もしあなたがこのアルバムを見落としていたとしたら、試しに聴いてみても決して失望することはないはずだ……。
そして憶えておいていただきたい、1度聴いただけでは決して十分ではないことを。




ジョージ・ハリスン『Thirty Three & 1/3』

1974年9月、ジョージ・ハリスンのレコード・レーベル<ダーク・ホース>から、最初の2枚のシングルがリリースされた。
その1枚目となったのが、ラヴィ・シャンカールの「I Am Missing You」だ。
ハリスンがプロデュースとアレンジを手がけた同シングルは、シャンカールには珍しく西洋のポップ・スタイルの曲となっている。
同日リリースされたもう1枚のシングルは、オーストラリアと南アフリカでトップ10入りを果たし、
全英ではトップ20入りしたスプリンターの「Costafine Town」であった。
それから2年後、他レーベルとの契約上の義務が終了し、アップル・レコードが段階的な縮小を行っていたのに伴って、
ジョージは自身のレーベルと契約。
その数年の間に、ダーク・ホースからは、ステアステップス、ジーヴァ(ウィングス脱退直後の)ヘンリー・マカロック、
そしてアティテュードというバンドの作品がリリースされている。
ハリスンの1975年のアルバム『Extra Texture (Read All About It)』の際に結成されたアティテュードには、
キーボード奏者のデヴィッド・フォスターが在籍。
彼はジョージのダーク・ホース移籍第1弾アルバム『Thirty Three & 1/3』にも参加している。
ジョージにとって通算7作目のソロ・スタジオ・アルバムとなる本作は、1976年5月下旬から9月中旬までの間に、
彼の自宅であるフライアー・パークで録音され、2ヶ月後の11月19日にリリースされた。
このアルバムの制作に着手した直後、ジョージは肝炎に感染。夏の盛りの間中、殆ど仕事ができない状態に陥った。
鍼灸や他の非伝統的治療法のおかげで健康を回復した後、ジョージはすぐにアルバムを完成。
本作のタイトルには、彼の年齢とLPレコードの回転数の両方が反映されている。
本アルバムに参加している他のミュージシャンは、ベーシストのウィリー・ウィークス、ドラマーのアルヴィン・テイラー、
キーボード奏者のリチャード・ティーとデヴィッド・フォスター、ジャズ・パーカッショニストのエミル・リチャーズら、
全員がアメリカ人だ。
ジョージはまた、彼の長年の音楽仲間であるゲイリー・ライトとビリー・プレストンの2人にキーボードを演奏してもらっている。 その他、ジョージとしばらく前から一緒に仕事をしているホーン奏者のトム・スコットも参加。
メイン・プロデューサーであるジョージの補佐として、彼が本作のプロデュースをアシストしたことがクレジットに記されている。
本作収録曲の1つ「See Yourself」は、ジョージが1967年に書き始めた曲だ。
長年温めていた曲はこれだけではない。
「Woman Don’t You Cry for Me(邦題:僕のために泣かないで)」と「Beautiful Girl」は両曲共、
1960年代後半にその起源が遡る。
アルバムのオープニング曲でもある前者は、彼がデラニー&ボニーとツアーを行っている最中に思いついたものだ。
この曲はジョージのスライド・ギターが特色となっており、自身よりも有名なこのバンド・メンバーに
スライドを演奏するというアイディアを授けたのは、デラニー・ブラムレットであった。
「See Yourself」と「Dear One」は、どちらも『あるヨギの自叙伝』(原題:Autobiography of a Yogi)の
著者であるパラマハンサ・ヨガナンダに触発されて書いた曲だ。
ジョージは1966年9月のインド訪問時に、この本を読んでいた。
新曲の中には「This Song」と題されたものがある。
これは「My Sweet Lord」とシフォンズの「He's So Fine」の類似性に関し、盗作の告発を受けて
訴訟問題に発展したこと、そしてその時の苦難に対するジョージの音楽的な見解となっている。
「Crackerbox Palace(邦題:人生の夜明け)」は、1976年初め、ジョージがコメディアンの
ロード・バックリーのマネージャーだった人物と出会った時の話を元に書かれた曲だ。
“ジョージのソウル・アルバム”とも呼ばれている本作で、特に際立っているのが、
優美な「Pure Smokey」であるという意見は数多い。
スモーキー・ロビンソンに捧げられたこの曲は、 モータウンの伝説的存在の功績を讃える繊細かつ
美しいバラードとなっており、ジョージの最も素晴らしいギター・ソロのうち2つがフィーチャーされている。
『Thirty Three & 1/3』のリード・シングルは「This Song」で、そのB面に選ばれたのは、同じく本作収録の
華やかな「Learning How To Love You(邦題:愛のてだて)」だった。
英国向けシングル「It’s What You Value」には、B面としてオープニング曲「Woman Don’t You Cry For Me」を収録。「It’s What You Value」は、ドラマーのジム・ケルトナーが1974年にジョージとツアーを行った際、
ギャラを現金で支払ってもらう代わりに、メルセデス・ベンツのスポーツカーの新車が欲しいと求めた後で書かれたものだ。
このアルバムにはカヴァーも1曲収録されている。それは、ビング・クロスビーが映画『上流社会』(原題:High Society)で歌ったことで有名になった、コール・ポーターの曲「True Love」だ。
『Thirty Three & 1/3』は 、米国での売り上げが『Dark Horse』と「Extra Texture』の両作を上回り、
全米チャートで最高位11位を記録。
一方、楽曲の質の高さをを考えれば理解しがたいことではあるが、英国では最高位35位に留まった。
だがよく考えてみれば、ジョージが本作のレコーディングを終了した2日後に、あのパンク・フェスティバルが
ロンドンの100クラブで開催されたのだ……音楽の時勢は変化の真っ只中にあった。
「This Song」と「Crackerbox Palace」は、全米チャートでそれぞれ最高位26位と19位を記録。
英国でリリースされた3枚のシングルは、いずれもチャートインを果たせなかった。
本作発表時、米ビルボード誌は「ラヴ・ソングとご機嫌なジョークが満載の、明るく元気なこのアルバムは、
恐らくジョージのソロ・キャリア全体の中で、最も野心が控えめな、最も楽しげで、そして最も商業路線寄りの
アルバムだろう」と評していた。それに異議を唱えることは不可能である。
同時期の他のレビューはそこまで寛容ではなかったが『Thirty Three & 1/3』は、時代を経ると共に味わいを深めた作品だ。
本作には穏やかさがあり、聴き手を魅了する内省性がある。
回顧的な評論家の1人が近年語っていた通り“壮麗な「Dear On」”は、このアルバムの“数え切れない名曲”のうちの1つ。
本作は上等なワインのように、年を重ねる毎に良さを増すアルバムなのだ。



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