撮影当時、広島の58は4両しか残っておらず、38、62、63、81だったと記憶している。
62と81は未撮影で終わってる。いずれも交差型パンタPS22などや、一体ひさしなどの
増備をもっているのが特徴だった。当たり前だが、東京口への定期運用はなく、撮影チャンスは
荷物列車の運用変更や、臨時の波動輸送でやってくるしか撮影チャンスがなかった。
荷物列車で東京口までは滅多にこなかったし、輪をかけて東京口までの広島区の臨時運用は
殆どなかった。そんな折、チャンス到来となった。14系の団臨で広島区の38号機が
上がってきた。昼のいいスジで、品川の出区から東京駅の機回し、本番下り走行まで
撮影できた。38号機は撮影もこの1回きりで、最初で最後だった。
今のように情報がリアルタイムで把握できない時代の産物で、駅でパニックを
起こすぐらいの人出もなく情報を掴んだ者だけが許された撮影を享受できた時代だった。
この時は恐らく学校をサボって撮影したと思うが、今になってもそれだけの価値はあったと
十分に思う。
1983年2月18日 7111レ 田町
62と81は未撮影で終わってる。いずれも交差型パンタPS22などや、一体ひさしなどの
増備をもっているのが特徴だった。当たり前だが、東京口への定期運用はなく、撮影チャンスは
荷物列車の運用変更や、臨時の波動輸送でやってくるしか撮影チャンスがなかった。
荷物列車で東京口までは滅多にこなかったし、輪をかけて東京口までの広島区の臨時運用は
殆どなかった。そんな折、チャンス到来となった。14系の団臨で広島区の38号機が
上がってきた。昼のいいスジで、品川の出区から東京駅の機回し、本番下り走行まで
撮影できた。38号機は撮影もこの1回きりで、最初で最後だった。
今のように情報がリアルタイムで把握できない時代の産物で、駅でパニックを
起こすぐらいの人出もなく情報を掴んだ者だけが許された撮影を享受できた時代だった。
この時は恐らく学校をサボって撮影したと思うが、今になってもそれだけの価値はあったと
十分に思う。
1983年2月18日 7111レ 田町
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