下記の記事は日経ウーマンオンラインからの借用(コピー)です。
(上)楽しいことなんて一つもなかった幼少期、デビュー後に襲った苦難…本を読むことで自分を客観的に見られるようになった2021.10.26 * 学び
人生における「逆転の一冊」を聞くリレー連載。今回は歌手・森進一さんに聞きました。「世の中はなんて理不尽なのだろう」と思いながら育ち、ある種のコンプレックスを抱いていたという森さん。40代半ばにある哲学者の本と出合い、大きな衝撃を受けたそうです。読書家、森さんの人生の傍らにある本とは?
この世の理不尽を前に、心が張り裂けそうだった幼少期
編集部(以下、略) ショーペンハウアー、フロイト、安岡正篤……。森さんが影響を受け、今に至るまで繰り返し読んでこられたのは、哲学者や思想家の本ばかりなのですね。
森進一さん(以下、森) 「逆転の一冊」という企画なのに、一冊に絞るのが難しくて……。いずれにしても哲学者や思想家の書く本につづられているのはこの世の真理。人が生きていく上での本質的なことを知りたいという好奇心を満たしてくれる点に強く引かれます。それはきっと私の人生が波瀾(はらん)万丈だからでしょう。特に18歳で歌手デビューするまでは楽しいことなんか何一つなかった。「世の中はなんて理不尽なのだろう」と思うことの連続でした。
―― 詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか。
森 両親が離婚したことで我が家は母子家庭になった。これが苦難の幕開けでした。10歳だった私と3歳だった妹、まだ1歳だった弟を女手一つで育てていくことになった母は病弱で、思うように働くことができず、僕ら一家は山口県下関市の母子寮に身を寄せ、生活保護を受けていたんです。貧乏であることは恥ずかしいことではないはずなのに屈辱的な思いを強いられる。学校の先生でさえ差別的で、私はやりきれなさで心が張り裂けそうでした。
中学3年のときに母の故郷である鹿児島へ移住したのですが、暮らし向きが改善されることはなかった。私は文房具など学校で必要なものを買うために、早朝から新聞配達、その後に牛乳配達をして、学校が終わると新聞の夕刊配達をするようになります。配達先には幾人かの同級生の家も含まれていて、室内からピアノを奏でる音が聞こえてきたりすると羨ましくてねぇ。でも羨ましがっても仕方がないと分かっていました。達観していたのではなく、自分はこういう運命なんだと諦めていたんですよ。
「この世の真理や本質的なことが書かれている本をよく手に取ります」
―― 中学卒業後は集団就職で大阪へ出て、おすし屋さんで働き始めたのだとか。
森 そうです。まだ15歳でしたから家族と離れて暮らすのは不安だったけれど、長男が一家を支えるというのが当たり前の時代です。大阪行きの列車の中で涙を拭いて、折れそうな心を何とか立て直し、頑張ろうと誓ってもいた。ところが職場で待っていたのは先輩たちからの激しいイジメでした。
世の中、正義なんてないのだと落胆し、こんなところにいられないと1カ月ほどで退職して鹿児島へ戻り、その後はさまざまな職を転々としました。キャバレーでバンドボーイをしたり、鉄工所や運送会社、飲食店で働いたり。住み込みで働けるところなら何でもよかったんです。生活費を家族への送金にあてたかったから。基本的に心を閉ざしていたので友達はいなかったし、どんな風に生きていけばいいのかを指南してくれるような大人にも出会えずにいました。
―― それで本に救いを求めたのですか?
本の一節に「それでいいんだよ」と肯定された気がした
森 いやいや。私には学がないから、当時は本を読もうなんて発想はなかった。第一、苦しみの渦中にいるときには読書しようなんていう心のゆとりはありませんよ。
読書に目覚めたきっかけとしてパッと脳裏に浮かぶのは、40代半ばの頃のこと。当時はよく、息子たちを連れて家の近くのデパートへ行っていたんです。ある日、本の売り場でフラフラっと哲学書のコーナーへ行き、何気なく本棚から抜き取った一冊の表紙を見たら安岡正篤著とありました。
無作為に開いたページの冒頭に「ずるいことをして地位や財を築くことはできたとしても、人間としては少しも立派ではない」といった一文があって、強い衝撃を受けたのを覚えています。ああ、正義感の大切さを明言している人がいたのかと。私は不器用な自分の生きざまにある種のコンプレックスを抱いていたのですが、「それでいいんだよ」と肯定されたようでうれしくてね。そこから安岡正篤さんの本にハマり、今に至るまで繰り返し読んでいます。
―― つまり森さんにとって読書は、苦しみから抜けるための方法論を得るためのものではなく、試練を通して培った自分なりの価値観がズレていないかを確認するための手段だと。
森 答え合わせをしているというより、私にとって本は自分自身を客観的に見つめ直す機会を与えてくれるもの。これは経験的に学んだことですが、苦しいことや悔しいことがあったときに救われたいと思ったら、自分を俯瞰(ふかん)して眺めてみることなんですよ。自分の悩みは拡大鏡で見るようにして凝視してしまいがちだけれど、客観的に見たら「よくある話」だったりします。苦しいのは自分だけではないと理解することで人間の忍耐力はグンと強くなる。少なくとも私はそうでした。
―― 森さんが18歳の頃の話に遡りますが、1966年に発表したデビュー曲『女のためいき』が大ヒット。その後もミリオンセラーが続き、レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞したり、NHK紅白歌合戦において最年少でトリを務めたりするなど、一気に人生が好転したように見受けられます。
歌手にさえならなければ、大切な人を失うことはなかった…
森 確かに極貧生活から脱出することはできましたが、当時は給料制だったので、しばらくは同世代のサラリーマン程度の収入でした。それにレコードが売れれば、邪魔してやろうと考える人が出てくる。損得勘定で近づいてくる大人もたくさんいました。週刊誌などで根も葉もない不名誉な話を派手に書き立てられ、愕然(がくぜん)とするなんてことも日常茶飯事でしたが、悔しくても弁明の機会は与えられない。有名税といわれても納得がいかない。光が強ければ影は濃くなる。それが世の常なのだと思い知らされました。
―― ご家族を鹿児島から呼んで一緒に暮らし始めたのは24歳のときだったのですね。
森 ええ。東京・世田谷に借家を用意して。あれはうれしかった。翌年には『おふくろさん』も大ヒットしまして、この世の春を迎えたような心持ちでした。ところが母との暮らしは2年弱で終わりを迎えてしまった。当時、私は会ったこともないファンの女性から婚約不履行で訴えられていました。裁判で潔白が証明されたのですが、家を訪ねてきた女性にお茶を振る舞っていた母は責任を感じて自死してしまい……。歌手にさえならなければ大切な人を失うことはなかったのにと運命を呪いました。歌を歌う気になどなれなかった。だって母のために歌っていたわけですから。
でも私にはきょうだいを養っていく義務が残っていました。妹は高校生だったし、弟はまだ中学生でした。突如として母がいなくなり、ポッカリと空いてしまった2人の心の穴をどう埋めていったらいいのか分からなかった。仕事から家に帰ると、何をするよりも先に「今日は学校でどんなことがあった?」と声をかけていたのを覚えています。あの頃が人生で一番つらかったかもしれません。そんなとき、出合ったのがショーペンハウアーの本だったのです。
ショーペンハウアーの哲学の前提は「人生は苦しいもの」
―― どうやって出合ったのですか?
森 誰かにいただいて家にあったんです。そのときもたまたま本棚を見ていたら目に飛び込んできて、最初は「ショーペンハウアーってなんだ?」という感じでした。しかも本を開いてみたら難解でとても読破する気になれなかった。今だってショーペンハウアーの哲学について述べよと言われたら困ってしまうんですよ。ただ当時、アトランダムに開いたページに記されていた一文に心を奪われて。
―― 何という本の、どのような一文だったのですか?
森 本のタイトルは覚えていません。それに文章そのものを記憶しているわけではないんです。ただ、この作者は「人生は苦しいものだ」という前提で人生哲学を説いているのだなと感じ取っていました。それが人生を楽観的にとらえることができずにいた私の心にフィットしたのかもしれないけれど、よく分かりません。とにかくショーペンハウアーという哲学者の名前は私の中にしっかりと刻まれ、その後も何冊か手に取ってきました。気になる箇所にはラインを引きながら理解できるまで幾度も読み返し、自分の心に浸透させていくのが私の読書スタイル。だから一冊読むのに何日もかかってしまうんですよ。
ショーペンハウアーの本は何度も読み返している。
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