皆さんのお役に立てば幸いです

色々の無料ホームページからお役に立て様な記事を探して掲載します。主に健康・くらしです。

喉元にはガーゼが巻かれ…夫が酷く狼狽した「病院での妻の姿」

2021-11-30 15:30:00 | 日記

ゴールドライフオンライン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

 

不治の病、ALS。徐々に筋力が衰え、体が思う様に動かなくなり、最後には呼吸が止まる。ある日突然、医師からの宣告で妻の余命は1年未満になった。唐突に突き付けられた現実と向き合い、抗い続けるなかで見えてきた本当に大切なものとは……。

 

互いに支えあい、どんなに辛くとも前に進む夫婦の姿が描かれる。

作業療法士から声をかけられ…

それは思ってもみない出来事だった。

「今日二時半頃までおられますか?」

いつものように、少量の嚥下食と胃瘻(いろう)からのミルクの注入も終わった病室で、突然声をかけられた。

同室の患者の容態は個々に違っていても、身体の不自由な者ばかりの六人部屋のため、患者の車椅子での出入りを考えてか、病室のドアは常に開け放たれていた。ベッドはカーテンで仕切られていて、それも半開きの状態が多く、病室はいつもざわめきの中にあった。振り向くと、いつの間にか、顔なじみの作業療法士がカーテンのこちら側に入って来ていた。

「私がいた方がいいのであれば」

突然のことで、何のことか分からず、少し戸惑いぎみに返事をした。

「車椅子で移動する練習です」

作業療法士は、仕事が立て込んでいるのか、そっけない答え方で出て行った。一カ月前京子は、生命維持装置を装着するための気管切開の手術をした。予想した以上に気管支に弾力がなく、「急遽、男性用の太いカニューレ(気道確保のための管)を使用せざるを得なかった」と、医師の説明を受けた後、看護師に案内されるまま術後控室に入った。

事前の簡単な説明とは違い、私の面会の後、一晩、ICU室に移して様子を見るとのことだった。

ホースでカニューレに空気を送る「スコン、スコン」という音が、白い布の下に横たわっている物体と一体化していた。無造作に被せられ、盛り上がった白布の端には血の気を失った人の顔があり、それが京子だと気付いた私は、いたたまれないほど狼狽した。白い布は京子が着ている手術着だったのだ。

無機質で透明な筒状のカニューレが、京子の喉元に刃物のように突き刺さり、人工呼吸器から押し出される空気の蛇腹のホースへと繋がっていた。外見上の痛々しさを和らげるためか、喉元はガーゼで手当てされており、固まりきらない生々しい血糊が滲んでいる状態だった。

事前の説明で予想していたこととはいえ、呼気(吐く息)が声帯まで上がって来ないので、声を発することができない。

私は持って生まれた内面的な不器用さからくるのか、いつもいざという時に判断が遅れる。慌てて用意していた五十音字表をかざしたが、もういいということなのか、それとも伝える気力さえ残っていなかったのか、京子は目を開けて私を確認したはずなのに、再びその目は閉じられた。

それからすでに一カ月が経つが、未だに表情が硬く、疲れ切った顔をしていた。医師からは「気管がカニューレを異物として捉え、時々むせ込む敏感な反応が収まらず、その度に脈拍も上がり、身体に負担がかかっている。馴染んでくれば楽になる」と、弁解のような簡単な説明を受けた。

今まで通り、訪問看護師を利用した自宅での生活を希望していた私は、自主的に病院で介護の指導を受けていた。妻は車椅子の移動に、私は車椅子の扱い方に慣れるのが目的とはいえ、京子の痛々しさの感情の方が先に湧いた。

しばらく待つと、先ほどの療法士に二人が加わって部屋に入って来た。挨拶もそこそこに、京子の人工呼吸器が外され、手際よく喉元のカニューレに人工鼻を取り付け始めた。

京子の自発呼吸の機能はまだしっかりしているため、短時間であれば人工呼吸器を外しても問題なかった。人工鼻から入ってくる空気は気道の乾燥と埃を防ぎ、程よい湿り気を与えてくれる。京子は六本の手で身体の要所と思われる関節を支えられ、背もたれが大きく倒された車椅子に移された。そのままエレベーターに乗り、一階に降りた。

人のいなくなった昼下がりの外来患者の待合室を横切り、裏手から外に出た。車椅子はストレッチャーに似た格好まで、背もたれが倒されている。外は舗装されているとはいえ、小さな振動が直接、頭や身体に伝わっていることが、身体のわずかな揺れで分かった。

腹筋も弱っているため、首への振動は喉に直接の刺激となって、むせ込みに繋がる。結果的に心拍数が急速に上がってしまう危険性があった。

上しか見えていない京子の表情は、必死に何かにしがみついている感情と、行きつく先が分からないという不安でますます硬くなっていた。私自身も『何をするつもりなのだろうか』と頭の中で不安と期待が交互に入れ替わっていた。

桜の木の下まであとわずかというところで、ようやく目的が分かった。健康なら五分もあれば悠々と済ませることができるコースだが、三倍の時間がかかった。

作業療法士から声をかけられ…

同じ時間をかけて同じ道程を戻り、病室に到着した。天井のみの病室に帰るまでの三十分間の旅が決行されて、成功した瞬間だった。車椅子に仰向けに寝ている京子は、身体が満開に咲いた花びらと共に宙に浮いていると勘違いしただろう。降り注いでくる花びらと、自然の風と一緒に自分も煽られ、外気と思い切り戯れる自由な姿が、自分の目に映ったに違いない。次に一瞬、京子は自分が地面になったと思ったかもしれない。

思いがけず、木の根元から見上げた格好になり、枝が天空に伸びて広がっていく。花の生命だけが、眩しい光の中へ、飛散していく瞬間の姿を捉えたと思われた。今年がだめなら、もう夫婦で一緒に桜の下に立つことはないだろう。そう考えていた私にとっても、思いがけないサプライズだった。

落ち込んでいた私の心の中に鮮やかな桜の花びらが降り積もっていった。傍らの京子の目に、いつの間にか滲んだ涙が頬から耳へと伝い始めている。私は、妻と共有した今という時間は、もう二度とこないと思った。

当然、医師の許しを得ていた。全ては私達を感動の旅に誘うために、療法士三人の秘密として事が運ばれていたことを後で知った。

花冷えというのか、春先特有の雨と風で全国的に天候が荒れていた。そのせいで病院の裏手から駐車場のアスファルトの水溜まりに、花びらが吹き寄せられていた。あえて遠回りをして病院の玄関に着くことにより、花の終わりと時間の経過を改めて感じた。

夜にいつも病院から帰る頃、裏口の薄暗さから孤独の静かさを感じ取っていた。そんな周りの景色を見失いかけていた私の心を、一瞬にして明るく解放してくれた桜、今自分の存在している確かな位置に見当がつくようになった。自然と人とが繋がり、多くの事を知らしめようとしてくれた療法士の心が、春風と共に深く心にとどまった。

中国から毎年季節風に乗ってくる黄砂が、久しぶりに風雨でかなたに飛び去り、打って変わって青空と白い雲が駐車場の空に広がっていた。『枯れるんじゃないぞ。少なくとも私達が、この世に生きている間は……』車から降りた私は、桜の木に音声にならない声をかけた。

先日の出来事があって、自分の中に変化が感じられた。何のために生まれてきて、これから何をしたらいいのか、誰もが自問自答する青年期がある。

その答えが出ていないことさえ忘れていたのに、ふいに思い出した。結婚して歳を取ると、互いの介護のことが頭に浮かぶ。漠然と京子が私の介護をしてくれると決めつけていた節があった。女性の方が長寿だからだ。

ところが今の現実は? そのことを暫く考えていると結論が出たように思った。

『そうか、そういうことだったのか』

結婚した当時、思いつきもしなかった答えが五十年をかけて出た瞬間だった。

京子という一人の人間の介護をしながら、寄り添って生きること。

それが、神から与えられた私の役目だったのか。それなら将来、自問自答することがあっても胸を張って言えるように、今を京子に捧げよう。勿論、私達はこれからも楽しくなければならない。しかし、私の心が一直線に突き進んだのもつかの間、京子の病室に近づいていくうちに、急に振り向いた。

「……?」

高潔な理由を打ち立て、自分を納得させたと思いながらも、何で自分達なのだろうか、という歯ぎしりしたいほどの病に対する口惜しさが、突然に込み上げてきた。振り切ろうとしても、振り切ろうとしても、湧き上がってくる。

十万人に七~八人という「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」の罹患である。簡単に現実を受け入れることはできない。病院の窓ガラスに映る置いてきぼりになった自分の歪んだ姿を見て、思わず佇んでしまった。

※本記事は、2021年7月刊行の書籍『ALS―天国への寄り道―』(幻冬舎ルネッサンス新社)より一部を抜粋し、再編集したものです。

島崎 二郎

1949(昭和24)年、岡山県生まれ。

1972(昭和47)年に倉敷市役所に就職。

福祉事務所及び市民課の課長主幹を歴任する。その間に「年金事業への発展に対する功績」が認められ、2004年に社会保険庁長官賞を受ける


森進一 母の自死…哲学者に共感「人生は苦しいもの」

2021-11-30 13:30:00 | 日記

下記の記事は日経ウーマンオンラインからの借用(コピー)です。

(上)楽しいことなんて一つもなかった幼少期、デビュー後に襲った苦難…本を読むことで自分を客観的に見られるようになった2021.10.26    * 学び
  
人生における「逆転の一冊」を聞くリレー連載。今回は歌手・森進一さんに聞きました。「世の中はなんて理不尽なのだろう」と思いながら育ち、ある種のコンプレックスを抱いていたという森さん。40代半ばにある哲学者の本と出合い、大きな衝撃を受けたそうです。読書家、森さんの人生の傍らにある本とは?

この世の理不尽を前に、心が張り裂けそうだった幼少期
編集部(以下、略) ショーペンハウアー、フロイト、安岡正篤……。森さんが影響を受け、今に至るまで繰り返し読んでこられたのは、哲学者や思想家の本ばかりなのですね。
森進一さん(以下、森) 「逆転の一冊」という企画なのに、一冊に絞るのが難しくて……。いずれにしても哲学者や思想家の書く本につづられているのはこの世の真理。人が生きていく上での本質的なことを知りたいという好奇心を満たしてくれる点に強く引かれます。それはきっと私の人生が波瀾(はらん)万丈だからでしょう。特に18歳で歌手デビューするまでは楽しいことなんか何一つなかった。「世の中はなんて理不尽なのだろう」と思うことの連続でした。
―― 詳しく教えていただいてもよろしいでしょうか。
森 両親が離婚したことで我が家は母子家庭になった。これが苦難の幕開けでした。10歳だった私と3歳だった妹、まだ1歳だった弟を女手一つで育てていくことになった母は病弱で、思うように働くことができず、僕ら一家は山口県下関市の母子寮に身を寄せ、生活保護を受けていたんです。貧乏であることは恥ずかしいことではないはずなのに屈辱的な思いを強いられる。学校の先生でさえ差別的で、私はやりきれなさで心が張り裂けそうでした。
 中学3年のときに母の故郷である鹿児島へ移住したのですが、暮らし向きが改善されることはなかった。私は文房具など学校で必要なものを買うために、早朝から新聞配達、その後に牛乳配達をして、学校が終わると新聞の夕刊配達をするようになります。配達先には幾人かの同級生の家も含まれていて、室内からピアノを奏でる音が聞こえてきたりすると羨ましくてねぇ。でも羨ましがっても仕方がないと分かっていました。達観していたのではなく、自分はこういう運命なんだと諦めていたんですよ。
「この世の真理や本質的なことが書かれている本をよく手に取ります」
―― 中学卒業後は集団就職で大阪へ出て、おすし屋さんで働き始めたのだとか。
森 そうです。まだ15歳でしたから家族と離れて暮らすのは不安だったけれど、長男が一家を支えるというのが当たり前の時代です。大阪行きの列車の中で涙を拭いて、折れそうな心を何とか立て直し、頑張ろうと誓ってもいた。ところが職場で待っていたのは先輩たちからの激しいイジメでした。
 世の中、正義なんてないのだと落胆し、こんなところにいられないと1カ月ほどで退職して鹿児島へ戻り、その後はさまざまな職を転々としました。キャバレーでバンドボーイをしたり、鉄工所や運送会社、飲食店で働いたり。住み込みで働けるところなら何でもよかったんです。生活費を家族への送金にあてたかったから。基本的に心を閉ざしていたので友達はいなかったし、どんな風に生きていけばいいのかを指南してくれるような大人にも出会えずにいました。
―― それで本に救いを求めたのですか?
本の一節に「それでいいんだよ」と肯定された気がした
森 いやいや。私には学がないから、当時は本を読もうなんて発想はなかった。第一、苦しみの渦中にいるときには読書しようなんていう心のゆとりはありませんよ。
 読書に目覚めたきっかけとしてパッと脳裏に浮かぶのは、40代半ばの頃のこと。当時はよく、息子たちを連れて家の近くのデパートへ行っていたんです。ある日、本の売り場でフラフラっと哲学書のコーナーへ行き、何気なく本棚から抜き取った一冊の表紙を見たら安岡正篤著とありました。
 無作為に開いたページの冒頭に「ずるいことをして地位や財を築くことはできたとしても、人間としては少しも立派ではない」といった一文があって、強い衝撃を受けたのを覚えています。ああ、正義感の大切さを明言している人がいたのかと。私は不器用な自分の生きざまにある種のコンプレックスを抱いていたのですが、「それでいいんだよ」と肯定されたようでうれしくてね。そこから安岡正篤さんの本にハマり、今に至るまで繰り返し読んでいます。
―― つまり森さんにとって読書は、苦しみから抜けるための方法論を得るためのものではなく、試練を通して培った自分なりの価値観がズレていないかを確認するための手段だと。
森 答え合わせをしているというより、私にとって本は自分自身を客観的に見つめ直す機会を与えてくれるもの。これは経験的に学んだことですが、苦しいことや悔しいことがあったときに救われたいと思ったら、自分を俯瞰(ふかん)して眺めてみることなんですよ。自分の悩みは拡大鏡で見るようにして凝視してしまいがちだけれど、客観的に見たら「よくある話」だったりします。苦しいのは自分だけではないと理解することで人間の忍耐力はグンと強くなる。少なくとも私はそうでした。
―― 森さんが18歳の頃の話に遡りますが、1966年に発表したデビュー曲『女のためいき』が大ヒット。その後もミリオンセラーが続き、レコード大賞の最優秀歌唱賞を受賞したり、NHK紅白歌合戦において最年少でトリを務めたりするなど、一気に人生が好転したように見受けられます。
歌手にさえならなければ、大切な人を失うことはなかった…
森 確かに極貧生活から脱出することはできましたが、当時は給料制だったので、しばらくは同世代のサラリーマン程度の収入でした。それにレコードが売れれば、邪魔してやろうと考える人が出てくる。損得勘定で近づいてくる大人もたくさんいました。週刊誌などで根も葉もない不名誉な話を派手に書き立てられ、愕然(がくぜん)とするなんてことも日常茶飯事でしたが、悔しくても弁明の機会は与えられない。有名税といわれても納得がいかない。光が強ければ影は濃くなる。それが世の常なのだと思い知らされました。
―― ご家族を鹿児島から呼んで一緒に暮らし始めたのは24歳のときだったのですね。
森 ええ。東京・世田谷に借家を用意して。あれはうれしかった。翌年には『おふくろさん』も大ヒットしまして、この世の春を迎えたような心持ちでした。ところが母との暮らしは2年弱で終わりを迎えてしまった。当時、私は会ったこともないファンの女性から婚約不履行で訴えられていました。裁判で潔白が証明されたのですが、家を訪ねてきた女性にお茶を振る舞っていた母は責任を感じて自死してしまい……。歌手にさえならなければ大切な人を失うことはなかったのにと運命を呪いました。歌を歌う気になどなれなかった。だって母のために歌っていたわけですから。
 でも私にはきょうだいを養っていく義務が残っていました。妹は高校生だったし、弟はまだ中学生でした。突如として母がいなくなり、ポッカリと空いてしまった2人の心の穴をどう埋めていったらいいのか分からなかった。仕事から家に帰ると、何をするよりも先に「今日は学校でどんなことがあった?」と声をかけていたのを覚えています。あの頃が人生で一番つらかったかもしれません。そんなとき、出合ったのがショーペンハウアーの本だったのです。
ショーペンハウアーの哲学の前提は「人生は苦しいもの」
―― どうやって出合ったのですか?
森 誰かにいただいて家にあったんです。そのときもたまたま本棚を見ていたら目に飛び込んできて、最初は「ショーペンハウアーってなんだ?」という感じでした。しかも本を開いてみたら難解でとても読破する気になれなかった。今だってショーペンハウアーの哲学について述べよと言われたら困ってしまうんですよ。ただ当時、アトランダムに開いたページに記されていた一文に心を奪われて。
―― 何という本の、どのような一文だったのですか?
森 本のタイトルは覚えていません。それに文章そのものを記憶しているわけではないんです。ただ、この作者は「人生は苦しいものだ」という前提で人生哲学を説いているのだなと感じ取っていました。それが人生を楽観的にとらえることができずにいた私の心にフィットしたのかもしれないけれど、よく分かりません。とにかくショーペンハウアーという哲学者の名前は私の中にしっかりと刻まれ、その後も何冊か手に取ってきました。気になる箇所にはラインを引きながら理解できるまで幾度も読み返し、自分の心に浸透させていくのが私の読書スタイル。だから一冊読むのに何日もかかってしまうんですよ。
ショーペンハウアーの本は何度も読み返している。


長風呂に半身浴はNG!? 正しい入浴習慣で免疫力アップ!「長生きお風呂」の入り方

2021-11-30 12:00:00 | 日記

週間女性プライム様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

 湯気のたっぷりある浴槽での深呼吸は気管の粘膜が潤って免疫力がアップするだけでなく、呼吸機能の向上効果も。適切なお湯のため方や温度など「ベストな入浴法」と健康リスクを生む「NG入浴法」を専門家がお湯より熱く語る!

お風呂の湯気で気管の免疫がアップ
 温浴効果やリラックス効果などにより、さまざまな健康効果のある入浴。その中でもお風呂の湯気に免疫力を高める効果があると話すのは、温熱療法専門医の早坂信哉先生。


東京都市大学人間科学部長・教授の早坂信哉さん
「のどの奥の粘膜には、線毛細胞という細かな毛を持つ細胞があり、口から侵入する細菌やウイルスなどの異物を絡め取って体外に出す役割を担っています。でも、のどの粘膜が乾燥すると線毛細胞がうまく働かなくなり、排出機能が落ちて体内に異物が入りやすくなってしまいます。

 そこで有効なのがお風呂の湯気。のどの奥の粘膜を十分に潤すことができるため、線毛細胞が活発になり、免疫機能がアップします」


 
 湯気が鼻腔や口腔などを刺激して唾液の分泌量が増え、唾液中のIgA抗体という免疫物質が増えるというデータもあるという。

 こうした湯気の健康効果は世界的に認められており、欧米諸国では温泉の湯気を吸い込む温泉治療も盛んだ。

「湯気を吸い込むときは、深呼吸したり、歌ったりして、気管の奥までたっぷり取り込むのがコツ。水圧のかかる浴槽内でこうした動作を行うと胸腹部にある呼吸筋も鍛えられるため、呼吸機能の向上にもつながります」(早坂さん、以下同)

 浴槽にお湯をためる際、お湯が冷めないようにふたをする人も多いが、たっぷり湯気を吸い込むためには、ふたを開けて湯気を浴室内に充満させるのがポイント。

 また、ふたを開けておくことで浴室内の室温が上がり、ヒートショックの予防にもつながる。

「寒い場所からいきなり熱いお湯に入ると血圧の乱高下を招き、心臓や血管にダメージを与えるヒートショックを引き起こすおそれが。浴室内に湯気を充満させ、空気を暖めておくとショックが和らぐので、浴槽のふたはぜひ開けて」

 シャワーなどでかけ湯をしてから湯船に入ると、より安全性が高まる。
免疫アップの入浴のコツとは
「入浴そのものにも免疫アップ効果が。入浴で身体が温まると全身の血管が広がって血流が促進されます。すると、免疫細胞のリンパ球が身体の隅々まで行き渡りやすくなり、がん細胞などを攻撃するナチュラルキラー細胞が活性化されて免疫力のアップに」

 額にじっとり汗をかくくらいを目安に、湯船につかってしっかり身体を温めよう。

 また、入浴の前後にコップ1杯の水を飲んでおくと、血流がよくなり温め作用が高まるので、おすすめだという。

「ほかにも自律神経の調節や代謝機能のアップ、リラックスやストレス解消を促す作用など、身体の健康に関わるさまざまな働きを高める効果もあります。免疫機能は健康であるほど正常に働くので、入浴は総合的に免疫力を高めることにつながります」

 入浴効果の持続は7〜8時間。毎日の入浴が理想だ。シャワーだけでなく、湯船に毎日つかる習慣をつけよう。

「就寝する1〜2時間前がおすすめです。人は体温が下がると眠くなりますが、寝る直前にお風呂に入って体温が上がると、眠りづらくなります」

 入浴中のスマホチェックなども交感神経を刺激してリラックス効果を妨げるので要注意。

◆熱すぎるお湯は免疫を低下させる

 日本人は熱い湯を好む人が多く、それによって逆に免疫機能が低下してしまう場合があるという。

「42度以上のお湯に入ると交感神経が優位になるので、身体が緊張して血圧が上がり、内臓の働きも弱まって、かえって免疫機能が抑えられてしまいます。適温は40度です。40度のお湯は副交感神経を優位にし、心身をリラックスさせることがわかっています。42度を境に身体や免疫機能への作用が大きく変わってくるため、お湯の温度は慎重に」


お湯の温度は40度 イラスト/幸内あけみ
【イラスト】風呂を沸かすときにしてはいけない行動「ふたをする」
 皮膚の感覚は加齢とともに鈍るため、温度は体感ではなく、給湯器の正確な数字を確認しよう。

 ただ、熱い湯に慣れていると、お湯の温度を下げたらぬるくてスッキリしないと感じる人もいるだろう。

 そこで便利なのが、炭酸系や温泉の素などに多い無機塩類系の入浴剤。

「保温効果があり、血行をよくするので身体がさらに温まります。炭酸系は、体感温度も上がるので熱い湯を好む人にもおすすめです」

 熱すぎるお湯は、室温との温度差を生んでヒートショックの可能性を高めるため、命の危険性も。これからの寒い季節は湯温が高くなりがちなので注意が必要だ。
長風呂や半身浴は間違った入浴法
 そのほかにも健康リスクを生む間違った入浴法が多くあると早坂さん。

「女性は美容のために長風呂を好む傾向がありますが、のぼせや皮膚の乾燥を招くため控えるべき。湯船につかる時間は10分で十分。半身浴やぬるま湯での長風呂もおすすめしません。

 38度以下だと身体を温める効果がありませんし、半身浴も温め作用が半減するうえに、実はデトックス作用などもあまり得られません。39度以上で10分間、健康体なら肩までつかる全身浴を心がけましょう」


長風呂 イラスト/幸内あけみ
【イラスト】風呂を沸かすときにしてはいけない行動「ふたをする」
 入浴後にビールやアイスなどの身体を冷やすものを摂取したり、クーラーや扇風機に当たったりするのも、温め効果をストップさせてしまうためNGだ。

「入浴後でも汗が出てくるなどのぼせている場合以外、身体を冷やす行為は避け、常温の水を飲む、すぐにパジャマを着るなど温かさが続くように心がけましょう。1回の入浴で発汗により800mlもの水分を失うため、入浴前から適温の水分を補給しておくことも大事です」

 正しい入浴法で病気予防。長生きのためにもぜひ、実践したい。

●免疫力アップ! ベストな入浴法、3つのポイント

(1)ふたをしないでお湯をためる

 お湯をためる際に浴槽のふたを開けて湯気を充満させると、入浴の免疫効果が高まる。浴室のドアや窓も閉めること。シャワーを出して湯気を増やしておくのも有効だ。


ふたをしないでお湯をためる イラスト/幸内あけみ
(2)深呼吸をして湯気を吸う

 湯気で気管の粘膜を潤すと細菌などの異物が体外に排出されやすくなり、免疫力が高まる。湯面の近くで深呼吸をしたり、歌ったりすると効果的。吸い込む時間は2〜3分が目安。


深呼吸して湯気を吸う イラスト/幸内あけみ
(3)お湯の温度は40度

 免疫アップに最適な温度は、もっとも深部体温が高まり、負担なく温熱作用が得られる40度。42度以上は身体にストレスがかかり逆効果。40度がぬるいと感じたときは入浴剤を使おう。
健康リスクを生むNG入浴法
・「熱い湯に入る」

42度以上の熱い湯に入ると免疫機能が抑えられるだけでなく、交感神経が優位になり血圧が上昇。さらに、浴室内の室温とお湯の温度差が大きくなるため、ヒートショックのリスクが増す。

・「長風呂」

 美肌のためにパックなどをしながら長風呂をするのは間違った美容法。かえって肌の潤いを保っている皮脂が流れ出し、肌乾燥を招く。半身浴にも特別な効果はない。美肌のためにも入浴時間は10分程度に。

・「お風呂でスマホチェック」

 浴室でリラックスすることで副交感神経が高まり、自律神経が整って睡眠の質を高めたり、ストレスが解消されて免疫アップにつながる。交感神経を優位にして、リラックス効果を妨げるスマホチェックのような習慣はNG。

・「お風呂上がりのビールやアイス」

 お風呂上がりに冷たいものをとると、温熱作用がストップしてしまうため避けたほうがいい。また、身体の水分が多く消費された入浴後にアルコールを摂取すると、利尿作用により脱水を招くおそれも。


風呂上がりのアイス イラスト/幸内あけみ
【イラスト】風呂を沸かすときにしてはいけない行動「ふたをする」
教えてくれた人……早坂信哉さん
東京都市大学人間科学部長・教授。温泉療法専門医、博士(医学)。高齢者医療の経験から入浴の重要性に気づき20年にわたり3万人以上の入浴を調査した、入浴や温泉に関する医学的研究の第一人者。

 

追記:私はお湯を最低限入れてあとはシャワーでお湯を追加します。浴室内の温度は上昇しており湯気がいっぱい。


皇后・雅子さまの「気を許せる側近」野村一成氏、彼が私に語っていた「皇室」のこと

2021-11-30 11:00:00 | 日記

現代ビジネスオンライン様のホームページより下記の記事をお借りして紹介します。(コピー)です。

「野村のおじさま」
天皇、皇后両陛下の最もつらい時期を支えた比類なき東宮大夫だった。7日4日に81歳で亡くなった元宮内庁東宮大夫とうぐうだいぶ・野村一成いっせいさんを悼む。
2006年4月、駐ロシア大使を退任して、皇太子ご一家(現在の天皇ご一家)のお世話をする宮内庁東宮職のトップである東宮大夫に就任した。1960年代の若かりし頃、駐ソ連大使館で、皇后雅子さまの父・小和田恒さんと共に勤務したことがあり、まだほんの3、4歳ほどだった雅子さまから「野村のおじさま」と呼ばれ、慕われたという。適応障害の治療が続いていた雅子さまにとって「気の許せる側近」の存在が必要で、野村さんの東宮大夫就任にはそうした事情が作用したというのが、衆目の一致するところだった。


野村さんは1940年、名古屋市で生まれ、兵庫県の淡路島で少年時代を過ごした。東大法学部卒業後、外務省に入省。いわゆる「ロシア・スクール」に進んで欧州や旧ソ連の日本大使館で勤務した。ソ連課長などを経て1999年には「国内大使」の「沖縄担当大使」となり、2000年の沖縄サミット開催に力を注いだ。その後駐ドイツ大使、駐ロシア大使を歴任した。
2006年に東宮大夫になった時、雅子さまは療養生活に入ってまだ4年足らずで、病状も深刻だった。大夫として求められた任務は、ひとえに「皇太子ご一家を支え、守ること」「雅子さまの心を解きほぐし、回復を図ること」だった。同じ年に宮内庁常駐記者となった私の記憶に焼き付いているのは、週に1度の定例記者会見で、記者からの辛辣な質問を一身に受け止めて耐え続けていた姿だ。
妃殿下だってたまりませんよ」
当時、雅子さまの療養の影響で、皇太子ご夫妻そろっての公務は極めて少なかった。「公務もしないで私的に高級レストランにばかり行っている」「友人と遊んでばかりいる」といった類いのバッシングが嵐のように続いていた。
2001年に誕生したご夫妻の長女・愛子さまの幼稚園行事などの取材を巡って「取材設定をしろ」「いや、できない。理解してほしい」と、記者との応酬が続いた。
「大木さん、ちょっと、ちょっと」。皇太子さまの誕生日会見の後だったと記憶しているが、ぞろぞろと帰って行くほかの記者たちに内緒で、東宮御所の玄関脇にある小さな応接室にこっそり呼び入れてくれたことがある。
「どうしたら記者のみなさんに理解してもらえるのでしょうね。妃殿下(雅子さま)の取材にしたって、記者団が同じ所に固まって顔色はどうだとか、ご様子拝見とばかりに目の奥をのぞき込むようなことをされたら、妃殿下だってたまりませんよ」。どうしたらご一家を少しでも人間らしい環境に置けるのか、いつもそのことを考え、悩んでいたように思う。
皇太子妃時代の雅子さま(2006年1月)〔PHOTO〕Gettyimages
応接室で話し込んでいると、外で小さな女の子の声が聞こえた。はしゃぐ女の子の後ろから「ほらほら、そっちは駄目ですよ」と壁越しに聞こえてきたのは、ほかならぬ雅子さまの声だった。こんなにも普通で、人間的で、ありのままの、雅子さまと愛子さまの声を聞かせてくれたのは、野村さんからの素敵なプレゼントだったと今も思っている。
2008年、当時の羽毛田信吾宮内庁長官が、皇太子ご一家の御所訪問が少ないことを「両陛下(現在の上皇ご夫妻)も心配されていると思う」と発言した。数日後の皇太子さまの誕生日記者会見で、この件についての質問を買って出た私は、綿密に言葉を練った上で、このように質問した。
「長官がご自分の一存だけであの発言をされたとは、私には到底思えないのですが、皇室のご家庭内のことを、ああした公式の場所で発言せざるを得ない、こういう状況が今の皇室のご家庭の中にあるというこの現状を、どのように受け止めていらっしゃるのかお聞かせください」。家庭内のことを側近に言わせる当時の両陛下への反感も盛り込んだつもりだった。
これに対し皇太子さまは「御所に参内する頻度についてもできる限り心掛けてまいりたいと思っております。家族のプライベートな事柄ですので、これ以上立ち入ってお話しをするのは差し控えたいと思います」とだけ答えた。当然の答えだと思う。野村さんは私の質問を評価し、「考え抜かれた質問だった。質問者があなたでよかった」と言ってくれた。
雅子さまの復活を信じて
私が宮内庁担当を離れ、野村さんが大夫を退任した後は、2人でたびたび杯を交わした。雅子さまの病状は世間が思うよりはずっといいこと。将来、皇后となってからのことには何の不安も感じていないこと。思うように仕事ができない悔しさに雅子さまがたびたび涙を見せていたこと。今、雅子さまが活躍すれば、それを快く思わないであろう人物がいること。いろいろなことを話し合ったが、野村さんはいつも、雅子さまがいつか復活することを信じていた。
皇太子さまの言う「時代に即した新しい公務」が具体的に何なのか分からない、との批判については「あらかじめこれをやりますと言うべきではない」というのが持論だった。「日本の社会や世界との関係は、どんどん変化しているし、これからも変化する。皇室の公務の方向や性質というのはその中で見極めるべきだ」。そんなふうに話していた。
地方訪問をされた雅子さまが予定の一部をこなすことができず落ち込んでいたとき、「お声掛け禁止」の決まりに背いてまで「妃殿下、お疲れさまでした」と声を掛けたある新聞社記者の行動を「人間的で、本当にありがたかった」と喜んだこともあった。記者と皇室が、人間的で暖かみのある気さくな関係を持つことを望んでいた。
名護の夜の思い出
沖縄担当大使を務めた縁もあり、沖縄の大学での学生指導にも熱心だった。地域の振興を目指すとともに沖縄平和祈念堂を運営する公益法人「沖縄協会」の会長も務めた。
2013年11月、沖縄県名護市にある名桜大学で国際文化をテーマに集中講義をすると聞き、東京から名護まで押しかけて聴講させてもらったことがある。
その日、2人で名護の夜を過ごしながら、野村さんは言った。「大木さん、見ていてくださいね。妃殿下は必ず復活する。立派な皇后になる。これまでの皇后とは全く違う皇后に」。治療の一環として、東京・渋谷の国連大学で国際関係論の聴講を続けていた雅子さまの志向や行動力を、活発な慈善活動で知られた英国の故ダイアナ元皇太子妃に例えることもあった。
雅子さまのことは常に「妃殿下」と呼んでいたが、酔いが回ると、ふと「雅子さん」になることがあった。そんな時の表情は、昔の「優しい野村のおじさま」に戻っているように感じられた。
天皇陛下が即位し、雅子さまは皇后となった。断言していた通り、雅子さまは見事に復活した。コロナ禍に阻まれてはいるが、野村さんが支え続けた皇太子妃は、願った通りの皇后像を描こうとしているように思える。
雅子さまの復活を見届けたかのように、野村さんは突然逝ってしまった。もっともっと長く、両陛下の活躍を見守っていてほしかった。心からのご冥福をお祈りいたします。

皇室記者からの追悼

大木 賢一 プロフィール


秋篠宮さまが「記者会見」で小室圭さんを猛烈批判も、眞子さんには“必死のフォロー”

2021-11-30 10:34:15 | 日記

下記の記事を週間女性プライム様のホームページからお借りして紹介します。(コピー)です。

 11月30日、56歳をお迎えになった秋篠宮さま。この日、事前に行われていた記者会見の内容が公表された。

「大手の新聞社とテレビ局が所属する宮内記者会から事前に5問、その場で記者からアドリブで出された関連質問が3問、計8問にお答えになりました。話題の中心となったのはやはり、先日結婚された眞子さんに関連する事柄です。


 
“眞子さんの結婚が皇室に与えた影響”や“久しぶりに会われた小室圭さんの印象”や“ご家族でどのような話し合いをされたのか”などを問われました」(皇嗣職関係者)

眞子さんの病状をフォロー
 皇室としては、類例を見ない結婚を成就された眞子さんと小室圭さんの、それぞれに対する「秋篠宮さまのスタンスが明らかに違った」と、ある宮内庁関係者は指摘する。

「小室さんとの再会について殿下は“印象に残ることは特にありませんでした”と淡泊にご回答。さらに“夫の方については”と小室さんの名前すら出さず、金銭トラブルに関して“自分の口から話をして、質問にも答える機会があったほうがよかった”と、不満を漏らされていました。

 関連質問に対しても“この春に娘の夫が”と言及し、今年4月に小室さんが公表した金銭トラブルの経緯などを説明した文書に対するご意見を述べられたのですが……。

“確かに説明はした”と前置きされながらも“あれを読んでどのくらいの人が理解できるのか”“個人の考えとして、あれを読んですべての状況を整理して納得できるものではないと判断した”などと、猛烈に批判されたのです」

 一方で、眞子さんに対するお考えはというと、

「記者会見については“一方向ではなく双方向での形式にしてほしかった”と、残念がられていました。しかし、その後すぐに眞子さんが『複雑性PTSD』を患っていることを挙げ、“会見している際に発作などが起きることも考えられるでしょうから、やはり難しくなったのかなと思います”と、眞子さんが記者との問答ができない状態だったと、フォローされたのです」(同・宮内庁関係者)

 皇族としての『公』と一個人としての『私』という、皇室のあるべき姿について問われた際も、殿下は眞子さんの結婚を肯定的に捉えられた。
「“公は私よりも優先されるべきものだと考えている”と述べられながらも“一連の娘の結婚のことが、うまく公と私に当てはまるのかどうか”と疑問を投げかけられました。

 眞子さんが公よりも私を優先している、といった世間の論調に納得しておられないご様子でした。“私よりも公を優先しなければならないなら、10年たっても20年たっても結婚することができなくなる”という趣旨のおことばも。

 つまり、皇族がすべての事柄で公を優先する存在ならば、私的な事柄である結婚をすることはできなくなる、ということをおっしゃったのだと拝察しました」(前出・皇嗣職関係者)

皇族の運命からは逃げられない
 さらに、皇室における公私の考え方を付け加えられた。

「“(結婚に関して)男性皇族は皇室会議を経て行うのに、女性皇族はそれがない。その点でも公と私は格が違ってくる”とおっしゃいました。記者が尋ねていない場面でも、わざわざ殿下から発言を足されたことに驚きましたが、それほど女性皇族は“私”が優先されてしかるべき存在であることを念押しされたかったのかもしれません」(同・前)


 NYに旅立った可愛い娘のことをフォローしたいお気持ちがあるのは当然だが、結果的には「皇室として類例を見ない結婚」になってしまったことは事実である。

「結局は長女の要望を受け入れて、家同士のつながりを持たない結婚を認めてしまわれたということです」

 そう話すのは、静岡福祉大学の名誉教授で近現代の皇室制度に詳しい小田部雄次さん。


NY行きの便に乗ろうとする小室圭さんの胸元にはダース・ベイダーが('21年11月)

「結婚までの道筋や現在の生活などにもロイヤルパワーが働いている気配が強く、それをお許しになっている秋篠宮殿下や紀子さまの親としての“甘さ”があると、多くの国民は感じているのでは。ましてや、多くの国民がコロナ禍で明日の生活に不安を抱えている最中に、NYのマンションで新婚生活をエンジョイしている姿は、国民感情を逆撫でしています」

 小田部教授が続ける。

「皇族がプライベートを求めること自体は当然ですが、まずは公的立場にあることが前提であり、だからこそ多くの特権を享受しているのです。皇族として生まれた以上、その運命から逃れることは難しい。

 しかし、国民も自分の運命と向き合いながら懸命に生きています。むしろ国民の多くは運命に直面することはあるにしろ、特権はない。

“特権も手放したくないし、運命からは自由になりたい”という、国民の苦労を意識しない考えを秋篠宮家の方々が強調し続ける限り、風当たりは弱まらないでしょう」
眞子さんの次は、12月で27歳となられる佳子さまのご結婚問題が待っている。秋篠宮ご夫妻は、すぐに“第2の苦難”に向き合われることに。

「秋篠宮家の自由恋愛という方針は、今さら変えられないと思います。ただ、佳子さまが選ばれたお相手の身辺調査はかなり厳しくなる。

 特に紀子さまは“国民から非難されるような相手ではいけない”とお考えのようです。相手の家柄はもちろんのこと、過去や現在にわたって問題を抱えていないかなど、徹底的に調べ上げるおつもりでしょう」(秋篠宮家関係者)

悠仁さまはご覚悟が必要
 佳子さまの結婚相手のハードルは高まる一方で、来年高校生になられる悠仁さまの進学先問題も浮上している。

「会見で悠仁さまの近況を問われた殿下は“1年前に比べると机に向かっている時間が格段に長くなっている”と述べられました。現在通われている『お茶の水女子大学附属中学校』は高校から女子校になるため、受験勉強に精を出されているのでしょう。

 当初は警備など皇族の受け入れ体制が整っており、同級生や保護者からの理解も得られやすい『学習院高等科』が有力視されていました。しかし、最近になって学習院以外の高校に進学される可能性が高まっているそうです。

 秋篠宮さまは上皇ご夫妻から“好きなことをやらせてもらえた”という思いが強いため、お子さま方の自主性を重んじておられます。眞子さんと佳子さまがご自分の意思で『国際基督教大学』に進学されたのも、その一環です」(同・前)


殿下のお誕生日に際して公表されたお写真。お父さまが亡くなり、服喪期間のため紀子さまはご不在(11月12日・赤坂)

 2人の姉のように、悠仁さまもご自身の興味関心が強い分野を学ぶことのできる高校を選ばれるのだろう。

「どの進学先でも困難はあるでしょう。大切なのは、悠仁さまご自身が選択されたことは、困難があっても乗り越えていくというご覚悟を持つこと。いちばん好ましくないのは、皇族の特権で何でも思いどおりに進められるという考え方です。

 眞子さんの問題のひとつは“そうした特権で困難を乗り越えられる”と、お考えになっていることかもしれません。秋篠宮家は“自分の力で乗り越える”という教育が欠けているように感じます。お子さま方への“過保護という弱さ”を、悠仁さまにも波及させないことが大切だと思います」(小田部教授)

 秋篠宮さまは今後、佳子さまと悠仁さまにどう向き合われていくのだろうか。