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妻が口をきいてくれません』『消えたママ友』『ママ友がこわい』『離婚してもいいですか?』――。漫画家、野原広子氏の作品はどれも胸にチクリと刺さる。一連のタイトルからわかるように、ほのぼのとしたタッチで描かれるのは、1つひとつの出来事はささやかながら、ボディーブローのように心を圧迫する精神的な暴力の問題だ。
ていねいに描いた作品から浮かび上がるのは、子育て世代のリアルな孤独。一見幸せそうな人たちが、いったいなぜ孤独に苦しむのだろうか。
ママ友については誰もあまり語らない
成人した娘を持つ50代の野原氏は、自身の体験や周囲の声、文献などから想像力を広げ、作品化している。子育て世代を描く作品で、重要な役割を果たすのがママ友だが、ここに「闇」があると野原氏は見る。
「夫婦関係については、ちょっと聞いただけで皆さんすごくしゃべってくださるんです。ところが、ママ友に関しては皆さん本当に何も話さない。そこに闇があると感じているので、その雰囲気を吸い取りつつ描きます。1999年の文京区幼女殺人事件をはじめ、ときどきママ友に関する事件は起こっているので、関連記事や本を読み、そこに漂う人間関係の闇も参考にさせていただいています」
『ママ友がこわい』は、いじめ問題を描いている。「一番大切な子どもから始まっているママ友同士の関係は繊細で、ちょっとしたことで崩れる、と感じています。打ち明け話もするけれど、突っ込んだ話はしない。敵に回しちゃいけない相手。説明が難しいですね」と考えながら言葉を選ぶ野原氏。
子育てという「仕事」をする同僚みたいな関係ではないか、と聞くと、もう少し深い関係だと野原氏は説明する。「子どもが小さいときは、ママ友がおむつを替えてあげたり、よだれを拭いてあげたり、モノを食べさせたりすることもあるんです。そうすると、その子のお母さんは一気に心を開く。ほかにそういう関係性は見当たりません」。
ではなぜ、そんな仲よしのママ友同士で大事件が起こるのか。「ママって全力で何でもやるから、コミュニケーションのちょっとしたつまずきで相手が裏切ったと感じてしまい、ヘンな方向に行くのかもしれません」と野原氏は言う。
ある日、仲よしだったママ友に何も告げず失踪する女性を軸に描いた『消えたママ友』からは、ママ友たちの孤独がくっきりと浮かび上がる。野原氏によると、母親の孤独には3つの要因がある。
母親たちを孤独にさせること
1つはSNSでの情報交換が活発なため、周囲の視線が気になり、「楽しくなきゃいけない、幸せじゃなきゃいけないということが、頭のてっぺんにある」ということ。しかし、そうした孤独は、SNS以前の時代にもあった。
「私自身、子どもが小さいときはとても孤独を感じていました。お母さんは幸せで当たり前、いいお母さんで当たり前と思われている。おっぱいが出ないだけでも、『じゃあもっと努力しろ』、と世の中から突き放される」
2つ目の要因は、そうした世間の側の問題だ。
「小さい子どもを抱えるママは肩身が狭い。『妻が口をきいてくれません』の中で、バスの中で子どもがぐずったら、乗り合わせた男性に怒鳴られた、と妻が話すシーンがあります。それは私が実際に目にした場面がもとになっています。バスで泣く子に対しておじさんが『うるさい!』と怒鳴った。席が遠かったので何もできなかったんですが、申し訳なさそうに降りるお母さんの姿が心に残っています。母親はしっかりしろ、というプレッシャーが強いから孤独なのかもしれません」
『妻が口をきいてくれません』は手塚治虫文化賞を受賞した(野原広子/集英社)
3つ目の要因は、家族の中でも孤独なこと。先のシーンで妻の話を聞いた夫は「それはママが悪いよ」と決めつける。味方になってほしい夫が、世間の側に回ってしまう。母親の孤独の最大の要因は、夫婦関係ではないだろうか。
「夫婦の話をいろいろな人に聞くと、壮絶な話は多いんですけど、あえて普通のところを拾って描かせていただいています」と野原氏。十分に怖い描写が多いが、現実はマンガの上を行くらしい。
『妻が口をきいてくれません』を描いたきっかけは、知り合いの男性から「うちの妻が口をきいてくれないんだよ」というぼやきを聞いたこと。インターネットで検索したところ、「すごい数の『妻が口をきいてくれない』という投稿が出てきて、読んでみると、『家に帰りたくなくて動悸がするほどひどい』『精神科に通っている』といった人も多い。家に帰った途端、妻が明かりを全部消したことがショックだった、という人もいました。
私自身も夫に口をきかなかった時期があって、何となくやっていたことだったんですけれど、調べて初めて夫たちの苦しい状況を知りました。男性はこんなに繊細なのか。大変だなと思って、作品化の方向を探り始めたんです」
妻と向き合わずに「逃げる」夫たち
一方で、この尋常ならざる事態に対し、「妻と向き合うのではなく、別のところに行く人が多い。同作中でも夫はアイドルに逃げる。旦那さんも仕事で疲れているのはわかるんですけど……」。
妻も向き合わず、口をきかない戦略に出るのはどうなのか。「女性には、察してくれないとあきらめてしまう人が多いのかもしれません。男性から見れば『エスパーじゃないんだから』となる。でも、口で言うとムカつかれるのを知っているから、妻は話さないのではないでしょうか。他人は話し合えばわかる、と簡単に言いますが、それができないから皆さん悩むのです」。
『妻が口をきいてくれません』(野原広子/集英社)
夫婦2人だけで子育てをするのではなく、両親などほかに頼れる人がいれば改善するのでは、とも単純に言えない。『消えたママ友』では、祖母が手伝いの口実のもと、跡継ぎとなる孫を取り込んで母親の出番を奪っている。その関係性も、野原氏が実際に聞いた話がもとになっているという。
「結婚前からつき合いがある友人が、子育てが終わってから打ち明けてくれた話なんです。お姑さんとちょっと仲が悪いのかなとは思っていたんですが、おばあちゃんが孫を抱いているのを見ても過呼吸になるほど追い詰められ、結局別居。それを今になって打ち明けることにも衝撃を受けました。本当に深い悩みは、誰もわかってくれないだろうと思って、友人に言わないことも多いかもしれません」
確かに年齢が上がるほど、悩みは複雑になり、親友であってもそうたやすくは打ち明けられない。そして母親ならではの最大の苦しみは、母親の役割からは逃げ出せないことではないだろうか。
「世間は冷たい、家族も理解してくれない。だから、保育園で同じ悩みを共有できるママ友が現れると、どっぷり深みにハマっちゃうんです。仲良くなってからの年数も短いのに、すべてを委ねられるような気がして、間違いが起きる。まだ人間として未熟だということに、自分自身も気づいていない。結局、ママ友同士の関係も、みんな失敗しながら学んでいくのでしょうね」
ママ友はそれでも、一定期間が過ぎれば離れることができる。ママ友同士のトラブルは、歳月を重ねれば記憶が薄れることもある。野原氏は、ママ友問題を描くことに決まったとき、編集者からトラブルの体験はなかったか聞かれた。
「平和でしたよ」と答えていたにもかかわらず、描き終えてから「すごいのがあったわ」と自身の体験を思い出したという。行動範囲が広がり視野が広がると、ママ友との関係は変化することもある。そして、子どもの手が離れれば薄れがちな関係性でもある。
「夫より大事なものがある」から離婚しない
問題は夫婦関係だ。離婚するかどうか悩む女性を描く作品もある野原氏自身、離婚している。直接的な離婚の要因ではないものの、子育てはワンオペ状態だった。
「私の親は遠くにいましたし、夫がとにかく家にいない人だったんです。娘が赤ちゃんのときは、家の中で事故を起こさないか心配で、1週間自分の髪の毛が洗えないときもありました。近くに義母が住んでいたので、義母と2人で育てたような感じでした」と話す。
実際に離婚をすると、見えてくることがあるという。
「離婚したいと思っていたときは、周りの友人たちも『離婚する』と言っていたのですが、結局本当にしたのは私だけ。断念した理由を聞くと、経済的にやっていけないという人が多いです。熟年離婚をしようとしたら、成人した子どもに止められた人も。いくつになっても、子ども中心という人はいるんですね。
離婚を恥と考える年上の世代には、『旦那が死ぬまで我慢する』という人もいます。離婚をすると、長年住んだ家や地域、友人を捨てなければならなくなる。夫よりも大事なものができていることが、離婚しない要因になるんです」
夫婦関係を再構築する糸口が見えたから、ではなく、結婚生活を支えるその他の要因ゆえに離婚しない。しかし、話し合いをあきらめて口をきかなくなっても向き合おうとしなかった夫とは、うわべだけの関係しか続けない。密かにそんな結論を下した妻と同居を続けている男性も、実は多いのかもしれない。本人が気づいていないだけで。
野原さんから話を聞くと、母親たちのつらさは単に孤独なだけでなく、孤立しているからとわかる。ママ友とは親しいようでいて距離がある。家族からも母親としての責任を押しつけられる。世間の眼も冷たい。本来子どもは、育っていくうえで何人もの手助けを必要とする。
今は大きな顔をしている大人たちも、たくさんの人の手を借りてきたから今があるのだ。それなのに、母親に全責任を押しつけ子どもを排除しようとしている。せめて母子を温かい目で見つめる寛容さが、私たちには必要なのではないだろうか。
阿古 真理 : 作家・生活史研究家
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趣味でミツバチを飼う人が増えている。都会暮らしだと虫との接点は薄れがちだが、育ててみれば人と自然とのつながりが実感でき、その自然を人間が翻弄してしまう現実にも気づかされる。「身近な花や木を見る目が変わった」とみな口をそろえる。世話は大変だが、何よりのご褒美は自然の恵みを自ら手にする楽しみ。ハチと人との長いつきあいは甘さだけではない滋味にあふれる。
自然の贈り物 最高の贅沢待ちに待ったニホンミツバチのミツを収穫し満足顔の堀田一芙さん。ハチを飼い始め、家庭菜園の実りがよくなり、カエルやヘビも集まる(神奈川県横浜市)
「今年は天候不順だったから、どうかな?」。6月初旬、横浜市鶴見区の住宅街にある自宅で堀田一芙(74)さんが期待を抑えるようにミツバチの巣箱に目をやった。きょうは春先から働きバチがせっせと集めたミツを絞る、2021年最初の採蜜の日。中空の木枠を4、5段重ねた重箱型の巣箱が庭で待ち構えている。中では上から下へ垂れるように巣が成長し、上部にはミツがたっぷり蓄えられているはず。でも、開けてみないと分からない。
まずは天井をトントン。中のハチにあいさつした後、慎重に最上段の木枠を切り外した。暗闇に突然差し込む外光にハチの群れが算を乱し慌てる。「大丈夫だよ」と声をかけ、ブラシでそっと払いのけると、褐色の光が見えた。
取り出した巣の重さに、表情が緩む。表面を削ると巣穴からミツがたらーり。堀田さんの両手はミツでべっとり。それをぺろり、ぺろりと何回もなめ、「いやー、最高の贅沢(ぜいたく)です」。にじみ出るように笑みがこぼれた。
自宅でのハチの飼育は8年目になる。現役時代は日本IBMでパソコン販売の最前線で指揮を執った。退職後は地方創生事業にかかわり、その活動で知り合った養蜂家から群れを分けてもらって庭に巣箱を置いてみた。だが、最初は失敗の連続だった。病気で全滅したり、夏の日照りで巣が溶け落ちたり。「中途半端な育て方が原因でハチに迷惑をかけ、こちらまで落ち込んだ」。それでも続いてきたのは年間20キロほどの収穫があったからだろう。「料理に使う砂糖はほぼハチミツに変わり、喉の調子がよくなりました」と妻の縁(ゆかり)さん。
住宅街での養蜂は異常発生などが原因で苦情が持ち込まれることもあるが、幸い庭の前が崖地で周りから気づかれないこともあり、トラブルはなかった。近所におすそ分けすると、「こんなところで」と驚かれることもある。堀田さんの庭で採れた蜜をアイスクリームにかける(神奈川県横浜市)
ハチを見ていると自然の変化まで伝わってくる。「向こうに建設中のマンションが見えるでしょう。大きな木があって、うちからも行っていたはずですが」。ハチの行動範囲に花が少なくなればミツの総量は減る。前は庭に巣箱を10以上置いてもそれぞれ十分に採れたが、「庭に置く巣箱の数を減らさざるを得なくなってきた」。
インターネットなどで養蜂の情報が広がり、資材が入手しやすくなった影響もあるのだろう。堀田さんのように、趣味でハチを飼う人が増えている。自宅時間が増え、身近な自然への関心が高まった。そこには、生き物と直接向き合う面白さと難しさがある。
丹沢の麓に広がる神奈川県伊勢原市の梅林では、雨岳自然の会ミツバチ班のメンバーらが養蜂に取り組んでいた。ハチが受粉を手伝うからか、梅がたわわに実っている。指導役の西村光男さん(75)は子供のころからの昆虫好き。化学メーカーで営業を担当したが、引退後に九州大学大学院に入り、天敵昆虫学を学んだ。その知見を生かし20年、ハチの巣の害虫防除用品を販売する会社を作った起業家でもある。雨岳自然の会ミツバチ班は丹沢の麓に広がる梅林に巣箱を置き、世話をしている。木枠を重ねた巣の最上段にミツがたまる。採取後は新しい木枠を一番下に挿入する(神奈川県伊勢原市)
「ハチは一匹ずつ役割が決まっていて、見ているだけで飽きません」と西村さん。群れの大半を占める働きバチはすべてメス。30日ほどの一生の大半は巣の中ですごし、残り10日の命で外に飛び立つ。おとなしい雄バチは交尾が役割で、用が済めば死ぬ。はかない姿に情が移るのか、思わず「この子たち」と語りかけてしまう。手伝っていた1人は、「ハチのおかげで果物が実をつけ野菜が育つ。人間は自然とつながっているのだとつくづく感じます」と話す。
日本には、ニホンミツバチとセイヨウミツバチの2グループが生息している。堀田さんや西村さんが飼う「ニホン」は野生の在来種。小柄で集める量は多くないが、いろんな花が混ざる「百花蜜」が採れる。「セイヨウ」は養蜂のため明治時代に導入された。季節の花に狙いを絞り多量のミツを集める。ただ、病気に弱く手間がかかる。
フリー編集者の杉沼えりかさんは養蜂の本を担当したのをきっかけに、東京都調布市内に自分の養蜂園を開いた。畑を借り5群のセイヨウを飼う。今年採取した桜のハチミツをなめてみた。口の中に季節外れの薫りが広がった瞬間、外出自粛で遠く眺めるだけだった今年の桜の記憶がよみがえった。
ハチミツはその土地と季節の花を閉じこめるタイムカプセルのようなものだ。季節と場所が変われば花の種類も変わる。「同じ桜でも、日によって、年によって風味が変わる」(杉沼さん)。それを味わい分ける楽しみがある。深大寺養蜂園の杉沼えりかさんは素手でハチを触るが、「こちらが刺激しなければさされることはない」(東京都調布市)
と書いてくれば、人とミツバチが共存する美しい物語を想像するが、自然の掟(おきて)は人間が思い描くほど甘くはない。ミツバチ研究の第一人者である佐々木正己・玉川大学名誉教授は「自然に関心を持つ人が増えるのは好ましい」とした上で、こうも指摘する。
「特定地域でミツバチだけ増えれば同じ蜜源に頼る他の昆虫と競合する。生態系にも影響を与える可能性がある」。ハチがミツを集めるのは冬場を乗り切るため。人はそれに横から手を出す。懸命に生きる小さな昆虫の複眼に現代の虫愛づる人はどう映るだろう。
持続可能な生活のヒントにミード専用の発酵タンクをかき交ぜる峰の雪酒造場の佐藤利也社長。このタンクで年間6000リットルを醸造する(福島県喜多方市)
夏も残雪を頂く飯豊山系の伏流水と内陸の冷涼な気候が、会津盆地の酒造りを支えてきた。峰の雪酒造場(福島県喜多方市)はこの地で創業し80年近い。訪ねると、薄暗い蔵に真新しい金属タンクが置かれ、中では発酵の細かい泡がはじけていた。「味見しますか?」。4代目社長の佐藤利也さん(63)が勧める、薄オレンジに濁る液体を蛇の目のぐい呑みで受けた。日本酒にはない甘い香りが広る。「仕込み2日目のミードです」と佐藤社長が種明かしをする。
と言われても、なじみがないだろう。ミード(Mead)はハチミツを発酵させて造る酒で、ビールやワインよりずっと歴史は古く、世界最古の酒ともいわれる。ポーランドなど欧州東部でよく飲まれ、米国では近年ミーダリーという専門の醸造所が増えている。それにしても、なぜ会津の老舗酒蔵が?
会津はハチミツ産地でもある。米国暮らしの経験がある養蜂業者から「会津のミードを造らないか」と持ち掛けられた。07年のことだ。「そんな聞いたこともないもの、無理」と即座に断ったが、酒造りの意地がもたげた。「清酒の技術があればいけるだろう」
すぐ壁にぶつかった。古くは薬品としても使われたハチミツは殺菌作用が強く、そのままでは酵母が働かない。蔵の仕込み水でハチミツを薄め、日本酒酵母をひと工夫して加えてみると、発酵が進むことを突き止めた。水で3倍に希釈したハチミツと日本酒酵母を入れたタンクの中では細かい泡がはじけていた。約25日の発酵期間を経てミードが完成する
ところが、できた液体はドブロクのように濁っていた。これをどうろ過するかが次の関門。通常のフィルターでは成分が細かすぎて取り除けない。ここで応用したのが「オリ下げ」という手法だった。清酒造りで使う添加剤を濃さを変えながら混ぜていくと、「ある濃度で濁りがすーっと沈んだ」。
08年、本格醸造に踏み切った。きんと冷えた最初の1杯を口にした佐藤社長は「こんなうまい酒飲んだことない」と驚いた。以来、日本酒は息子に任せ、ミードに没頭。蔵を訪ねた日に仕込んでいたのがちょうど90本目のタンクだ。
欧米は薬草などを添加したリキュールのような味わいが多いが、杜氏が醸すジャパニーズミードは地元の水とハチミツにこだわる。トチのミードは樹齢30年以上の木からしか取れない貴重なミツを使う。「菩提樹」も会津の森が原産。アルコールは10%未満で飲みやすく、貴腐ワインのような味わいの後に木の薫りが広がる。蕎麦(そば)のミードは少し変わっている。古酒に似た褐色でどっしり。土地の素材が個性をつくる。ボシックさんが最初に発売したPATHFINDERはハス、菜の花、アカシア、トチの国産ミツを使い、フランスと日本の酵母で醸した。貴腐ワインのような上品な味と香りが特徴
東京都町田市に住み、日本の映画やドラマに出演する米国人俳優のエリック・ボシックさんは自ら書いたレシピによるミード製造を18年から峰の雪酒造場に委託し、ネットなどで販売する。子供のころ、リトアニア出身の祖父がミードを造っていた覚えがある。後にチェコを旅行し、「古城で飲んだミードの神秘的な味わいのとりこになった」。
6月発売の新製品「RISE&SHINE」はフランスのワイン酵母で発酵させ、国内のウイスキー醸造所で5カ月樽熟成した。飲むとチョコレートような芳香が残る。20年発売の「RING OF FIRE」はリンゴのハチミツを焦がし、バニラビーンズを加えた。いずれも個性派で海外産の原料も使うが、共通点は国産のハチミツ。「日本で造るのだから、日本のテロワールにこだわりたい」米国人俳優のエリック・ボシックさんがレシピを書いたミードは、ハチミツを焦がしたり、樽で寝かしたりと個性派ぞろい。ただ、材料のハチミツは日本産にこだわる(東京都町田市)
7月5日、IT企業経営の工藤宏樹さんと、ロシア生まれで東京農業大学を卒業したエレナさん夫妻に待ちに待った「その他の醸造酒製造免許」が届いた。2人が暮らすのは最近ウイスキーの街として知名度が上がる埼玉県秩父市の隣の小鹿野町。ミード専門の醸造所をつくるため20年、東京都内から移り住み準備してきた。名称は町名を英訳した「ディアレットフィールド醸造所」と決め、町の廃校を借り、醸造スペースも確保してある。「トチなど地元のハチミツを使ったオリジナルのミードを造りたい」とエレナさん。10月ごろには最初の製品がお披露目できそうだ。
ミードへの関心が高まっているのは、手を伸ばせばそこにある自然がもたらす恩恵への素直な驚きと感謝があるからだろう。ミツを絞りきった巣を加熱すれば蜜蝋(みつろう)が取れる。人間は古来、蜜蝋に保湿性や殺菌力があることを知り、ワックスにローソクにと、余すところなく活用してきた。加藤和歌子さんが手作りする蜜蝋のラッピング。自然の耐水性や抗菌性があり、食品容器のカバーなどに適している(東京都調布市)
調布市の主婦、加藤和歌子さんは出産後に体調を崩したのをきっかけに天然素材への関心が高まり、市販の蜜蝋を使ったラッピングやクリームを手作りしてきた。20年からは調布市内で養蜂する「深大みつばちプロジェクト」に参加し、7月10日に初めて蜜蝋を取り出す作業をした。「思った以上に大変でほんの少ししか採れませんでした。その分ありがたさが身にしみました」
自然や生き物を酷使することなく、共存可能な範囲で恩恵を無駄なく利用させてもらう。ハチと人の長い付き合いからは、持続可能なライフスタイルへのヒントも見えてくる。
田辺省二
初めての方にご案内します。
毎日原則として4回更新します。健康、暮らし、社会についての記事です。
利益を得るためではなくあくまでも皆様のお役に立てば幸いです。
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眞子さんと小室圭さんの結婚会見でも触れられた、小室さんの母・佳代さんの金銭トラブル。現時点ではまだトラブルが解決していないことが確認されたが、当事者の佳代さんには動きがないままだ。
「このたびの結婚に際し、通常であれば、秋篠宮さまご夫妻だけでなく、相手男性の親のコメントが発表される予定でした。黒田慶樹さんが清子さんと結婚された際も、黒田さんの母親のコメントが宮内庁を通じて発表されましたからね」(皇室担当記者)
今回、小室さんの母・佳代さんのコメントが出されることはなかった。テレビが自宅にない佳代さんは、息子の晴れ舞台をネット配信で静かに見届けたのだろうか。そんな佳代さんに、警察と検察の捜査の網が刻一刻と及びつつある。
「ジャーナリストが10月6日、佳代さんのことを東京地検特捜部に詐欺罪で刑事告発したのです。『返戻』という措置が取られ、いったん神奈川県警への相談がうながされている現状です。神奈川県警と連絡を取り合いながら証拠資料をさらに集めているそうです」(全国紙記者)
詐欺罪で刑事告発されたのには、2つの「不正受給」の疑惑がかかわっている。1つは佳代さんの夫が、2002年3月に亡くなってから受給していた遺族年金についてだ。この年金は、残された方が再婚したり事実婚となった場合、権利を放棄しなければいけない。しかし、佳代さんは夫の死後しばらくして、自宅マンションで彫金師の男性と同棲して事実婚関係になったにもかかわらず、受給を続けていたとされる。それが詐取にあたる可能性があると指摘されているのだ。
その件について小室さんは会見で配付した文書の中で「そのような事実はありません」と否定したが、何がどう事実でないのかはわからないままである。
そして、今回の舞台、長野・軽井沢にかかわる疑惑は、傷病手当の不正受給についてだ。傷病手当とは、病気やけがによって働けなくなったときに、加入している健康保険組合から受給できる手当のこと。佳代さんは2018年春、適応障害を理由に正社員として勤務していた都内の老舗洋菓子店を休み、支給期間の最長と定められている1年半にわたって傷病手当を受け取っていた。
「この間、佳代さんは知人が経営する軽井沢にある喫茶レストランのホールやバックヤードで働いていた時期があると報じられました」(皇室担当記者)
そもそも、傷病手当を受けながら、別の場所で働いていたらどうなるのか。社会保険労務士の光嶋卓也氏の解説。
「休職前とほぼ同じ業務内容でほかで働いていれば、不正受給と判断される場合があります。病欠を理由に本来の職場で加入した保険から傷病手当金をもらっていたことになるので、保険金を詐取していたと判断される可能性もあるでしょう」
複数の偽名を持つ
この疑惑について、重要な証言をするのは軽井沢の店の常連客の1人だ。
「佳代さんは確かに、その店のホールで働いていました。彼女の昔からの親しい友人で、10才ほど年上の経営者の女性が、3年前の夏の繁忙期に働き手がいなくて困っていたんです。そこでやってきたのが、佳代さんでした」
佳代さんと元婚約者との金銭トラブルが2017年末に報じられていたため、当時はすでに“渦中の人”。常連客は、避暑地に現れた警戒心の強い佳代さんの姿を覚えているという。
「つばの大きめな麦わら帽子に大きな黒のサングラスをしていたのが印象的でした。さらに、顔が見えないようにするためか、ぐぐっと背中を大きく曲げて歩いているんですよね。それでいて、赤い口紅を塗っているので、印象に強く残っています……」
そのため、近隣住民の間では佳代さんは徐々に知られる存在になっていた。
「2018年夏に軽井沢にいたときには、ホールに出て接客していましたからね。喫茶レストランの経営者の女性は、もとはご夫婦でやっていたんですが6、7年前にご主人が亡くなられた。その後は古くからの厨房担当とホール担当とでお店を続けていたのですが、ホールの人が辞めて、ちょうど働き手を欲していたんです。佳代さんにとっても、自宅周辺に集まる報道陣から逃れるには格好の“隠れ家”だったのでしょう。
互いの利害が一致して、レストランの2階に住み込む形で働くようになったのです。『手伝ってくれる人が見つかった』と、経営者の女性が喜んでいたのを覚えています」(前出・常連客)
しかし、この時期は傷病手当金を受給していた時期。佳代さんには後ろめたい思いがあったのだろうか。佳代さんの知人は、ある驚く光景を目の当たりにした。
「佳代さん、偽名を使っていたんですよ。お店の人からは、“あーちゃん”と呼ばれていて、バレたくないんだと思いました。それならホールに立たなければいいのに……。ただ、偽名を使っても佳代さんへの客からの視線は変わりませんでしたね」
その視線に気づいたのか、翌2019年には佳代さん本人が人前に出るのを避けたかったようで、厨房などバックヤードでの仕事に変えたという。
「軽井沢の店は冬に閉めることが多く、この店も同じでした。佳代さんは6月から10月頃にかけて、自宅から断続的に軽井沢に訪れていたようです。都内の洋菓子店で働いていた仕事内容ともあまり変わらないと思うんですけどね」(前出・佳代さんの知人)
厚生労働省保険局の担当者の話。
「本来の業務と同じ業務を別の場所でできるなら、それは本来の職場でも仕事が可能だと考えられ、支給決定を変えることはあるかと思います」
この事実を眞子さんは知っているのだろうか。
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会見で両親への感謝の言葉はなかった
小室眞子さんは会見で両親への感謝の言葉を口にしなかった。
これが何を意味するのか、会見中継を見ながら考えていた。
10月26日、午後2時。会見場に現れた2人は明らかに緊張していた。
会場から見て向かって右に眞子さん、左に小室圭が座る。圭の目が落ち着きなく左右を見渡す。
司会の声かけで眞子さんが話し始める。
「現在、新型コロナウイルス感染症の影響が続き大変な思いをされている多くの方々にお見舞いを申し上げます」
声は落ち着いている。
「本日、皆さまにお伝えしたいことがあるため、このような場を設けました」
型どおりの、私たちは今日結婚しましたというものではない。そんなことより大事なことがあるといいたいようだ。会場に緊張が走った。
これまで皇族としての務めを果たそうと努力し、たくさんの方たちに見守られ、支えられてきましたと続ける。訪問した国々でも温かく見守ってくれた方々への感謝を述べる。
前振りが終わって、「私と圭さんの結婚についてさまざまな考えがあることは承知しております」と本題に入る。静かに見守って下さった方々や「事実に基づかない情報に惑わされず、私と圭さんを変わらずに応援してくださった方々に感謝しております」とメディア批判に転調していくのだが、その前に、「私にとって圭さんはかけがえのない存在です。そして私たちにとって結婚は自分たちの心を大切に守りながら生きていくために必要な選択でした」と、2020年11月に公表した「お気持ち」の中でも強調していた結婚への強い意思を再び繰り返す。
すべては私が考え、指示したこと
小室圭に替わって、「私は眞子さんを愛しております」と堂々と宣言する。
「一度きりの人生を愛する人と共に過ごしたいと思っています」として、これまでも2人で励まし合ってきた、その上で「このたびの結婚に関してご迷惑をおかけしてしまった方には大変申し訳なく思っております」と続けた。方々ではないから、これは母親の元婚約者へのおわびなのだろうか。
眞子さんが引き取る。「これまで私が公に発言する機会は限られてきました」。ここから彼女がどうしてもこの場でいいたかったことが明らかにされると、期待感が膨らむ。
そのために生まれてしまった誤解もあったとして、衝撃的な告白になる。
婚約に関する報道が出て以降、さまざまなことがあったが、圭が独断で動いたことはない、すべては私が考え、指示したことだというのである。
小室さんは皇室を離れるための“先兵”だった
圭の母親の元婚約者への対応も、私がお願いした方向で進めてもらった。婚約延期後、小室圭が留学したことも、私がお願いしたことで、元々将来留学したいと考えていた圭に計画を前倒しにして、海外に拠点をつくってほしいと頼んだというのである。
つまり、かなり前から、皇室を離れるためには結婚しかない、日本で暮らすのは嫌で、海外で暮らしたいと考え、小室圭を“先兵”として動かしていたというのだ。
どんなことをしても皇室という籠の中から飛び立ち、一人の人間として生きたいという切実な思いがあったことを初めて吐露したのである。
圭が独断で行動し、私の気持ちを考えていないという批判があったが、それは“誤報”だというのだ。
「誤った情報がなぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、いわれのない物語となって広がっていくことに、恐怖心を覚えるとともに、つらく悲しい思いをいたしました」
小室圭は書かれた紙を目の前に掲げて読んでいるが、眞子さんは毅然きぜんとして前を向き、時々下に置かれた文面に目をやる程度。
「誹謗中傷で2人が心身に不調をきたした」と痛烈に批判
ここで小室圭に再びチェンジ。
母親と元婚約者との金銭トラブルといわれている事柄に触れる。
詳しい経緯は本年4月に公表した通りとした上で、元婚約者にはこれまでも折に触れて、お礼を申し述べていると、礼は失していないといいたいようだ。
解決金については、母親が精神的な不調を抱えていて、元婚約者と会うことはドクターストップがかかっているため、「解決に向けて、私ができる限り対応したい。解決金を受け取っていただきたい気持ちは変わっていない」と話す。
元婚約者からは、代理の週刊誌の記者を通じて前向きな返事をもらっているとしている。
その上で、
「この数年間誤った情報があたかも事実であるかのように扱われ、誹謗中傷が続いたことにより、眞子さんが心身に不調をきたしたことをとても悲しく思います。私の母も心身に不調をきたし仕事を辞めざるを得ない事態にまで追い込まれましたし、身の危険を感じながら過ごしています」
あんたたちメディアが心ないでっち上げ報道をするから、2人は心身に傷を負ってしまったのだと、痛烈に批判する。
会場にいたメディア、特に週刊誌記者などは、この言葉をどう聞いたのだろう。
皇室との関係は一切断ちますと宣言したかのよう
小室圭は「私は眞子さんと温かい家庭を築いていきたいと思います」、「これからもできる限りのことをして、眞子さんをお支えしていきたいと思います」と述べて眞子さんと交代する。
眞子さんは、これから新しい生活を始めるが、また違う形での困難があると思うとして、「これまでもそうであったように2人で力を合わせて共に歩いていきたいと思っています」と話す。
「これまで私たちが自分たちの心に忠実に進んでこられたのは、お互いの存在と、励まし応援してくださる方々の存在があったからです。今心を守りながら生きることに困難を感じ、傷ついている方がたくさんいらっしゃると思います。周囲の人の温かい助けや支えによって、より多くの人が心を大切に守りながら生きていける社会となることを心から願っております」
こう結んだ。
この後、事前に提出された質問に答える文書が取材陣に配られた。
2人は顔を見合わせ、前を向いて一礼して戻っていった。
2人の背に、記者たちからの祝福の拍手はなかった。
最後に、秋篠宮と母親紀子さん、天皇皇后、上皇上皇后への感謝の言葉があれば、見送る記者たちの何人かは拍手をしたのではないか。
まるで、皇室との関係はこちらから一切断ちますと宣言したかのようだった。
一番大きな不安は「誹謗中傷がこれからも続くのではないか」
眞子さんは、事前の質問に答えた文書の中でもこう書いている。
「これからは、穏やかな気持ちで生活できることを期待しております。新しい環境に入るのですから不安は様々あります。一番大きな不安を挙げるのであれば、私や私の家族、圭さんや圭さんのご家族に対する誹謗(ひぼう)中傷がこれからも続くのではないかということです。私と圭さんが元皇族とその夫として皇室とどう関わっていくつもりかというご質問についてですが、私がお伝えできるのは、一人の人として、皇室の方々のお幸せをお祈りしたいと思っているということです。(小室眞子)」
では、宮内庁が前日に質疑応答をなくす理由として挙げた、「質問の中に誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねないものが含まれていることに強い衝撃を受けられた」「そのような質問が、カメラが入り多くの人に囲まれた会場で読み上げられ、それに対して口頭でお答えになることを想像するだけで、恐怖心がよみがえるという強い不安を感じられた」「以上のことから、口頭での質疑応答は不可能であると思われたものである」というのが具体的にどれを指すのか?
それが日本雑誌協会からの2点の質問だったことが、後から配られた文書で判明する。
質問は、小室さんの母親による遺族年金の不正受給疑惑と、眞子さんは小室圭が「フィアンセ」としてフォーダム大学に入学することを容認しておられたのでしょうか。
なぜこのような「愚問」がチェックされずに眞子さんのところまで渡ってしまったのか、不思議でならない。これだけを見ても、眞子さんの周辺に信頼できる有能で誠実な人間がいないことが見て取れる。
これに対して眞子さんは、怒りとともに激しく反論している。
「この質問は、誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問であると思います。このような質問に会場で口頭でお答えすることを想像すると、恐怖心が再燃し心の傷が更に広がりそうで、口頭で質問にお答えすることは不可能であると思いました。誤った情報が事実であるかのような印象を与えかねない質問をいただいたことは、誠に残念に思います」
さらに、インターネットの中の批判的な書き込みについては、こう答えている。
「否定的な報道やインターネット上の書き込みについてですが、誤った情報が、なぜか間違いのない事実であるかのように取り上げられ、謂(いわ)れのない物語となって広がっていくことには、強い恐怖心を覚えました」
メディアを痛烈に批判した「歴史的な会見」になった
元婚約者の一方的ないい分がひとり歩きして、小室圭の母親は稀代の悪女に仕立て上げられ、その息子と結婚するお前も同じ人間だというようなストーリーが出来上がっていくことに、いいようのない深い悲しみと怒りを感じていたのだ。
私も何度かここで、週刊誌を中心とした2人にまつわる報道は目に余ると書いたが、当人たちはペンの暴力以上の恐怖を感じていたのだろう。
それが誹謗中傷という極めて強い表現になったのだと思う。
この問題が一段落したら、雑誌協会は秋篠宮眞子さん報道の異常さを検証するための第三者機関をつくるべきである。
そういう意味では、皇室を昨日の朝離れたとはいえ、皇室の人間が初めて公の場でメディアを痛烈に批判した「歴史的な会見」になった。
だが、先日、医師が眞子さんの「複雑性PTSD」を公表した時もそうだったが、「言論を封殺するのか」と息巻いたり、ネットのコメント欄には誹謗中傷の言辞が溢あふれたりした。
今回も会見のやり方が変更になったという速報が流れると、違反コメント数が基準を超えたことを理由にヤフーニュースのコメント欄が非表示になった。
会見後、そういう誹謗中傷が大好きな連中が自粛するとは到底思えない。SNSはニューヨークにいても追いかけてくるから、2人が安穏な生活を送るにはしばらく時間がかかるかもしれない。
両親は諸手を挙げて祝福しているとは思えない
両親への感謝の言葉がなかったのはなぜか?
秋篠宮と紀子さんが出した眞子さんの結婚についての「ご感想」も、全面的に2人の結婚を祝福するというものではなかった。
「本日、私たちの長女眞子は結婚いたしました。最初に結婚をすることについて公表して以降、私たちにとって予期していなかった出来事が起こりました。このことについて、私たちの周りからも種々の示唆をいただくとともに、心配する声や反対する声が寄せられました。また、皇室への影響も少なからずありました。ご迷惑をおかけした方々に誠に申し訳ない気持ちでおります」(朝日新聞デジタル10月26日 14時59分)
おわびから入っている。「これからも、今までの気持を大切にして、二人で自分たちなりの形で、幸せな家庭を築いていってくれることを願っております」(同)
という言葉はあるが、結びでも、
「今回、皇室としては類例を見ない結婚となりました。しかし、そのような中にあっても静かに見守って下さった方々、そして直接的・間接的に応援をして下さった方々に深く感謝申し上げます」
この文面を読む限り、両親が諸手を挙げて祝福しているとは思えない。
秋篠宮夫妻が小室母子にいい感情を持っていないという週刊誌報道が何度も流れたが、やはり事実なのだろうか。
これから新生活を始める2人にとって寂しい船出にはなったが、覚悟を決めて2人が選んだ道である。私は大きな拍手で2人の前途を祝福したいと思う。
(文中敬称略)
* 元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。