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エソラな毎日

大好きなミスチルの曲からとりました。絵空事でもいいじゃない!
希望をもってカラフルな毎日にしていこうと願望を込めました

南吉の作品を読む会 報告「ごん狐」

2015年07月10日 | 本にまつわる(この本・プラタナス読書会)

2015年7月19日(日)
《南吉の作品を読む会 報告》
第4回南吉を読む会に参加しました。
梅雨明け後のあついあつい日でしたが、コマ先生、保坂先生あわせて9名の参加でした。遠くは、浜松からのS山さんです。
コマ先生、保坂先生のお話しをきいて、じっくりと深く南吉を感じられた時間でした。
文学者の巨匠と編集者の巨匠のお二人と机を並べて南吉の作品を読めるとは、なんとぜいたくな時間でしょう。
次回は9月20日(日)午後、「てぶくろを買いに」を取り上げます。みなさんもお時間があえばぜひご参加ください。

私の主観で心に残った部分を記録します。
<「ごん狐」を書いた背景>
昭和6年10月、南吉18才の時に書きあえた作品です。この2ヶ月前に代用教員を辞めています。草稿を教員時代に子どもたちに読んであげていたかもしれませんね。

昭和4年に南吉はこういっています。
「ストーリイには、悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変る。けれどその愛は、芸術に関係があるかどうか。よし関係はなくても好い、俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリイをかこう(昭4年4月日記)」

それから2年半後に書かれた「ごん狐」は、その思いを見事に実現した作品だといえるでしょう。
この後、昭和7年1月号の「赤い鳥」に掲載されました。
その当時の原稿は、残っていませんが、日記に書かれていた下書きには、100ヶ所の推敲がありました。
南吉は、常に推敲していたそうです。鈴木三重吉が手をいれたという説もありますが、詳細は不明です。
昭和31年に大日本図書から教科書に掲載され、以後、採用する教科書会社が増え、昭和55年以降は全社が採用し、これまでなんと約6,000万人が教科書で「ごん狐」を読んでいることになります。
わずか18才の若者の書いた作品が、60年近く教科書に掲載され続けているという偉業に驚くばかりです。
児童文学に死や離婚はタブーとされていた時代に、巽聖歌(たつみせいか)さんが教科書の編集委員として掲載を決めたのは、文学とはこういうものだという強い信念に基ずく編集者としての英断でもありました。

<「ごん狐」作品として>
南吉の情景描写は、読んでいくとそのまま絵になっていくこと、奥行きのある文章は、すばらしいです。これは昭和の初めの新感覚派の影響を受けています。
常に推敲をしていた南吉は、後からたくさんの表現を加えて作品を作り上げていきました。
繰り返し音読し、味わってほしい作品です。細かい描写から読み取れることがたくさんあるからです。
・うなぎの頭をかみくだきやっとはずして穴のそとの、草の上にのせておきました→ごんのやさしさ
・赤い井戸、おっかあとふたり、ぼろぼろの着物、麦を研いでいる→貧しい
・葬列の先頭をいく→おっかあが死んだことがわかる
・兵十のかげぼうしをふみふみいきました→長い影、つまり遅い時間、兵十に近付きたかったごんの思い
・栗がかためておいてある→どうぞ食べてくださいという気持ち
・ごんはぐったり目をつぶったまま、うなずきました。→うれしいとも違う、哀しい、切ない、兵十にわかってもらえた、言葉にならない深く感じることができる。
・兵十は火縄銃をばたりと、取り落としました。青い煙が、まだ筒口から細く出ていました。→死を象徴、行間を読ませる。

コマ先生の教員時代、小4の女の子が、「ひがん花が、ふみおられていました」という表現を、やがてごんが、そういう目にあうことを表現しているのではないかといったことばが忘れられないそうです。

情景描写という点では、「ごん狐」から2年後に書いた「てぶくろを買いに」では、さらにその力は成長しています。
「暗い暗い夜が風呂敷のような影をひろげて野原や森を包みにやって来ましたが、雪はあまり白いので、 包んでも包んでも白く浮びあがっていました。」
この表現を読むだけで、情景が鮮やかに浮かんできませんか。

<童話における物語性の喪失>
http://www.aozora.gr.jp/cards/000121/files/2329_13342.html
「ごん狐」から10年後の昭和16年、大平洋戦争の始まる直前に「童話における物語性の喪失」を早稲田大学新聞に発表しました。
戦争へ向かう時代、日本は物語性が失われていったまさにその時代に、書かれたのです。そして物語とは、なんぞやをするどくついています。
良い作品は霊感によって生まれるものなのに、条件を付けられた中で書かねばならないことが喪失の一歩だとあります。
また、小説が口から離れて紙に写ったところから小説の堕落は始まる。とあります。「紙で読んで面白くない童話は、口から聞かされても面白く無い。口から聞かされてつまらない童話は紙で読んでもつまらなくないはずがない。」
作家は、できた作品を読み聞かせ、文体の簡潔、明快、生新しさ、内容の面白さを失わぬよう務めることが大事だと最後に書いています。
南吉は、自身で物語の喪失を克服してやろうと、その翌年に「おじいさんのランプ」「百姓の足・坊さんの足」「牛をつないだ椿の木」などの民話的メルヘンを一気に書き上げました。
南吉の童話は、耳に聞いても心地よい、語っても通用するお話しであることは、こういうことなのです。

豊かな物語性と南吉のもっているユーモア、小市民的思想など、南吉の息吹がきこえる作品、そういう観点でごんきつねを読んでいくこともまたおもしろいと思います。

<南吉記念館でのイベント>
終戦70周年記念特別展として、「ひろったラッパはどうなった?」が南吉記念館(愛知県半田市)で開催されます。
興味のある方はこちらをご覧ください。
http://www.nankichi.gr.jp/…/tokubetuten15/tokubetuten15.html
このちらしに刷ってあった南吉のことばは、今の日本の現状とそっくりではないかとKさんがおっしゃたことばが残っています。
「われわれ教員は喇叭手(ラッパ手)に似てゐる。政府がA曲を吹けといへば いやでもA曲を、B曲を吹けといへば 嫌ひでもB曲を吹かねばならぬ。今政府がA曲といつてゐるとき、自分の好きな曲だからとてZ曲を一人吹いたら、政府は僕をどのやうに非国民呼ばりするだろう。ところで吉田松陰だ。彼は自分の好きな曲を好き勝手に吹いたのである。そのために生命も落したのだが。(昭16年10月日記)」
南吉が生きていたら、きっと九条の会に入っていたでしょうね。と皆で話しました。

この後、場所を移し、近くの居酒屋で懇親会が開かれました。お酒を飲みながら、みなさんの近況をききながらまた南吉のことを楽しく語り合いました。
コマ先生、保坂先生、事務局のI崎さん、ありがとうございました。




以下はメモ---------------------------
「ごん狐」 参加7名  コマ先生、H坂先生 計9名
司会:I崎さん
N村さん
H坂先生のお話しが楽しみです。

浜松からS山さん
一昨年の暮れの集会での保坂先生のお話しがよかったので、きました。

足立 Y川さん
父が南吉を好きだった。おじいさんのランプをすすめられた。
朗読の勉強 詩人 童話作家のし で南吉の詩をしった。
朗読会の題材になった 「花のき村と盗人たち」と 詩
一昨年生誕100年
荒川のS木さん(勉強家)は半田ツアーにいったそうです。

K村さん(事務局)
終戦70周年記念 南吉記念館(愛知県半田市)で特別展として「ひろったラッパはどうなった?」が開催されます。
そのポスターに刷ってあった南吉のことばは、今の日本の現状とそっくりではないかと思いました。
「われわれ教員は喇叭手(ラッパ手)に似てゐる。
政府がA曲を吹けといへば いやでもA曲を、B曲を吹けといへば 嫌ひでもB曲を吹かねばならぬ。
今政府がA曲といつてゐるとき、自分の好きな曲だからとてZ曲を一人吹いたら、政府は僕をどのやうに非国民呼ばりするだろう。
ところで吉田松陰だ。彼は自分の好きな曲を好き勝手に吹いたのである。そのために生命も落したのだが。(昭16・10・26 日記)」

F田さん
ここ3日間国会に通っていました。
第1回に参加して、間2回、休んでしまったので、今日はいかなきゃと思い参加しました。
今、南吉が生きていたら、きっと九条の会に入っていたと思うのです。

H坂先生 ひとこと
石崎先生と話して今回の計画をしました。
「ごんぎつね」コマ先生にお話しをききながら徹底分析をしていきたい。

I崎さん
編集者の巨匠、文学者としての巨匠 ぜいたくな会です。

コマ先生 39年間担任
4年生の担任 1年間だけ
1・2と5・6ばかり。
4年生をかりて、研究授業をさせてもらった。

I崎さん「童話における物語性の喪失」
昭和16年発表 「ごんぎつね」昭和6年に発表してから10年後
物語性 起承転結?そうではなく、耳に聞いても心地よい、語っても通用するお話し
「ゲーテもまた作品を読み聞かせる習慣を尊んだようである。これらの優れた文士たちは、こうして、
文体の簡潔、明快、生新しさ、内容の面白さをうしなわぬよう努めた。これは昔風なバカ正直なやり方のように見える。
しかし、今日、童話が物語性を再び身に着けるには、少しでも話の内容なりが退屈になれば聴手がごそごそしはじめるので
全然作家のひとりよがりを許さない、この厳しい方法が最もよいと思う。」

H坂先生)早稲田大学新聞に発表した。
教え子のお兄さんが早稲田にいっていた関係で依頼があって書いたそう。
昭和16年、大平洋戦争の始まる直前に書かれた。戦争のあの時代に書かれたということ。
日本は、戦争が始まり、物語性が失われていったまさにその時代。

作家の息吹:思想までがにじみでてくること
南吉は、小説を書いて、弟によみきかせた。弟涙した
久留島武彦なども同じ時代

昭和17年5月 「おじいさんのランプ」「百姓の足・坊さんの足」「牛をつないだ椿の木」など
民話的メルヘンを一気に書き上げる
前の年に発表した「童話における物語性の喪失」を克服してやろうと自らが書いた作品
豊かな物語性と南吉のもっているユーモア、小市民的思想など、南吉の息吹がきこえる作品
そういう観点でごんきつねをみていく

こま先生
日本作文の会で 大田区のある小学校の江口先生
2年生の教室に補強にいって、「ごんぎつんね」を読んだ。
授業の後、職員室に2年生の男の子が泣きながら「先生、ごんは死なないよね」と入ってきた。
その先生はなんと答えたか。
・鉄砲でうたれたんだから死んだよ
・わかんないな
・死なないよ

「うん死なないよ」といった。これは正しい。
男の子、泣きやんで戻っていった。
成長して、本当のことに気づく日がくる。それでいい。

「ごんぎつね」文章をきちんと読んでいかないといけない。
兵十、どんな男?どんな家?
おっかあとふたり、ぼろぼろの黒い着物
赤い井戸:とこなめの土 素焼き 上薬をかけてやく
麦を食べていた
細かい描写から読み取れること。
なぜお母さんが死んだとわかったのか。
→連れ合いの場合は、葬列に参加しないのがしきたり。
親の場合は、参列では、先頭を歩いていく。→おっかあが死んだことがわかった。

兵十の影法師をふみふみいきました。→長い影、つまり遅い時間
細かい描写を何回も繰り返し読んだ。

小学4年生のしまだのりこ、忘れられないことをいった。
「彼岸花が、ふみおられていました。」
やがてごんがそういう目にあうことをここでいっているのではないかといった。

南吉の作品は、文章がすばらしい。繰り返し音読してほしい。
味わって考えてほしい。

新美南吉の作品の任期は、「ごんぎつね」が一位ではなかった。
「てぶくろを買いに」でした。
最後、よかったで終わるものが好まれるのだろう。


南吉は「やはり、ストーリイには、悲哀がなくてはならない。悲哀は愛に変る。
けれどその愛は、芸術に関係があるかどうか。よし関係はなくても好い、(愛が芸術なら好いけれど)
俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリイをかこう(昭4・4・6 日記)」
それから2年半後に書かれた「ごん狐」は、その思いを見事に実現した作品だといえるでしょう。
ごんは、ただ死んだのではないのでしょう。

H坂先生
撃たれて死んでいくこと、児童文学には、「死」や「離婚」はタブーだった。
児童文学は、口実性の文学の時代に巽聖歌(たつみせいか)さんが編集委員として、
昭和31年に「ごんぎつね」が大日本図書から教科書に掲載。
編集者としての英断、文学とはこういうものだという信念

「ごんぎつね」は、昭和7年1月号「赤い鳥」に掲載された。
投稿した原稿は残っていないので、なんともいえないが推敲を何度も重ねている。
「スパルタノート」という南吉の日記帳に「ごんぎつね」の下書きが残っている。
「赤い鳥に投ず」と書いてあった。
ノートから原稿用紙に転写して投稿しているが、南吉の推敲癖からみると、この下書きから100ヶ所の
推敲があった。そのまま転写したのではないはず。
どこからどこまで、「赤い鳥」主催者の鈴木三重吉が手を入れたか不明。
後年、巽聖歌(たつみせいか)が、「おじいさんのランプ」を出版して、南吉死後に、送られた作品を出版していった。
 
「花の木村と盗人たち」の単行本に掲載。
兵十の網にはいった魚は「赤い鳥」ではキス。
花の木村では、鮒になっている。
巽さん、与田準一さんと酒を飲んでいる時、キスは海の魚ということに気づいて鮒にしたかもしれない。
その辺はよくわからないのです。

昭和7新年号、掲載された「ごんぎつね」その5ヶ月後の「赤い鳥」5、6月に鈴木三重吉「マテオファルコーネ」を掲載
両親がでかけ、息子ひとりで留守番中、コルシカ島に罪人が逃げてきて、息子は匿っていたが、
警官がやってきて息子に、時計あげるからと釣られ、罪人がいることを教えてしまう。
警官に連れて行かれるところに、両親が帰ってきて、罪人は「裏切り者の家」と吐き捨てる。
父マテオは驚き、息子のしたことを問いただす。そして、マテオは、自分の手で息子を銃殺します。
「ちゃんとお祈りしなさい」といい、息子はありったけのお祈りの言葉をいい、助けを請いますが、銃殺されます。
新潮文庫の翻訳は、銃殺されるとなっていますが、「赤い鳥」に掲載された鈴木三重吉の訳は、タイトルを「父」に変えて、
最後は、「マテオはねらいをつけた。…ばたんと鉄砲をとりおとしました。」と終わらせたのです。
これは、南吉の「ごんぎつね」の最後の場面の影響が出ているのです。

巽さんが「なぜごんを死なせたか?」ときいたことがあったそうです。
ハッピーエンドが多かったこの時代の作品の中でなぜと疑問をもったのです。
昭和6年10月にかかれた背景に、半田中学卒業した南吉と友人、主席を争ったこの二人ですが、友人は名古屋大へ進学。
一方、南吉は、岡崎師範不合格となり、小学校で代用教員の職に就きました。
子ども達とふれあうことで、児童文学にめざめたようです。そんな中で、「赤い鳥」に投稿し、昭和6年5月号に「窓」という童謡が
掲載されました。その後も、5、6、7月号で白秋の選で掲載され、大学進学に進んだ友達に手紙を出し、白秋に認められたこと、
「ごんぎつね」を書いて、この先、自分は児童文学の道を進んでいく決意を伝えたといいます。
おいてけぼりをくったと感じていた友達に決意の手紙を書いたのです。
そして、誰も書いていない世界へとすすんでいくことになりました。

「ごんぎつね」は、代用教員やめる前に書いたのか、そのあたりも定かではありません。
当時の教え子が、小学校4年生の時に南吉から「ごんぎつね」のおはなしを読んもらったという記憶があると
いっていますが、正式には、昭和6年10月4日に書き上げたとしています。(代用教員をやめたのは、昭和6年8月)
草稿を、子ども達に読んでいたのかもしれません。南吉は、子どもたちに読んで、反応みていたそうです。

南吉昭和6年18才の時に書いた「ごんぎつね」は、昭和31年に初めて教科書に掲載され、
以後、次第に採用する教科書会社が増え、昭和55年以降は全社が採用しています。
これまで約6000万人が教科書で「ごん狐」を読んでいることになるそうです。
(笠地蔵は、のらなくなったそうです。貧乏くさいという理由で?)

わたし
ごんはぐったりと目をつぶったまま、うなずきました に少し救われた。
あらためて、読んでみて、深いお話しだったと気付いた。
それにしても死と引きかえに兵十とわかりあえたことやはりかなしい。

Y川さん
情景描写がすごいと思った。
うなぎ盗むあたりから浮かぶ。
萩の葉とか。地の文がすごい。再発見
ガイ氏即興人形劇場でみた人形劇は、納得いくような表現だった。
「ごんぎつね」と「てぶくろをかいに」の表現が、だぶって感じた。
南吉は、東京で暮らし外語大に通っていたこと、東京になじめなかった?のでは、と想像した。
ふるさとをたくさん描いていることからですが。

H坂さん)外語大でたくさん世界のお話しを学んだので、プラスだったと思います。

浜松 S山さん
子どもの頃の研修授業で何度もやった。同じ授業も何度もやって。
そういう意味で非常に覚えています。
クラスメイトに、同じ質問を本番でもするように、お願いしています。やらせ?

「ぐったりと目をつぶったまま、うなずきました。」
ごんは、兵十に自分がやったことがわかって、うれしかったのか?そうとも違う。
せつない気持ち?うれしい、かなしいというより、なんだろう。その時は、もやもやと思っていた。
言葉にならなかった気持ちをもって大人になっていけたらいいのかな。
心のどこかに残っていくお話し。そういう気持ちがわかる人になったらいい。

ここは、「うれしい」より「うなずきました」の表現の方が深く感じる。

F田さん
教師時代、自分で授業したけれど、あまり覚えていない。
コマ先生からきいたお話しが残っている
情景とごんの気持ちが重なって表現されている。
彼岸花のところは印象に残っている。

いたずらぎつねが変わっていくところの読み方、雨でとじこもっていた時の気持ち、
・空はからっと晴れていて、百舌鳥の声がきんきん、ひびいていました。
ごんの気持ちの対比と情景、前触れの情景描写が素晴らしい。
文学の読み方がわかったきかっかけとなった作品

神様と間違われて、「ひきあわないな」といったごんに、がっかりしたが、ごんの愛すべきところでもある。

K村さん(事務局)
3回、4年生やった。
1回目、「てぶくろをかいに」に変わった。
2、3回目物語の後半をやらないで、子どもに考えさせる手法

青い煙が筒口から補足出ていました。と終わりの場面では、子ども達は、なにもいわなかった。
ショックだったのだと思う。
兵十とごんが、仲良しになると思っていたところ死んでしまったのだから。

子どもの感想の中には、ごんは助かってるはずというのもあった。
青い煙 は死を意味しているということですか?

H坂さん 死を象徴していることばであることは間違いない。
南吉は、行間を読ませる。
「ごんぎつね」は、研究授業の定番

コマ先生
子どもにであわせる作品は、クラスの子どもの理解力に応じて選んでいた。
出版されている絵本の半分くらいがきちんと読んで理解していない作品。
最後の場面の絵をみればわかります。
かためておいてある栗は、ごんの思い どうぞ食べてくださいという気持ちがこめられているのに、バラバラと置いてあったりする。
そういうときは、出版社に手紙を書いた。

首にまきついたうなぎを捨てなかった。ごんのやさしさの表現を読み取る。
小学4年生でも、ほんとうは無理だと思う。

N村さん
坂下さん
ごんは、兵十に近づきたい思いがあった。
かわいいところを表しているところでもある。
命と交換にわかること

研究授業は、コマ先生と10年一緒したけど、予行練習したのはきいたことがなかった。
もやもやした気持ちが残るのでよいと思う。

次回、「てぶくろをかいに」一本でいききましょう

H坂さん
Y川さんのいった南吉の情景描写は、そのまま絵になっていくこと、その通りだと思う。
「木のまつり」もそうです。
南吉はそこを気をつけていました。
昭和の初め、南吉は、新感覚派の影響を受けています。(横光利一、川端康成など)
自然主義(写生文)への反発がありました。
情景描写、奥行きのある文章は、新感覚派から学びました。

「てぶくろをかいに」の中の表現
「暗い暗い夜が風呂敷のような影をひろげて野原や森を包みにやって来ましたが、雪はあまり白いので、
包んでも包んでも白く浮びあがっていました。」
常に南吉は推敲していました。後からたくさんの表現を加えていました。
特に「てぶくろをかいに」では目立っています。
上京して2年目にかいた作品です。
「ごんぎつね」よりさらに情景描写力が成長しています。

Y川さん
かたりの会で、南吉の作品はよく語られています。 
「百姓の足、坊さんの足」

「新見南吉を編む」絶版になっていますが、機会があれば読んでみて下さい。

次回 9月20日(日)第3日曜
現役の先生がきてくれるとうれしいですね。

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