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一歩の未来

時間は次第に加速する。その加速にブレーキを掛けるためには「生き急ぎ、感じ急く」しかない。言葉は空を舞い、文字は踊る。

情況と個

2006年05月31日 | Weblog
私たちは時代情況と不可分だ
その見聞きすることが心の糧となり意識となる
そこから跳躍するにはまず思い切って
歴史を総体から遡及するしかない
現実は自分を解析し
経験は自分を開示する
その中身はじつは深淵で汲み尽くすことは困難なほどだ
人との出会いはその個と情況との関わりにより
より総体的だ
だから物事を一面的に単純化しては成らない
経験は情況を私たちに静かに貌を見せ始める


生活習慣と依存症 

2006年05月26日 | Weblog
現代は大きな飢餓感を作り出している。満たされないと言う欠落感や欲しいという欲求は仮構されて私たちに様々な情報として侵入し、心にイメージを作り出す。仮構のイメージが植え付けられている。例えば食欲は飢餓感から来ている。美味しい物をたらふく食べたい、焼肉を、甘味料を、ラーメンをあるいは寿司を食べたいといったことも、食への飢餓感だ。これも、商品を売って、お客に食べてもらって利益を得るためのレストランや食堂の作るイメージが私たちに与えらているからだ。それを見て、空腹感や食欲が作られ飢餓感が形成される。
 また、ギャンブルなどの賭け事、タバコや酒、セックス、ブランド品、お洒落、旅行、ひいては麻薬に至までの渇望も、その飢餓感から来る。性欲もエロスの飢餓感といえるし、ブランド品への飢餓感、あるいは最近性犯罪で見られる性欲を満たしたい、あるいは「覗き」の飢餓感。これらに共通しているのは精神的な幻想、つまり満たされない欠落感の観念が作られていると言える。
 その作られ方は時代情況により、また勿論時代や、国、社会により異なり、飢餓感は全ての現代人に異質の飢餓感として、渇望のイメージが作られるということになる。
 その飢餓を埋める毎日の習慣的な行為が、依存症という心の病の原因だ。つまり現代に生きる誰もが持ちうる可能性を持っている。

 ある日、誰か大人達の吸っているタバコを真似して酔ってみる。それを日常的に繰り返す内に常用せざるを得ない癖となって習慣がいつのまにか、なくてはいられない依存症という体を蝕む病理に発展する。

 いま、自分を省みて、癖になって切り離せなくなるほどに気づかない内に埋没している曲、習癖はない?誰しもが、必ず何かしらの習慣化を持ち、過度に自身や生活を蝕む悪癖な病理といえる境界を越えている依存対象を持っているはずだ。



認知症という病気

2006年05月20日 | Weblog
皆さんは「認知症」という病気をご存じでしょうか。年寄りになると脳の老化と共に誰にでも起こりうる病といえ、また親が次第に年を重ねていく内に、子供にとっても無視できない大きなテーマとなります。

 実は自分にも父親の「認知症」の問題で、最近かなり悩まされ、病院との関わりも増え、要介護の認定以後、ケアマネージャーさんとの関わりも増えてきました。

 ■認知症とは・・・

          認知症は脳の病気

 「20歳代をピークに脳細胞は1日に10万個程度死滅する」と、言われています。
年を取ると物忘れが多くなります。「名前が出てこない」「何しにココに来たんだっけ」などと。
これは、脳の老化の1つで自然の事です。物忘れしている事に自分自身気づいていますし、生活上での支障も全くありません。


ところが、病気による脳の萎縮や脳血管性障害で認知症といわれる病気になると、体験や出来事の記憶の全てを失います。恐ろしいことに忘れている事すら、忘れているのです。時間や場所、計算や常識などの認識が取れなくなってきます。

このため、社会生活が困難になったり、日常生活が困難になったりします。認知症が進行すると、寝たきりや人格崩壊になってしまいます。

老化による物忘れと認知症による物忘れでは、以下のような違いがあります。


  老化による物忘れ            認知症による物忘れ
症状 名前や日付など、
とっさに思い出せない。          体験した全てを忘れている。
最近の出来事の記憶がない。
時間/居場所 意識がある。理解できる。 時間や自分のいる場所が分らなくなる。
幻覚/妄想 無い。             幻覚や妄想を伴う場合もある。
人格 変化無く、維持される。        人格崩壊を招く場合もある。
日常生活 支障無く生活できる。        日常生活を営む事が困難。



 認知症が進行すると、このように昼夜を問わず行き先も分からずに徘徊したり、買い物も支払いをせずにもって来ようとしたり、日常の記憶が抜け落ちていく事件が当たり前のように毎日起きてきます。老化による物忘れとは大きく異なり、記憶喪失と言っても過言ではない病人が、ある日我が家の親に訪れるのです。いや、自分に訪れるかもしれません。ここに大きな悲劇も生まれます。

 そこで、もしこのことで、現に問題を抱えている方や、専門知識をお持ちの方、ぜひ、いろいろアドバイスや体験を意見交換しませんか。

日本語の源流

2006年05月18日 | Weblog
 当初、文法構造がウラル・アルタイ語系に類似していたので、源流はそこにあるのではないかと言われていたが、音韻の規則的対応である「音韻対応」がほとんど見られない点で親縁関係が見られないことから、この説は崩れ、一方で開音節構造を中心とするマライ・ポリネシア系の南方語説が現れた。ただ、日本語との文法的な相違が著しく直接の関係がないことが分かった。
そこで現れたのが日本語が混合により成立したという泉井氏の説で、マライ・ポリネシア語が基層となり、南島系言語にフィンウゴル系の言語を持つ民族が侵入し、言語を置き換え、そこに南島系の言語が一部取り込まれたという説である。
 また、インドで話されているドラビダ語との共通点を発展させ、大野氏の次の説が注目を集めている。第一次はヤマイモ栽培期といい、簡単な子音組織の、母音終わりの簡単な言語、第二次は雑穀、タロイモ栽培期で、原タミール語が流入、こんにちの日本語の基礎的な多くの単語や文法組織が持ち込まれ、第三次は弥生時代、母音調和期で本格的に稲作が入り国家体制もできあがり、朝鮮経由のアルタイ語族がこれらをもたらしているという説を唱えている。現在の日本語の起源としては主流をなす言語論だ。
  また、アイヌ語と朝鮮語の共通の言語で、アルタイ語的な特長のある「古極東アジア語」を話す民族にインドネシア語系とカンボジア語系の民族が日本にやってきて、やがてビルマ語系の民族が稲作と共に到来したというものだ。ここで、日本語の基本ができあがった。その後、朝鮮語や中国の漢字が到来したが、日本語の根本を変えることはなかったという説である。
現在も諸説が検討されており、アルタイ語や南方語との比較、マライ・ポリネシア語や南アジア語系さらにはシナ・チベット語系、パプア語系などの比較研究が行われている。
  いずれにしろ、様々な言語系の移住とともに日本語の源流が形成されているためにこれが日本語の原点だという流れは未だ確定するまでには至っていない。


古今和歌集に現れた自然

2006年05月14日 | Weblog
和歌の本流は自然に対する過剰な移入のあまり、感情を放

棄するほどの自然移入へと至っている。自然の景物に自然を

深くえぐろうとするあまり、日常の感性から離れ、「高情」という

特別な情感表現を中心に据える価値観へと歌心が変化してい

った。現実と離れ、ラジカルな歌の世界が新たに形成されたとも

いえる。                        

 歌の成立には、自然を心の一部として考え、心を直接には

表現できず、目に触れる自然の手応えのような物が自分の

心として納得できたときに、歌謡として表現できたと言える。

 万葉末期頃には心と向き合うことが出来るようになり、表

現された和歌との心の対峙から、自然が一人歩きはし始め、

和歌に現れた表現された自然が、心を写すための手段として       

使われだしたと言える。