goo blog サービス終了のお知らせ 

小山-歴史・自然散歩-

栃木県南部に位置する小山市の歴史や史跡・自然を紹介しています。

小山評定跡は???

2010-05-07 08:01:07 | ・小山評定跡
■下記は、小山の歴史環境を探る会編集・発行『おやま歴史環境だより』準備号46・47(平成17年12月1日発行)に掲載したものです。『だより』には、写真も2枚掲載しましたが、ここでは、キャプションだけになっています。
■この後も、小山評定跡に関する指摘はなされています。最近の事例では、現在、小山市立博物館において、第55回企画展『小山の遺跡3~中世小山氏を中心に~』が開催されていますが、その図録の祇園城跡の項に「慶長5年(1600)徳川家康による小山評定がおこなわれ、その後、徳川将軍家が城内の一画に小山御殿を建造し」とあります。このように位置づけるには、その根拠が必ず有るはずです。しかし、同図録では、明確にされておりません。根拠を明確にして、記していただけると議論が、より明確になると思いますので、宜しく、お願い致します。
■私の場合、今も小山評定跡を特定することができません。小山評定跡は、現段階では不明という立場をとっています。そこで、新旧を問わず関連資料を収集し、調査中です。もし、ご存じの資料が有りましたら、情報の提供を、お願い致します。また、小山評定と「開運のまち」関連資料の収集も行っています。こちらについても、お願い致します。


家康のお尻は大きかった?
平 田 輝 明

○去る8月6日(土)、市教育委員会主催の市民大学講座佐久間弘行氏「小山評定と徳川家康」が行なわれました。この講座は、演題を見ただけでも興味を引かれますし、歴史愛好者の私としては、ぜひ、参加したかったのですが、都合がつかず残念な思いをしました。
○それでも、参加された数人の方が「講座に参加しました。」「こんな内容でした。」「質問をしました。」などと教えてくださいました。加えて、阿久津奈々さんは、準備号42に感想を寄せてくださいましたので、ますます、興味を引かれる内容であることがわかり、参加できなかったことを悔やんでいました。
○そうしたなか、11月22日、何となくテレビのチャンネルを回していますと、行政テレビ(5チャンネル)で、同講座が放映されていました。
○どんな見解が出されるのかと、興味津津で聞き入りましたが、笠谷和比古氏を紹介し、「ほとんど笠谷先生の受け売りみたいな、お話になってしまう。」と、自ら発言されているように、総体的には、諸先学の業績を上手く利用し、まとめ上げた内容であると感じました。したがって、分かり易い内容になっていたことは、有り難いことです。参考になりました。
○さて、講演のなかでは、小山評定が開催された場所はどこなのか。との話しがありました。そして、私や数人の方が小山評定跡は、現状では特定できない。と指摘しているのに対し、「とにもかくにも、この小山評定跡については、いろんな説があるといわれております。で、どこだか判らない。という見方も、また、一方ではあるようではありますが、それでは、教育委員会では、そういった怪しいところを史跡に指定しているのかという話にもなってまいりますので、これは、ちょっと、まあ、反論しておかなければならないところなんですが。」と述べています。
○そして、反論が展開されています。歴史は、史料分析により学説が構築され、批判したり、反論したりで、より正確なもの、真実が明らかになっていくものです。その意味で、反論は、有り難いことです。しかし、反論する場合は、礼儀として、相手の名前を掲げるべきでしょう。引用の場合も、もちろん同じです。
○同氏から私どもへの反論の結論は、「残された古い史料を根拠とするならば、歴史というのは、古い史料を順に根拠とするのが鉄則でありますので、よっぽど疑わしくないかぎりですね。史跡小山評定跡が、まあ、小山評定の行なわれた場所であると考えて、まあ、ほぼ、間違いないのではないかと思います。よっぽど後で違った史料でも出てこないかぎりですね。疑いないといってさしつかえないのではないかと思います。」となっていました。
○「歴史というのは、古い史料を順に根拠とするのが鉄則で」「間違いない」「疑いない」とのことですが、なぜ、頭やお尻に「とするならば」「ほぼ」とか、「ないかと思います。」などの曖昧な表現が付くのでしょう。確信が持てないという表われではないでしょうか。
○また、「歴史というのは、古い史料を順に根拠とするのが鉄則」とのことですが、もし、そうであるならば、歴史を調べるのは、非常に容易いことです。時間と労力を費やし、苦労することもない。日本の歴史も、もっと明確になっているでしょう。古ければ良いというものではないと考えます。
○評定が行なわれた場所についても「この小山評定跡という、石碑が立っている場所で家康が、評定を行なった、というわけでありませんで、その周辺のエリアのどこかという。点で考えるのではなくて、面で考えていただきたいのですけれども。点で考えると。おそらく、まあ、ここではない、いえるのかな、というふうに思いますけれども。まあ、もうちょっと広がりをもった面で考えていただきたいんですが。」としておられます。
○「周辺のエリア」「広がりをもった面」とは、具体的にどこまで広がるのでしょうか。限りなく広がることはないでしょうが、かなり曖昧です。つまり、評定跡は判らないということでしょう。たとえば、市役所・旧思水荘敷地としたとしても、かなりの面積になります。この範囲で小山評定が行なわれたとして、家康のお尻が、そんなに大きかったとは思えません。
○また、佐久間氏は、同氏のいうところの「最も古い三つの史料」を分析した結果、「いずれも100パーセントそれで、小山評定が行なわれたのは、市役所敷地並びに御殿広場であるとは断定するわけにはいきませんけれども、三つ合わせると、なんとなくあの場所あたりで行なわれたんだろうなということが、いえるんではないかと思いますね。」と発言されています。
○これが同氏の史料分析結果ということになります。つまり、個々の史料分析の問題点を含めて、この発言に小山評定跡は、まだ、よく判らない、という同氏の見解が集約されているといってよいでしょう。結論に「とするならば」「ほぼ」「ないかと思います」を使用した理由も理解できます。
○失礼な言い方になりますが、現段階で、もっと諸史料を駆使すれば、史跡小山評定跡を評定が行なわれた場所と説明できるような気がします。それでも、私の場合、史跡小山評定跡で、評定が行なわれたと、現時点で断定することはできません。「ほぼ、間違いない」「疑いない(略)かと思います。」ともいえません。
○また、佐久間氏は「いざ、あの、自分が指定文化財を説明しなければならない立場になったときに、まあ、おかしいですとは、まあ、いえないわけですよね。いってはならない。まあ、100%おかしいのであれば、いわざるをえないかもしれませんが。かなりの確率でおかしくないのであれば、それは当然主張しなければならない。と思います。」と発言されています。
○ここでの、「かなりの確率」とは、具体的にどれぐらいの確率なのでしょうか。真実は一つのはずです。そして、なぜ、「いえない」「いってはならない。」のでしょうか。史跡小山評定跡が、本当に小山評定跡であるならば、「いってはならない。」というように、はっきり間違いないと断定し、どんな批判にも平然としていればよいでしょう。しかし、少しでも疑問に感じるならば、それを調査し、間違いなら訂正するよう行動、発言すべきです。
○自ら「私は、小山の教育委員会に、まあ、在籍しておりまして、文化振興課というところにおりますが。どういう仕事をしているかというと、まあ、発掘調査とかですね。あるいは指定文化財の調査、とかですね。そういったことをやっているわけです。つまり、指定文化財の担当部局というところに身を置いている、担当している職員であるということであります。」と述べておられるように、直接担当者であり、最も発言、行動できる立場にいるのですから・・・。
○また、「いえない」「いってはならない」とすると、過去において、市が関わった文化財・歴史関係事業に対し、批判・反論・追加・訂正を行ったことは、一切ないのでしょうし、現在・未来もまた同様でしょう。注目してまいります。
○私は、小山評定の研究をしているわけではありませんが、今後も、できる限り評定関係の史料調査を行なっていくことにします。もちろん、古い史料も、現在の新しいものも、公平に収集し、史跡小山評定跡を含めた、諸説の場所、その他を見渡しながら考えていきたいと思います。皆さんも何かありましたら、ぜひ、情報提供、ご協力をお願いいたします。
皆さんと共に、家康のお尻を小さくしてまいりましょう。

◇出典◇ 小山ビデオクラブ撮影、小山行政テレビ放送番組。なお、講演内容については、平田が番組を観て活字化しました。
◇お礼◇ 情報を提供してくださった方々、小山ビデオクラブ、行政テレビに感謝いたします。
 

「なんとなく評定が行なわれたとされる市役所敷地と碑」(写真のキャプションです)

最新の画像もっと見る

1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

コメント日が  古い順  |   新しい順
小山評定跡 (街道一人旅)
2010-05-10 21:47:40
以前、市役所前の評定跡に行ったことがあります。その時も疑問に思いましたが、やはり、はっきりしていないのですね。ありがとうございます。
返信する

コメントを投稿

サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。