発掘調査報告書『神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰ』記載の「青蓮寺跡」
◆小山市教育委員会は、平成22年(2010)3月28日、『小山市文化材調査報告書第77集 神鳥谷遺跡Ⅰ 神鳥谷曲輪の調査Ⅰ(第1分冊)』(以下、『報告書』とします)を発行しました。
◆発掘及び『報告書』の作成は、秋山隆雄氏となっています。
◆同『報告書』において、秋山氏は、『小山市史』史料編・中世にある青蓮寺の存在も意識はされているようですが、これについては、重要視せず、方形館跡=小山氏の居館=義政屋敷=新城と位置付けておられます。
◆それは、第2章「遺跡の概要」にも表現されています。
◆そこには、平成20年(2008)に発行された『栃木県歴史の道調査報告書第1集』(栃木県教育委員会発行、以下、『道調査報告書』とします)を引用しておられることから明らかです。
◆この報告書は、『日光道中分間延絵図』(以下、『延絵図』とします)を基に、調査を行い、現況と比較検討したものですが、秋山氏は、この『道調査報告書』の中から、次のような青蓮寺に関わる記載を引用しておられます。
「『分間延絵図』では、小山宿入り口には、私領傍示杭と▲土塁▲矢来柵があり、その付近の街道西側に『天神』『イナリ』『道祖神』『観音』が描かれ、やや奥まったところに『青蓮寺』がある。現在の神鳥谷バス停交差点、小山天神パレスホテル前に天満宮が祀られているが、この付近と推定される。天神境内にある説明文によれば、昔は持宝寺▲末の青蓮寺▲が別当であったが廃寺となり、今は青蓮寺という地名だけがJR線の踏切の東側に遺っているという。境内には、稲荷社と雷電社が合祀されており、享和三年(1803)造立の石の鳥居ほか、宝篋印塔、十九夜塔などがある。ここから小山宿の新宿がはじまる。」(注.▲▲の間は、『道調査報告書』にはあるが、秋山氏の引用では省かれています。理由は、不明ですが、ちょっと気になります。)
◆そして、秋山氏は、次のように記しておられます。
「以上、この周辺に青蓮寺が所在していたことや、ここから日光街道の小山宿がはじまり新宿と呼ばれ、宿の入口として機能していたことがうかがえる。このように、付近には館跡と寺跡が所在していたことが知られる。しかしながら、青蓮寺の所在地については、不明な点が多く正確な場所の特定にはいたっていない。」
◆まず、基本的なこととして、この秋山氏の指摘の内、「小山宿がはじまり新宿と呼ばれ」とありますが、これは、「新町」の誤りです。『道調査報告書』に、「新宿」とあるものを、そのまま引用したためと思われますが、『延絵図』には、「小山宿、宿入口、新町」と記されていることから明らかです。
◆さて、確かに、秋山氏が引用した『道調査報告書』には、街道西側に存在した青蓮寺とJR線の東側の地名の記載のみですから、そこから導き出された秋山氏の記述は、正しいようにも思われます。
◆しかし、『延絵図』には、街道を挟んで反対側、小山宿に向かって右側に、東西北、3方に土塁が描かれています。その中央には、「此所字青蓮寺堤ト云」と明確に記されているのです。堤とは、もちろん土塁のことです。
◆それは、秋山氏が、まさに発掘調査を実施した場所であり、『報告書』において、方形館跡・小山氏の居館=義政屋敷=新城と位置付けた、その部分に相当するのです。ちなみに、そこには、小山氏の館跡とは、記されていません。
◆「青蓮寺の所在地については、不明な点が多く正確な場所の特定にはいたっていない」というのは、『道調査報告書』の記載が、『延絵図』の一部、街道の左側(西側)に終始しているからということが考えられますが、現状では、自説に合わせた都合の良い記述の引用とも推察できます。
◆『道調査報告書』が、街道東側を意識しなかったことも、気になるところではあります。
◆筆者は、以前、秋山氏に『延絵図』の青蓮寺の記載について説明したことがありますし、すでに、拙稿にも記しています。ご存じのはずです。
◆にもかかわらず、このような記載をするのは、館を強調したいがために、青蓮寺の存在を薄めようとしているのではないかと思えてしまいます。
◆後日、記しますが、秋山氏は、小山御殿跡の発掘・整備の過程でも、寺院、葬送関連遺構・遺物が存在するにもかかわらず、それらを活用しないという実績がありますので、仮称神鳥谷曲輪跡でも十分可能性があります。
◆また、文政期(1818~29)の『日光道中略記』(以下、『略記』とします)にも、「青蓮寺堤右」と記されていますから、江戸時代後期に同所は、「字青蓮寺堤」「青蓮寺堤」と称されていたことがわかります。しかも、『略記』には、「東西北の三方に堤あり、内ハ方七拾間許の地なり、いにしへ青蓮寺といへる尼寺の跡なりといふ」とも記されています。つまり、同所は昔、青蓮寺という尼寺の跡であったというのです。
◆では、江戸時代後期には、同寺は何処に存在したのかといいますと、『道調査報告書』にも紹介されている通りです。
◆そして、『略記』には、「青蓮寺左」「真言宗宿内持宝寺の門徒なり、東北野山と号す、本尊大日を安置す」とあり、日光道中の西側にあったことがわかります。事実、『延絵図』には、街道の西に「青蓮寺」が記されており、境内には、天神も描かれています。そこには、現在も天満宮が存在しています。
◆前にも記しましたが、これらのことから、「字青蓮寺堤」「字曲輪之内」跡は、寺院であった可能性が非常に高いといえます。したがって、現段階で、これを直ちに中世小山氏の居館跡であると位置づけるのは、慎重にすべきであると思います。
◆また、仮称神鳥谷曲輪跡が、寺院の跡ではなく小山氏の館跡であると位置づけるのであれば、『延絵図』や『略記』の記載を否定する明確な根拠を提示する必要があるでしょう。
◆方形土塁を有した寺院は、他にも存在しますし、その遺構をもって、館と位置付けるのは、慎重にすべきでしょう。ただ、こうした寺院遺構は、何らかの防御の役割を担っていたことは間違いないものと考えます。
◆いずれにしても、青蓮寺と小山氏との関係も視野に入れ、さらに、調査を行い、史料の発見に努め、検討を十分に行って判断するのが良いのではないでしょうか。
【参考文献】『日光道中分間延絵図』第3巻(東京美術刊)。拙稿「近世都市小山の成立と展開」(『小山市立博物館紀要』第3号、1992)。同「小山の評定跡・御陣所をめぐる諸問題」(『小山市立博物館紀要』第7号、2001)。
2021.1.11 平田輝明記
◆小山市教育委員会は、平成22年(2010)3月28日、『小山市文化材調査報告書第77集 神鳥谷遺跡Ⅰ 神鳥谷曲輪の調査Ⅰ(第1分冊)』(以下、『報告書』とします)を発行しました。
◆発掘及び『報告書』の作成は、秋山隆雄氏となっています。
◆同『報告書』において、秋山氏は、『小山市史』史料編・中世にある青蓮寺の存在も意識はされているようですが、これについては、重要視せず、方形館跡=小山氏の居館=義政屋敷=新城と位置付けておられます。
◆それは、第2章「遺跡の概要」にも表現されています。
◆そこには、平成20年(2008)に発行された『栃木県歴史の道調査報告書第1集』(栃木県教育委員会発行、以下、『道調査報告書』とします)を引用しておられることから明らかです。
◆この報告書は、『日光道中分間延絵図』(以下、『延絵図』とします)を基に、調査を行い、現況と比較検討したものですが、秋山氏は、この『道調査報告書』の中から、次のような青蓮寺に関わる記載を引用しておられます。
「『分間延絵図』では、小山宿入り口には、私領傍示杭と▲土塁▲矢来柵があり、その付近の街道西側に『天神』『イナリ』『道祖神』『観音』が描かれ、やや奥まったところに『青蓮寺』がある。現在の神鳥谷バス停交差点、小山天神パレスホテル前に天満宮が祀られているが、この付近と推定される。天神境内にある説明文によれば、昔は持宝寺▲末の青蓮寺▲が別当であったが廃寺となり、今は青蓮寺という地名だけがJR線の踏切の東側に遺っているという。境内には、稲荷社と雷電社が合祀されており、享和三年(1803)造立の石の鳥居ほか、宝篋印塔、十九夜塔などがある。ここから小山宿の新宿がはじまる。」(注.▲▲の間は、『道調査報告書』にはあるが、秋山氏の引用では省かれています。理由は、不明ですが、ちょっと気になります。)
◆そして、秋山氏は、次のように記しておられます。
「以上、この周辺に青蓮寺が所在していたことや、ここから日光街道の小山宿がはじまり新宿と呼ばれ、宿の入口として機能していたことがうかがえる。このように、付近には館跡と寺跡が所在していたことが知られる。しかしながら、青蓮寺の所在地については、不明な点が多く正確な場所の特定にはいたっていない。」
◆まず、基本的なこととして、この秋山氏の指摘の内、「小山宿がはじまり新宿と呼ばれ」とありますが、これは、「新町」の誤りです。『道調査報告書』に、「新宿」とあるものを、そのまま引用したためと思われますが、『延絵図』には、「小山宿、宿入口、新町」と記されていることから明らかです。
◆さて、確かに、秋山氏が引用した『道調査報告書』には、街道西側に存在した青蓮寺とJR線の東側の地名の記載のみですから、そこから導き出された秋山氏の記述は、正しいようにも思われます。
◆しかし、『延絵図』には、街道を挟んで反対側、小山宿に向かって右側に、東西北、3方に土塁が描かれています。その中央には、「此所字青蓮寺堤ト云」と明確に記されているのです。堤とは、もちろん土塁のことです。
◆それは、秋山氏が、まさに発掘調査を実施した場所であり、『報告書』において、方形館跡・小山氏の居館=義政屋敷=新城と位置付けた、その部分に相当するのです。ちなみに、そこには、小山氏の館跡とは、記されていません。
◆「青蓮寺の所在地については、不明な点が多く正確な場所の特定にはいたっていない」というのは、『道調査報告書』の記載が、『延絵図』の一部、街道の左側(西側)に終始しているからということが考えられますが、現状では、自説に合わせた都合の良い記述の引用とも推察できます。
◆『道調査報告書』が、街道東側を意識しなかったことも、気になるところではあります。
◆筆者は、以前、秋山氏に『延絵図』の青蓮寺の記載について説明したことがありますし、すでに、拙稿にも記しています。ご存じのはずです。
◆にもかかわらず、このような記載をするのは、館を強調したいがために、青蓮寺の存在を薄めようとしているのではないかと思えてしまいます。
◆後日、記しますが、秋山氏は、小山御殿跡の発掘・整備の過程でも、寺院、葬送関連遺構・遺物が存在するにもかかわらず、それらを活用しないという実績がありますので、仮称神鳥谷曲輪跡でも十分可能性があります。
◆また、文政期(1818~29)の『日光道中略記』(以下、『略記』とします)にも、「青蓮寺堤右」と記されていますから、江戸時代後期に同所は、「字青蓮寺堤」「青蓮寺堤」と称されていたことがわかります。しかも、『略記』には、「東西北の三方に堤あり、内ハ方七拾間許の地なり、いにしへ青蓮寺といへる尼寺の跡なりといふ」とも記されています。つまり、同所は昔、青蓮寺という尼寺の跡であったというのです。
◆では、江戸時代後期には、同寺は何処に存在したのかといいますと、『道調査報告書』にも紹介されている通りです。
◆そして、『略記』には、「青蓮寺左」「真言宗宿内持宝寺の門徒なり、東北野山と号す、本尊大日を安置す」とあり、日光道中の西側にあったことがわかります。事実、『延絵図』には、街道の西に「青蓮寺」が記されており、境内には、天神も描かれています。そこには、現在も天満宮が存在しています。
◆前にも記しましたが、これらのことから、「字青蓮寺堤」「字曲輪之内」跡は、寺院であった可能性が非常に高いといえます。したがって、現段階で、これを直ちに中世小山氏の居館跡であると位置づけるのは、慎重にすべきであると思います。
◆また、仮称神鳥谷曲輪跡が、寺院の跡ではなく小山氏の館跡であると位置づけるのであれば、『延絵図』や『略記』の記載を否定する明確な根拠を提示する必要があるでしょう。
◆方形土塁を有した寺院は、他にも存在しますし、その遺構をもって、館と位置付けるのは、慎重にすべきでしょう。ただ、こうした寺院遺構は、何らかの防御の役割を担っていたことは間違いないものと考えます。
◆いずれにしても、青蓮寺と小山氏との関係も視野に入れ、さらに、調査を行い、史料の発見に努め、検討を十分に行って判断するのが良いのではないでしょうか。
【参考文献】『日光道中分間延絵図』第3巻(東京美術刊)。拙稿「近世都市小山の成立と展開」(『小山市立博物館紀要』第3号、1992)。同「小山の評定跡・御陣所をめぐる諸問題」(『小山市立博物館紀要』第7号、2001)。
2021.1.11 平田輝明記