小山-歴史・自然散歩-

栃木県南部に位置する小山市の歴史や史跡・自然を紹介しています。

発掘調査報告書『神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰ』記載の「青蓮寺跡」

2021-01-11 10:40:42 | ・仮称神鳥谷曲輪跡
発掘調査報告書『神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰ』記載の「青蓮寺跡」

◆小山市教育委員会は、平成22年(2010)3月28日、『小山市文化材調査報告書第77集 神鳥谷遺跡Ⅰ 神鳥谷曲輪の調査Ⅰ(第1分冊)』(以下、『報告書』とします)を発行しました。
◆発掘及び『報告書』の作成は、秋山隆雄氏となっています。
◆同『報告書』において、秋山氏は、『小山市史』史料編・中世にある青蓮寺の存在も意識はされているようですが、これについては、重要視せず、方形館跡=小山氏の居館=義政屋敷=新城と位置付けておられます。
◆それは、第2章「遺跡の概要」にも表現されています。
◆そこには、平成20年(2008)に発行された『栃木県歴史の道調査報告書第1集』(栃木県教育委員会発行、以下、『道調査報告書』とします)を引用しておられることから明らかです。
◆この報告書は、『日光道中分間延絵図』(以下、『延絵図』とします)を基に、調査を行い、現況と比較検討したものですが、秋山氏は、この『道調査報告書』の中から、次のような青蓮寺に関わる記載を引用しておられます。

「『分間延絵図』では、小山宿入り口には、私領傍示杭と▲土塁▲矢来柵があり、その付近の街道西側に『天神』『イナリ』『道祖神』『観音』が描かれ、やや奥まったところに『青蓮寺』がある。現在の神鳥谷バス停交差点、小山天神パレスホテル前に天満宮が祀られているが、この付近と推定される。天神境内にある説明文によれば、昔は持宝寺▲末の青蓮寺▲が別当であったが廃寺となり、今は青蓮寺という地名だけがJR線の踏切の東側に遺っているという。境内には、稲荷社と雷電社が合祀されており、享和三年(1803)造立の石の鳥居ほか、宝篋印塔、十九夜塔などがある。ここから小山宿の新宿がはじまる。」(注.▲▲の間は、『道調査報告書』にはあるが、秋山氏の引用では省かれています。理由は、不明ですが、ちょっと気になります。)

◆そして、秋山氏は、次のように記しておられます。

「以上、この周辺に青蓮寺が所在していたことや、ここから日光街道の小山宿がはじまり新宿と呼ばれ、宿の入口として機能していたことがうかがえる。このように、付近には館跡と寺跡が所在していたことが知られる。しかしながら、青蓮寺の所在地については、不明な点が多く正確な場所の特定にはいたっていない。」

◆まず、基本的なこととして、この秋山氏の指摘の内、「小山宿がはじまり新宿と呼ばれ」とありますが、これは、「新町」の誤りです。『道調査報告書』に、「新宿」とあるものを、そのまま引用したためと思われますが、『延絵図』には、「小山宿、宿入口、新町」と記されていることから明らかです。
◆さて、確かに、秋山氏が引用した『道調査報告書』には、街道西側に存在した青蓮寺とJR線の東側の地名の記載のみですから、そこから導き出された秋山氏の記述は、正しいようにも思われます。
◆しかし、『延絵図』には、街道を挟んで反対側、小山宿に向かって右側に、東西北、3方に土塁が描かれています。その中央には、「此所字青蓮寺堤ト云」と明確に記されているのです。堤とは、もちろん土塁のことです。
◆それは、秋山氏が、まさに発掘調査を実施した場所であり、『報告書』において、方形館跡・小山氏の居館=義政屋敷=新城と位置付けた、その部分に相当するのです。ちなみに、そこには、小山氏の館跡とは、記されていません。
◆「青蓮寺の所在地については、不明な点が多く正確な場所の特定にはいたっていない」というのは、『道調査報告書』の記載が、『延絵図』の一部、街道の左側(西側)に終始しているからということが考えられますが、現状では、自説に合わせた都合の良い記述の引用とも推察できます。
◆『道調査報告書』が、街道東側を意識しなかったことも、気になるところではあります。
◆筆者は、以前、秋山氏に『延絵図』の青蓮寺の記載について説明したことがありますし、すでに、拙稿にも記しています。ご存じのはずです。
◆にもかかわらず、このような記載をするのは、館を強調したいがために、青蓮寺の存在を薄めようとしているのではないかと思えてしまいます。
◆後日、記しますが、秋山氏は、小山御殿跡の発掘・整備の過程でも、寺院、葬送関連遺構・遺物が存在するにもかかわらず、それらを活用しないという実績がありますので、仮称神鳥谷曲輪跡でも十分可能性があります。
◆また、文政期(1818~29)の『日光道中略記』(以下、『略記』とします)にも、「青蓮寺堤右」と記されていますから、江戸時代後期に同所は、「字青蓮寺堤」「青蓮寺堤」と称されていたことがわかります。しかも、『略記』には、「東西北の三方に堤あり、内ハ方七拾間許の地なり、いにしへ青蓮寺といへる尼寺の跡なりといふ」とも記されています。つまり、同所は昔、青蓮寺という尼寺の跡であったというのです。
◆では、江戸時代後期には、同寺は何処に存在したのかといいますと、『道調査報告書』にも紹介されている通りです。
◆そして、『略記』には、「青蓮寺左」「真言宗宿内持宝寺の門徒なり、東北野山と号す、本尊大日を安置す」とあり、日光道中の西側にあったことがわかります。事実、『延絵図』には、街道の西に「青蓮寺」が記されており、境内には、天神も描かれています。そこには、現在も天満宮が存在しています。
◆前にも記しましたが、これらのことから、「字青蓮寺堤」「字曲輪之内」跡は、寺院であった可能性が非常に高いといえます。したがって、現段階で、これを直ちに中世小山氏の居館跡であると位置づけるのは、慎重にすべきであると思います。
◆また、仮称神鳥谷曲輪跡が、寺院の跡ではなく小山氏の館跡であると位置づけるのであれば、『延絵図』や『略記』の記載を否定する明確な根拠を提示する必要があるでしょう。
◆方形土塁を有した寺院は、他にも存在しますし、その遺構をもって、館と位置付けるのは、慎重にすべきでしょう。ただ、こうした寺院遺構は、何らかの防御の役割を担っていたことは間違いないものと考えます。
◆いずれにしても、青蓮寺と小山氏との関係も視野に入れ、さらに、調査を行い、史料の発見に努め、検討を十分に行って判断するのが良いのではないでしょうか。
 
【参考文献】『日光道中分間延絵図』第3巻(東京美術刊)。拙稿「近世都市小山の成立と展開」(『小山市立博物館紀要』第3号、1992)。同「小山の評定跡・御陣所をめぐる諸問題」(『小山市立博物館紀要』第7号、2001)。

2021.1.11 平田輝明記

発掘調査報告書『神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰ』記載の「小山ノヤシキ」

2021-01-03 18:03:39 | ・仮称神鳥谷曲輪跡
発掘調査報告書『神鳥谷曲輪跡の調査Ⅰ』記載の「小山ノヤシキ」


◆小山市教育委員会は、平成22年(2010)3月28日、『小山市文化材調査報告書第77集 神鳥谷遺跡Ⅰ 神鳥谷曲輪の調査Ⅰ(第1分冊)』(以下、『報告書』とします)を発行しました。
◆発掘及び『報告書』の作成は、秋山隆雄氏となっています。
◆秋山氏は、『報告書』の第5章、第3節において、仮称神鳥谷曲輪跡を、「小山氏の居館とし、文献にみられる『義政屋敷』あるいは、小山義政の乱に登場する『新城』に比定したところである」と明確に位置付けておられます。
◆同所は、この段階まで、『小山市史』中世編などでは、「宿城」に比定されていましたが、秋山氏は、「新城」とし、新説を提示されています。
◆その結論の最後の部分「おわりに」には、「小山ノヤシキ」が紹介されています。
◆ここでの「小山ノヤシキ」とは、元禄2年(1689)、松尾芭蕉の「奥の細道」の旅に随伴した曾良の「曾良旅日記」(以下、『日記』とします)にある記載です。
◆芭蕉と曾良は、旅の途中、間々田に宿泊し、3月29日小山方面に向かって旅をするわけですが、秋山氏は、『日記』の「辰ノ上剋、マヽダヲ出」「小山へ一リ半、小山ノヤシキ右ノ方ニ有」という記載を提示されています。
◆そして、「間々田方面から日光街道を北上すると、鷲城跡・祇園城跡は左手となり、右手に見える居館は、神鳥谷曲輪だけである。芭蕉たちが目にした『小山ノヤシキ』は、神鳥谷曲輪の可能性もある」と記しておられます。
◆「おわりに」は、結論相当部分ですが、中世の史資料を提示せず、わざわざ、近世中期の、この記録を持ってこられたのは、中世の史資料に明確なものが存在しないからであろうと思われます。
◆これについては、かつて、筆者も考えたことがあります。しかし、慎重な検討が必要であると思っていました。
それを、秋山氏は利用し、自説の補強を試みようとしたのでしょう。
◆しかし、これは、確実なのでしょうか。疑問も存在します。
◆それは、間々田宿から小山宿までの距離です。あるいは、間々田宿から仮称神鳥谷曲輪までの距離と考えてもよいでしょう。
◆「マヽダヲ出」とは、常識的に考えれば、間々田宿を出てと理解することができます。
◆つまり、「小山へ一リ半」とは、間々田宿を出てから、小山に向かって約6キロの位置ということになります。これに、間々田の一里塚、小山の一里塚などを勘案すると、仮称神鳥谷曲輪は、6キロ以内となり、該当しません。
◆一方、祇園城跡・小山城跡が、約6キロの位置にあたります。「小山ノヤシキ右ノ方有」という記載は、誤記と考えられます。
◆誤記でなかった場合、現在の小山駅方向に小山氏の屋敷が存在したという伝承が有ったことになります。しかし、現在、それらしいものは確認できません。
◆また、厳密にいえば、仮称神鳥谷曲輪跡は、その仮称名が示す通り、小山宿ではなく、手前の神鳥谷村地内に存在していたのです。
◆曾良の記述を、この章節の「おわりに」に持ってきたのは、仮称神鳥谷曲輪跡を、何とか、小山氏の館跡=義政屋敷=新城と位置付けたいとの考えからでしょうが、さらなる実証が必要なのではないでしょうか。

注、秋山氏が引用した『芭蕉おくの細道』の引用部分は、脱字などが存在すると思われますので『小山市史』史料編・近世Ⅱで修正しています。『報告書』には、この他にも疑問点が存在しますので、再度、感想を記す予定です。


2020.12.31 平田輝明記

小山御殿跡整備の問題点

2020-12-25 07:19:05 | ・小山御殿跡
小山御殿跡整備の問題点

◆2020年12月9日、小山市文化振興課に依頼しておいた中世城郭小山氏城跡祇園城跡の発掘調査報告書や調査年報が届きました。依頼した職員の方、間違いなく受領しました。ありがとうございます。代金は、本日10日、振り込みました。

◆昨日は、同遺跡の内、小山御殿広場と命名されてしまった御殿跡の説明板について、浅野正富小山市長に対し、市長へのメールにて質問(12月8日送信)したことを記しました。

◆そして、たまたま、昨日、『小山市文化財調査報告書第92集 祇園城跡Ⅳ 国史跡祇園城跡整備事業に伴う発掘調査Ⅰ 小山御殿広場地区整備に伴う発掘調査』(以下、『整備報告書』とします)という、とても、とても長いタイトルの報告書が届きました。この『整備報告書』の作成は、小山市教育委員会、歴史のまちづくり推進課の秋山隆雄氏であることが記されていました。

◆早速、ざっと読んでみました。とても、素晴らしい内容で、これなら間違いなく、昨日紹介した説明板ができるだろうと思いました。

◆昨日も記しましたが、この御殿広場は、中世城郭小山氏城跡として、国指定史跡に指定されているのです。それが、この『整備報告書』を読むと、近世・江戸時代の将軍が日光社参に際して利用した御殿の整備に終始していることが分かるのです。全く、理解できない内容となっています。

◆実は、この『整備報告書』の基礎となる報告書に、やはり、秋山氏等が担当した『小山市文化財調査報告書第52集 小山氏城跡範囲確認調査報告書Ⅰ 祇園城跡・鷲城跡の調査』(小山市教育員会、平成13年)があります。当然のことながら、『整備報告書』は、この52集を引用しています。

◆この52集をパラパラ見ただけでも、多数の中世関係遺物が掲載されていることが、素人リハビリ散歩人でも理解できます。にもかかわらず、小山御殿広場の整備、説明板は、近世・江戸時代の小山御殿一色となっています。

◆とても、不思議な整備であることが分かります。中世城郭小山氏城跡は、どこへ行ってしまったのでしょうか。これは、意識的に省いたことは確実です。ここまでくると、御殿跡、小山の歴史を高麗芝などで覆い隠した隠蔽・改竄・捏造です。

◆今後、上記、報告書を再読し、また、皆様に、お知らせ致します。

2020.12.10 平田輝明記

国史跡祇園城跡再整備事業の問題点

2020-12-24 15:16:23 | ・小山城跡・祇園城跡
国史跡祇園城跡再整備事業の問題点

平 田 輝 明

◆令和2年(2020)11月1日、いつものように城山公園にカメラを担ぎ、生物との出逢いを求めて散歩に行きました。
◆すると、公園の来園者の調査をされている方々に出逢いました。
◆その方々の話では、本丸・二ノ丸エリアの樹木を殆んど伐採し、これまで見たこともない大展望台を建設するとのことでした。
◆ビックリして、同日、浅野正富市長宛てに伐採計画中止要望を提出しました。
◆そして、この計画について、調べてみることにしました。
◆すると、今回の計画は、小山市都市整備部都市計画課まちづくり推進室が担当であることが分かりました。
◆担当部長は、国土交通省から出向の浅見知秀氏とのことでした。
◆祇園城跡・小山城跡(城山公園)の整備は、教育委員会が行うものと思っていましたので、またも驚きました。
◆小山市は、平成31(2019)年3月『(仮称)城山公園フラワーパーク整備事業基本計画』(以下、『フラワーパーク基本計画』とします)と、その概要版も作成していました。
◆その内容は、祇園城跡・小山城跡(城山公園)を花々で埋め尽くすという、城址公園とは思えない計画でした。
◆しかし、どうしたわけか、令和2年(2020)3月、『城山(祇園城)公園再整備基本設計』の概要版(以下、『基本設計概要版』とします)が作成され、市ホームページで公開されました。なぜ、急に変更されたのかは、分かりません。
◆令和2年(2020)12月23日現在、市ホームページには、上記『フラワーパーク基本計画』と『基本設計概要版:』が掲載されています。
◆しかし、『フラワーパーク基本計画』には、奥付がなく、誰が作成したのか不明となっており、責任の所在が分かりません。市民に公開できない不思議な計画であるといえます。
◆また、『基本設計概要版』の基となるものが有って、始めて概要版が作成されるはずですが、それを閲覧したいと思いましたが、担当者の明快な説明はありませんでした。これも不思議な話です。
◆一方、小山市教育委員会は、平成24年(2012)、『史跡祇園城跡整備基本計画』(以下、『教委基本計画』とします)を策定しました。
◆しかし、この『教委基本計画』は、文書館・図書館・博物館に収蔵されておらず、市民は、閲覧できませんでした。
◆そこで、現在の担当課、文化振興課の課長、野口静男氏に確認すると、私は担当ではなかったので分からない。前任者から1冊引き継いだのみ、とのことでした。
◆そして、この『教委基本計画』は可笑しい、「平田さんが見たら怒り出しますよ」とのことでした。
◆やむを得ず、委員であった方に見せていただくことになりました。
◆さらに、小山市は、平成25年(2013)3月『生物多様性おやま行動計画~たくさんの生命(いのち)輝くまちおやま~』(以下、『行動計画』とします)を策定していました。
◆今回、伐採事業が行われた祇園城・小山城跡(城山公園)は、思川河岸段丘に位置し、多くの生き物たちが生息している場所です。
◆今回の計画は、当然のこととして、この『行動計画』を意識するのが普通ですが、環境調査は、全く行われておらず、代わりに、登場したのは、野鳥の専門家と称する人物や栃木県生物多様性アドバイザーなるものでした。
◆この『行動計画』は、市ホームページにアップされていますが、これについても、奥付はなく、誰が作成したのか不明です。
◆また、『フラワーパーク基本計画』の前半分には、『行動計画』などが引用され、当該地は、「まちの歴史的資源の保全、思川河岸段丘林の生態回廊としての機能の保全など、次世代にまちの貴重な資源を継承して行く役割も有している」などと、自然環境を重要視した記述が多数あります。
◆さらに、『教委基本計画』にも、「現在では、中心市街地に位置する数少ない緑地公園」と明確に位置づけられています。
◆にもかかわらず、小山市は、自ら策定した『フラワーパーク基本計画』『行動計画』『教委基本計画』の3部作を隠蔽・無視し、樹木伐採計画を実行したのです。本当に不思議な事業です。

※反論・ご意見等がありましたらコメント欄に、お願い致します。

2020.12.24 記

「小山市長あいさつ」について

2020-12-23 07:26:22 | ・小山城跡・祇園城跡
◆2020年12月7日、城山公園=国指定史跡中世城郭小山氏城跡祇園城跡=小山城の樹木伐採事業が開始されました。十分な自然環境調査を実施せず、関連する『史跡祇園城跡整備基本計画』は未公開、『(仮称)城山公園フラワーパーク整備事業基本計画』及び『生物多様性おやま行動計画~たくさんの生命(いのち)輝くまちおやま~』は、ネット上で公開されていますが、奥付がなく作成者が不明となっています。内容も整合性がありません。議会おいて、一時中断要望が出されても無視。以下の市長挨拶と比較しますと、ここでも整合性がありません。とても、残念なことです。浅野正富市長には、本年11月1日、伐採中止要望を提出。同29日にも再度要望書を提出しましたが、伐採事業は、実施されてしまいました。とても残念なことです。
◆まあ、この事業は、前市長の負の遺産で、何か特別な理由があるのではないかとも思いますが・・・。

◆下記は、令和2年(2020)12月23日現在、小山市ホームページ、市長の部屋にある浅野正富市長の挨拶です。
◆前市長の「開運のまち」挨拶に比較して、とても、落ち着いた内容で好感を持てるものとなっています。内容を抜粋すると、以下のようです。
◆①~⑧まで、とても素晴らしい内容だと思います。城山公園の樹木伐採計画でも、この挨拶を基に、確実に実行していたけたら良かったのですが・・・。1票を投じた者として、とても残念です。
◆浅野市長の経歴からまさか、このような、と・・・。
◆挨拶の「現代を生きる私たちは、未来の子どもたちに対する責任を負っています。今の暮らしを守るだけではなく、さらにより良い生活環境を作り出していかねばなりません。」「子どもや孫たちが胸をはって「私の故郷は小山」と言える、持続可能な「田園環境都市・小山」を、市民の皆さまと対話を積み重ね、議論を尽くし、協働して創ってまいりましょう。」との記述は、嘘でないことを信じていたのですが・・・。 
◆次の選挙まで、これからも、注視して行きます。

①「誰一人取り残さず」
②「情報公開の徹底」
③「市民の声を市政に反映するための仕組みづくり」
④「議会との連携」による市民目線に立った市政
⑤「渡良瀬遊水地」に繋がる自然環境を有する首都圏の中でキラリとひかる田園環境都市
⑥「私の故郷は小山」と言える、持続可能な「田園環境都市・小山」を
⑦市民の皆さまと対話を積み重ね、議論を尽くし、協働して創ってまいりましょう。
⑧故郷を思う市民の皆さまの声と知恵を、是非小山市に寄せてください。



ようこそ小山市のホームページへ!

 小山市長の浅野正富です。

 現代を生きる私たちは、未来の子どもたちに対する責任を負っています。今の暮らしを守るだけではなく、さらにより良い生活環境を作り出していかねばなりません。  

 そのためには、「誰一人取り残さず」、すべての市民がこの小山で安心して誇りをもって暮らしていけるよう、「情報公開の徹底」、「市民の声を市政に反映するための仕組みづくり」、「議会との連携」による市民目線に立った市政で、財政を立て直し、暮らしを守り、民間の活力を生かした投資性の高い事業を推進して、市民の生命、財産を守っていかなければならないと思っています。

 小山市は農業、商工業のバランスが良く、市街地の周辺に農地や平地林の田園環境が広がって、思川が注ぎコウノトリが定着・繁殖したラムサール条約湿地「渡良瀬遊水地」に繋がる自然環境を有する首都圏の中でキラリとひかる田園環境都市です。

 子どもや孫たちが胸をはって「私の故郷は小山」と言える、持続可能な「田園環境都市・小山」を、市民の皆さまと対話を積み重ね、議論を尽くし、協働して創ってまいりましょう。

 故郷を思う市民の皆さまの声と知恵を、是非小山市に寄せてください。

 どうぞよろしくお願いいたします。

 小山市長 浅野 正富


◆また、気になるのは、前市長のコウノトリ事業を引き継いでいるのか、コウノトリの画像が合わせて掲載されています。しかし、小山市の鳥は、「セグロセキレイ」と位置付けられています。『生物多様性おやま行動計画~たくさんの生命(いのち)輝くまちおやま」を公表している小山市ですから、ぜひ、セグロセキレイの画像も掲載していただけると、整合性がとれるのではないかと思います。


2020.12.23 記