小山-歴史散歩-

栃木県南部に位置する小山市の歴史や史跡を紹介します。

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開運のまち小山???

2010-04-23 19:36:49 | ■ちょっと歴史
■現在、小山市は、「開運のまち」ということで、売り出しているようです。下記は、小山の歴史環境を探る会編集・発行『おやま歴史環境だより』準備号59(平成18年3月1日発行)に掲載したものです。この時点から、この「開運のまち」には、かなり、違和感を持っていました。それでも、下記では、反対はしないと、柔らかく記しました。それは、良識有る方々が、必ず疑問に思うと信じていたからです。事実、そのような方々は、存在します。
■一方、現在も、「開運のまち」は、エスカレートしている感があります。市の教育委員会が、リーフレットを作成、配布しているのです。「いいとこ教え隊」は、民間団体です。そのレベルでの動きは、理解できる部分もあります。しかし、教育委員会が、となると話しは違います。史実を、もう一度、見直し、冷静に「開運のまち」なのかどうか、考えてもらいたいものです。子供たちへの影響も大です。
■ちなみに、「いいとこ教え隊」案内による史跡めぐりに、参加させていただいたことがあります。案内の方は、とても勉強されており、分かりやすい説明でした。説明の中で、「開運のまち」は、「市長さんが、そう言っているのです」と、案内中に、困った表情で4回も言っておられたのが、印象的でした。
■また、ある説明会でも、市職員の方が、とても言い辛そうに、「開運のまち」を説明されていました。
■そして、本日、小山市立博物館の第55回企画展『小山の遺跡3~中世小山氏を中心に~」を観てきました。何と展示会のごあいさつ冒頭には「小山市は、『水と緑の大地』の豊かな自然と古い歴史を有し、徳川三百年を決定づけた、と言われる軍議『小山評定』の開かれた『開運のまち』であり」とありました。これまで、多くの博物館などの展示会を観ましたが、このような、挨拶は観たことがありません。市民として、とても恥ずかしく思いました。
■小山市民全員が、「開運のまち」に賛成しているのではないことを、全国に知らせる必要があると思い、あえて掲示しました。


“開運のまち”小山?
平 田 輝 明

■「“開運のまち”って?」との会話が、聞こえてきました。同時に小山駅西口に小山商工会議所「いいとこ教え隊」により、小山評定に関わるPR看板が建てられているという情報を得ましたので見てきました。何もわざわざ見に行かなくても、と思われるかもしれませんが、私の場合、小山評定跡関係史料を調査中です。調査の対象は、準備号47にも記したように古い史料ばかりでなく、新しいものも調べるということを目標にしています。
■理由は、小山評定が行なわれたとされる慶長5年(1600)も歴史の一部ですが、その後の評定跡に関する人々の捉え方、考え方も歴史であると思っているからです。しかも、それらが現在・未来に、どのように伝えられていくのかということも興味があるからです。
■看板を拝見しましたが、「徳川家康決断の地 開運小山評定」とあり、立派なものでした。これなら、小山に来訪された方々は、関ヶ原の戦いを前に、家康を中心にして有名な軍議が開かれたこと、その後、勝利した“開運のまち”であることを認識できると感じました。
■「いいとこ教え隊」については、実際に活動している数人の方とも知り合いで、話も聞いていますので、その活動には敬服しています。また、博物館で実施しているエコミュージアム小山『小山の史跡再発見』の資料も、少し参考にしていただいているようで、担当者としては有り難いことです。
■しかし、小山は本当に“開運のまち”なのかと、考えてしまいます。聞くところによると小山が“開運のまち”である理由は、もう一つあるそうです。それは小山氏2代朝政が、野木宮合戦において勝利したことだそうです。
■確かに、野木宮合戦、小山評定~関ヶ原の合戦、これらは小山・徳川氏にとって開運の戦いであったのかもしれません。しかし、南北朝時代、小山義政は鎌倉公方らと戦い自害、子の若犬丸も引き続き戦い死亡、しかも、その子供たち2名は、神奈川県の六浦で海に沈められ無惨にも処刑されています。小山氏の滅亡です。この悲惨な出来事は、謡曲「安犬」として伝えられ、文化センターにおいて復活公演されたのは、記憶に新しいはずです。
■また、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めのさい、小山氏は北条氏側についたため、領地没収となり、以後、再び小山の城主として返り咲くことはありませんでした。これは、小山氏の没落です。
■この時、小山地域は一族の結城氏の支配下に入り、さらに、関ヶ原の戦い直後、同氏は越前に転封となります。小山・結城地域と一族との関係は断たれてしまうのです。
■その後、小山の城主となったのは、何と家康の重臣、本多正純です。小山の街は正純によって改変、小山地域は、新勢力によって完全に支配されます。しかし、この正純さえも宇都宮に転封後、数年で改易となります。
■野木宮合戦、小山評定~関ヶ原の合戦は、戦であり、人間と人間の殺し合いであることは間違いありません。過去の出来事、歴史ですから、その悲惨さは私達の心の中からは薄らぎ、小山氏の勝利、徳川家の覇権という明るい面ばかりが強調されて行く傾向があります。しかし、勝利の陰で多くの人々が涙を流していたはずですし、苦しんでもいたでしょう。勝者側にも死者が出て、敗者は間違いなくいたのですから・・・。最愛の家族や友も失ったはずです。そこに、開運があったとは思えません。
■また、開運であったとしても、しょせん“戦の開運”です。一方には確実に“戦の悲運”があるはずです。
■私の場合、どうしても以上のことが頭をよぎります。“滅亡のまち”“没落のまち”“悲運のまち”であることも考える必要があるように思います。「いいとこ教え隊」が、小山を“開運のまち”として売り出すのは自由です。それに反対するつもりはありません。
■子供たちに戦や城の歴史、武具の正しい意味について教えるのは良いですが、戦によって運が開け、バラ色の明るい世界が生まれるのだというような視点のみで説明しているとすると、ちょっと悲しい気がします。戦を美化して教えるのだけはやめましょう。

◇参考文献◇『小山市史』各編。その他。
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4 コメント

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寒河尼は宇都宮。 (長さん)
2010-04-26 15:53:12
>小山氏2代朝政が、野木宮合戦において勝利
        ^
        |
こっちは、「上記女性を育んだ」宇都宮市を
褒めるべきでは?
開運のまち小山に疑問 (あゆ)
2010-05-06 16:03:18
はじめまして。
小山市民の中にも「開運のまち」に反対している方がいて、ホットしました。
安っぽい市だ! (隣県人)
2011-06-03 12:34:18
小山市が開運のまちだなんて、笑っちゃいます。疑問に思うのが普通ですよ。いつも通勤で通過するだけですが、安っぽい都市になってしまいましたね。疑問に感じている方がいて、少しは救いですが。
いつから開運の町になったのか (ひょっとこ)
2019-06-27 20:36:34
小山市には誇れるものが何もないのに
いつにまにかなんとか評定とかってやってる
この地に産まれて五十数年の私。
まあ苦肉の策でやってるんだろなと
とらえています。

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