父を母のもとに無事送り出した。
私たちには、骨壺からあふれるほどのお骨を残して。
今頃は、久々の母の手料理を囲んで、土産話に花が咲いていることだろう。
お父さん、ようやくお母さんに逢えたね。
一時帰宅の翌日の12日、父は1日中目を開けていた。
その夜中に心停止と呼吸停止で、蘇生と挿管。
既に挿管を苦しいと感じることもないそうで、眠る薬は使わなかった。
前日までの24時間フルマラソン状態の荒い呼吸と打ってかわって、機械の助けを借りた呼吸はものすごく静かだった。最初のうちこそ自発呼吸とぶつかることがあったが、だんだんそれもなくなって、規則的な機械の音だけになっていった。
父は、それまでの疲れを癒すかのように、ゆっくりと静かに眠っていた。
14日の未明には、血圧が測れなくなった。脈も弱くなってきていて、看護師さんからは「会わせたい人がいれば今のうちに…」と伝えられた。もう一昨日の一時帰宅で、みんなで楽しく過ごしました…本当に間に合ってよかったです。
一夜明けた14日の朝一番、締め切りの仕事を仕上げに一旦家に戻る。娘を学校に送り出し、即座に仕事にかかり、とにかく終了。10時を待って担当者に連絡して完成前に取りあえず暫定納品をさせていただく。
泊まり支度をして再び昼頃病院へ。途中で病院に詰めている従姉妹から「容態悪化、ちょっと急いで」と電話。南無三!と思って病院に着いたら心拍数が乱高下しているところだった。既に血中酸素量は測定不能。血圧も50以下になっている。
小一時間で心拍は再び落ち着く。
その後姉が一旦家に戻る。6時すぎに戻る予定。
従姉妹と2人でベッド脇で見守る。
4時ごろ、脈が50近くまで落ちて、そこでしばらく安定。思えば、この時点で姉を呼び出しておくべきだったか。既に痰引きを苦しむ様子もない。
5時ごろ、今日当直だという看護師さんがやってきて
「一時帰宅できたのが、本当に私も嬉しかったです」と言われる。
間一髪で間に合ってよかった。
伯母2人が病院へ向かっているとの知らせが届く。
「みんなが来るから、がんばってね」と呼びかける。
5時50分。にわかに脈が乱れて30台が出現。モニターが赤く光る。
ちょっと待って、もうすぐお姉ちゃんが来る。
モニターを見に来た医師が
「もう脈が弱くなっています。側に居てあげてください」
せめて姉が来るまでと必死に呼びかけるが、脈の乱れは収まらない。
気づくと医師や看護師もベッドサイドに控えている。
ああ、もう間に合わない。
ほどなくモニターが「0」を示し、「ピー」という平坦な音が響く。
午後6時00分、死亡確認。
こんなピッタリの時間なんて、母とのデートの約束だったのだろう。律儀で真面目な父は遅刻なんてするわけない。
10分ほどで姉が到着。いつも待ち合わせには遅れる人だ。
一度、父、姉と待ち合わせをしたとき、毎回毎回待たされるのに嫌気が差して、父に当たってしまったことがあったっけ。お父さんが悪いわけじゃないのに。
父の寝顔は、温泉にでも入っているかのように安らかですっきりとしている。もうすっかり疲れも癒されて、元気に飛んでいったのかもしれない。とても悲しいはずなんだけれども、幸せそうな顔を見ると「お母さんに会えてよかったね」という思いが沸いてきた。
母の死から間もなく、既に決まっていた結婚のための式場を、父と一緒に見に行った。帰路、浜松町の駅で、私は今の夫との打ち合わせがあるからと別れた。いつものコートに身を包んだ父の後ろ姿が、心なしか小さかったのを覚えている。
娘が生まれ、父と母とDNAをこの世に遺せたことに安堵した。
子孫を残した後の人生は「おまけ」だと聞いたことがある。
確かに、娘を生んだ後の私の人生は、娘を育てるためだけにあるようなものだ。
父母の生きた証を残し、それを引き継ぐ。命をつないでいく。それが生き物としての「ヒト」の本来の姿なのだろう。
私たちには、骨壺からあふれるほどのお骨を残して。
今頃は、久々の母の手料理を囲んで、土産話に花が咲いていることだろう。
お父さん、ようやくお母さんに逢えたね。
一時帰宅の翌日の12日、父は1日中目を開けていた。
その夜中に心停止と呼吸停止で、蘇生と挿管。
既に挿管を苦しいと感じることもないそうで、眠る薬は使わなかった。
前日までの24時間フルマラソン状態の荒い呼吸と打ってかわって、機械の助けを借りた呼吸はものすごく静かだった。最初のうちこそ自発呼吸とぶつかることがあったが、だんだんそれもなくなって、規則的な機械の音だけになっていった。
父は、それまでの疲れを癒すかのように、ゆっくりと静かに眠っていた。
14日の未明には、血圧が測れなくなった。脈も弱くなってきていて、看護師さんからは「会わせたい人がいれば今のうちに…」と伝えられた。もう一昨日の一時帰宅で、みんなで楽しく過ごしました…本当に間に合ってよかったです。
一夜明けた14日の朝一番、締め切りの仕事を仕上げに一旦家に戻る。娘を学校に送り出し、即座に仕事にかかり、とにかく終了。10時を待って担当者に連絡して完成前に取りあえず暫定納品をさせていただく。
泊まり支度をして再び昼頃病院へ。途中で病院に詰めている従姉妹から「容態悪化、ちょっと急いで」と電話。南無三!と思って病院に着いたら心拍数が乱高下しているところだった。既に血中酸素量は測定不能。血圧も50以下になっている。
小一時間で心拍は再び落ち着く。
その後姉が一旦家に戻る。6時すぎに戻る予定。
従姉妹と2人でベッド脇で見守る。
4時ごろ、脈が50近くまで落ちて、そこでしばらく安定。思えば、この時点で姉を呼び出しておくべきだったか。既に痰引きを苦しむ様子もない。
5時ごろ、今日当直だという看護師さんがやってきて
「一時帰宅できたのが、本当に私も嬉しかったです」と言われる。
間一髪で間に合ってよかった。
伯母2人が病院へ向かっているとの知らせが届く。
「みんなが来るから、がんばってね」と呼びかける。
5時50分。にわかに脈が乱れて30台が出現。モニターが赤く光る。
ちょっと待って、もうすぐお姉ちゃんが来る。
モニターを見に来た医師が
「もう脈が弱くなっています。側に居てあげてください」
せめて姉が来るまでと必死に呼びかけるが、脈の乱れは収まらない。
気づくと医師や看護師もベッドサイドに控えている。
ああ、もう間に合わない。
ほどなくモニターが「0」を示し、「ピー」という平坦な音が響く。
午後6時00分、死亡確認。
こんなピッタリの時間なんて、母とのデートの約束だったのだろう。律儀で真面目な父は遅刻なんてするわけない。
10分ほどで姉が到着。いつも待ち合わせには遅れる人だ。
一度、父、姉と待ち合わせをしたとき、毎回毎回待たされるのに嫌気が差して、父に当たってしまったことがあったっけ。お父さんが悪いわけじゃないのに。
父の寝顔は、温泉にでも入っているかのように安らかですっきりとしている。もうすっかり疲れも癒されて、元気に飛んでいったのかもしれない。とても悲しいはずなんだけれども、幸せそうな顔を見ると「お母さんに会えてよかったね」という思いが沸いてきた。
母の死から間もなく、既に決まっていた結婚のための式場を、父と一緒に見に行った。帰路、浜松町の駅で、私は今の夫との打ち合わせがあるからと別れた。いつものコートに身を包んだ父の後ろ姿が、心なしか小さかったのを覚えている。
娘が生まれ、父と母とDNAをこの世に遺せたことに安堵した。
子孫を残した後の人生は「おまけ」だと聞いたことがある。
確かに、娘を生んだ後の私の人生は、娘を育てるためだけにあるようなものだ。
父母の生きた証を残し、それを引き継ぐ。命をつないでいく。それが生き物としての「ヒト」の本来の姿なのだろう。