Tonton's Miscellany

基本的に日記です。仕事のこと、家族のこと、本やニュースの感想など、ごちゃごちゃつづります。

人工呼吸器、そして。

2008年10月14日 | 【雑言】
父を母のもとに無事送り出した。
私たちには、骨壺からあふれるほどのお骨を残して。
今頃は、久々の母の手料理を囲んで、土産話に花が咲いていることだろう。

お父さん、ようやくお母さんに逢えたね。



一時帰宅の翌日の12日、父は1日中目を開けていた。
その夜中に心停止と呼吸停止で、蘇生と挿管。

既に挿管を苦しいと感じることもないそうで、眠る薬は使わなかった。
前日までの24時間フルマラソン状態の荒い呼吸と打ってかわって、機械の助けを借りた呼吸はものすごく静かだった。最初のうちこそ自発呼吸とぶつかることがあったが、だんだんそれもなくなって、規則的な機械の音だけになっていった。

父は、それまでの疲れを癒すかのように、ゆっくりと静かに眠っていた。

14日の未明には、血圧が測れなくなった。脈も弱くなってきていて、看護師さんからは「会わせたい人がいれば今のうちに…」と伝えられた。もう一昨日の一時帰宅で、みんなで楽しく過ごしました…本当に間に合ってよかったです。

一夜明けた14日の朝一番、締め切りの仕事を仕上げに一旦家に戻る。娘を学校に送り出し、即座に仕事にかかり、とにかく終了。10時を待って担当者に連絡して完成前に取りあえず暫定納品をさせていただく。

泊まり支度をして再び昼頃病院へ。途中で病院に詰めている従姉妹から「容態悪化、ちょっと急いで」と電話。南無三!と思って病院に着いたら心拍数が乱高下しているところだった。既に血中酸素量は測定不能。血圧も50以下になっている。

小一時間で心拍は再び落ち着く。

その後姉が一旦家に戻る。6時すぎに戻る予定。
従姉妹と2人でベッド脇で見守る。

4時ごろ、脈が50近くまで落ちて、そこでしばらく安定。思えば、この時点で姉を呼び出しておくべきだったか。既に痰引きを苦しむ様子もない。

5時ごろ、今日当直だという看護師さんがやってきて
「一時帰宅できたのが、本当に私も嬉しかったです」と言われる。
間一髪で間に合ってよかった。

伯母2人が病院へ向かっているとの知らせが届く。
「みんなが来るから、がんばってね」と呼びかける。

5時50分。にわかに脈が乱れて30台が出現。モニターが赤く光る。
ちょっと待って、もうすぐお姉ちゃんが来る。

モニターを見に来た医師が
「もう脈が弱くなっています。側に居てあげてください」

せめて姉が来るまでと必死に呼びかけるが、脈の乱れは収まらない。
気づくと医師や看護師もベッドサイドに控えている。
ああ、もう間に合わない。
ほどなくモニターが「0」を示し、「ピー」という平坦な音が響く。

午後6時00分、死亡確認。


こんなピッタリの時間なんて、母とのデートの約束だったのだろう。律儀で真面目な父は遅刻なんてするわけない。

10分ほどで姉が到着。いつも待ち合わせには遅れる人だ。
一度、父、姉と待ち合わせをしたとき、毎回毎回待たされるのに嫌気が差して、父に当たってしまったことがあったっけ。お父さんが悪いわけじゃないのに。

父の寝顔は、温泉にでも入っているかのように安らかですっきりとしている。もうすっかり疲れも癒されて、元気に飛んでいったのかもしれない。とても悲しいはずなんだけれども、幸せそうな顔を見ると「お母さんに会えてよかったね」という思いが沸いてきた。


母の死から間もなく、既に決まっていた結婚のための式場を、父と一緒に見に行った。帰路、浜松町の駅で、私は今の夫との打ち合わせがあるからと別れた。いつものコートに身を包んだ父の後ろ姿が、心なしか小さかったのを覚えている。

娘が生まれ、父と母とDNAをこの世に遺せたことに安堵した。
子孫を残した後の人生は「おまけ」だと聞いたことがある。
確かに、娘を生んだ後の私の人生は、娘を育てるためだけにあるようなものだ。
父母の生きた証を残し、それを引き継ぐ。命をつないでいく。それが生き物としての「ヒト」の本来の姿なのだろう。






楽しい思い出になったのだろうか

2008年10月12日 | 【雑言】
ほんの1時間半の一時帰宅。

父からの反応はあまりなかったけれども、少しは楽しい思い出になったのかな。

午前中に実家に行って、娘と2人で待機する。13時前に、父の姉一家が来る。
13時すぎ「今出発しました」とのメール。いよいよだ。

13時30分ちょっと前に、介護タクシーで到着した。
看護師さんがきちんと洋服を着せてくれていた。
ストレッチャーごと家の中に入れて、ベッドに移す。

酸素ボンベ3本。これが今の父の命をつないでいる。
「メモリが5になったら呼んでください」と、介護タクシーの担当者が家の外で待機していてくれる。

BGMに父の好きだったベートーヴェンの交響曲をかけ、みんなでワイワイガヤガヤと、うるさいくらいの、いつもの我が一族の風景。

伯母が持ってきたケーキに、8本のろうそくを飾り、遅ればせながらの80+α歳の
誕生日祝い。本人は食べられないけどね。

家にいたときにお世話になっていたヘルパーさんや、理学療法士の方が入れ替わり立ち替わり会いにきてくださる。これらの人々の言葉は、きちんと聞こえていたと思う。

娘が、初めて生のヴァイオリンを聞かせた。発表会も全然来られなかったけど、ようやく聞かせることができた。

15時前、痰がからんできたのか少々呼吸が不規則になってくる。そろそろ限界。いつまでもこんな時間が続いてほしいけれども、病院に帰らなくては。


後から車で病院に着くと、父は再び病院服に着替えさせられて、モニターと点滴が付いて、口には吸入の管を入れられていた。

本人が一番残念なんだろうな。


楽しい思い出になってくれたのだろうか。


明日は一時帰宅

2008年10月10日 | 【雑言】
明日午後、いよいよ一時帰宅。
酸素ボンベの量から、往復時間を含めて4時間が限度。
余裕を見て3時間で予定を立てる。

今日は髪を洗ってもらっていた。
ライオンみたいになってたから、ちょっとカッコ良くなったかな。

医師は意外と気軽だった。
「動かしたからどうにかなるというわけでもないし、動かさなかったからどうにかならないというわけでもありません」
「何かあったら、すぐに連絡して、救急車で帰っていらっしゃい」
「(予約している)寝台タクシーよりは、救急車のほうが早く帰れますよ。信号突っ走れますからね」

MSWも、こんなワガママな患者家族に対して、にこやかに親切に対応してくれ、福祉車輌の手配をてきぱきとやってくれた。
「こういう外出で福祉車輌を手配することって結構あるんですか?」と聞くと「こういう例はあまりないですが、車いすの方が気晴らしに外出っていうのは結構ありますよ」

…やっぱり、こんな重症患者を家に帰すなんて、珍しいんだな。
すみません。


明日は楽しいひと時になってほしい。

一時帰宅まで頑張って

2008年10月09日 | 【雑言】
父は、この期に及んで病名が決まり、しかも「末期」との宣告を受ける。

病名は進行性核上性麻痺(しんこうせいかくじょうせいまひ)という、パーキンソン病と関連する疾患。 原語名progressive supranuclear palsy、略して「PSP」というらしい。プレイ・ステーション・ポータブルではありません。

最後に一時帰宅をさせてほしいと願い出たら、あっさりと許可された。
もちろん多大なリスクを覚悟の上での、数時間の帰宅である。
決行日は土曜日。



間に合うことを祈る。


少し復活の希望?

2008年10月02日 | 【雑言】
昨日に比べて、だいぶ呼吸は楽そうで、目もよく開いていた。
声を出そうとしているような様子も見える。
体にまとわりついている、種々のモニターを外そうとする動きも見られるようになった。

少し復活か??

昨日の「人工呼吸どうする?」ショックで、こりゃ娘達に任せておいたら大変だ、自分で絶対に拒否しなきゃ、と奮起したか?

どっちでもいい。
少し意志疎通ができるようになれば。
とにかく、コミュニケーションができるようになって、父自身にしっかりと決めてほしいのだ。

そしてできれば数時間でも家に戻ったり、車いすで外の空気を吸ったり…夢はいろいろある。

MSWと面会。
とりあえず胃ろう造設で話を進めてもらい、こちらからの希望を伝え、転院先を探していただくことにした。
うまく転院まで行けたらいいと思う。

帰りがけ、看護師に呼び止められる。
「人工呼吸の件は決まりましたか?」と。
昨日、話し合ったとおり、娘2人はできる限り長く生きていてほしいと思う、ただし今後も本人の意志を確認する努力は続け、その判断によっては変更があるかもしれないということを伝えた。

あとは、父の意志が確認できるのが先か、人工呼吸を装着するのが先か。

それは神のみぞ知ることだろう。

父に問うてみた

2008年10月01日 | 【雑言】
明け方、姉から電話で、呼吸状態が悪くなったから至急来て欲しいと病院から知らせがあったというので、あたふたと出かけた。

結局、管を調整したら落ち着いたということで、着いた途端看護師さんが平謝り。
いいんです。どんな小さいことでも知らせていただければ。間に合わないで後悔したくないので。

その後、当直明けの医師と再び話し合い。
厳しい話だ。
いつかは人工呼吸器の選択が迫られるだろう。

しばらくは頭がクラクラしていたが、やっぱりどうしても姉と私で結論は出せないので、思い切って本人に聞いてみることにした。分かってもらえるかどうか分からないけれども。


可否の意志の確認はできなかったけれども、父は泣いた。
唐突な話で驚いたからか、思うように意志が伝わらないからか、判断できかねるが…。この先、いつか来る「その日」まで、折に触れて父の意志を確認していこうと思う。

でも私たちの意志は決まった。
本人が拒否しない限り、生きていてくれることを願う。
「単なる延命」かどうかは、結果論に過ぎない。