こんにちは。
リーゼント・学ラン歴 21年目(2022年現在)リーゼント矢板(やいた)です。
リーゼント・学ラン歴 21年目(2022年現在)リーゼント矢板(やいた)です。
この夏、遂に私の『リーゼント・学ラン』歴も20年を超え、21年目となりましたゆえ、リーゼントに纏わる思い出話の今回は番外編。
第1回↓↓↓
第2回↓↓↓
第3回↓↓↓
第4回↓↓↓
リーゼントパーマを当ててから、私のリーゼントは理想にグッと近づいた。それでも納得できる仕上がりには至らず、修行の様に日々独学による練習を続け、技術も大きく発展していった。
そして20年以上リーゼントを続け、今やイベントでお客さんのヘアースタイルをリーゼントにセットさせてもらったり、雑誌やテレビで取り上げて頂ける様にもなった。
仕事もずっとリーゼントが維持できる様、「髪型自由」の裏方の仕事ばかり続けてきた。
リーゼントを続ける理由はあっても、辞める理由もなく、世界で一番カッコイイヘアスタイルと信じて疑わなかった。一生続けていくと思っていた。
しかし、ここで告白しなければならない事が1つあった。
そう、21年リーゼントを続けて来たが、
ただの一度だけリーゼントヘアーでは無い時期があったのだ。
時は2003年。
高校を卒業し、小学校からの夢である『お笑い芸人』を志し活動を始めていた頃である。
この年の夏、あの憧れの氣志團が、地元・木更津で凱旋野外ライブ『氣志團万博』を開催すると発表があった。そしてこの開催に向けて、一般からバックダンサーの募集が行われた。
履歴書を送ると、一次審査を通過しのオーディション審査への案内が届いたのである。
ダンス審査があるため「動きやすい格好で」という事で、なぜか背中に『偽』と墨汁でしたためた柔道着を着用し、オーディションへ参加。
見事バックダンサーのオーディションに合格したのである!
後日談として、審査員の方の話や、当時團長のラジオで語られたいたのは、「氣志團が何組できるんだ?」というくらい、気合の入ったリーゼントの出願者がいたものの、オーディションへ通過した中にリーゼントは私ただ一人。そして私が選ばれた理由として「矢板はものスゴイ天才か、ものすごいバカのどちらかだ!」という振り切った個性を履歴書から発していた様である。
この頃、オーディションから万博本番まで一連の様子を『情熱大陸』が密着しており、テレビや、後に販売されるDVDの特典映像に収録されている。
情熱大陸より
そして、無事に氣志團万博は終了したのだが、その後も何度かこのバックダンサー達にお声がかかり、同じステージで共演させて頂いた。
代々木体育館・幕張メッセ・日本武道館。
そして、2003年のクリスマスに氣志團がバラエティー特番をやる事になり、エキストラとしてこの時も声をかけて頂いたのだが、この時だけ『参加条件』というものが設けられていた。
『リーゼントかパンチパーマで参加できる方』
この時のバックダンサーには前述の通り、リーゼントは私ただ一人。
なので、この撮影に参加したバックダンサー仲間は、各々パンチパーマ、リーゼント、鬼の様な剃り込みの坊主頭と、イカツイ姿で参加していた。
当然、私はいつも通りのヘアスタイルで参加条件を満たしていた。
しかしここで心に微かな疑問が残っていた。
「条件を満たしているからと言って、私だけいつも通りの格好でいいのか?」
「このチャンスを逃したら、多分一生パンチパーマはできないぞ?」
そこで私はリーゼントパーマをお願いした床屋へおもむき、
「パンチパーマにして下さい!」
とオーダーしたのである。
この頃、ちょうど高校を卒業し運転免許を取得中だった(思えばオーディションの待機中も教本を読んでいたのを思い出した!)ので、初めての免許証の写真はパンチパーマである。
そして、収録当日、皆自前の衣装を用意して来たが、何人か番組側で用意した衣装に着替える様に指示が出て、私も別室で着替えをしていた。
そこに、氣志團の團長、綾小路氏が別のシーンを録り終えて着替えに戻って来たのである!
その時團長にかけてもらった言葉を私は忘れないだろう。
「おう、お前はリーゼントで良かったのに。
またやれよな!リーゼント!」
私はこの言葉で、憧れの人物に、憧れて日々鍛錬していた自分のヘアースタイルを認めてもらえた様な気がした。
そして、「一生リーゼントを続ける」という気持ちをより一層強く心に決めた瞬間であった。
それ以降はまた髪を伸ばし、理想のリーゼントを追い求めて、とうとう21年という年月が経ち、そして今もなお、『一生リーゼントを続ける』という気持ちは変わらないのである。
【リーゼント・学ラン歴】 21年目に突入!〜あの頃の思い出・シリーズ〜
【完】
また次回のブログも、
⚡️夜露死苦⚡️
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