楽健法セラピスト第8期講座レポート

楽健法セラピスト養成講座第8期の記録と報告です。

第8回 11月8日(1日目 その1)

2008-11-09 20:08:48 | 楽健法セラピスト養成講座第8期記録
アーユルヴェーダ学会総会の報告会 


アーユルヴェーダの現在


新しい楽健法の本、回して見て下さい。
カバーを新装して、1ページだけ序文を書きました。

(田中さん)私はいつもこの写真が気になる。
(宥厳先生)どうして?若すぎる?
(田中さん)どちらの方だったかしらと思ってしまいました。
(宥厳先生)変えようかなと思ったけどね。それも変でしょ?初版の通りでやらないと。この序文はこの前ここでプリントしてお話しましたね。

 アーユルヴェーダの総会で作った予稿集がこれです。これでだいたい110ページくらいの…116ページだったかな。予稿集の最後の頁に楽健法の広告を入れてます。このプリントですね。拡大してますけれど。ここに何人か電話をを入れておいたんです。入ってない人もいますけどね。まあ、とりあえず入れておきました。この中で真ん中の行で一番上の光岡智佳子さんの電話番号が間違っています。0886になっていますが。086です。

 楽健法を仕事にしてたつき(生計)を立てていくというのはなかなか大変なんですよね。それで、この中でも楽健法をやっていくことで何とか成り立っている人というのはそういないんですけど、平野奈緒美さんは去年の生徒ですけどこの人は去年は非常に不安がっていて、足の裏をもむ健康法の資格を取りに行ったりして、楽健法も東京で勉強に1年半か2年くらい来られたのかな。それからここへ去年一年来られて、「そのうちに必ず道が開けてくるから、まあ楽健法をやってごらんなんさい」って言ったんです。はじめは色々迷ってたらしいですけど、楽健法と足もみもやりますって商売始めたら、もう足もみはいらん、楽健法が良いという人ばかりになってきて、今、月に100人くらいやる人が出てきたそうです。根気よくやっていると必ず道がついてくるもんです。

 岡山の光岡さんは福山に来ている生徒さんですが、楽健法で何とかやっていきたいという気持ちは持っておられるみたいなのでここに掲載しておいたんですが、まだまだ海のものとも山のものともつかないというところです。光岡さんはこの間電話がかかってきて、タウン雑誌に楽健法の広告を一度これを参考にして載せてみたいと言ってました。

 福山には高田由美さんという人がいてこの人はここへも1年間勉強に来られたんですけど、店も開いて精力的にやっていられます。足もみを最初にやって仕上げに楽健法をやる、だいたい2時間くらいのコースだそうです。東京にも足もみの若石の会で楽健法の指導もやっている方。

 この鈴木正雄さんって言う真ん中の人は今、豊橋のNHKの文化教室で楽健法の講座を開いています。まだ、生徒がなかなか増えなくて5,6人みたいですね、毎回。

 周藤久美枝さんという人は松江、この人は4年前にここに来られました。この人から中島さんなんかが紹介されてご縁が出来たんですね。自然農をやっていられます。

 自然農ということでいうと、総会の体験ブースで、熊本の竹熊宣孝先生に楽健法をやってさしあげました。  そのとき先生と色々話したんですけど、奈良の五条の梁瀬義亨という先生がいらっしゃったんです。この梁瀬義亨という医者は、戦争中に毒ガスの工場で仕事していたらしいです。瀬戸内海にあるそうですね毒ガス島が。そこへ軍医として行ってたんでしょうか、その時にどうも毒ガスを吸ってるみたいなんですね。それで、そこで毒ガス工場で働いている人たちの体に出てくる、色んな病気の特徴を彼はよく知っていて、奈良県に帰ってきて開業医としてやり出したときに、近所の農家の人が体の調子が悪いとやって来る。そうするとその毒ガスの被害と同じような症状が出てきていて、これはパラチオンという毒薬によるものではないか。つまり、農薬だと言うことに気がついたんですね。

 それで、農薬を使ってはいけないという指導をするようになって、そういう問題を取り扱った初期の頃ですから、反撃を受けるわけです。農薬の会社から農協から色んなとこから目の敵にされるなかで、五条で頑張って、ぼちぼちぼちぼちと患者が指導を受けて良くなっていくことで実績を上げていくわけです。
 
 農薬を農協の言う通りに使っている農家がみんな病気になっていく、これは大変だということで自分で見本の農場を作ったりしながら、農民に自然農法や有機農法を指導するようになっていったんです。ところが本人は結局若くして死んじゃうわけです。最初に受けた毒ガスの影響で体が持たなかったんだと、竹熊先生はおっしゃってましたね。

 有吉佐和子っていう小説家がいましたが、この人が1974年10月~1975年6月に「複合汚染」というのを朝日新聞に連載をするんです。この「複合汚染」という小説は大変大きな影響を与えました。小説というかドキュメンタリーです。この中に梁瀬義亨が出てきます。有吉佐和子は各地でそういう活動をしている人の所に直接取材に行って、複合汚染が書かれていった。それが朝日に掲載されたということで、非常に大きな役割を果たしたと僕は思いますね。その中で梁瀬義亨の業績なんかも、仕事ぶりなんかも詳しく書かれている。
「複合汚染」は今もひょっとしたら新潮文庫で買えるかもしれないけどまだ古本で検索するとすぐ出てきますからね。もし読んでみようと思ったら読んでみて下さい。

 書かれた時代は古いようでも、1970年代ですから、古いようだけど問題は改善なっかされていなくて、いまも問題はなまで新しいのです、それでは困りますが。

 私のこの楽健法の本もそうですけど、30年前に書いた本ですね。こういう健康法の本なんかは30年も前に書いた本などは普通は振り向きもしてくれないですね。読み捨てられる本が多いです。つまり、実用書は一過性のようなところがあるんです。これを農文協が今頃になって販売するというようなことが起きてるのは、ここに私が書いていることが、普遍的だということだと思うんです。つまり、ある時期を過ぎたらもう古くなってしまうというような問題ではなくて、物事の一番大事な根本的なところをきちっと見つめて、そこを批判精神でもって書いてあるわけですから、問題は古くならないわけです。30年経っても全然変わらないという部分が社会にあるわけですね、社会も人間も進化していない証ですね。

だから、まあそういう意味で日本の医療も表面的にはドンドンドンドン変わっていってる。変わっていってるんだけど、大きな所でどういう風にそれを掴んで変えて行かなくてはならないかということです。まあ、イデアですね。理想みたいなもの。そういうようなものをきちんと主張していかないといけないと思いますね。

 私が今回アーユルヴェーダ総会の縁の下の力持ちを買って出たのもやはり、一つにはそういう問題意識があって、アーユルヴェーダというものはどういうものか、という一つの大きなとらえ方をしてほしい。

 なにかの問題を考えるとき、問題は細かくしていけばいくらでも細分化していって訳の分からないものになっていくんですが、根本を大きく把握すること、把持力が必要ですね。

 アーユルヴェーダというのを今、世界中がどういう風に見ているのかというと、西洋医学という大きな枠組みの中で、代替医学、代わりになるなんかちょっと西洋医学の不得意な所に借りてきてそこの代わりにしようと言うような感覚でアーユルヴェーダを見ているところがある。この病気は西洋医学では治らないからアーユルヴェーダを使ってみたらなんとかなるんじゃないか、というような感覚で捉えている。そういう見方でみていくと漢方もそうだし、民間療法も代替医学としか捉えていかないんですね。

 西洋医学そのものはどういう現状なのかということについてはあまり目を向けようとはしない。だから、今日本で起きている医療の問題も非常に大きな矛盾を持っていて、いちばん大きな矛盾は病院を維持するためには病人が必要だ。でも、病人が増えるとこれにはお金がかかる。だけど、お金が足りなくなってきたから使いたくない。で、にっちもさっちもいかないジレンマのところで何かをしなくてはいけないという状況になってきているわけですね。

 病院がどんどんなくなっていけば、国民からはそのことに対して大変な反発が来るわけです。だけど、病院があったら、ちょっとした風邪を引いても大病院に駆け込んでいくという人がいっぱいおってですね、本来の病院としての機能が損なわれたりする。医師は疲弊してやめていく。その辺が国民の意識レベルにもよるんだけれども、まあ患者が来ないようにすると、今の病院の体制は維持できないし、来てもらおうと思ったら来すぎて金を使いすぎるし、というのでそこのバランスが取れないんですね。
本来成り立たない矛盾を両立させなければ、という矛盾の壁がたちはだかっているんです。

 もし行政が点滴は自分でおしっこできているにはしていけない、というようなことを病院に実行させる。そうすると医療費はガクンと減るでしょうね。30兆円を超えるような、国家予算を超えるようなお金を医療が使っている。病院のすべてのベッドで点滴をやっているようなことはもうダメ。それで、必要な人にだけ点滴しなさいという点滴の見直しというのをやっただけでもガラッと変わるだろうけれども、これでガタガタとつぶれていく病院が出てくることも間違いないですね。

 だから、日本の医療は非常に危ない橋を渡っているんですよ、今。だけど、私のいちばん根本的な考え方がどういう理解の仕方かというと、「アーユルヴェーダとは何か?」と言うことから考えて、「アーユルヴェーダとは人の幸せに役に立つ、そういうものを指して、人の役に立つものを指してアーユルヴェーダと言うという考え方なんですよ。

じゃあ、西洋医学は人の役に立たないのか、というととんでもない話です。西洋医学は非常に優秀な有用な有益な医学なんだけれど、この医学にかかったために点滴をドカッとやられて、死ななくてもいいような人が短期間で死んでしまうとしたらこれはこの人にとって有益な医学とは言えないんです。だから、西洋医学がアーユルヴェーダ化すること、僕はそういう言い方をするんですけど、人の役に立つところだけをやってリスクの高ものはしない、そういう医療に西洋医学が変わったときに西洋医学もアーユルヴェーダのジャンルに含まれるようになってくるんですね。だから、西洋医学とアーユルヴェーダは決して対立するものではなくて、アーユルヴェーダという概念がまず「人の役に立つものがアーユルヴェーダ」だとすると、西洋医学だってアーユルヴェーダなんです。アーユルヴェーダでなくちゃいけない、というのがぼくの考えているアーユルヴェーダです。

だから、西洋医学の中で盲腸の手術をする、あるいは脳血栓になって、詰まってしまってしまった人を救急で助ける。これはみんなアーユルヴェーダですよ、そういうのは。だけど、水虫で入院したのに点滴をするっていうのはね。ま、水虫で入院するヤツはおらんかもしらんけど。まあとにかく昔は漢方だったら葛根湯医とか、今だと点滴医とか言うかも知れないけど、ほとんどの病院が点滴医療ですね。

 そういう医療の根本的なところには、政治は立ち入ろうとしない。制度のことはいじるけれども、点滴の是非などは考えない。現代医学はこれでいいのか、という問題は考えない。医療も金儲けですから、儲からなくなるようなことは考えない。

私たちが出来ることといえば拒否するか、一切を任せるかどっちかなんです。国民というのは自分で好きな医療を選んで、選択できるみたいに思ってるかも知れないけどそうはいかない。拒否できない状況ってのは必ず出てくるんですよ。救急車を呼ぶような状況に直面すれば、ここに書いているように、「健やかに、悠々と、命輝く」ような暮らしを一人ひとりが全うできるか疑問な所ですね。

楽健法を知ったおかげで本当に楽になったっていう人がいっぱいいます。今まで楽健法に出会ったことでどんなに幸せになったかわからないという人もおりますけれど、楽健法に出会えもしない人がほとんどなんですね。

誰でも本当に困難に直面したときに、初めて何か別の方法や問題があるということに気がつくんです。
病気をすると言うことはとても大事なことです。それでせっかく病気になったんだったらじっくりとその病気から学ぶようなことができる。病気になった途端、たちまち集中治療室に入れられて点滴しまくって殺されてしまうようでは、学ぶ時間もないですね。

だから病気になったときに、あわてて医者の言うなりになってすぐ手術してもらったりするのは考え物。
このごろはセカンドオピニオン、別の病院や専門家に診てもらってから決めるという用心をするひとも増えてきているわけです。

「健康とはコントロール出来る精神のこと」
いくら痩せたいと思っていても口のコントロールできない人もいるし。口のコントロール出来たからと言って痩せられるとは限らないし。ちあきちゃんみたいに、ようけ食べていても太らない人もいるし。まあこれは先天的な問題もありますからね。一概には言えませんけどね。

どれくらいがいいかということは言えないんです。長生きする人はだいたい太ってる人の方がいいなんてこと最近言うてますね。僕のような痩せっぽちは長生きしないと。

(幸子先生)じゃあ、私はもう駄目やな。(一同笑)。
(琴美ちゃん)人間の話だから。(魔女は別)

急に現実の話になった。太ってる人はニコニコしたりして。まあしかし今日もここに皆さんがやってきて顔を見ると、やっぱり先月とは顔が違う。それで、ひと月たつごとにどっかがキュッと締まって来てますね。贅肉が取れてくると言うか何かちょっと表情が違うんです。ああ、やっぱり楽健法をやっているとこうなってくるんだなってことを感じます。それぞれなんとなくこわばりが取れてくる。まだこわばっている人もおるかもしれんけど。まあ、そんなようなことで。

楽健法経
 今日は楽健法経を読んでみましょうね。来月もこのプリントを持ってきてください。この楽健法経の本が出版社から出たときにこの上製の帙(ちつ)入りを作りました。これはまだタイトルを書いていませんが、手書きでタイトルを書くように作っています。本文は市販本と一緒なんです。

 この楽健法経の本がこの間アマゾンで見たら28,800円と値段がついていました。
 誰か三万円近い値で買ってくれる?これ。(一同笑)

(幸子先生)表紙、書くよ。(一同笑)。

 出版社で絶版になってしまったんで、コレクターの商品として高値をつけて、アマゾンにそうやって出すんですね。もう1冊の楽健法の本、ライトプレス版、こっちの本ですね。この本は定価1,300円なんですが3,350円でアマゾンで古本として売っられてるんですね。

 まだここにはたくさん在庫がありますから、アマゾンに私がこれを1,300円で売りに出したんですよ。そしたら慌てて1,300円に下げた店がありました。

 絶版になるとそうやってプレミアがつくんですね。これもまあもうあと残りわずかなので今欲しい人は今のうちに買っておいてください。本日ここですぐ買う人は1,000円!買った!とかならないかな(笑)。

楽健法経を2時ごろまで勉強しようと思います。それから楽健法をやりましょう。

 この楽健経法経について、何度も同じような話をあちらこちらでしていますので、またかと思う人もおるかもしれませんが、同じ話を何べん聞いても、また違ったことを発見するかもわかりませんので根気よく勉強してください。

 なぜ楽健法経を書いたか、これはボディーワークセラピーという宝島社から出た、36種類だったかな、いろんな健康法を集めて一冊の本にしたものがあるんです。それに楽健法を書いてくださいという原稿を頼まれたんです。1992年8月に発行されています。
 
 1991年に私がここへ引っ越してきて間もなくですね。原稿の締め切りの日が近づいてきて、楽健法の本は出しておったんですが、楽健法について数ページくらいかな、それにまとめて書いてくれと言われたときに、
どう書いたらいいか、悩んでいたんです。
ちょうど「うかたま」で楽健法を連載していますが、どういうスタイルで書くか、目に見えるように楽健法を説明するというのは難しいと思ったんですね。

まず、寝て、左足で足元に立って踏むなんてことを文章で書いても、全く面白いように思わない。だから意欲がわかないんです、いっこうに。それで、ある土曜日の晩にもういよいよ締め切りの時間が来たのでこれはお経にしてしまおうと思いついたんですね。それで、お経にするについては、短いお経でよく有名な素人の人が読むお経に父母恩重経というお経がある。このお経の話はこの教室でしたかな?父母の恩が重いというお経があって、そのお経のことを思い出したんですね。短いお経なんですけど。それで、ああ、あのお経のように僕もこの楽健法を書いてみたろうと思って、それで机に向って書き出したんですね。ま、書きだしたら早いんです。イメージが湧いてきますから。お釈迦さまが楽健法をしている。その風景を言葉にしていこうと思って書き出したんです。

 「かくのごとく我聞けり」というのがお経の書き出しに大体決まっていますので。これはひらがなをのけた漢字では如是我聞(じょーしーがーぶん)となるんですね。

二人ヨーガ楽健法経 大楽金剛不空真実佛足楽健法経
『是の如く我聞けり。或る時佛、喩師婆伽所にて、楽健法を説きたまえり。』
ユシバカショという場所でお釈迦さんが楽健法を話した、とまあその辺から始めたんです。この掲載したときはユシバカショでなくてインドの山の名前にしたんですけどこれを後にお経の本にするときにね、ユシバカショという密教独特の言い方ですね。ユシバカショというのはものを生み出す場所。もう一つ突っ込んだ言い方をすると母親の母体。胎内ですね。子宮の中、そういうようなものを生み出す場所をユシバカショと言うんですね。
 
『春うららなる季節、圍繞する諸菩薩の中央に、乾闥婆を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。まず佛、座より立ちて自らの御佛足を具示して曰く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足
裏、汝が足裏を如何んと考えるや。 足裏に触れるものは大地のみなるや否や。
 われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
 それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。
 道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健ならざれば遠く歩むこと難し。
 また足が如何ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度に赴くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度せんとする衆生からも、常に学ばんとする求道の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。』


このお経もね、時間にしたら書くのに3時間もかからなかったね。さーっと一気に書いちゃった。それで、文章は短いんですけど、私が物事をどういう風に考えているかというようなことが、読み取っていただけると思います。足の裏に触れるのは大地のみなりやいなや、とか、われら~道をたどりて道を知らない…なり。
というような言い方だとかに、私の人生観みたいなものがそれぞれ出てきていると思うんですね。 

 道と言うのは単に人が移動するためだけのものではなくてやはりそこを人が行って、またそこで意見の交換をしたり、心と心が通い合ったり、あるいは別離のために歩いて行くのも道かもしれないけれでど、そういう人の心と心を結んで、あらゆる生き物の法、法というのは真理ですね。法、ダルマ。仏教ではダルマと言います。そういうものを伝えていくのも道である。道を歩いて行くのが足の裏なんだ。しかし、足はただ道を歩くだけじゃないよ、と移動するだけじゃないよ、と。楽健法をするというこういうのも足の役割ですよということです。だけど、足で人を踏むためにはどういう心持がないとできないかというようなことがいつも楽健法という行為の後ろにあるんですね。

 

第8回 11月8日(1日目 その2)

2008-11-09 20:08:31 | 楽健法セラピスト養成講座第8期記録
慈愛の心、衆生済度という求道の心
 求道の心というのは、自分はこれで間違っていないだろうかという自問、衆生済度という言葉がここに出てきますが、仏教で一番大事な考え方は衆生済度。衆生と言うのは一緒に生きている人々のことですけど、衆生と言うのはだいたいあまり深くものを考えない無明の闇の中に生きている人達。あるいは本能のまま、欲望の赴くままに生きている人を指します。
 欲望の赴くままにあまり深くものを考えない人たち。それで大事なことを行うことを知らないから病気になってくるんですね。そういう意味では、今の日本人みんな衆生の資格は十分に持った人たちですね。大学を出たからと言って衆生済度の対象にならないというほど賢くはないわけです。ま、そういう人に正しいこころの持ち方、生き方を教えていくのが仏教の役割なんですね。そのためには衆生を憐れだなとか、物を知らずにお金を持っているし、権力も持っているけどなんか弱い憐れな人だなという、そういう憐みの心。あるいはそういう人が困った時に、まあこいつは憎ったらしいからもうほっとけ、と言うんじゃなくてやはり救うことによって何かが又変わってくるていうような慈悲の心で人を救っていくということですね。
 
『足に光あり。
 汝が足は汝の楽健法を学ばんとする求道心と、衆生済度の慈悲の心が一つとなるとき、光を放ちて、闇を光に変えるものとならん。
 楽健法を行ずる者は、光輝楽健菩薩と呼ばるるなり。』

 楽健法を実行しているみなさんは、すでに光輝楽健菩薩になっていると思いますね。
 
『東西南北、赴く地に至れば、汝が足の光を求めて蝟集する人々数多あるなり。』
蝟集(いしゅう)というのはたくさんイナゴのように集まってくること。蝟集の『蝟』っていうのはイナゴの『い』だね。これは、イナゴが大量に発生した時のすごさなんて僕らわかりませんけど、1時間ほどイナゴの大群が来て通り過ぎると、もう広大な畑の稲と言う稲が丸裸になってしまうんですね。イナゴの大群。ワァーッと人が集まってくるのを「蝟集する」というように言いますね。ごったがえすことね。人がいっぱいいて。

そういうのを日本人は「芋の子を洗うように」って言うじゃないですか。中国では何と言うか知っていますか?「餃子を煮るように」と言うんです。中国では水餃子がメインなんですね。沸騰する鍋の中に餃子をたっぷり入れてワァーッと沸騰させた中で踊りまくるでしょ?だから、殺到しているところを、「餃子を煮るように」と言うらしいですね。

(幸子先生)「雲霞(うんか)のごとく」とも。

うん、雲霞のごとくとも言いますね。「うんか」とは蚊のような虫のことですね。向こうが見えないくらい、ちいちゃな虫の群れが夏の夕方なんかね、4,5日前にもここでちょっとありましたけどね。

『富める者あり、数多の貧しき者あり。貧富を問わず強健なる者もあり病弱なる者もある。』
病気というのは貧富にかかわりなくやって来ますからね。ま、貧乏人ほど健康で、金持ちほど病人が多いというのが、私たちの子供の時は常識だったんですね。金持ちはものをよう食うから。昔は金持ちはご馳走を食べて糖尿病になって、というようなパターン。

それで、『重役タイプ』なんて言葉が。今、重役タイプなんて言葉は全く死語だね。知ってる?そんな言葉?恰幅のいい人ね。そうそうそう。貧乏人は痩せて細いんですね。針金のような体をしている。インド人はそういう人が多かったけどこの頃のインド人はみんな太って来てますね。

『正にいま、死に至らんとして、なお光輝楽健菩薩にすがりつく者もあらん。
 此れを見、彼を見るに至って、菩薩等如何にしてこれらの人々に光を与うるや。
あに路傍に座をしつらえて、法を説くのみにて、心の病める者、身体の病める者を救い得るや否や。』

道端で説法だけしとったら、人を救えるかどうかですね。

『言葉の伝える法のみにて、病める人を救うは、至難の技とやいわん。』
言葉だけで人が救えたら本当に楽でいいんですけどね。


『菩薩等よくわが教えるところを心眼をもって追体験し体解し、もって衆生を済度すべし。』

この「体解(たいげ)する」というという言葉を覚えておいてください。これは楽健法もみなさんは頭でわかるんじゃなくて、体解する。体解するというのは体が覚えることですけど。体解するのに何事も時間がかかるんですね。それで、真言密教の高野山で、百日間の激しい四度加行(しどけぎょう)という行をするときにも体解させるために同じことを繰り返し、繰り返しね。今は21日間。1つの行が21日間。21日の行が4つあるんですね。21日、1日に3回、同じことを繰り返す。厳密に言うともっと多いんですけど、例えば四度加行で、一番最初の十八道という行があるんですけど、これがいわゆるお坊さんとして、子丑寅卯…じゃなくて、印を結ぶ、護身法(ごしんぼう)を結んだりするのを最初に覚えこむための行なんですね。これを1日に3回、21日間繰り返すんです。

 その他に、朝に勤行、夕方に勤行があって、それでその行と勤行の間の時間は、作務の時間で、掃除の時間なんですね。拭き掃除、掃き掃除。ほとんどじっと座って休憩する時間なんて作ってくれない。行が終わって部屋に帰ったかと思ったらガンガンガーンと鐘が鳴ってまた作務衣に着替えて掃除する。で、またガーンと鳴ったらまた行に入るというようなことを繰り返して、同じことを繰り返し、繰り返しさせるんですね。そうするとだんだんやってることがスムーズになる、真言だって最初はこう、いわゆる本を見ながら真言を唱えたりしていたのが、すらすらっと言えるようになる。

 そういうことが要するに体解していくまで教えるんですね。それで、繰り返し繰り返しやっているうちに身についてしまう。これはもうパンの作り方も全部そうなんですけど、やっぱりパンも体解した人は苦もなくパンが焼けるようになる。で、頭でもの考えて。目方を計って、こうして2時間経ったから、こうやってというようなことだけやっている人は、いつまでたってもなかなか上達しない。

 パッと見たときに、「あ、もうちょっと置こうか」とか「まだ早いけどいける」とかいうことがわかればいいだけで。わかるようになってくるのは体解したということです。なんでもベテランになってくると体解して、何であんなに造作なくやれるんだろうと言う風にできるようになってくるんですね。
 それが要するにプロのすごさ、面白さです。

 だから、私たちは人間になるためにいろんなことを学ぶ。プロの人間になっているかどうか、ですね。特殊な職業とかじゃなくてですよ。人間として。道を歩くのだってやっぱりちゃんと体解してないと歩けない、みんな道を立って歩いとるとるから歩けてると思っても、楽健法をやらしてみたら全然この人は歩けてないなということがよくわかる。立ち方もわかるね。

だから、よく言うんです。肩のところ踏む時に、「足を横に向けて、そしてこう踏みなさい。」と僕言うでしょ。こうやって真横にして。それがたいてい踏んでごらんと言うと、縦に立ってこうやるんです。そしたら、横にふらふらする。こういうことはどこの場所を踏む時でもパッと安定のいい足の角度で立つという風になってくると、これが体解したということになってくるんですね。

この火曜日の晩に、知らない男の人から電話が夕方5時ごろかかってきて、ビデオのモデルになっている古田さんから紹介されたんだけれども腰痛がひどくて、それで「先生にやってもらったらすぐ治るだろうと言われたんで治療してほしい」と電話がかかってきたんですね。それで、場所がこの近所なんですけど、場所を聞いて、「来られないのか?」と聞いたら「座ったままで立てない」っていうものだから、場所を聞いて行って、それで、楽健法をしてあげたんです。まずは僕は何も言わずに大腿部の後ろをポンっと触ったんです。そしたら、「痛い痛い痛い」と言うんですよ。また、ちょっと下を触って、ギュッと、要するに腰痛のつぼって僕がいつも言ってるでしょう?ここを順番にこうずーっと指圧していったんですけど、どこを触っても飛び上がるほど痛がるんですよ。そういうことには遠慮しないでどんどんどんどん10分位、何十回か上へ上がったり下がったりして揉んであげて、それからこうやって足でローリング始めたんですね。うつ伏せにしたんです。

それを見ながらそこの奥さんが僕に何と言ったかと言うと、「何か実に軽々と踏まれるんですね」と言うんです。これが一種の体解した踏み方がわかる人なんですね。軽々と踏まれるってね。だから、何か非常にリラクゼーションであって、なんか緊張していて、やるぞー!!!という構えはないわけですよ。何か遊び気分でふわんふわんやってる感じで軽々と踏むということだと思うんですね。

 まあそういうようなことから、その人はどうなったかと言うとまず1時間ほど踏んであげたら、「あれ?治った!」ってごく普通にその場で歩いて、それで帰りがけに一万円頂きますって1万円頂いて、そしたらお菓子屋さんなので、どんなお菓子を作っているんだと言ったら、ちょっと持って帰ってくださいってクッキーみたいな四角い、クッキーというより何かレンガを切ったような感じのお菓子だった。帰って来て食べたんだけどあまり美味しくなくて、やっぱりしかし食べないと作ったひとに悪いし、いかんだろうと思って、その翌日の晩かな、まだ総会の疲れが取れていないんだけどまあ1袋位小さいから食べてみようと、テレビ見ながらポリポリ食べたら、喘息気味になって、呼吸が苦しくなって。いまだにちょっと尾を引いている。
 お菓子の食べ方を体解していないですね、これでは。

 要するにその人は治ったらそれでいいわけですからね。まず、ちゃんと治るということが大事なんですけど、そのためにはこっちがリラックスしているということが、とても大事だということですね。そういうときに私の足の位置とか、立ち方とか姿勢見たら、ああ何か楽々としたゆとりを感じる先生なんだろうと言うように奥さんがきっと思ったに違いないですね。

『かく語りて佛、乾闥婆を呼び寄せ、敷楽健曼荼羅に寝かせたまえり。
 乾闥婆、佛の意に従いて北枕にして、身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて横たわり佛に合掌せり。』


 楽健法をやってるひとにはここに書いてるのがそのまま目に見えてくるんでしょう。
 『佛の意に従いて北枕にして』って、仏様が北枕にしろって言ったとかね。北枕にして、『身体の左側を下にして左足を伸べ、右足を曲げて横たわり佛に合掌せり。』
 
『この時、天香芳しく妙音とともにたなびけり。
 佛、微笑みてうなずき乾闥婆の足許に立ちたまいて曰く、いまから楽健法を伝授するなり。』

という風にして楽健法が始まっていくんですね。説法しながらです。

『古来よりわが国にヨーガあり。ヨーガは自力自助の手段にして、いまだ発心せざる衆生
には病患を癒すには、はなはだ遠き手段なり。』


ま、これは何でもそうなんですけど、「自力自助」ということですね、ヨーガの場合は。自分で体を動かして自分でほぐす。これは他の健康法であっても自分でやらなくてはいけないことはやはり、なかなか自分で努力しようと言うと、やろうとしないのがほとんどの人の、特に病気になるような人は、頭も固くて体も動かしたくないと思うような人が病気になりがちなんですね、どっちかというと。努力したがらない。

だから、普段から割と努力家な人は、まあ、それは努力家だって間違って変なところで努力ばっかりしてたら病気になるかもしれないけどだいたい、頭も固いし、体も固いしと言う人が病気になりやすいんですね。だから、なかなか病気になったからと言って、たちまち何かに気がつくほど人間は柔軟な頭を持っていないんですね。

それで、病気を、ヨーガにしてもそうですけど。ヨーガを習いに行く女の人と言うのはやっぱり西洋医学でもやった、あれもやった、何やっても治らないというので、ヨーガでもやった治るのかなと思ってやってきたりして、治るようになる人が多いんです。ヨーガをやってもなかなかうまいこといかないのが、楽健法をやったらもっと早く良くなったと思って楽健法に来る人もいっぱいおるんです。

そういうような意味でヨーガは、『自力自助』、自分でやるということですからね。『発心する』っていうのはその気になるっていうこと。『発心せざる(その気にならない)』人にはなかなか遠い手段ですね。

『また、手当療法あり、食養、断食あり、アーユルヴェーダあり。
 いずれも効多しといえども労も多くして、病の根源の因を断つには容易に至らざるなり。』

なかなか色々とやっても、根源をバンっと断つことができない。

『宿痾を抱えて、如何なる前生の因縁によりてかくは苦しまん、と嘆くもの多し』

宿痾(しゅくあ)というのは持病、体に巣食った病ですね。ぜん息とかリューマチも宿痾ですね。ガン見つかってからは割と短期決戦ですね。治すか死ぬかです。慢性病ではないですね。しかし発症してすぐいけなくなるわけではない。ゆっくり進んでいくので、死ぬまで時間があるからね。悪くなって死ぬとしてもですよ。だから、時間があるからまだ治す余地も十分あるのです。ガンになっても慌てないで、、医者任せにして、医者の言うとおりにやっておったら必ず、医者が三カ月ですって言ったら必ず三カ月です。それは、三カ月の間、じゃあ何もしないでいたら三カ月で死ぬんじゃなくて医者が治療して3カ月で死ぬんです。医者が治療しなければ3年もつかもしれない。その辺のことが非常にいい加減なんですね。

だから、みなさんは、もしガンだと言われたら、楽健法やって飯の量を半分に減らして良く噛んでそれで体に、「私が病気なんて作っちゃってごめんなさい」と謝りながら生きとったらじきに治ります。だから、医者に慌てて行って言いなりにならないことですよ。

『されど病気の由縁は、精神生活の理法わきまえず、自我に気付かず、自省せず、食生活の無知なるに由ることほとんどなり。』
病気の由縁ですね。なぜ病気になるかと言ったら、精神生活の理法。どういう風にものを考えて生きるか、生きて行ったらいいか、ちゃんと理屈に合った正しい方法をわきまえていない。自我に気づかない。自分の我が強いことに気づかない。それで、反省もしない。だいたいま食生活に対する我執ていうのは非常に強いものです。本当にこれは食べたらダメって言っても、食べなさいっていっても、イヤって言って絶対に食べないでしょ?なかなか人間の頑固さってのは大変なもんですよ。馬に水を飲ませるようなもんですね。 

『人間の存在の法を知り、生理の根源にさかのぼりて、身体の浄化をなし、流れを整え,三毒によってもたらされたる諸病を癒し、積年の疲労をとるに、楽健法こそは最良の、楽々健々の法なるべしと。 
 また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。
 左より右に転ずべしと。』

今日は時間が来たのでこの辺まで。また、来月、このテキスト持って来てくださいね。ここで、身体の浄化をなしっていうのが、アーユルヴェーダもそうですけど、西洋医学でも全部そうですね。体の浄化をすることが大事ですね。私たちは浄化の器であるのに、それを自分の食生活やら、いつも腹立ててばかりおったりして不浄の器にしてしまう、それで体の中に毒をためて、それで病気を作るんですね。まあ、そういうのを、積年の疲労を取っていくのは楽健法こそは最良の、楽々健々の法なるべしと、ということをわきまえながら今から楽健法をやって行きましょう。


エアコンのお掃除しましょう。クリーンな空気の中で!

楽健法25(8)

いつものペアだ!ガシガシやって


唐辛子の袋をぶら下げて!


ホッとティータイム

夕食作り


忙し、忙し


今日もおいちい~


第8回 11月8日(1日目 その3)

2008-11-09 20:08:14 | 楽健法セラピスト養成講座第8期記録
講義『ファミリー』

 毎月出版ニュースが送られてきますが、楽健法の本が出た直後なんでひょっとしたら載ってるかなと開いてみたら、載っていたんです。それでコピーしました。このタブロイドには農文協の出版物がたくさん掲載されてるんですけど、「新自給生活のすすめ」っていう中に楽健法が紹介されています。

 自給自足という言葉がありますけど、その自給生活のすすめということですね。自給と言うのは人に頼らないということだよね。だけど、本当は人に頼らないで生きられる人なんかいないのね。昔から「人に迷惑をかけるな」ということをよく言うんだけど、本当に人に迷惑をかけずに生きられる人間なんんて一人もいないんです。

 だから子供に「人に迷惑をかけるな」と言うんじゃなくて、「お前は人に迷惑をかけずに生きられないんだから、そのことを肝に銘ぜよ」ということを親は教えないといかんね。何か「迷惑をかけない」といったら犯罪者にならないことぐらいで親は認識してものを言っているところがあるんですね。私も「人に迷惑をかけるな」というようなことを親に言われた覚えは何度かありますけどね、もっと深い意味で考えていくと、やっぱり人に迷惑をかけずに生きられるなんてことはありえないんです。

 ところが現在の日本人は迷惑をかけたいわけだけれど、迷惑をかけられる家族がまずいないという状況ができてるよね。つまり、ファミリーが崩壊しているということが、大変大きな問題なんですね。なぜファミリーが崩壊して行ったかということも考えないといけない。日本の社会が昔ながらの暮らしを、昭和の時代の中ごろまで保たれてきたのはファミリーというものがあったからなんでしょうね。みんな大きな家の中に三世代が同居しておばあちゃんからひ孫まで一緒に暮らすというような、そういう中で生きてきた民族なんですね、我々は。

 そういうファミリーが集まって村とか町をつくって、その村とか町とかの中でそれぞれがやっぱりお互いに助け合って生きていくというようなそういう社会だったんですね。そういうのがもう完全に今はない。いわゆる核家族とか団地がどんどんできて、それで結婚すると親と一緒に暮らさないというようなことが、当然の素晴らしいことであるかのように考えられる時代になってきて、親と子は別々に暮らす。

ところが親子別々に暮らすようになって所帯を持った息子や娘夫婦たちは、自分たちが子供をつくったときに、満足に子供を育てる術も知らないんですね。ずっとおばあちゃんたちと一緒に暮らしとったらおのずといろんなところで教えられて身についていくものが、のっけからないわけです。

 生まれた子どもは保育園にポンと連れて行かれて、先生任せで、連れて帰ってそれで冷めた飯を食うというような、いわゆる家庭のぬくもり、おふくろの味なんてものは今の子供たちは体験のしようがないんですよね。おふくろの味って言ったら、解凍された冷凍食品をそのまま詰め込まれてお昼頃になったら溶けてちょうど食べごろになるであろうというようなものを詰め合わせたものを、弁当として持たされる。そんな暮らしが人間にとって幸せであるわけがない。

 そういう現代の人間が果たして自給なんていうことができるのかどうか。自給するということは、50万円の給料をもらってきて30万円で生活できたら健全な生活をしているといえるのかもしれないけど、本当の意味で自給なんてことはできないと思うんですね。自給とはどういうことなのか?

若かりしの思想散歩
 私が以前から気になっていたことですが、唯物論者の人が若くして死んでいる人が多いように思うんですね。共産党員でちょっと有名な人とかね。長生きしている宮本顕治(ミヤケン)さんなんかもいますが。長生きしている人もおるかもしれませんが、たしか明治時代に生まれた人よ。宮本顕治は。100歳くらいになってるんじゃない?もし、生きてるとしたら。ミヤケンって知っていますか?

 参考・ウィキペディア・宮本顕治から引用 (晩年は東京都多摩市の自宅で隠遁生活を送り、日本共産党職員や家政婦が世話をしていた。最晩年は体調不良により入退院を繰り返す日々であったが、2007年7月18日午後2時33分、老衰のため東京都渋谷区千駄ヶ谷の代々木病院で死亡した。享年100。)

(受講生)知りません。

あ、ミヤケンも知らんのか。う~ん、そうか。

(受講生)死んだって話は聞かないから生きてるんじゃない?

 宮本顕治っていったら共産党員にとってはで日本の毛沢東みたいな存在だと思って見ていましたね。天皇よりえらいような扱いだったから。

(受講生)頭いい人がおおいですよね、共産党員には。

 そう、頭がいい人多い。頭のいい人は多いけれども、それは学校とか勉強ができるという意味で頭がいいかもしれないけれど、僕なんかから見ていると均衡のとれていない人が多いね。教条主義って言うんだけど、教えられたことを鵜呑みにする人が多い。

 自分で考える力を失うのです。いわゆる洗脳されるということですね。宗教でも洗脳すると言うのがいちばん問題でしょ。共産党の人たちもやっぱり洗脳されていると思いましたね。

 それで、そういう意味では私には共産党員の友達がたくさんいたんだけれども、他の話をするときは自分の頭で考えて、いろいろ言うのに、政治的な話になったりすると途端に上が下ろしてきたことを言うようなそういう人が多かったですね。だから、自分の頭でものを考えないと。

1980年代の初めに、私ちょっと誘われて共産党に入ったことがあるんです。ちょっと誘われたというのは、その誘った人が私がずっと親友だと思って付き合ってきた人でしてね。その親友が誘うもんだから断るのも、悪かろうと思って、じゃあまあ付き合ってみるか、ということで入ったんです。で、入ってそこに行ったんだけれども、その何と言うのか、私のように自分の生活をインデックスにしてものを見てきた人間には、完全にはじめから嘘が丸見えなんです。浮いてるわけ。足が地についてないのね。それで、私が入ったのは文化人としての扱いで、日本共産党の大阪の党本部の直属と言うような形でしたね。だから、地方の支部の共産党員じゃないわけです。文化部なんて言うところに属してね。そこへ出ていくんですよ。

 出ていくと初めにどんなことを教えてくれたかと言うと、「共産党員になったらまずが自分が共産党員になったということを隠さないといけない。これは大事なことです。」とこういうことを教えられたんです。とても大事なことですね。人に身分を知られないことです。「自分が党員であると言うことがばれたら偏見の目で見られたりもするでしょう?だから、宥厳さんは素晴らしい詩を書く、素晴らしい芝居をする、そういう男であるということをみんなに知ってもらっておいたほうがいいわけです。だから、入党したことは秘密にしてくださいよ。」と言うわけです。わかりました、じゃ、私は秘密は守りますって誓ったわけです。

 その次に何を言われたかと言うと、「赤旗を広めるために赤旗の宣伝をしてください。」って言うんですよ。それで、私がその上の人に答えたのは、それはせっかくですがお断りします、と。私が赤旗を宣伝すると、「あの人は共産党員ではないかと、疑われるではないですか。それでは秘密が保てないから私は赤旗の宣伝はやめます。絶対にやらない。」と断ったんです。そしたら、むこうは黙っちゃったんですね。

しばらく行ってたら、その次に言ってきたことは、「あなたの友達でこれはと思う人を共産党員になるように勧めてください。」そういうことを言われたんです。わかりました、と。じゃあ、勧めてもいいんだけれど、私が例えば辻田さんに、「あなた共産党員になってください。実はぼくは共産党員なんだ。」と言ったとします。そして、辻田さんが「ああ、なります。」って言ってくれたら、それは筋が通るんだけど、「いや、私はあんなもの大嫌いです。私は右翼なんです。」と言われたら私はどうしたらいいですか?

つまり、辻田さんに秘密を漏らしたわけだから、私がやることはただ一つ。殺すことです。秘密を知った人を。だから、「私は秘密を知った人を殺しますよ、入ってくれなかったら。あなた責任持っていただけますか。」と言ったんです。(一同笑)。そしたら、「しなくてもいいです。」

 そういう風にして僕がいちいちかきまぜるもんだから、横でそれを聞いていた一緒に来ている人達がだんだん来なくなるのよ。わしもアホらしなってきたと思ったんでしょうね。それで、まあそういうことがあって私は間もなくやめたんですけど。やめるときにもうるさいこと言わなかったね。早ようやめてくれんかと思うようになったかもしれませんね。あいつ来るたびかき回して行く。支部がガタガタになっていくとか思ったに違いないです。

まあ、そうやって人をからかうということが、できないと人間は本当は豊かな人生を送れないね。そういう馬鹿みたいな論法のひとにはからかってかき混ぜてやる。それで、衝撃を与えてやるんですね。

 それで、そういう話のなかで何を言いたかったかというと、ご飯を食べるときに手を合わせて「ありがとうございます」とか「いただきます」とか合掌していいますね。学校や保育所の給食で、子供に「いただきます」を言わせると、バカな親がうちの子供にそんなの教えないでくださいって言うらしいですね。

 自分が食べるご飯は自分が働いてもらってきた給料でそれを買ってきて食べるんだから当然の権利なんです。もちろん。当然の権利ですからね、誰にお礼を言うことがあるもんですか。まして、目に見えない神様になんてね。

しかも、神様なんていうのは要するにこの世にないものを、神様だなんて思って、つまり頭の悪い愚かな者どもが、宗教はアヘンである。アヘンに誤魔化されて、「ありがとうございます」なんて自分が買ってきたご飯に手を合わせてなんて言う風に思うのが共産党員だとします。

そうすると、ご飯を食べることに「ああ、ありがたい。このごはん、お米を作るのに農家の人は八十八回手をかけて作ったから米という文字が生まれたんだ。とかそんなことを言ったって共産主義者はそんなことアホか!という風になっちゃうわけですよ。

 そうすると、感謝するということがないんです。どっちかと言うと。崇拝はするかもしれないよ。ミヤモトケンジを。あるいは毛沢東を。それで、自分が今日こうやって生かされていて今日もご飯が食べられる、こんな有難いことはない、って気持ちはないんです。そういう人がガンになったりするんですね。そうすると西洋医学一辺倒の人が多いですから、それで医者の言うとおり治療をしてうまくいけばそれは勿論助かるんですけど半数は死んでしまう。

宿題
 病人になると確率はいつも50%。生きるか死ぬか、つまり治るか治らないか。我々はだからいつも50%なんですよ。だけど、最終的には100%ね。どこかにはまっちゃう。最終的には100%なんだけど、そこに行くまでは絶えず50%です。治るか治らないかです。生か死か、というようなことで、その生か死か選ぶ方法がこの「自給生活のすすめ」の中に載ってるということだね。

だから、最近、この中で読んだ本は1冊だけですけど、この「二人ヨーガ楽健法」という。(一同爆笑)。他の本は読んだことないですけどね。だけど、この中で「油の正しい選び方。採り方」とかねこういうのはちょっと調べて読んでみる必要があるかもしれない。

 いま、私のところのパンも健康食品のお店、キャロットという有名なお店からパンに入れる油を購入しています。それと、プラスマーガリンっていうマーガリンを使ってるんですが、最近はマーガリンが駄目だからバターを使ってくれないかというようなことに変わってきました。リノール酸がどうだとかなんとか言って、今はマーガリンに批判が強いので、バターを使ってくれませんかとなりました。
 
 じゃあ、四つ葉バターに切り替えますよと言った途端にバターがなくなったの。2,3回は買ったんだけど。ま、今もまた入るようになりましたが…。

寒天とところてん
この間からよく喉に詰めて死んでいるのは寒天やった?あ、こんにゃくか。寒天は死なない?

(受講生)はい、死なない。ボコボコしてね。喉にくっついたりしないから。

僕、あれ食べたことないんだけど、そんな危ないものなの?

(受講生)弾力性があるから、喉にふさがっちゃうんじゃないですか。
(受講生)でも、パンの早食い競争してパンを喉に詰まらせちゃう小学生もいるんだもんね。

この「油の正しい選び方 採り方」というのは辻田さんが本を買って調べて報告する。いいですね。これは課題。「寒天心太読本 本物を作る食べる、生かす」ダイエット効果などで注目の寒天トコロテンでも、どういう食品と聞かれてきちんと答えられる人は少ない。この寒天を一度固めて固まった寒天にあなたが作っている酵素をかけてしばらくしたら水に戻る。寒天はね。

 みなさんが作っている酵素にはたんぱくを分解する酵素が含まれていますから、あの酵素をお餅をつくときに、来月お餅つきますけどね。あの酵素を持って来てちょっと入れてごらん。そしたら2日たっても3日たっても柔らかいまま。固まらない。そういう働きがあるんです。それで、カビが生えにくい。
 だけどね、鏡餅を作るのには適さない。(一同笑)

 酵素もいろいろ面白い使用法があるんですね。だから、あのあなたが作って発酵しているものをパン種の中に入れるのも非常に有効です。パンの勢いが強くなる。だから、本当は楽健寺で3,800円のお金を送ってパン種を買わなくてもあなたが作っている酵素をああやって作ったパン種のスターターの中にあの酵素を入れて発酵させると、バーっと膨れてきて、楽健寺とそっくりなパンができるんです。こんなこと教えたらいかんのよ(笑)。これは嫁はんには内緒。

(幸子先生)うまくできはったら持ってきてくれたらいいですよ。けど、難しいよ。

 楽健寺天然酵母パン種の培養基を作って酵素を入れて置いといたら膨らんできます。膨らんだものをスターターにしてまた新しいのを作って入れていくというのを7回くらい繰り返していくと醗酵力が強い楽健寺の天然酵母パン種ができます。そういうことは知っとったほうがいいですよ。

 で、トコロテンとか寒天にあれを入れるとやっぱり水に戻る。いっぺん試してみて。酵素液を入れたら固まりませんからね、絶対。ま、そういうようなこと。これは実験しなくてもいいですけど、興味があったらやってみてください。

「家庭で出来る漢方 不眠症」とかまあ、いろんなのが出てますね。「かみ合わせ不良の予防と治療」その次に「二人ヨーガ楽健法」が出て、「バラ作り」これは…これもまあ自給生活かもしれないけど…まあ、こういう編集の方で。「緑茶のマーケティング」これはなんだ。ま、この中で油のことはちょっと勉強してみたらいいかと思うので、油のことだけ辻田さんに調べてもらって報告してもらいましょう。

 食の問題、健康の問題って言ったら無数の方法もあり、いろんなやり方もあるんですけど。そういう中で楽健法が、こういう新聞にも紹介されたりして、楽健法が少しずつ動きが出てきたような気が若干してますね。

 この間丸山博先生の13回忌の会議の時に坂本玄子(みちこ)さん、病家須知の編集をやったひとですね。その人が隣に座っていていろいろ話をして、私は病家須知を20冊以上売りましたよ、というとえらい感激してました。この間総会に行かれたとき、病家須知を農文協のブースに置いてあったでしょう?一読に値する素晴らしい仕事ですね。

 病家須知は平野重誠って言う人が書いた本ですけど。江戸時代ですね。江戸時代にああいう素晴らしい衛生学の本、家庭医学法典のようなものですね。今の私たちにとっても大変有益な自給生活のすすめみたいなことが書かれた本ですね。買われた人は時々引っ張り出して見てくださいね。役に立つ本です。

今あれをこの間の総会で、丸山博の娘の山崎万里さんって人がちょっと講演をしましたけれど、あの山崎万里さんが病家須知の読書会を大阪で開こうとしているようです。

じゃあ、今から護身法やって楽健法しましょう。どうもありがとう。

(辻田さん)ちょっといいですか。病家須知のことなんですけどここの同じ出版社の現代農業ってありますね。それに病家須知が漫画版で出ています。連載中です。漫画だとわかりやすいです。

あの現代農業もなかなか特集が面白いですね。いろんな醗酵のこととかいろんなことが書かれていて。

(辻田さん)一昨日、記者が来ていました。私の知っている人が載ったんですよ。5月号に。スギナとヨモギで。次はまた別の人の取材で来年の秋ごろ出るらしいです

そのうちあなたも取材されるんじゃないの?

(辻田さん)私はもう取材拒否です。駄目です。でも、合わないと思うんですよ。向こうは商売、農業が慣れているような方の取材が多いんで。ちょっと民間農家では無理だと思うので。

あなたのスタンスだからそれはそれでいいことだ。この人は立って歩いて楽健法をするような女よりもじっと立っているミカンの木がいいというような男ですから。(一同笑)。そんなことない?

(辻田さん)これでも遊びに来る人がいるんですよ。

ああ、そうですか。おみそれしました。じゃあ、やりましょう。



楽健法26(9)


お夜食ぅ~

このひと時が幸せ~ 
おやすみなさ~い

第8回 11月9日(2日目 その4)

2008-11-09 20:07:59 | 楽健法セラピスト養成講座第8期記録
冬はつとめて

まだ朝は暗い!


幸子先生、書いてくださ~い!


色とりどりのお供え物。


佛手柑(ぶっしゅかん)辻田農園より。

朝のお勤め

ろうそくの明かりが幻想的。


なむなむ~


ご利益ありますよぉ~に!

朝食

バタバタっ


いただきまぁ~す★

講義「ピンピンコロリ術」

総会の予稿集

楽健法の広告の絵、これはちあきちゃんの描いた絵です。タッチトリートメントですね。指が中指と人差し指になってるでしょう。

 アーユルヴェーダ研究総会で安保徹先生が講演されたのですが、安保先生は今年17冊本を書いて出版されていられるそうです。
 その中で今まで書いていなかったもう一歩進んだ内容がこの「ぴんぴんころり術」に入っているらしいですね。

 いままでの安保先生の本は、交感神経と副交感神経の働きのレベルで今までずっと進めていたわけですね。   
 今度はそこにミトコンドリアというのが入ってきたんですね。これがこの本で初めて書いたことらしいですけど。ミトコンドリアというのを百科事典で調べてみるとちゃんと出てきますね。

やさしくやりたい楽健法
 肉眼では見えない世界のことで肉眼で見えないことは非常に科学的だと我々は考えがちだけど、精神的なことなんかは目で見えないわけでね。なんでも目に見えたもので判断しようとするわけですけど、精神的なことっていうか思想的な問題とかは勿論目で見えないわけだけど、しかし、心の動きとか気持ちとか言うのは目でかなり見えますよ。顔を見ていたらわかるし、目の色を見ていてもわかるし、嘘ついたら、パッと目が違うことを言うてるし、というのがわかるわけ。

 私たちは常に全身でもって物事を表現している。ボディーランゲージなんてことを言うんだけど。ちょっとしたジェスチャーでも本当にいろんなものが見えてくるわけですね、人間ていうのは。だから、楽健法なんかをやるときにも、かなりデリケートなものをいつも読み取りながらやっていくということが大事でしょうね。そういう観察がなくて、力でやると言うのも間違っているだろうし、僕なんかもついこう力を入れてしまいたくなって、何か、「ここが悪いから、こうなんですよ。」とわからせてあげるためにちょっとこう強くやるんですけど」なんて適当なこと言ってますけどね。本当は気持ちがいいなという範囲でやめとくようなその辺で働いて行くような楽健法ができないと本当はいけないと思うんですね。

だから、あまりきつくしない。昨日、中島さんにも踏まれたときにちょっと言ったんだけど、彼は熱心さの余り力が入っている。だから、もっと楽にやらないといけない。力を抜いてリラックスしてふわーっとした感じでいって、それでちゃんと効いてるって風になってくると思うんです。今のやり方だと強さの方が先にきて、やられる方はつらいと思います。

(幸子先生)まあ、相手みてせんとね。

 最初に左の足を踏まれたときにぼくはちょっと苦痛だった。それは何か後遺症が残りそうな強さだった。ということを感じたんです。だから、もっとふわーっとやっていいですね。今の3分の1の強さでいいと思います。それくらいでやらないと危ないです。

 はじめちょろちょろ中ぱっぱというご飯の炊き方と同じで楽健法も初めはやっぱりソフトに触れていくところから是非やっていってほしいですね。それを、強ければよく効くとつい思いたくなるんだけど、たとえば薬を倍飲んだら倍効くだろうという考え方と一緒ですね。

 薬によったらね、倍飲ませたらパッと効くことがよくあるんです。だから、私はここへ来られる生徒さんでも、風邪のひきかけとか、言うようなとき、さっきからちょっと鼻水が出てちょっと風邪ひきそうで少し調子が悪いような人には、いつも葛根湯を買ってあるので最初に2服飲みなさいってあげますね。たいてい。
それで、夜寝る前くらいに2服飲んだら翌日にはカラッとしてる。で、1服だとそうはいかない。というところもあるんです。経験的にそうです。

 だけど、増やしたら必ずいいということはないので、薬には必ず極量というものがあります。西洋医学の薬ほどそうなんですよ。だから、薬の分量をやかましく言うのは、量を増やすと危ないんですね。薬と言うのは基本的には毒ですから。だから、急激に作用するものはだいたい毒性も強いということですね。
 毒を持って毒を制するわけですよね。

まあ、そういうことで僕は薬のことを考えていると、不思議だな~っと思うんですね。どうして、あの薬がその悪いところだけに歩いて行って悪いところを食ってくれるのか、ということを不思議に思います。だけど、そううまくは行ってないんだろうと思うんですよ。やっぱり全体を動かすことでそこが治っていくのがすべての薬の働きだろうと。だから、副作用のあるものは非常に毒性が強いわけですね。

 例えば抗がん剤なんて言うものは、ベトナムでまいた枯葉剤と同じものがつまり体の中に入れられるわけで、そういうのは本当に全体に働くわけだから、まず頭が禿げてくるとか、という風なことで影響が出てくるんです。だから、それで健康な細胞は殺さないでがん細胞だけ殺すというような器用なことができないわけですね。だから、今、放射線とかいろいろ非常にこう微弱な放射線を間違いなくそこに当てるというような技術だとかそういうことで病気治そうとしてるけれどもやはりどこか本末転倒で、やはり自然治癒力が完全に働くような方向に持っていくことで病気を治して行かないと危ないでしょうね。だから、抗がん剤なんかは自然治癒力はどんどん失っていくし、点滴なんかも自然治癒力を一瞬にして奪ってしまうような恐ろしい副作用があるんですね。

 そういう意味で私たちは体というのは本当はあまり外から薬とか何とか入れないで自分で治す力を本来は持っているということを信じて生きていかないといけない。病院で処方する薬でうまく成功するという確率は本当に低いと思うんですね。だから、昨日も言いましたけど、治るか治らないかという意味から言うといつも50%です。だから、治る人は半数しかいないということです。半分は死んで当たり前なんですね。そんな風に思います。そういう極端な言い方をすると医者なんかは「何を言うか」と反発するかもしれないけど。

 いつだったか、出雲から大阪空港へ戻ってくる飛行機の中で、横に座った男の人がどうも内科の医者らしくて、ぜん息に関するレポート、詳細なデータを持って見てるのを横からちらっと見たことがあります。
 グラフのいっぱいついた、英語もいっぱい入ったデータを見てましたが、専門家というのはデータを相手にしていて、データがかわれば病気が治ると思ってるのか、楽健法を実践している人間からみると、的はずれな研究みたいに思えます。

 人間ていうのは割と簡単な方法で治ることがあるんですね。だから、ぜん息なんかでも例えば晩飯食わないでおったらその夜はもう発作は起きないなんてことがあるわけです。だから、大きな、簡単な原理をパッと見つけてそのことに従ってやってみるというやり方が僕は楽健法だと思うんですね。私はなんでも物事を複雑に複雑にしないで簡単にする。だから、いろんな事象が見えてもその中から一つの本質をパッとつかむ。そうすると、ああ、こうやったらいけるんだと言うことがわかるので、だいたいそういうやり方でやっていって成功する例が多いですね。だから、あんまり微に入り細に入り、細かいところに拘泥して、ちいちゃなことに入っていけば入っていくほど物事と言うのは難しくなってくる。

 パンの作り方でもそうですけれども、分量をやかましく計量して作ってるうちはなかなかパンなんか上手にできない。

 だから、あまりデータにこだわらないで、自分の直観力を高めていくような方向で勉強していかないいけない。経験を積んでいくとそういうことがパッと見えてくるようになるんじゃないかなと思うんですね。

 年をとるにつれて病人が増えていくんだと言う風に考えるのが、今の社会ですよね。年をとると医者、病院にかかるようになる。

 これは、年の取り方を代々ちゃんと教えて伝えていないからです。

 年をとるということは、年をとるに従って生活の知恵も増えてきて自分の健康法というものを確立する、どういうことをすれば自分は病気しないでいられるかということについても、自分で知っていて、それが生活習慣になっている。だからこういう風にしたら病気にならないんだよと言うことを、人に伝えられるような年寄りが増えてきて、それで、年寄が増えるほど病人が減っていくという風にならなければ、本当はおかしんですね。

 病気になるような人は年の取り方を間違った人だと僕はいつも思ってます。だから、60過ぎたらもう医者から解放される。そういう年の取り方をしないといかんですね。本当は。

 だから、介護が必要なのは若い人じゃない?むしろ。障害を持っている若い人とかね。そういう人が介護がいるかもしれない。それを年寄りが介護してあげると言う風な社会にならないとね。逆ですね、今、全く。年取るほどボロボロになっていくという風に考えるのは大間違いだと思います。

 この世の終わりのその日の夜明けの直前まで、やっぱり元気でいられるはずなんですね。年寄りでもね。まあ、長いこと寝込んで若い人に苦労をかけるお年寄りも結構多いけれども、まあ、そういう人は業が深いと昔の人は言ったんですね。

 同じ病気の人は同じような顔になってきますね。よく似た顔になってくる。それで、たとえば、クル病の人とか、ダウン症みたいな子供、ああいう子供でもどこの世界のダウン症の子供でもみな似た顔になってるよね。面白いもんですね。

だから、それが腎臓が悪い人はやっぱり腎臓が悪い共通の顔になってくるの。だから、顔見てたら大体この人はどこが悪いのかなということがだんだんわかるようになってくるんですよ。

 マクロビオティクする人はマクロビオティック風の顔をしている。

(受講生)楽健顔!(一同笑)

 今から30年くらい前までは、私は国会議員の顔を見ても、顔を見ただけで自民党か共産党かわかったもんですよ。共産党は共産党の顔をしてましたね。それで、公明党は公明党の顔してました。ところが、今は公明党も自民党も共産党も同じ顔をしているんです。何が違うかと言うと、独自の思想がなくなって、食ってるものが一緒になってきた。みんなテレビのコマーシャルを見て同じものを食って生きている顔です。

 私が20代の時はたとえば飲み屋に入るでしょ、そしたら飲み屋のカウンターの向こうでお酌してくれたり、料理を作っているような女性と出会っても、「あんた九州だね」とか「四国だね」とパッとわかったんです。ものを言わなくてもよ。顔に描いてありました。今、わからないです。

(幸子先生)あんた和歌山やね!(一同笑)。

 そういう地方独特の、その土地の顔っていうのがあったのに、今はもうそれがなくなってきた。これもやっぱり食が日本中に均一化してきたということですよ。だから、田舎も都会も同じものを食うようになってきたのよ。だから、田舎に行ったら田舎の食い物だしてくれるかなあなんて思ってた時代は、昭和30年代くらいまではそうなんです。淡路島に行くと淡路島でしか作らないようなものを食わせてくれたけど、今はどこへ行っても全国、同じものが並んでいるというような状況になってきた。

 だから、みんな面(つら)付きが似てくるんですよ。一緒になっちゃう。だから、それでみんな痴呆症にもなっていくのね。みんなだから介護が必要になってくる。みんな同じような健康状態。意識もほぼ一緒。だから、やはり人間は自分独自のものの考え方ができるような人間を育てていかないと、ほんとは世の中なんか良くならないね。みんな、コマーシャル見てはカーッと走っていくようではねぇ。バナナばっかり食うてるとか。

(受講生)あれ、日本人特有じゃないですか。

 日本人はもともとしっかりした自己確立というものがないんですよ。で、生活習慣というものを全く大事にしてないのね。だから、私が少し仕事を教えた木工の弟子でね、星野君っていって結構有名になった子がいるんだけどその子はいろんな木をミシンで切り抜いて、それで絵を描く。木の色でいろんな模様を作ってやるということでスペインでそういう象嵌みたいな仕事ですね。それを勉強して来て、それで家具を勉強したいとか言うもんだから、うちの仕事場で2年くらい来て毎日仕事教えたりしとったんですけど、彼はその糸鋸ミシンばかりやってて、家具をやりたいとか言うから僕は家具を一からきちっと教えてやりたいと思ったんだけど、そこまで勉強しないで、絵だけ描いてるうちに、そっちの方で有名になっちゃって、彼の出した本なんかには師匠として僕の名前が出てきたりするんだけど。

 まあだけど彼にいろいろスペインの話なんかを聞いてみたりするとやっぱりスペインなんかでは誰でもある時期が過ぎたら、たとえばみかんを店で売ってても誰も買わなくなる。この時期からはもうこれは食ってはいけないとか、時期が過ぎたとか言って一切買わないですよ、というようなことを言ってましたね。日本人はそういうところがまったくないですね。

 季節がなくなって。季節がないと言うより日本人の中にけじめがないんですよ。今の時期だったらきゅうりとかトマトも食べたらいけないわけでしょ。
 秋は、柿は食ってもいいけど、きゅうりとかトマトは食わないはずなんですけど。まあ、なかなかそういうことをきちっとけじめとして生活習慣としてもっていないね。まあ、そういうのを伝統的な生活習慣みたいなものがエートスという風に言うんですけどそういうエートスを私たちは持っていないわけです。

 日本人と言うのはよく考えてみたら。ふるいにかけていくと何も残らない。最後に病気になって苦しんでる姿だけが出てくるんです、きっと。

 私たちは生活の中で、どういうものを守っていくのかということを取り戻していかないとね。そういうものが何にもない社会って言うのは結局みんなが不幸になっていく社会なんですよね。
 
 今の日本のままでは崩壊は間近だと思います。
 
 先に医療が崩壊して医療制度が維持できなくなったとき、一人一人が本当に自分で考えると言う風になっていくのかもしれない。今はどっちかというと建設的に社会が動いてるんじゃなくて、つぶれる方向に動いて行ってますよね。それで、見殺しの時代ね。本当に苦しんでいる。落ちこぼれたら誰も救ってくれない。ていうようなね。それは、NPOを作ったり色んなことしてね、何とかしようとか言うようなことはあるんだけれども実際は見殺しにされている人がいかに多いかということですね。21世紀はそういうような時代だと思います。

 楽健法経は、昨日読んだところくらいまでで、あとのところは具体的な楽健法の順番をずーっと書いてあるわけですけれども、一番下の段ですね。

『また佛曰く、楽健法はいかなる部位も左より行うべし。左より右に転ずべしと。』


楽健法を左から始める訳 
 よく質問されるのは、なぜ左からやるのかということ。僕もよくその理由は知らないです。漢方でも何でも左からやるんですね、たいていは。それで、「左右っていうじゃないですか」って。だから、左から先やって。そうでなくて、めんどうくさいから「僕が決めたんです」って言うんです。(一同笑)。楽健法の場合は。

じゃあ、右からやったら間違いかと言うとそうではないんで。まあ、どこからやったって効果は変わりません。そのことは間違いないですね。だけど、まあ、どちらからやってもいいですが、あなたのお好きなようにやりなさい、といったら、もうやれなくなるんですよ。人間っていうのは。つまり決めてあげないと何もできないのね。だけど、決められないと何もできない人間になったらいかんので、好きなところから始めると言う気ままさも大事ですね。そういう風に思ってください。まあ、さっと読んでみましょうね。

第8回 11月9日(2日目 その5)

2008-11-09 20:07:45 | 楽健法セラピスト養成講座第8期記録
『佛、乾闥婆の大腿部の付け根に、並はずれて大きく、衆人尊崇の左の御佛足を乗せて踏みたまえり。この時御佛足、光を放ちて、並みいる菩薩の眼に慈光を降りそそぎ、菩薩等の心眼開け、乾闥婆の大腿部が、にわかに柔らかくなるを目撃したりき。』

お釈迦さんが踏むとパッと踏んだら、きゃっと柔らかくなるんです。

『乾闥婆、たちまちにして長年月の坐禅によって生じていた腰痛が癒え、如来の御佛足より流れ入る聖なる力が、全身を駆けめぐるを覚って、涕涙下るを止め得ず。』
もう、涙が流れてきたんですね。

『佛曰く、我がいま踏みし大腿部の付け根の部位をば、羝羊と名付く。 身体の芯より足心に至る導管の筋なるべし。 ここを左右ともにゆるめて血流、体液さかんに流動しはじめ、迷いより醒めて、向上心の湧きいずるところなりと。』
この「羝羊(ていよう)」ていうのは聖書でもよくキリスト今日でも迷える仔羊でしょ。羝羊っていうのは迷える仔羊のことなんですね。Stray Sheep(ストレイシープ)と英語では言いますね。

『次に佛、乾闥婆の足はそのままにして、上半身のみ上向きにさせたまいて、左足の羝羊よりさらに内側の筋を踏みたまえり。乾闥婆、痛きこと火を近づけたるがごとし、と覚ゆれど不思議に心地よく、神気身内に呼び戻されたるがごとし。
 佛曰く、この部位を愚童と名付く。
 これをゆるめれば、肝、腎の働きを盛んにして、婦人の生理を整え、心安けくなり、健やかな子宝を得るにいたり、自己の存在の意味に気付くなり。
 
 次に佛、乾闥婆を上向きに寝かせ、鼠蹊部より膝までを、上から下へと踏みたまえり。 佛曰く、この部位を嬰童と名付く。
 嬰童を踏みて、生まれきたりしみどり児が、初めてこの世を見るが如く、胃腸の働き活然とし、視力も回復し素直な心が発動すと。
 乾闥婆、老眼なりしが御佛足が離れるやいなや、如来の御尊顔、常にも増して輝き、明らかに見ゆるを自覚して、いまここにわが不浄の身を横たえ、如来の御佛足を頂ける佛縁の不思議、有り難さを噛みしめたり。
 
 次に佛、乾闥婆の左の胸から腕の付け根を踏み、さらに指先まで御佛足にて踏み下りぬ。
 佛曰く、この部位を唯蘊と名付く。
 唯蘊をゆるめて見えていたもの、考えていたことが行為と結ぶなり。』

 この、見えていたもの、考えていたことが行為と結ぶというのが、人間は頭でものを考えても何もしない人が多いんですが、行為と結ぶというのが何事も大事でしょうね。だから、言うこととすること、言行一致すること。それも、行為と結ぶということですね。今の政治家なんかも要するに言うことと行為というものは全く関係がなくて、人を納得させるために、ものはそういう風に言うけれど、決して実行しないというようなことが多くて、まあ、私たち人間というのはそういう矛盾した生き物かもしれないんですけど。なかなか人は思ったようには行動してくれないもんですね。

『心臓の病も、呼吸の病もかるく癒されるなりと。

 
 次に佛、乾闥婆をうつぶせに寝かせたまいぬ。
 右の御佛足を、左の臀部より膝裏のそばまで踏み下りぬ。
 佛曰く、臀部は大乗と名付くなり。
 大腿部から膝裏は抜業と呼ぶべし。
 いずれの部位にも筋肉の付け根に潜脹あり。
 潜脹とは硬く結ばれたる筋肉のふくらみにして、潜脹の硬結、肥大するにつれて、筋肉は縮み、血流を妨げ、体液の流れも減少し、冷えを呼び、病を生ずる因となるべし。 病を癒すは管を通すことに如かず。
 易行なり。
 ことに臀部の潜脹は冷えを呼びこむなり。
 潜脹をゆるめて、難治の宿痾も断ち切るに至るなり。
 心して踏むべしと。』


 この潜脹(せんちょう)という言葉は私が作った言葉ですね。造語です。こういうのは医学用語にはないんですが、まあ私がこうやって潜脹という言葉を言うと何となく中に潜っていて、中の方にある硬いものというイメージで潜脹と名付けました。身体の中の深いところで膨れているもの。そういうものを潜脹と名付けたんですが、理解しやすいじゃないかなと思って自分でつけてみた言葉です。

 こういう造語が本になったりして書いてあると、私と話している医者でも潜脹がどうだとか言うようなことを言う人がおったりするもんですから、なにかを指す言葉というのは、わかりやすいイメージ、概念で一般化すれば、理解しやすくなればいいんですね。

 他に私が作った言葉で、例えば「有害価(ゆうがいか)」。それは有害である、というような言い方をする。 たとえば、肉食は体にとって有益である。栄養価が高い。しかし、有害価も高い。というような言い方ができると思うんです。お砂糖は甘くて栄養価も高い。カロリーも高いかもしれない、しかし有害価も高い。だから、その有害の値、みたいなものも、そういう言葉がなければもう一つピンと入ってこない。

 有害価。「あ、それは君いいと思ってるかもしれないけど、有害価が高い食べ物だよ」というような言い方でいえるんじゃないかなと思うんです。楽健法の本の中に有害価という言葉を造語して書いてあります。

 他には日常よくメールでやり取りしてる中に、ファックスのこと電紙っていつも書いています。話するのは電話だから紙を送るんだから電紙でいいんじゃないかと。そしたら、電紙と書く人がぼちぼち出てきて。 
 電紙、まさにファックスだというような言葉ですね。自画自賛!

『次に佛、乾闥婆の両足裏に御佛足にて乗りたまいて曰く、この部位をば覚心と名付くなり。
 足裏は反対側の頭脳と知るべし。
 足は実践を常に行ずる脳髄なり。
 愛しむべし』

 足は実践を常に行ずる脳髄ですね。愛しむべし。足はまあそうでしょうね。手は悪いことするかもしれないけど、まあ、しかし手が悪いことをするためには足がその手を連れていくわけだけれどね。だけど、足は実践を常に行ずる脳髄なり。

『覚心は部分にして全体、全体にして部分なり。よく思案せよ。
 覚心を貴び踏んで気をめぐらし、正精進に励むべしと。』
 
 部分にして全体、全体にして部分ていうことをいつも考える。物を見るときに、体を見るとき。
 観測力が鋭くなると、部分を見たら全体が見えてくるようにもなってくるんですね。

 だから、どこか一ヶ所を治していると全体に波及し広がっていく。だから、足の小指を揉んでるだけでも全身の循環が良くなっていくんですね。足心道なんていうのもそういう考え方ですね。足の指とか足首回したり、足のうらを押さえたり、あれは部分なんだけどやはりそれが全身を動かす。

 私たちはどこか部分を動かしたりしていると、絶えずそれが全身に及んでいるんだと言うことをよく自覚して楽健法もやっていかないかんと思いますね。

 部分が見えて全体が見えないのも困るし、全体が見えている人は大体部分が見えてるはずなんですよね。だと、思います。だから、物事は小さく部分的に見ていくようなところから、大きくがっと捕まえるということも大事。把持力。ものをつかむ力のこと。物事を大きく把握するということが大事なんです。だから、物事を大きく把握しない人はちいちゃなことにこだわって大事なことが見えない。
 いつまでも物事を実行に移せないという人がやはり把持力の弱い人ですね。
 物事をバッと把握できる人は決断も早いです。することが。やってみる前から、もう結果が見えとるわけです。バッとつかんだ時に。だから、こうしたらああなるということがわかるから、パッと行動に移ると言う風になっていくんですね。それがなかなかできない人はやっぱり手前の方でつまらないところでぐるぐるぐるぐる堂々めぐりする人は大きく物事を捕まえていないんですね。

 人生というのは、人生観と言うのはグッと大きなマクロな、ミクロも見えるんだけど、マクロで大きく物事を把握するっていうそういう能力が要求されると思いますね。そういうことができないと指導者にはなれないと思いますね。まあ、そういう大きなことが見える人が割と意見を言ったり、人に影響力を持ったりするんですね。

 人間のうちそういう指導性があるような人と言うのは5%くらいだと言われているんです。後の人は言われたことはする能力はあるけれども、自分で上に立って指導していくことができないですね。だから、要するに別の言い方をすると頭領運なんて言う人もいる。頭領になる運がある人。つまり運て言うより能力なんだけれど、頭領運のない人は指導者になれない。

 だから、たとえばソ連が戦後、日本人をシベリアへ抑留なんかしたでしょ。抑留して収容所にたくさん入れる。だけど、収容所の中でも指導力のある強そうな奴がおったらいろいろ抵抗したり、みんなを先導して団結したりしますから、それで向こうはそういうことはよく研究して知っていますからまずその5%を別にしちゃうんですよ。その指導性のありそうな頭領運を持っているような男どもをパッと隔離して別の所に入れてしまうと、誰も言うこと聞くだけで逆らわない。そういう集団が出来るんだそうですね。

 だから、こういうところで楽健法をやろうか、教えようかという人はやはりそれぞれ頭領運を持っているんだと思います。だから、しっかり把持力、把握する力を、自分でしっかり色んなこと勉強して身に付けてくださいね。つねに本もよく読んで物事を把握するという力をつけて、自分を育てていってほしいと思います。
『次に佛、乾闥婆の腕の付け根に御佛足を踏み与えたまえり。
 乾闥婆、痩せた背高き男なれば敷物に腕が密着せざるなり。
 佛曰く、この部位を極無と名付くなり。
 腕の敷物に着かざるは、胃の下垂あり。
 いまだ身体硬く、なお修行の余地大なる証なり。
 心して楽健法を行じ、心身一如の境地を体解すべし。と申されて、極無を御佛足にて軽く踏み,光明真言の呪を唱えたまえれば、乾闥婆の腕たちまちゆるみ伸びて敷物と密着す。
  菩薩等、開示悟入しつつ眺めるなか、次に佛、乾闥婆の頭上に廻り立ち、左肩の付け根に左足を与えたまい、御佛足の踵が敷物に触れんばかりに踏み下げぬ。』


 ここが一番皆さんが迷うところですけど、ちゃんとこれ読んだら踏んでる姿が見えてくるでしょう。開示悟入というのはやってること、示されていることをぱっと見たらそのままスッと気持ちの中にも体の中にも入ってくるようなものの理解の仕方、見方ですね。開示悟入というのは法華経のなかに出てくる言葉から生まれた一つの言い方なんですけれども、私たちはこうやって雑談のようなことをしたりしているうちにハッと、そうか!というようなことを気がついたりすることがありますよね、そういう状態を開示悟入と言うんですね。何かのきっかけで、一瞬にパッとものが見えるようになる。

 それまで知らなかったことが、そうなんだ!とわかると一気に人間が変わるほどものが見えてきたりするんです。そういう状態になる瞬間のことを開示悟入とこういう風に言うんですね。

『佛曰く、この部位を秘密と名付くなり。
 諸々の病の予兆の現ずるところなり。
 肩凝りは未病の便り、便秘も未病の便りなり。あなどらず秘密を解くべしと。
 
 次に佛、乾闥婆の背に跨りて、両手を合掌の形になし、背骨の左右の筋を上より下へと押し下りぬ。
 佛曰く、ここを一道と名付くべし。
 ひとは背骨と筋肉とのつりあいを失って諸病を得るなり。
 全ての部位の調整は、一道の調和をはからんが為なり。
 一道を触掌して愛を感じ、天地に生かされてある感謝の念が湧きおこるなりと。』

  体が緩んで背骨がちゃんとまっすぐすっと伸びてくるために、全身の筋肉をゆるめてやる、楽健法をするのはそのためだよ、ということです。

 この背骨を調整したら病気が治るっていう考え方でやっているのがいわゆる整体・カイロプラクティックですね。背骨を矯正するとかいって、ボキッと鳴らしたり、ギュッと身体をひねったりしますね、二人がかりでやったりして、背骨の調整をするんですけど非常に危ない治療法でもあるんですね。

 だから、カイロプラクティックを受けて、あと後遺症が起きて裁判になったりした事件ってよくあるんですね。それで、裁判になるとたいてい施療したほうが負けます。それまで元気だった人がカイロプラクティックを受けたおかげで上半身が動かなくなったり、足が動かなくなったりして、車いすで暮らしていたりするとね。そうなって裁判をやられたら必ず負けます。そうすると何千万という治療費を要求されるというようなことになるんですね。

 だから、やはり背骨を無理やり矯正できますと言う人がいても、生半可な素人にそんなことしてもらってはダメですよ、背中をきつく押さえるのはとても危ないんです。

 楽健法で足の付け根とかゆるめておけば、背骨も入りやすくなってくるのです。まず筋肉が緩んでからでないと背骨のずれなんかは治らない。逆に言うと筋肉さえ緩んでいれば背骨は勝手に元に戻るのです。筋肉をまず緩めると言うことが大事ですね。背骨を緩めたら筋肉は緩むのかと言うとそんなことはなくて、筋肉はそのままで、背骨だけ無理に矯正してもすぐにまた元に戻ってしまいます。

 だから、そういう意味で治療と言うのは物事の順番があります。だから、筋肉は硬いのを緩めたらいいんですけど、その筋肉を固くする原因は楽健法で緩めたらいいというだけじゃなくて、なぜ筋肉が硬くなるのかと言えば、たいていそれは食生活が間違っているからなんです。動物性蛋白をどんどん食べたり、甘いものを取りすぎるとか、甘いものをたくさん食べると冷えが来ますから、やっぱり硬くなったりします。

 根本原因にさかのぼっていくと生活の在り方ということ。生活の在り方がなぜそうなったかということを考えていくと親の教育というものもあるかもしれないし、先天的な問題もあるかもしれないんですけど、しかし、自分でどこからコントロールできるのかと言うとやはり食生活のあたりからコントロールして行くことが大事なので、食生活をコントロールするようになろうと思ったら、気付くことが必要ですね。心を入れ替えると言うか、考え方を変えなければならない。

 他人の考え方を変えてあげると言うことが非常に難しいということに、健康指導や、治療していて気付くと思いますね。病人と言うのはななかなか頑固で言うこと聞かないもんですね。そういう人を本当にわかるようになろうとすると、相当重い病気に長年苦しまないといけないわけです。

 楽健法はそういう意味では病気を割と早く治せるので、楽健法の欠点は病気が治りすぎることです(笑)。せっかく病気になったのに楽健法でさっと治してあげたら、何が大事かということに気づかないで終っちゃうかもしれないので、せっかく病気になったのだから、病気から学習していただいてという気持ちで、その辺も用心しながら、手加減してやさしく楽健法をやってあげましょうね。

『佛、立ちて座にもどり、菩薩等にその慈顔をほころばせり。
 菩薩等一同、追体験によりて、如来の楽健法をわが身に施されたる如く、乾闥婆とともに、浄福に包まれたり。
 佛曰く、病気にて夭折するは治療の理法を得ざるが故なり。
 治らざる病はあらずと心得うべし。
 依るところの手段なによりも肝要なり。
 まず、否定的な心を棄て、可能性を信ずべし。
 信じて楽健法を行ぜよ。』


 病気にて夭折するは治療の理法を得ざるが故なり、というのは僕は真理だと思います。うまいこと書いてあるなと思います。夭折(ようせつ)と言うのは病気で早死にすることですね、。治療の理法を得ざるが故なり、つまり間違った治療をすると死んじゃう。理屈に合ったことをきちっとやれば必ず病気というものは治るもんだ。だから、治らざる病はあらずと心得うべし。どんな病気でもかならず治す方法があります。
 病気を治せないといしたら、治療のやり方が間違っているからだということです。

 病気を治してくれるのは時間だと言うことをまず私たちは自覚しないといけない。苦痛があればすぐに痛みを取ってくれ、すぐにでも治したいと言うのは人情だけれども、病気というのはかならず時間が治してくれる。体と言うのは時間とともに変化していくものですから、昨日中島さんが言っていた2年3か月痛みが続いたというのは、2年3カ月という時間が絶対に必要だったんですね。これは頓服では治らない。体が自らを治して行くのには時間がかかるんですね。

 だから、アーユルヴェーダなんかは時間のことをカーラと言う風に言うんだけど、そのカーラが癒してくれるんですよ。だから、何事も時とともに癒えていくんですね。その場で治してくれ、金はいくらでも積むからすぐ治せ、なんていうのは、それは全く傲慢な考え方で、やっぱり体が治さないと本当に治ったことにならないんですね。麻酔打ってもらって痛みが止まったって、それは治ったことには決してならないわけですから。まあ、だから痛みと言うのは、痛いのはたまらんけれども、痛みがある間は体が自力で治療しているんですね。
 だから、症状即治療、という言い方をするんですね。
 痛むということは大事なことなんです。痛みも感じなくなったらだめですよね。

 だから、痛みを感じなくなる病気、たとえばハンセン病(らい病)なんかになったら、痛みを感じる感覚がなくなってきて、ネズミが来てかじったりする外傷で指がなくなったりもするんです。アーユルヴェーダ研究例会の発表で、藤森先生がその報告をされたんですけど、アメリカ人の医者が書いたレポートを読んで、藤森先生が、医者をやっていてそんなことを知らなくってショックを受けたといっていられたことを覚えています。かじられても気がつかない。神経が痛みを感じなくなってるから。非常に無残なものですね。
 痛みを感じるっていうのはすごいことなんです。生きてる証拠なんです、逆に言うと。
『楽健法は易行にして、理法深甚の理なり。』

だから、楽健法は非常に簡単なようだけれども、理屈や仕組みを考えていくと非常に深い意味を持っている、そういうのが楽健法だと。

『他力のヨーガなり。二人ヨーガなり。
 心してこれを行じ衆生を済度せよ。
 日々これを行ずれば足は光を放ち、東西南北へ軽々と歩を進め、ひとの世を共生浄土、即身成佛の光の海と転ずること必定なり。

 これを与えられる者は病癒え、平安を得るのみならず、与える者も足による布施の行にて、慈愛による佛の法を知り、血気を盛んにして倶に功徳を得べしと。
さらに佛、偈に説いて曰く。
 
楽健法を学び行ずる者
病を癒し人間を癒す
無畏を施し慈愛を自覚させる
たとえ病む者といえども
他者を癒やさんとして
楽健法を学び行ずれば
自らの病が癒されること必定
他者の救済は自らの救済なり
楽健法を行ずれば光の人となる』

 
 この無畏を施すというのは恐れる心をなくすという意味なんですね。だから、施無畏(せむい)と言います。  
 これは、たとえば宗教家や医者の役割は施無畏なんです。本当は、だから、医者は、ガンになってあと三カ月しかもたないぞなんていうのは施無畏じゃないの。どんな病気になっても食生活を正しくして、抗がん剤を打たないで正しい生活をやっていたら治ります、という医者が出てきたらそれはやっぱり無畏を施すことになるんです。

 お坊さんとか医者が人を脅迫してはいけない。それが施無畏なんですよ。つまり、慈悲の心ですね。それを、まあ今は脅迫してすぐ病院に連れ込んで点滴を打って、抗がん剤を打って、稼いで、かつ治ったらいいし、治らなくてもしょうがないと思っているのが医者なんですね。

 まあ、ここまでにしておきましょうね。後はもう具体的な踏み方を書いてあるわけです。最後の

『佛、法を説き終わりて菩薩等に右掌を向けたれば、菩薩等全身たちまち光明に包まれて悟道を得、御佛足を頂礼し、楽健法を世界に布教すべく、菩薩おのおのの因縁の地へと歩みはじめたり』 

 というのでこの今日は終わりにしてあります。ま、みなさんも帰って楽健法を広めるようにお願いいたします。