アーユルヴェーダ学会総会の報告会
アーユルヴェーダの現在
新しい楽健法の本、回して見て下さい。
カバーを新装して、1ページだけ序文を書きました。
(田中さん)私はいつもこの写真が気になる。
(宥厳先生)どうして?若すぎる?
(田中さん)どちらの方だったかしらと思ってしまいました。
(宥厳先生)変えようかなと思ったけどね。それも変でしょ?初版の通りでやらないと。この序文はこの前ここでプリントしてお話しましたね。
アーユルヴェーダの総会で作った予稿集がこれです。これでだいたい110ページくらいの…116ページだったかな。予稿集の最後の頁に楽健法の広告を入れてます。このプリントですね。拡大してますけれど。ここに何人か電話をを入れておいたんです。入ってない人もいますけどね。まあ、とりあえず入れておきました。この中で真ん中の行で一番上の光岡智佳子さんの電話番号が間違っています。0886になっていますが。086です。
楽健法を仕事にしてたつき(生計)を立てていくというのはなかなか大変なんですよね。それで、この中でも楽健法をやっていくことで何とか成り立っている人というのはそういないんですけど、平野奈緒美さんは去年の生徒ですけどこの人は去年は非常に不安がっていて、足の裏をもむ健康法の資格を取りに行ったりして、楽健法も東京で勉強に1年半か2年くらい来られたのかな。それからここへ去年一年来られて、「そのうちに必ず道が開けてくるから、まあ楽健法をやってごらんなんさい」って言ったんです。はじめは色々迷ってたらしいですけど、楽健法と足もみもやりますって商売始めたら、もう足もみはいらん、楽健法が良いという人ばかりになってきて、今、月に100人くらいやる人が出てきたそうです。根気よくやっていると必ず道がついてくるもんです。
岡山の光岡さんは福山に来ている生徒さんですが、楽健法で何とかやっていきたいという気持ちは持っておられるみたいなのでここに掲載しておいたんですが、まだまだ海のものとも山のものともつかないというところです。光岡さんはこの間電話がかかってきて、タウン雑誌に楽健法の広告を一度これを参考にして載せてみたいと言ってました。
福山には高田由美さんという人がいてこの人はここへも1年間勉強に来られたんですけど、店も開いて精力的にやっていられます。足もみを最初にやって仕上げに楽健法をやる、だいたい2時間くらいのコースだそうです。東京にも足もみの若石の会で楽健法の指導もやっている方。
この鈴木正雄さんって言う真ん中の人は今、豊橋のNHKの文化教室で楽健法の講座を開いています。まだ、生徒がなかなか増えなくて5,6人みたいですね、毎回。
周藤久美枝さんという人は松江、この人は4年前にここに来られました。この人から中島さんなんかが紹介されてご縁が出来たんですね。自然農をやっていられます。
自然農ということでいうと、総会の体験ブースで、熊本の竹熊宣孝先生に楽健法をやってさしあげました。 そのとき先生と色々話したんですけど、奈良の五条の梁瀬義亨という先生がいらっしゃったんです。この梁瀬義亨という医者は、戦争中に毒ガスの工場で仕事していたらしいです。瀬戸内海にあるそうですね毒ガス島が。そこへ軍医として行ってたんでしょうか、その時にどうも毒ガスを吸ってるみたいなんですね。それで、そこで毒ガス工場で働いている人たちの体に出てくる、色んな病気の特徴を彼はよく知っていて、奈良県に帰ってきて開業医としてやり出したときに、近所の農家の人が体の調子が悪いとやって来る。そうするとその毒ガスの被害と同じような症状が出てきていて、これはパラチオンという毒薬によるものではないか。つまり、農薬だと言うことに気がついたんですね。
それで、農薬を使ってはいけないという指導をするようになって、そういう問題を取り扱った初期の頃ですから、反撃を受けるわけです。農薬の会社から農協から色んなとこから目の敵にされるなかで、五条で頑張って、ぼちぼちぼちぼちと患者が指導を受けて良くなっていくことで実績を上げていくわけです。
農薬を農協の言う通りに使っている農家がみんな病気になっていく、これは大変だということで自分で見本の農場を作ったりしながら、農民に自然農法や有機農法を指導するようになっていったんです。ところが本人は結局若くして死んじゃうわけです。最初に受けた毒ガスの影響で体が持たなかったんだと、竹熊先生はおっしゃってましたね。
有吉佐和子っていう小説家がいましたが、この人が1974年10月~1975年6月に「複合汚染」というのを朝日新聞に連載をするんです。この「複合汚染」という小説は大変大きな影響を与えました。小説というかドキュメンタリーです。この中に梁瀬義亨が出てきます。有吉佐和子は各地でそういう活動をしている人の所に直接取材に行って、複合汚染が書かれていった。それが朝日に掲載されたということで、非常に大きな役割を果たしたと僕は思いますね。その中で梁瀬義亨の業績なんかも、仕事ぶりなんかも詳しく書かれている。
「複合汚染」は今もひょっとしたら新潮文庫で買えるかもしれないけどまだ古本で検索するとすぐ出てきますからね。もし読んでみようと思ったら読んでみて下さい。
書かれた時代は古いようでも、1970年代ですから、古いようだけど問題は改善なっかされていなくて、いまも問題はなまで新しいのです、それでは困りますが。
私のこの楽健法の本もそうですけど、30年前に書いた本ですね。こういう健康法の本なんかは30年も前に書いた本などは普通は振り向きもしてくれないですね。読み捨てられる本が多いです。つまり、実用書は一過性のようなところがあるんです。これを農文協が今頃になって販売するというようなことが起きてるのは、ここに私が書いていることが、普遍的だということだと思うんです。つまり、ある時期を過ぎたらもう古くなってしまうというような問題ではなくて、物事の一番大事な根本的なところをきちっと見つめて、そこを批判精神でもって書いてあるわけですから、問題は古くならないわけです。30年経っても全然変わらないという部分が社会にあるわけですね、社会も人間も進化していない証ですね。
だから、まあそういう意味で日本の医療も表面的にはドンドンドンドン変わっていってる。変わっていってるんだけど、大きな所でどういう風にそれを掴んで変えて行かなくてはならないかということです。まあ、イデアですね。理想みたいなもの。そういうようなものをきちんと主張していかないといけないと思いますね。
私が今回アーユルヴェーダ総会の縁の下の力持ちを買って出たのもやはり、一つにはそういう問題意識があって、アーユルヴェーダというものはどういうものか、という一つの大きなとらえ方をしてほしい。
なにかの問題を考えるとき、問題は細かくしていけばいくらでも細分化していって訳の分からないものになっていくんですが、根本を大きく把握すること、把持力が必要ですね。
アーユルヴェーダというのを今、世界中がどういう風に見ているのかというと、西洋医学という大きな枠組みの中で、代替医学、代わりになるなんかちょっと西洋医学の不得意な所に借りてきてそこの代わりにしようと言うような感覚でアーユルヴェーダを見ているところがある。この病気は西洋医学では治らないからアーユルヴェーダを使ってみたらなんとかなるんじゃないか、というような感覚で捉えている。そういう見方でみていくと漢方もそうだし、民間療法も代替医学としか捉えていかないんですね。
西洋医学そのものはどういう現状なのかということについてはあまり目を向けようとはしない。だから、今日本で起きている医療の問題も非常に大きな矛盾を持っていて、いちばん大きな矛盾は病院を維持するためには病人が必要だ。でも、病人が増えるとこれにはお金がかかる。だけど、お金が足りなくなってきたから使いたくない。で、にっちもさっちもいかないジレンマのところで何かをしなくてはいけないという状況になってきているわけですね。
病院がどんどんなくなっていけば、国民からはそのことに対して大変な反発が来るわけです。だけど、病院があったら、ちょっとした風邪を引いても大病院に駆け込んでいくという人がいっぱいおってですね、本来の病院としての機能が損なわれたりする。医師は疲弊してやめていく。その辺が国民の意識レベルにもよるんだけれども、まあ患者が来ないようにすると、今の病院の体制は維持できないし、来てもらおうと思ったら来すぎて金を使いすぎるし、というのでそこのバランスが取れないんですね。
本来成り立たない矛盾を両立させなければ、という矛盾の壁がたちはだかっているんです。
もし行政が点滴は自分でおしっこできているにはしていけない、というようなことを病院に実行させる。そうすると医療費はガクンと減るでしょうね。30兆円を超えるような、国家予算を超えるようなお金を医療が使っている。病院のすべてのベッドで点滴をやっているようなことはもうダメ。それで、必要な人にだけ点滴しなさいという点滴の見直しというのをやっただけでもガラッと変わるだろうけれども、これでガタガタとつぶれていく病院が出てくることも間違いないですね。
だから、日本の医療は非常に危ない橋を渡っているんですよ、今。だけど、私のいちばん根本的な考え方がどういう理解の仕方かというと、「アーユルヴェーダとは何か?」と言うことから考えて、「アーユルヴェーダとは人の幸せに役に立つ、そういうものを指して、人の役に立つものを指してアーユルヴェーダと言うという考え方なんですよ。
じゃあ、西洋医学は人の役に立たないのか、というととんでもない話です。西洋医学は非常に優秀な有用な有益な医学なんだけれど、この医学にかかったために点滴をドカッとやられて、死ななくてもいいような人が短期間で死んでしまうとしたらこれはこの人にとって有益な医学とは言えないんです。だから、西洋医学がアーユルヴェーダ化すること、僕はそういう言い方をするんですけど、人の役に立つところだけをやってリスクの高ものはしない、そういう医療に西洋医学が変わったときに西洋医学もアーユルヴェーダのジャンルに含まれるようになってくるんですね。だから、西洋医学とアーユルヴェーダは決して対立するものではなくて、アーユルヴェーダという概念がまず「人の役に立つものがアーユルヴェーダ」だとすると、西洋医学だってアーユルヴェーダなんです。アーユルヴェーダでなくちゃいけない、というのがぼくの考えているアーユルヴェーダです。
だから、西洋医学の中で盲腸の手術をする、あるいは脳血栓になって、詰まってしまってしまった人を救急で助ける。これはみんなアーユルヴェーダですよ、そういうのは。だけど、水虫で入院したのに点滴をするっていうのはね。ま、水虫で入院するヤツはおらんかもしらんけど。まあとにかく昔は漢方だったら葛根湯医とか、今だと点滴医とか言うかも知れないけど、ほとんどの病院が点滴医療ですね。
そういう医療の根本的なところには、政治は立ち入ろうとしない。制度のことはいじるけれども、点滴の是非などは考えない。現代医学はこれでいいのか、という問題は考えない。医療も金儲けですから、儲からなくなるようなことは考えない。
私たちが出来ることといえば拒否するか、一切を任せるかどっちかなんです。国民というのは自分で好きな医療を選んで、選択できるみたいに思ってるかも知れないけどそうはいかない。拒否できない状況ってのは必ず出てくるんですよ。救急車を呼ぶような状況に直面すれば、ここに書いているように、「健やかに、悠々と、命輝く」ような暮らしを一人ひとりが全うできるか疑問な所ですね。
楽健法を知ったおかげで本当に楽になったっていう人がいっぱいいます。今まで楽健法に出会ったことでどんなに幸せになったかわからないという人もおりますけれど、楽健法に出会えもしない人がほとんどなんですね。
誰でも本当に困難に直面したときに、初めて何か別の方法や問題があるということに気がつくんです。
病気をすると言うことはとても大事なことです。それでせっかく病気になったんだったらじっくりとその病気から学ぶようなことができる。病気になった途端、たちまち集中治療室に入れられて点滴しまくって殺されてしまうようでは、学ぶ時間もないですね。
だから病気になったときに、あわてて医者の言うなりになってすぐ手術してもらったりするのは考え物。
このごろはセカンドオピニオン、別の病院や専門家に診てもらってから決めるという用心をするひとも増えてきているわけです。
「健康とはコントロール出来る精神のこと」
いくら痩せたいと思っていても口のコントロールできない人もいるし。口のコントロール出来たからと言って痩せられるとは限らないし。ちあきちゃんみたいに、ようけ食べていても太らない人もいるし。まあこれは先天的な問題もありますからね。一概には言えませんけどね。
どれくらいがいいかということは言えないんです。長生きする人はだいたい太ってる人の方がいいなんてこと最近言うてますね。僕のような痩せっぽちは長生きしないと。
(幸子先生)じゃあ、私はもう駄目やな。(一同笑)。
(琴美ちゃん)人間の話だから。(魔女は別)
急に現実の話になった。太ってる人はニコニコしたりして。まあしかし今日もここに皆さんがやってきて顔を見ると、やっぱり先月とは顔が違う。それで、ひと月たつごとにどっかがキュッと締まって来てますね。贅肉が取れてくると言うか何かちょっと表情が違うんです。ああ、やっぱり楽健法をやっているとこうなってくるんだなってことを感じます。それぞれなんとなくこわばりが取れてくる。まだこわばっている人もおるかもしれんけど。まあ、そんなようなことで。
楽健法経
今日は楽健法経を読んでみましょうね。来月もこのプリントを持ってきてください。この楽健法経の本が出版社から出たときにこの上製の帙(ちつ)入りを作りました。これはまだタイトルを書いていませんが、手書きでタイトルを書くように作っています。本文は市販本と一緒なんです。
この楽健法経の本がこの間アマゾンで見たら28,800円と値段がついていました。
誰か三万円近い値で買ってくれる?これ。(一同笑)
(幸子先生)表紙、書くよ。(一同笑)。
出版社で絶版になってしまったんで、コレクターの商品として高値をつけて、アマゾンにそうやって出すんですね。もう1冊の楽健法の本、ライトプレス版、こっちの本ですね。この本は定価1,300円なんですが3,350円でアマゾンで古本として売っられてるんですね。
まだここにはたくさん在庫がありますから、アマゾンに私がこれを1,300円で売りに出したんですよ。そしたら慌てて1,300円に下げた店がありました。
絶版になるとそうやってプレミアがつくんですね。これもまあもうあと残りわずかなので今欲しい人は今のうちに買っておいてください。本日ここですぐ買う人は1,000円!買った!とかならないかな(笑)。
楽健法経を2時ごろまで勉強しようと思います。それから楽健法をやりましょう。
この楽健経法経について、何度も同じような話をあちらこちらでしていますので、またかと思う人もおるかもしれませんが、同じ話を何べん聞いても、また違ったことを発見するかもわかりませんので根気よく勉強してください。
なぜ楽健法経を書いたか、これはボディーワークセラピーという宝島社から出た、36種類だったかな、いろんな健康法を集めて一冊の本にしたものがあるんです。それに楽健法を書いてくださいという原稿を頼まれたんです。1992年8月に発行されています。
1991年に私がここへ引っ越してきて間もなくですね。原稿の締め切りの日が近づいてきて、楽健法の本は出しておったんですが、楽健法について数ページくらいかな、それにまとめて書いてくれと言われたときに、
どう書いたらいいか、悩んでいたんです。
ちょうど「うかたま」で楽健法を連載していますが、どういうスタイルで書くか、目に見えるように楽健法を説明するというのは難しいと思ったんですね。
まず、寝て、左足で足元に立って踏むなんてことを文章で書いても、全く面白いように思わない。だから意欲がわかないんです、いっこうに。それで、ある土曜日の晩にもういよいよ締め切りの時間が来たのでこれはお経にしてしまおうと思いついたんですね。それで、お経にするについては、短いお経でよく有名な素人の人が読むお経に父母恩重経というお経がある。このお経の話はこの教室でしたかな?父母の恩が重いというお経があって、そのお経のことを思い出したんですね。短いお経なんですけど。それで、ああ、あのお経のように僕もこの楽健法を書いてみたろうと思って、それで机に向って書き出したんですね。ま、書きだしたら早いんです。イメージが湧いてきますから。お釈迦さまが楽健法をしている。その風景を言葉にしていこうと思って書き出したんです。
「かくのごとく我聞けり」というのがお経の書き出しに大体決まっていますので。これはひらがなをのけた漢字では如是我聞(じょーしーがーぶん)となるんですね。
二人ヨーガ楽健法経 大楽金剛不空真実佛足楽健法経
『是の如く我聞けり。或る時佛、喩師婆伽所にて、楽健法を説きたまえり。』
ユシバカショという場所でお釈迦さんが楽健法を話した、とまあその辺から始めたんです。この掲載したときはユシバカショでなくてインドの山の名前にしたんですけどこれを後にお経の本にするときにね、ユシバカショという密教独特の言い方ですね。ユシバカショというのはものを生み出す場所。もう一つ突っ込んだ言い方をすると母親の母体。胎内ですね。子宮の中、そういうようなものを生み出す場所をユシバカショと言うんですね。
『春うららなる季節、圍繞する諸菩薩の中央に、乾闥婆を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。まず佛、座より立ちて自らの御佛足を具示して曰く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足
裏、汝が足裏を如何んと考えるや。 足裏に触れるものは大地のみなるや否や。
われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。
道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健ならざれば遠く歩むこと難し。
また足が如何ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度に赴くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度せんとする衆生からも、常に学ばんとする求道の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。』
このお経もね、時間にしたら書くのに3時間もかからなかったね。さーっと一気に書いちゃった。それで、文章は短いんですけど、私が物事をどういう風に考えているかというようなことが、読み取っていただけると思います。足の裏に触れるのは大地のみなりやいなや、とか、われら~道をたどりて道を知らない…なり。
というような言い方だとかに、私の人生観みたいなものがそれぞれ出てきていると思うんですね。
道と言うのは単に人が移動するためだけのものではなくてやはりそこを人が行って、またそこで意見の交換をしたり、心と心が通い合ったり、あるいは別離のために歩いて行くのも道かもしれないけれでど、そういう人の心と心を結んで、あらゆる生き物の法、法というのは真理ですね。法、ダルマ。仏教ではダルマと言います。そういうものを伝えていくのも道である。道を歩いて行くのが足の裏なんだ。しかし、足はただ道を歩くだけじゃないよ、と移動するだけじゃないよ、と。楽健法をするというこういうのも足の役割ですよということです。だけど、足で人を踏むためにはどういう心持がないとできないかというようなことがいつも楽健法という行為の後ろにあるんですね。
アーユルヴェーダの現在
新しい楽健法の本、回して見て下さい。
カバーを新装して、1ページだけ序文を書きました。
(田中さん)私はいつもこの写真が気になる。
(宥厳先生)どうして?若すぎる?
(田中さん)どちらの方だったかしらと思ってしまいました。
(宥厳先生)変えようかなと思ったけどね。それも変でしょ?初版の通りでやらないと。この序文はこの前ここでプリントしてお話しましたね。
アーユルヴェーダの総会で作った予稿集がこれです。これでだいたい110ページくらいの…116ページだったかな。予稿集の最後の頁に楽健法の広告を入れてます。このプリントですね。拡大してますけれど。ここに何人か電話をを入れておいたんです。入ってない人もいますけどね。まあ、とりあえず入れておきました。この中で真ん中の行で一番上の光岡智佳子さんの電話番号が間違っています。0886になっていますが。086です。
楽健法を仕事にしてたつき(生計)を立てていくというのはなかなか大変なんですよね。それで、この中でも楽健法をやっていくことで何とか成り立っている人というのはそういないんですけど、平野奈緒美さんは去年の生徒ですけどこの人は去年は非常に不安がっていて、足の裏をもむ健康法の資格を取りに行ったりして、楽健法も東京で勉強に1年半か2年くらい来られたのかな。それからここへ去年一年来られて、「そのうちに必ず道が開けてくるから、まあ楽健法をやってごらんなんさい」って言ったんです。はじめは色々迷ってたらしいですけど、楽健法と足もみもやりますって商売始めたら、もう足もみはいらん、楽健法が良いという人ばかりになってきて、今、月に100人くらいやる人が出てきたそうです。根気よくやっていると必ず道がついてくるもんです。
岡山の光岡さんは福山に来ている生徒さんですが、楽健法で何とかやっていきたいという気持ちは持っておられるみたいなのでここに掲載しておいたんですが、まだまだ海のものとも山のものともつかないというところです。光岡さんはこの間電話がかかってきて、タウン雑誌に楽健法の広告を一度これを参考にして載せてみたいと言ってました。
福山には高田由美さんという人がいてこの人はここへも1年間勉強に来られたんですけど、店も開いて精力的にやっていられます。足もみを最初にやって仕上げに楽健法をやる、だいたい2時間くらいのコースだそうです。東京にも足もみの若石の会で楽健法の指導もやっている方。
この鈴木正雄さんって言う真ん中の人は今、豊橋のNHKの文化教室で楽健法の講座を開いています。まだ、生徒がなかなか増えなくて5,6人みたいですね、毎回。
周藤久美枝さんという人は松江、この人は4年前にここに来られました。この人から中島さんなんかが紹介されてご縁が出来たんですね。自然農をやっていられます。
自然農ということでいうと、総会の体験ブースで、熊本の竹熊宣孝先生に楽健法をやってさしあげました。 そのとき先生と色々話したんですけど、奈良の五条の梁瀬義亨という先生がいらっしゃったんです。この梁瀬義亨という医者は、戦争中に毒ガスの工場で仕事していたらしいです。瀬戸内海にあるそうですね毒ガス島が。そこへ軍医として行ってたんでしょうか、その時にどうも毒ガスを吸ってるみたいなんですね。それで、そこで毒ガス工場で働いている人たちの体に出てくる、色んな病気の特徴を彼はよく知っていて、奈良県に帰ってきて開業医としてやり出したときに、近所の農家の人が体の調子が悪いとやって来る。そうするとその毒ガスの被害と同じような症状が出てきていて、これはパラチオンという毒薬によるものではないか。つまり、農薬だと言うことに気がついたんですね。
それで、農薬を使ってはいけないという指導をするようになって、そういう問題を取り扱った初期の頃ですから、反撃を受けるわけです。農薬の会社から農協から色んなとこから目の敵にされるなかで、五条で頑張って、ぼちぼちぼちぼちと患者が指導を受けて良くなっていくことで実績を上げていくわけです。
農薬を農協の言う通りに使っている農家がみんな病気になっていく、これは大変だということで自分で見本の農場を作ったりしながら、農民に自然農法や有機農法を指導するようになっていったんです。ところが本人は結局若くして死んじゃうわけです。最初に受けた毒ガスの影響で体が持たなかったんだと、竹熊先生はおっしゃってましたね。
有吉佐和子っていう小説家がいましたが、この人が1974年10月~1975年6月に「複合汚染」というのを朝日新聞に連載をするんです。この「複合汚染」という小説は大変大きな影響を与えました。小説というかドキュメンタリーです。この中に梁瀬義亨が出てきます。有吉佐和子は各地でそういう活動をしている人の所に直接取材に行って、複合汚染が書かれていった。それが朝日に掲載されたということで、非常に大きな役割を果たしたと僕は思いますね。その中で梁瀬義亨の業績なんかも、仕事ぶりなんかも詳しく書かれている。
「複合汚染」は今もひょっとしたら新潮文庫で買えるかもしれないけどまだ古本で検索するとすぐ出てきますからね。もし読んでみようと思ったら読んでみて下さい。
書かれた時代は古いようでも、1970年代ですから、古いようだけど問題は改善なっかされていなくて、いまも問題はなまで新しいのです、それでは困りますが。
私のこの楽健法の本もそうですけど、30年前に書いた本ですね。こういう健康法の本なんかは30年も前に書いた本などは普通は振り向きもしてくれないですね。読み捨てられる本が多いです。つまり、実用書は一過性のようなところがあるんです。これを農文協が今頃になって販売するというようなことが起きてるのは、ここに私が書いていることが、普遍的だということだと思うんです。つまり、ある時期を過ぎたらもう古くなってしまうというような問題ではなくて、物事の一番大事な根本的なところをきちっと見つめて、そこを批判精神でもって書いてあるわけですから、問題は古くならないわけです。30年経っても全然変わらないという部分が社会にあるわけですね、社会も人間も進化していない証ですね。
だから、まあそういう意味で日本の医療も表面的にはドンドンドンドン変わっていってる。変わっていってるんだけど、大きな所でどういう風にそれを掴んで変えて行かなくてはならないかということです。まあ、イデアですね。理想みたいなもの。そういうようなものをきちんと主張していかないといけないと思いますね。
私が今回アーユルヴェーダ総会の縁の下の力持ちを買って出たのもやはり、一つにはそういう問題意識があって、アーユルヴェーダというものはどういうものか、という一つの大きなとらえ方をしてほしい。
なにかの問題を考えるとき、問題は細かくしていけばいくらでも細分化していって訳の分からないものになっていくんですが、根本を大きく把握すること、把持力が必要ですね。
アーユルヴェーダというのを今、世界中がどういう風に見ているのかというと、西洋医学という大きな枠組みの中で、代替医学、代わりになるなんかちょっと西洋医学の不得意な所に借りてきてそこの代わりにしようと言うような感覚でアーユルヴェーダを見ているところがある。この病気は西洋医学では治らないからアーユルヴェーダを使ってみたらなんとかなるんじゃないか、というような感覚で捉えている。そういう見方でみていくと漢方もそうだし、民間療法も代替医学としか捉えていかないんですね。
西洋医学そのものはどういう現状なのかということについてはあまり目を向けようとはしない。だから、今日本で起きている医療の問題も非常に大きな矛盾を持っていて、いちばん大きな矛盾は病院を維持するためには病人が必要だ。でも、病人が増えるとこれにはお金がかかる。だけど、お金が足りなくなってきたから使いたくない。で、にっちもさっちもいかないジレンマのところで何かをしなくてはいけないという状況になってきているわけですね。
病院がどんどんなくなっていけば、国民からはそのことに対して大変な反発が来るわけです。だけど、病院があったら、ちょっとした風邪を引いても大病院に駆け込んでいくという人がいっぱいおってですね、本来の病院としての機能が損なわれたりする。医師は疲弊してやめていく。その辺が国民の意識レベルにもよるんだけれども、まあ患者が来ないようにすると、今の病院の体制は維持できないし、来てもらおうと思ったら来すぎて金を使いすぎるし、というのでそこのバランスが取れないんですね。
本来成り立たない矛盾を両立させなければ、という矛盾の壁がたちはだかっているんです。
もし行政が点滴は自分でおしっこできているにはしていけない、というようなことを病院に実行させる。そうすると医療費はガクンと減るでしょうね。30兆円を超えるような、国家予算を超えるようなお金を医療が使っている。病院のすべてのベッドで点滴をやっているようなことはもうダメ。それで、必要な人にだけ点滴しなさいという点滴の見直しというのをやっただけでもガラッと変わるだろうけれども、これでガタガタとつぶれていく病院が出てくることも間違いないですね。
だから、日本の医療は非常に危ない橋を渡っているんですよ、今。だけど、私のいちばん根本的な考え方がどういう理解の仕方かというと、「アーユルヴェーダとは何か?」と言うことから考えて、「アーユルヴェーダとは人の幸せに役に立つ、そういうものを指して、人の役に立つものを指してアーユルヴェーダと言うという考え方なんですよ。
じゃあ、西洋医学は人の役に立たないのか、というととんでもない話です。西洋医学は非常に優秀な有用な有益な医学なんだけれど、この医学にかかったために点滴をドカッとやられて、死ななくてもいいような人が短期間で死んでしまうとしたらこれはこの人にとって有益な医学とは言えないんです。だから、西洋医学がアーユルヴェーダ化すること、僕はそういう言い方をするんですけど、人の役に立つところだけをやってリスクの高ものはしない、そういう医療に西洋医学が変わったときに西洋医学もアーユルヴェーダのジャンルに含まれるようになってくるんですね。だから、西洋医学とアーユルヴェーダは決して対立するものではなくて、アーユルヴェーダという概念がまず「人の役に立つものがアーユルヴェーダ」だとすると、西洋医学だってアーユルヴェーダなんです。アーユルヴェーダでなくちゃいけない、というのがぼくの考えているアーユルヴェーダです。
だから、西洋医学の中で盲腸の手術をする、あるいは脳血栓になって、詰まってしまってしまった人を救急で助ける。これはみんなアーユルヴェーダですよ、そういうのは。だけど、水虫で入院したのに点滴をするっていうのはね。ま、水虫で入院するヤツはおらんかもしらんけど。まあとにかく昔は漢方だったら葛根湯医とか、今だと点滴医とか言うかも知れないけど、ほとんどの病院が点滴医療ですね。
そういう医療の根本的なところには、政治は立ち入ろうとしない。制度のことはいじるけれども、点滴の是非などは考えない。現代医学はこれでいいのか、という問題は考えない。医療も金儲けですから、儲からなくなるようなことは考えない。
私たちが出来ることといえば拒否するか、一切を任せるかどっちかなんです。国民というのは自分で好きな医療を選んで、選択できるみたいに思ってるかも知れないけどそうはいかない。拒否できない状況ってのは必ず出てくるんですよ。救急車を呼ぶような状況に直面すれば、ここに書いているように、「健やかに、悠々と、命輝く」ような暮らしを一人ひとりが全うできるか疑問な所ですね。
楽健法を知ったおかげで本当に楽になったっていう人がいっぱいいます。今まで楽健法に出会ったことでどんなに幸せになったかわからないという人もおりますけれど、楽健法に出会えもしない人がほとんどなんですね。
誰でも本当に困難に直面したときに、初めて何か別の方法や問題があるということに気がつくんです。
病気をすると言うことはとても大事なことです。それでせっかく病気になったんだったらじっくりとその病気から学ぶようなことができる。病気になった途端、たちまち集中治療室に入れられて点滴しまくって殺されてしまうようでは、学ぶ時間もないですね。
だから病気になったときに、あわてて医者の言うなりになってすぐ手術してもらったりするのは考え物。
このごろはセカンドオピニオン、別の病院や専門家に診てもらってから決めるという用心をするひとも増えてきているわけです。
「健康とはコントロール出来る精神のこと」
いくら痩せたいと思っていても口のコントロールできない人もいるし。口のコントロール出来たからと言って痩せられるとは限らないし。ちあきちゃんみたいに、ようけ食べていても太らない人もいるし。まあこれは先天的な問題もありますからね。一概には言えませんけどね。
どれくらいがいいかということは言えないんです。長生きする人はだいたい太ってる人の方がいいなんてこと最近言うてますね。僕のような痩せっぽちは長生きしないと。
(幸子先生)じゃあ、私はもう駄目やな。(一同笑)。
(琴美ちゃん)人間の話だから。(魔女は別)
急に現実の話になった。太ってる人はニコニコしたりして。まあしかし今日もここに皆さんがやってきて顔を見ると、やっぱり先月とは顔が違う。それで、ひと月たつごとにどっかがキュッと締まって来てますね。贅肉が取れてくると言うか何かちょっと表情が違うんです。ああ、やっぱり楽健法をやっているとこうなってくるんだなってことを感じます。それぞれなんとなくこわばりが取れてくる。まだこわばっている人もおるかもしれんけど。まあ、そんなようなことで。
楽健法経
今日は楽健法経を読んでみましょうね。来月もこのプリントを持ってきてください。この楽健法経の本が出版社から出たときにこの上製の帙(ちつ)入りを作りました。これはまだタイトルを書いていませんが、手書きでタイトルを書くように作っています。本文は市販本と一緒なんです。
この楽健法経の本がこの間アマゾンで見たら28,800円と値段がついていました。
誰か三万円近い値で買ってくれる?これ。(一同笑)
(幸子先生)表紙、書くよ。(一同笑)。
出版社で絶版になってしまったんで、コレクターの商品として高値をつけて、アマゾンにそうやって出すんですね。もう1冊の楽健法の本、ライトプレス版、こっちの本ですね。この本は定価1,300円なんですが3,350円でアマゾンで古本として売っられてるんですね。
まだここにはたくさん在庫がありますから、アマゾンに私がこれを1,300円で売りに出したんですよ。そしたら慌てて1,300円に下げた店がありました。
絶版になるとそうやってプレミアがつくんですね。これもまあもうあと残りわずかなので今欲しい人は今のうちに買っておいてください。本日ここですぐ買う人は1,000円!買った!とかならないかな(笑)。
楽健法経を2時ごろまで勉強しようと思います。それから楽健法をやりましょう。
この楽健経法経について、何度も同じような話をあちらこちらでしていますので、またかと思う人もおるかもしれませんが、同じ話を何べん聞いても、また違ったことを発見するかもわかりませんので根気よく勉強してください。
なぜ楽健法経を書いたか、これはボディーワークセラピーという宝島社から出た、36種類だったかな、いろんな健康法を集めて一冊の本にしたものがあるんです。それに楽健法を書いてくださいという原稿を頼まれたんです。1992年8月に発行されています。
1991年に私がここへ引っ越してきて間もなくですね。原稿の締め切りの日が近づいてきて、楽健法の本は出しておったんですが、楽健法について数ページくらいかな、それにまとめて書いてくれと言われたときに、
どう書いたらいいか、悩んでいたんです。
ちょうど「うかたま」で楽健法を連載していますが、どういうスタイルで書くか、目に見えるように楽健法を説明するというのは難しいと思ったんですね。
まず、寝て、左足で足元に立って踏むなんてことを文章で書いても、全く面白いように思わない。だから意欲がわかないんです、いっこうに。それで、ある土曜日の晩にもういよいよ締め切りの時間が来たのでこれはお経にしてしまおうと思いついたんですね。それで、お経にするについては、短いお経でよく有名な素人の人が読むお経に父母恩重経というお経がある。このお経の話はこの教室でしたかな?父母の恩が重いというお経があって、そのお経のことを思い出したんですね。短いお経なんですけど。それで、ああ、あのお経のように僕もこの楽健法を書いてみたろうと思って、それで机に向って書き出したんですね。ま、書きだしたら早いんです。イメージが湧いてきますから。お釈迦さまが楽健法をしている。その風景を言葉にしていこうと思って書き出したんです。
「かくのごとく我聞けり」というのがお経の書き出しに大体決まっていますので。これはひらがなをのけた漢字では如是我聞(じょーしーがーぶん)となるんですね。
二人ヨーガ楽健法経 大楽金剛不空真実佛足楽健法経
『是の如く我聞けり。或る時佛、喩師婆伽所にて、楽健法を説きたまえり。』
ユシバカショという場所でお釈迦さんが楽健法を話した、とまあその辺から始めたんです。この掲載したときはユシバカショでなくてインドの山の名前にしたんですけどこれを後にお経の本にするときにね、ユシバカショという密教独特の言い方ですね。ユシバカショというのはものを生み出す場所。もう一つ突っ込んだ言い方をすると母親の母体。胎内ですね。子宮の中、そういうようなものを生み出す場所をユシバカショと言うんですね。
『春うららなる季節、圍繞する諸菩薩の中央に、乾闥婆を寝かせて、佛、法を説きつつ、さらに実技を交えて、楽健法の指導をなしたまえり。まず佛、座より立ちて自らの御佛足を具示して曰く、乾闥婆ならびに菩薩等よ、わが足
裏、汝が足裏を如何んと考えるや。 足裏に触れるものは大地のみなるや否や。
われらが足は大地を歩むにのみ用うると汝ら考えるならば、道を辿りて道を知らざるなり。
それ道は、ただに地と地を結ぶもののみに非ず、人々の心と心を結び、生きとし生くるものの法をも結ぶものなり。
道を歩まんには、健やかなる五体、ことに足の強健ならざれば遠く歩むこと難し。
また足が如何ほど強健、五体満足といえども地を伝い、草踏みわけて遠き地に衆生済度に赴くには、健やかなる思い、慈愛の心、済度せんとする衆生からも、常に学ばんとする求道の心があって、はじめて強健なる足とはなるなり。』
このお経もね、時間にしたら書くのに3時間もかからなかったね。さーっと一気に書いちゃった。それで、文章は短いんですけど、私が物事をどういう風に考えているかというようなことが、読み取っていただけると思います。足の裏に触れるのは大地のみなりやいなや、とか、われら~道をたどりて道を知らない…なり。
というような言い方だとかに、私の人生観みたいなものがそれぞれ出てきていると思うんですね。
道と言うのは単に人が移動するためだけのものではなくてやはりそこを人が行って、またそこで意見の交換をしたり、心と心が通い合ったり、あるいは別離のために歩いて行くのも道かもしれないけれでど、そういう人の心と心を結んで、あらゆる生き物の法、法というのは真理ですね。法、ダルマ。仏教ではダルマと言います。そういうものを伝えていくのも道である。道を歩いて行くのが足の裏なんだ。しかし、足はただ道を歩くだけじゃないよ、と移動するだけじゃないよ、と。楽健法をするというこういうのも足の役割ですよということです。だけど、足で人を踏むためにはどういう心持がないとできないかというようなことがいつも楽健法という行為の後ろにあるんですね。