阿蘇から大観峰を抜け、肥後小国駅に出る。今回の最後の目的地である宮原線の終点だ。駅の待合室に入ってみると、四人の若者と私の五人、皆この鉄道の日常の利用者でない。全員、乗るために来た者ばかり、つまり鉄道馬鹿ばかりである。屋外に出てみると、「昭和二十九年三月十五日 当駅開業記念」という碑が建っている。また、在りし日の蒸気機関車の給水塔や石炭の積場は、無情にもうらぶれた姿をさらしていた。
やがて赤いディーゼルカーが単車で入ってきた。春休みなので、マニアの学生が十数人降りてきた。すぐに折り返すらしい。こんなに乗客の少ない一日四往復の駅にも、助役氏とその他に駅員氏が二人もいる。廃止する前に、もっと合理化してやってほしいものだ。無人化できるんじゃないかと思う。
肥後小国を出た単車のキハ50は、短いトンネルを抜け、杉木立の切通しを走り、ブルンブルンとエンジンを響かせながら上り勾配をゆっくりと北進する。雲が低く垂れこめて、夕方五時頃ともなると、もう薄暗くなっていた。
(1981年3月20日)
汽車の詩 上川庄二郎 神戸新聞出版センター刊 (神話のふるさと 高千穂)から
やがて赤いディーゼルカーが単車で入ってきた。春休みなので、マニアの学生が十数人降りてきた。すぐに折り返すらしい。こんなに乗客の少ない一日四往復の駅にも、助役氏とその他に駅員氏が二人もいる。廃止する前に、もっと合理化してやってほしいものだ。無人化できるんじゃないかと思う。
肥後小国を出た単車のキハ50は、短いトンネルを抜け、杉木立の切通しを走り、ブルンブルンとエンジンを響かせながら上り勾配をゆっくりと北進する。雲が低く垂れこめて、夕方五時頃ともなると、もう薄暗くなっていた。
(1981年3月20日)
汽車の詩 上川庄二郎 神戸新聞出版センター刊 (神話のふるさと 高千穂)から