季節はずれの留学生

Leipzigからの独り言

ある日の小市民

2011-05-20 17:38:34 | Weblog

 つくづく小市民だと自分の事をおもったある日のできごと、

朝、天気予報が雨というから素直に従って徒歩で講義に出かけた。
家から徒歩12分。寝ぼけ眼を覚ますにはもってこいの距離だ。
しかし、この微妙な距離が、時に悩ましい。

徒歩、自転車、バスと三つの方法がある。

徒歩が一番好き、ただし次の講義まで時間が空いているとかでないかぎり。
この季節自転車は最高に気持ちいい、ただ私の自転車は”泳ぐ”真っ直ぐ
走っているのに、フラフラと。

バス、乗る気は無いのだが、通学路を停留所をあるく経路に出来るのだ。
(この季節は公園経由が森林浴もできて最高なのだが)
15分に1本しか来ない癖して、講義の時間にぴったりあう、従ってボンヤリ歩いていると
あっ、来た!乗ろう!とか”2min”とかの表示が出ていると乗ってしまう。

その日は、講義の後タンデムを予定していた。
メンザで会ってそのあと、タンデムを始める。メンザまでの距離は徒歩で15分ほど。
講義は12時45分に終わるので13:10の待ち合わせ時間には十分な余裕がある。
(じゅっぷんでなく、じゅうぶんです)

なのに、この予定、いつも遅れる。講義の後には熱心な連中が教授に質問くる
大抵、その質問は私にとってもすごく重要なこと、だから聞いてしまう。
で、気が付くと時間が、、、。

その日、ボンヤリと校舎をでると、目の前にバスが止まっている。走り込んだら、乗れた。
そのバスは市電の停留所にも止まる。メンザまでは乗り換えがあるのだ。
徒歩15分と言うと、乗り換えで5分も待つと徒歩との差が意味を持たなくなってくる。
バスが停留所に滑り込むと、前に市電が止まってる。

乗り換えようと小走りしても、こんな時、市電はかならず、すーっと出発する。
所謂お約束のように、だがこの日は違っていた。

なんとドアが自動で開いたのだ。
さあ、お乗り下さいと言わんばかりに!

ご存じの様にこっちの市電はドアを自分で開く。ボタンを押すだけなのだか
このボタンの反応がとっても悪い。
中にとっても親切な人が居ると、中のボタンで開けてくれたりする。

お陰で余裕でメンザに着くことができた。
とても機嫌がよくなった。小市民だ、と自分を茶化してみたが、機嫌は良いまま。

そしたら、お相手が遅れると予定時間を過ぎてからSMSを送ってきた。

予定を15分も遅れて、食事を始めた。変な白身の魚。堅い衣をつけて揚げてある。
多分、深海魚だ。有名な魚の名前の後ろに変な名前が加わっている。亜種か?
どっちにしろ、味を楽しむなんて事は考えない方がいい。
もっともタルタルソースがびっくりするほどかかっているので、本来の味は分からない!

できるだけ、この衣をはずして食べ始める。この油、多分温度管理と酸化に関して
注意を払っていないのだろう、全部食べると、夕食時まで胸焼けに悩まされることになる。

タンデムパートナーはカスラーという豚肉の塩漬けを猛烈な勢いで食べている。
この子はとっても良く笑うので、一緒に食事をしていて楽しい。その食べっぷりも!

そのあと、カフェにいって、定席に座ってタンデム開始。
私は不真面目にも準備をしていかなかったので”外国人の為のドイツ語”の授業で使った
例文を目の前で同時通訳してゆく。そして、解らないところを教えてもらうのだ。
準備をまったくしないで訳し始めるということが意外と面白かったので、サボリ癖が付きそうだ。

次に、彼女の課題である原発事故の翻訳をはじめる。彼女は日本に留学してから
会話の能力が跳ね上がった、もともと漢字は私よりよく知っている(^_^;)のでベースからして
違っていることは解っていた。しかし、こんな伸び方をするなんて余程才能に恵まれているのだろう。

その陰にある努力を見ずして、羨んでしまう。いや、彼女のノートを見れば、集中力に欠けた
自分のノートと比較するまでもなく、恐ろしいばかりの勉強量であることは自明なのに。

翻訳をすると、かならず原文を補わなければ意味が分からなくなることが多い。
ましてやドイツ人向けに書かれた文章だ、日本語に置き換えると当然の如く変な文章になる。

彼女の書いた日本語をドイツ語にして言ってみる。そして当該のドイツ語と比較したとき同義語に
なっていなければ、翻訳がおかしいのだ。これもすごくワクワクする練習だ。

語学学校では日本語は全く話さないので、ドイツ語はドイツ語で覚える。この当たり前すぎることに、
留学前はとても悩んだ。

分からない事を解らない言語で教わることに。

しかし、少しすると慣れる。英語で説明されると、とても腹立たしい。教師なら平易なドイツ語で
説明してみろ!!と文句を言いたくなる、”ドイツ語で説明して”と何度も言ったことを思い出す。
同義語を覚えられるし、バックグランドも説明方法も解るし最高なのだ。

置き換えならGoogle Translateで十分だ。
ドイツ語での平易な説明能力が教師の資質を見抜く簡単な方法だと思う。

日本語から、ドイツ人の思考回路を考えて、ドイツ語をひねり出す練習は、殆どドイツ語脳領域を
使っている気がする。しかも目の前にいるのはネイティブだ。反応もダイレクトなので、うまく行くと
顔色、表情?、なんだか解らない言語外信号が私の感覚にダイレクトに飛び込んでくるのだ。

日本語からドイツ語に訳すとき程では無いものの、やはり補足はさけて通れない。
ドイツ語は日本語に比べると相当に冗長だ、よく言えば論理的だ。明確に、信じられないくらいに
明確に書ける。(できる人は(^_^;))

彼女の翻訳は、その補足だけで、完璧な日本語になり私は満ち足りた気分になる。
SDGと最後に書き加えたくなる。

タンデムに集中しすぎて、次の講義の時間まで時間が少ないことに2人とも気が付いた。
二人とも未だ講義は残っているのだ。

大急ぎで停留所に行くと、直ぐに市電が来て、市電が次に止まると直ぐにバスが来た。
往路と丁度逆のパターン。

お陰でゼミには余裕で間に合った。ゼミでは自分の頭をアクティブに使うことが
求められる。軽い疲れを感じながらラプラス変換と格闘。公式の当てはめばかりで
なんだか感動のないゼミだった。

家に帰って、昨日の残り物をチンして食べ、Youtubeで見つけた慶応の制御工学を見た。
日本ではこんな風にやってるんだ!と深夜までゼミとの接点を見つけては喜んでいた。
気が付けば、1時。明日の第一講義は7:30からだというのに、、、

そして、翌日、居眠りこそしなかったけれど、さっぱり働かない頭をすげ替えたくなりながら
の講義が終わった。

メンザで鰊のマリネという初めてのメニューがあった、誰も並んでいない(^_^;)のでチャレンジ
した、酢酸かと思うお酢の味、そのあと猛烈な胸焼けに悩まされたことは言うまでもない。

ああ、南蛮漬けを教えて上げたい、、、

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夢かなう 2.

2011-05-07 20:12:51 | Weblog

 春だ、復活祭だと穏やか気分に浸っていたら、なんと朝方5℃の日が続いた今週でした。
ドイツが高緯度に位置していることを再認識。気が引き締まる寒さはとても好きです。
もうすっかりドイツに馴染んだのかなと感じるときです。

先日、夢かなう、というテーマで書きました。

http://blog.goo.ne.jp/qoo177cm/e/f6a81054512ef6081f70d9fe50fde9b4

そして、その夢がもう一度訪れました。
5月1日、再びエンポールでカンタータを聴くことができました。

15時からプローベがはじまります。今回は録音の依頼がきました。なのでリュックと両手一杯の
荷物をもちこみます。入り口で出会ったチェロ奏者は直ぐに挨拶をしてくれます。教会に入るのに
荷物一杯の人なんていませんから。

一緒に階段を小走りに駆け上がります。30分前なのにエンポールに上がると、指揮者はもう演奏者たちと
打合せ中。軽く握手を交わすだけで持ち場につきます、というか自分の場所作りから始めます。

ドイツ人が30分以前に打ち合わせ!
さては指揮者のFさん、日本人の時間感覚を知っているな?これは気持ちを引き締めないと、、、

演奏が始まりました。前回よりも大編成になり、彼の指示も精緻を極めます。
本当に得難い経験です。日本に居たらまず不可能でしょう、というか考えもしないで
あきらめてしまうでしょう。Leipzigだからこそ、”聴きたいオーラ”を出していれば可能になること。
このためにLeipzigにいるんだ、という思いに、一瞬音楽が途切れてしまいました。

この瞬間を大切にしないと!もう絶対にやってこない貴重な時の時

Fさん、なんと合唱の位置を私に聞いてきます。ちょっと下で聴いてくれる?と

びっくりです。

大急ぎで階段を飛び降りて、どんな風に教会内に音楽が響くかを確かめました。
とっても綺麗です。しかし今、求められいるのは、この編成で実現可能な最高の響き。
実はバランスがめちゃめちゃでした。

今の配置、意識的にそうしてるの?男性陣が全然ダメと言いました。

今のカントール、ビラーさんの次の次?くらいのカントールを目指しているFさんにそんなことを
言ってもいいのだろうか?冷や汗ものとは、正に、このことです。

充実した時間は、飛ぶように過ぎ去ります。気が付けば本番30分前。演奏者達は休憩に入ります。
私はプローベをパソコンにバックアップし、電池も全て交換したらもう本番まで10分。

3時間が一瞬で過ぎ去りました。

本番では、私は単なる聴衆にもどります。もうやることは全部終わっている。穏やかに音楽だけを
楽しむことが出来ました。

この上のない喜び、音楽までの距離ゼロ、出来上がる過程まで聴くことができて、曲への理解も
一層深まりました。この日だけで何度同じ小節を聴いた事でしょう。
飽きることなく何度も何度も
繰り返しの重要さが改めて解ったこのミサでした。

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