五次元世界へ誘う魂の道案内 ブログ

社会の階級と生存競争に勝つ法則 適正な方法、光明思想と生活の目的

生存競争に勝ち昇進する生き方シリーズ ビジネス・マインドシリーズ
当旧HP 2001/8/16---2022/5/20 ブログへ掲載
(主に霊脳研究1989年10月号より抜粋)
 能力を開発して活用するといっても、世の中の仕組みを知らないと効果的に発揮出来ないものです。

富を掴む実生活の方法

 世の中を眺めておりますと一般の多くの人々は、労少なくして多くの富を得ようとアクセクすることに捕らわれることがあります。
 しかし、心の法則によって人が富む方法は決して、そのような魔術でもなければ手品でもないのです。
 ですから当然のこと、ケチって少なく価を支払ったものは少ししか受け取るより仕方がないものです。他の人以上に深切であり、日頃の努力とサービスとがあってのみ本当の繁栄が得られるようになるものです。
 一方、人間には先天的ならび後天的に「徳」の豊かな人と乏しい人と分けられます。
 これが人間各自の自然の階級(社会的な地位)となって現れています。
 人為の階級制度と言えども自然の階級に基づいて出来たものであり、決して時の権力者や貴族や富豪が勝手に作ったものではないのです。
 しかし、一般の低い階級にいる多くの人々は、人為の階級制度を特権階級にいる一部の小数者が作った偽りの階級であると考えます。
 悪賢い人の中には、これを攻撃して高い階級を打破すれば、自分たちが階級を昇ることができて運命は開けてくるように誤解する者があります。
 例え、現在の特権階級や上流階級を全部滅ぼし尽くしても、次々に智徳のある者がそれに代わって上に昇るのですから、下流階級で生活する低い者はどんな場合にも急に高い階級に昇ることはできません。



適正な生存競争の方法

 ここで人としての生存競争の意味について考えてみましょう。
 私たちの人生とは、自然や社会という環境の中にあって、生存のために自然の環境に適応して努力を続けることであり、その生き方の過程を云うのであって人間が自分の権力や名声や名誉や地位や利益のために他者と競争し、無理に押し退けて行くという意味ではありません
 高等の動物ほど精神作用が複雑で高尚な意識を持っていますから、一般動物の生存競争と人類の生存競争とでは、自ずからその方法が違うはずであります。
 つまり単に自己保存の本能や保身に訴えて自分の生存や安全のみを図ることは、心の法則からも却って自己の生存や安全を害するものであるのです。
 私たちの社会で一般に行われている生存競争を見てみましょう。

 ◉第一は、飛び上がる方法です。
 これは人として当然に、自分がしなければならないこと(義務)もしないで、急激に自分の欲望を達成しようとするものです。つまり自分は全く努力しないで他者に犠牲を払わせて、自分の利益を得ようとする利己心に基づく露骨な方法です。
 盗み、詐欺、賭けごとを始め個人や集団による暴力、傷害、殺人などで法律を犯し、社会に迷惑を掛けてまで特定の個人や団体の利益や権利を無理に得ようとする行為であり、反モラル的であり自分にも真の安心はなく、自らの品性を低下させて幸福を実現することは出来ない価値のない方法です。

 ◉第二は、社会の慣習や法律やモラルなどに触れない範囲で、自分の学力(知識・技能など)や体力とか金力や人脈や権力・地位などをもって他者と競争しながら、人生を押し上がって行く方法です。
 これは一般に行われている普通の方法ですが、精神作用は利己心に基づいています。
 従って、この方法では一応成功して一時的、または一部分的には繁栄することは出来ますが、その成功も繁栄もそれほど長続きせず、真の安心や平和と幸福を実現することは出来ないのです。

 ◉第三は、自然の法則に従い低い心でうつむいて、段々に這い上がる方法です。
 これは、自分の利己心を取り去ってどのような場合にも謙虚となり、聖人の云われる格言のように、
「慈悲にして寛大なる心となり自己に反省する」
と、いう高尚な精神・意識で日々に努力して人格を高め、品性を向上させると共に完成することを目標に生活していく、理想的な『徳を積む』方法です。

 これを実行しておりますと何時しか人格・品性が向上しますから、至る所で人望を得ることが出来ますから、遂には大きな名声・名誉と利益などが自然に集まって来るのです。
 この方法の実践は次第に社会の階級を昇って発展するばかりでなく、結果はきわめて確実であり、子孫に至るまで永久性(万世不朽)があるのであります。
 それ故に、先祖代々と何十世代も子孫の直系がそれなりの地位を維持して、後を継いでいる家系は尊ばれるのです。
 さて、あなたは上記の方法でどの生き方が好きですか?

光明思想と生活の目的

 真理を学び実践する光明思想は、決して自分の欲する事物を無条件で何でも得られると云う方法を教えているのではないのです。そのような虫の良い教えは何処にもないでしょう。
 一般に法則というものは無限に自由なというものではありません。
 法則というものは事物の運動に限界を与える条件であるからです。例えば、タイヤと道路面に摩擦がないと車は走れないようなものです。
 もし私たちが自己の欲する事物を無条件に、何でも得られると云うことになりますと、人々は正しい努力を行うことを忘れてしまい、ただ享楽と怠惰と貧欲とを為す事とする、愚かな利己主義者に成り下がってしまうことでしょう。
 そのように怠慢なことでは能力開発は愚か世間並な人間にもなれません。
 私たちも宇宙の一員として、宇宙の取り決め事(法則=秩序・摂理)を守らないと、思うように生きられないものです。
 私たち人間が地上に生まれて来た目的は、地球上に於いて個々の異なる環境や境遇などのある条件の下に、その条件に適合しながらそれぞれ日々の生活上に起こる、様々な苦痛や悲しみや辛さや困難を克服する努力を続けることによって、意識を高尚にして神の愛(仏では慈悲と云う)を実践しつつ実現して、自己の人格を高め品性を向上させて、自己の内に秘められた能力を開発し、魂・霊性を向上せしめんがための宇宙の大生命の意志によるものです。

 世間の多くの人々は真理に対して認識不足のため「労多くして効少なき方法」を知らずして選択し一所懸命に行っているものです。
 だから『働けど、働けど、我が暮らし楽にならざり、じっと手を見る』と云う、石川啄木の歌のような生活に陥っているのです。真理を知らないということは本当に愚かで哀れなことです。
 ですからそのような人が光明思想に触れると、労多くして効少なき方法から労しただけの効ある方法へと移り変わりますから、能率・効率が高くなり、恰も労せずして効ある方法であるかの如きに錯覚する人もあります。
 それによって運が向いて来たと勘違いして、正しい努力を忘れたり精進も怠ってしまうこともあるのです。遺憾なことです。
 利己的な本能は人間の天性でありますから、これは教えなくても自然に知っている(邪悪な想念からの囁きもある)ものでありますが、徳を積むような真理(法則)は教えても行わない不心得な者が多くて普及させるには極めて困難な事業であります。と、モラロジーでは言われています。

 ※モラロジーに於ける講習会テキストと講話内容などから引用してあります。
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