みていた加治木は、安川の協力が是非必要だったのである。しかも安川の下で働くことになった課長補佐の水野繁(後に証券局長、国税庁長官)も銀行行政を経験していたから、奇しくも新設の証券局に、管理色の濃い銀行行政に精通し、また信用秩序に問題意識の強い三人の人物が配置されたのである。このことは、その後の証券行政に強い影響を与えることになる。
ところで、業務課長に就任した安川は、証券界の実態を知らされて、大きなショックを受けたらしい。あるところで、次のように書いている。
「発令後に当時の証券業の実態を知らされるに及んで、私の大蔵省の生活もこれで終るかも知れぬと感じたのである。それは、行政上の始末は永年の経験で何とか切りぬける自信めいたものはあったのだが、恐慌的な事態の場合には当局の担当には責任を賭けた決断が必要であり、同時に精神的な重圧も加わった生理的な体力の問題があるからである。思い切ってやってみようという功名心と、死ぬかも知れないという不安が交錯した」
学生時代から金融論や景気変動論に一番興味を感じ、とりわけ信用恐慌や銀行破綻の問題についてひもとく機会の多かった安川は、並み並みならぬ意欲で、この問題に取り組んだようである。安川に仕えた水野は、着任直後に安川から、国会の了承を得ずに日銀から金を引き出す方法はないかと問われ、後日、安川の意図を見抜けないままに、日銀法第二五条の存在を伝えたことを、いまでも鮮明に記憶しているという。
信用機構の再建整備から大蔵省生活を始めた安川の勘では、この証券不況を乗り切るには、とても尋常な手段では困難であった。問題は極めて複雑であったからである。つまり、問題は、赤字の増加した証券会社がその金繰りのためにコールを使い、しかもその担保には運用預りによって客から預った金融債をあてているところにあった。したがって株価の低落が起これば、証券会社の赤字と、金融梗塞と、さらには客による運用預り等の解約が循環的に拡大し、結果的に証券界の先行不安感が一般投資家に広がるおそれがあった。ということは、証券会社の赤字棚上げ対策が論理的には優先すべきであるにせよ、それ自身が投資家の不信を深めることにもなりかねず、したがって抜本的な対策は講じられないのであった。
こうしたジレンマに立たされた安川としては、昭和二年の金融恐慌の二の舞だけは絶対に避けたかった。安川の理解では、それは直接的には、片岡蔵相の渡辺銀行に関する議会答弁、その背後にある事務当局の情報の取り扱いの不手際によって生じたものであったが、より根本的な原因としては、心理的要因が支配する信用機構の問題が政治的な駆け引きによって議論され、また報道機関が不用意に報じた結果だと考えていた。安川は、その後こうした点を念頭に、日銀法第二五条発動の可能性も胸に秘めながら、証券対策を講じることになる。以下では、安川を含めた山一事件の関係者の多くが思いを馳せた、昭和二年の金融恐慌を振り返ってみよう(注23)。
《昭和二年の金融恐慌》
大正十五(一九二六)年、大蔵大臣に就任した片岡直温は直ちに金解禁を決めるが、同時に銀行業界の経営内容の悪さを驚きをもって知った彼は、銀行の整理、統合を決意する。これを放置すれば金解禁後に予想される不況時に破綻を生ずることは明らかであると考えたからである。そして、いわゆる震災手形法案を議会に提出した。関東大震災震災地振り出し手形のうち支払い不能分を公債で穴埋めするというこの法案は、実質的に台湾銀行をはじめとする不良銀行あるいは不良企業の救済政策であった。
当初、議会の論戦は穏やかであったが、次第に政党間の利害も絡んで政治問題化するに至った。ことに与党憲政会が野党政友本党と提携した結果、最大野党の政友会は猛反発し、この法案をとらえて政権揺さぶりを図ることになった。震災手形の発行者とその所有銀行を発表するよう政府に迫ったのである。政府も、法案の審議を促す意味でも、ある程度具体的事実を明らかにせざるを得なかったから、一般大衆も報道等を通じてその実態を知るに至った。
こうして多額の震災手形を抱える渡辺銀行等に対し緩慢な取り付けが始まったのである。その渡辺銀行は三月十四日、手形決済に窮することになった。実際にはこの日、資金調達はギリギリで間に合い支払いは行われたが、それより先事務当局から決済不能の可能性大との報告を受けた片岡蔵相は、渡辺銀行は既に決済不能に陥ったと判断し、同時に遅れている震災手形法案の審議促進を狙って「渡辺銀行は取付に遭い破綻云々」の答弁を行ったのである。これが予想外の波紋を投げかけることになり、渡辺銀行は翌三月十五日から休業することになった。
震災手形法案反対の国民大会が開かれる中、不安を感じた一般預金者は他行に対しても引き出しのため殺到したので、東京周辺の中小銀行の大半は、一週間のうちに取り付けにあうことになった。その後、法案が貴族院を通過して取り付けはいったん収まったかに見えたが、三月二十四日、台湾銀行が同行所有の震災手形の大半を占める鈴木商店に対し、新規貸し出しの停止を決めた結果、今度は金融機関の台湾銀行に対するコー
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