
母が私に伝えたかった事を本を再読して考えてみる。
何度も読み返しても、やっぱり その当時に感じた事以上の事を汲み取る事は出来なかった。
というか、これが答えなのかもしれない。
再読して歳月をおいて また再読してみても、突き当たる事は一つだけであった。
「親鸞様、私は寂しい寂しい」
「唯円よ お前が寂しいその寂しさとは違う、私は もっと寂しいのだよ」
という話を(ラジオで)聴いたような事を教えてくれた母
その後に続けたい言葉を 一生懸命探しているであろう顔を 改めて思い出す。
自分なりの言葉を探していたのだと思う。
「だから〜なんだよ」という言葉を。
うまいこと言葉を見つけられずに 諦めた横顔を見ながら、そのまま通り過ぎていったけれど、
やっぱり その当時も今も頭に浮かぶのは
(親鸞は神ではないけれど、神に近い存在として)唯円の、日頃に湧く日常的な寂しさより、神の寂しさはもっと大きいのだよ
その本当の寂しさを いつも持っているのだよ
と どうしてもそのように捉えてしまう自分がいる。
何度思い出しても、何度再読しても
人の想いと 神の想いのスケールの違いを感じてしまう。
だから、このことを母は伝えたかったのかな?なんて思ってみたり....。
人の寂しさは、湧いては流れ、また形を変えて消えていくものであれば、
神の寂しさは、人の日常の域を越えて人をみては 深く寂しく思う寂しさ
寂しい寂しいという人を見て 寂しく思う神としての心を示しているのではないかと。
何故ならば 神を頂点としたらば、人は皆、子だから。
母の言いたかった言葉はこれ以外には無いのではないかと思う。
そして、私はなぜ、昨年のタイミングで この事を思い出したのか?と今だに思う。
だから、これは神とする頂点からのメッセージ ?
こうして書いていて、単純に
「そうか、、これはメッセージか」と思いながら、、、、。
生きているうちに母の声なき言葉の意味、言葉の続きを知りたいし、知らないで死ねないと思ったその答として良いのかな。
