荻原 久雄   おぎわら ひさお

足利に元気を
  そして新しい未来へ

足利市議会議員

柔道とJUDO

2023年04月04日 | コラム
 




 2010年9月、日本の柔道界にとって衝撃的なことが2件起きた。それは国際柔道連の総会で山下康裕氏がIJFの教育・コーチング理事に落選した。理事がいなくなることは加盟依頼初めてのことである。もう一件は世界選手権で、日本サイドから見れば勝っていた試合が、まったく逆の判定になったことである。

 これらの背景にあるのは、柔道とJUDOの違いである。しっかり組む柔道と組み手争いから始まるJUDO、更に判定の基準も違う。また、柔道を取り巻く環境も違う。「海外は柔道がわかっていない」 「こんなのは柔道じゃない」という発言が聞かれた。世界に普及した、柔道。それはJUDOとして、それぞれの国で形を変えて普及し始めた。日本人には残念であるが、それが世界基準だと思う。その基準にあわせて戦うしかないと思う。しかしながら、個人的には柔道を守って欲しい。それは説に願うことである。


 1980年代、エズラ・F・ヴォーゲル氏著の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」がベストセラーになった。これは戦後、日本が発展したことを称える本だった。終身雇用と年功序列、そして道徳観が日本人はすばらしいと。読んでいる私が恥ずかしくなるほどであった。
 それ以前は、イザヤ・ペンダサン(山本七平)著の「日本人とユダヤ人」、もっと前は「菊と刀」、更には日本のプロ野球会のこと書いた、「菊とバット」Etc. 日本人の特異な文化を書いた本がたくさんある。私はどれも正しい日本人論だと思う。反面、それが正解だとは思わない。


 柔道とJUDOと同じ思いで、見ていたことが野球とベースボールだと思う。一昨年、世界選手権で野球がベースボールにアメリカで勝った。アメリカ人はそのときにどう思っただろうか。発祥の地のベースボールが負けたことを悔やんだ。しかし、そのスポーツの中に、それぞれのお国柄、文化が染み渡っているように思える。同じスポーツでも、戦略によって勝ち方が違ってくる。更にはスポーツマンシップの考え方も違ってくる。
 

 それは多様な社会、国を容認する包容力が必要なのではないだろうか。それを乗り越えることが本当の相互理解であり、その国の文化と国民性を尊重できるのだと私は思う。世界で日本の基準が正しいとは限らないのである。

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